ワイルド・アサシン07

 地平線の先に、陽が沈んでいく。殆ど姿を隠した太陽の周りは、最早茜色とは呼べないほど暗くなっていて、夜の訪れが間もなくだと語っていた。

 オーストラリアの草原は起伏も山もなく何処までも平坦で、地平線の彼方まで簡単に見る事が出来る。犬……モモの視力は決して良くはないが、太陽ぐらい大きくて派手なものなら視認は簡単だ。間もなく夜が訪れる事を、彼女は本能と自意識の両方で認識する。

 付け加えると、犬は暗闇の中では人間よりも優れた視力を発揮する。明るい場所の方が得意ではあるが、夜なら夜で活躍する事は可能だ。それに嗅覚に優れているので、暗闇に隠れて接近する天敵の存在を察知するのも人間ほどは難しくない。

 だからモモは普段、あまり夜という時間に恐怖心や不安は抱いていない。寝床についても丁度いい洞穴や大木が見付かると良いとは思っているが、ないならないでそこら辺に寝てしまえば良いとも考えていた。

 あくまでも、何時もであれば。

 今日は流石に安全な場所で寝たいと考えていた。ただしそれはこの地、オーストラリアを警戒しての事ではない。


「……継実。さっきから顔が真っ青だけど、ほんとに大丈夫?」


 家族である継実の顔色が、さっきから物凄く悪いからだ。

 元々元気いっぱいというタイプではない継実だが、それにしても今の顔色はかなり悪い。顔に笑顔は一切なく、身体は歩く度にふらふらと左右に揺れていた。その歩みも遅く、歩幅は小さく、普段の力強さは一切ない。

 ちょっと小突けば倒れてしまいそうな、酷い衰弱ぶりだ。流石にこれだけ酷いと継実としては隠す気もないようで、首を左右に振りながら、弱々しい声で白状する。


「割と、駄目っぽい……吐き気が酷くて、身体が重い……あと、意識が、ヤバいかも」


「えっ!? 顔色悪いなって思っていましたけど、そんなに酷かったんですか?」


 継実の隣を歩くミドリが驚きながら尋ね、継実の傍に寄り添う。継実は大丈夫だと示すように片手を出してミドリを制止、しようとしたが、よろめいて上手くいかず。慌ててミドリが肩を掴まなければ、その場に倒れていたであろう勢いだった。

 本当に、かなり酷い状態だとモモも思う。

 そして語られている症状、それと今日の出来事から考えて――――とある最悪が脳裏を過ぎる。


「なんか、ヤバい菌でも入ったのかしらね」


 感染症だ。

 自然界は基本的に雑菌塗れ。何処もかしこも細菌やバクテリアに満ちている。小さな生き物達にとって生物体は文字通り肉の塊に過ぎない。奴等は生物に取り付き、貪ろうと虎視眈々と狙っているのだ。

 普段なら生物体は免役の働きで細菌達侵入者を撃退しているが、免役だって完璧ではない。体調が弱まれば攻撃力は低下するし、細菌の数が多ければ物量にやられてしまう。そもそもどんな敵でも簡単に勝てる訳ではなく、強力な細菌やウィルス、或いはある生物の免疫系を攻略するのに特化した種が相手だと抑えきれない時もある。

 そうして侵入者達が体内で暴れ回っている状態を、病気ないし風邪と呼ぶ。

 今の継実は恐らく今日一日の何処かで細菌が入り込み、免役で抑えきれなかったのだろう。そして何処で細菌が入ったかは……心当たりが多過ぎて特定出来ない。


「確かに、今日の継実さんは色々と攻撃を受けてましたからね……バイ菌が傷口から入っていても、仕方ないかも」


「ハリネズミの針は額に受けるし、カモノハシの毒ガスは吸い込むし、タスマニアデビルには噛まれるし。いくらなんでも油断し過ぎよ」


「面目ないっす……」


「あとアレですかねぇ、オポッサムの肝臓とか食べたのが悪かったのかも」


「? 肝臓の何が悪いの?」


「いや、寄生虫とかがいたかも知れないじゃないですか。生食してるし」


 首を傾げるモモにミドリが説明。成程、とモモは頷く。肉食動物であるモモには、肉を食べて健康が悪化するという発想がなかった。

 なんにせよ、今日の継実はあまりにも原因となり得るものに触れ過ぎだ。どれが原因なのか、考えても全く分からない。いや、今日の出来事が原因だと考えるのも早計だろう。昨日や一昨日感染した細菌が、今になって症状が出るぐらい増えたのかも知れない。文明社会ならば血液検査などで調査も出来たが、自然界では原因の特定などまず無理である。

 そもそも、原因が分かったところでどうなるものでもあるまい。七年前なら病院で治療を受けるなりなんなりも出来たが、今の世界に病院なんて何処にもないのだ。

 今や世界は隅々が野生のものとなった。そして野生の世界で病気に掛かったなら、治し方は一つだけ。

 安静にして寝る事だ。


「なんにせよ、安全な場所を探さないと不味いわね」


「そうですね。寝て治すにしても、安心して休める場所じゃないと中々眠れないでしょうし……」


「いや。そんな暢気なもんじゃないでしょ」


「へ?」


 ボケてるの? と思いながらモモはツッコミを入れたのだが、ミドリはキョトンとするばかり。どうやら本当に分かっていないらしい。継実も苦笑いを浮かべていた。

 しかし考えてみれば、ミドリは割と最近まで『文明人』だった身だ。どうにも文明人というのは病気……風邪などのあり触れた感染症を嘗めているとモモは感じる。七年前の、一緒に暮らし始めたばかりの頃の継実がそうだったように。

 だが野生の世界で病気を嘗めていては、その命は長く持たないだろう。

 病気に掛かった時、文明社会ではどんな対処をしてきただろうか? まず、うどんやお粥のような消化に優しいものを食べて、少しでも栄養を取っておく。それから暖かな布団に身を包み、体温が下がらないようにした状態で安静にしてぐっすり眠る。そして症状が酷ければ、解熱剤やらなんやらの、病原体ではなく症状そのものを改善する薬を飲んだだろう。勿論病原体そのものに効く薬があればそれも飲む。

 しかし野生の世界でそれが出来るか?

 消化に優しいものが都合良く手元に転がってる訳がない。それに症状が何日か続いたなら、衰弱した身体で食べ物を探さないといけなくなる。また用意出来るベッドなんて枯れ草を敷いたものだけで、夜の寒さを凌ぐ暖かな寝具など何処にもない。捕食者は獲物を求めてうろついているのだから、熟睡なんてしたいられないだろう。そして症状がどれだけ悪化しても、薬なんてない。薬効のある植物を食べれば幾分効果はあるかもだが、都合良く生えてるものでなし。体温が意識を奪うぐらい上がろうと、咳で息が出来なくても、苦しさで眠れなくても、何も出来やしない。

 そう、病気とは自然界における驚異。

 発症などしようものなら、例え軽いものでも命に関わる。いや、殆ど生還など出来ない、死刑宣告に等しい悪夢なのだ。


「そ、そんな……!」


 モモがそのように説明すると、今度はミドリが顔を青くして震え上がる。自分が如何に能天気だったか、甘かったかを理解したのだ。

 しかしそれでも、まだ希望に縋りたいのか。一旦目を瞑りながら顔を振った後、ミドリはまた少し楽観的な意見を述べる。


「で、でも、継実さんには、体温を一万度にするような力があるんですよ! その高熱を使えばなんとか菌も撃退出来るんじゃ……」


 ミドリの語る一万度の体温とは、先日戦ったエリュクス相手に使ったものだろう。モモはその戦いを見ていないが、聞いた話曰くエリュクスが繰り出したナノマシンによる攻撃を、継実は一万度もの体温で撃退したらしい。

 七年前の人類文明すら足下に及ばない文明のナノマシンを、容易く破壊する超高温。恐らく地球以外の病原体相手なら、実際有効なのだろう。

 しかし此度の病気は地球産。地球での病気は何が原因で起きるのか?

 地球の病原体生物だ。


「出来る訳ないでしょ。ウィルスも菌も、みんなミュータントなんだから」


「あっ……」


 モモに指摘され、思い出したミドリはまた顔を引き攣らせる。

 どんなに小さくてもミュータント。高々数万度の高温で死に絶えやしない。

 そう、此度継実の身体を蝕んでいるのはミュータント。その戦いに、なんかが匹敵する筈もない。全力を出さねば負ける、出したとしても勝てる保証がない……そんな過酷な相手との『生存競争』なのだ。

 二度も希望を砕かれ、ミドリはすっかり意気消沈。風邪の恐怖を知ってもらえて、モモは表情を引き締めながら頷く。

 なお、継実は青くした顔を呆れたものに変えていたが。


「モモー……煽り過ぎ。そう簡単には、死なないから。嘗めたら駄目だけど、ふつーに休めば治るっつーの」


「へ? 煽り……?」


「あら、嘘は言ってないわよ? 実際命には関わるじゃない。一人なら確実に」


 モモは意地悪く笑いながら、改めて自分の説明を言い直す。

 ミドリは困惑しながら少し考えて、ようやく気付いたのかハッとしたように目を見開く。次いでモモを、責めるような眼差しで見つめる。

 モモは一切悪びれない。嘘は何一つ言ってないのだから。


「……モモさぁーん?」


「何よ、全部本当の事よ。看病してくれる相手がいなければね」


 モモの語った内容は、全て『一人』で生きていたらの話だ。一人だったら食べ物探しも周りの警戒も薬効植物探しも、やるのであれば全て自分で行う必要がある。弱りきった身体でそれをするのは無理、或いは却って危険というもの。故に出来ず、風邪と真っ向勝負をしなければならない。

 けれども仲間と暮らしていれば、そうした仕事は仲間に任せられる。食べ物を分けてもらう事も、攻めてきた敵と戦うのも、仲間にお任せして自分はひたすらに寝れば良い。回復に専念出来るし、エネルギーの補給も可能なので、完治する見込みが高くなるだろう。

 勿論、これはあくまで可能性の話。継実の顔色からしてかなり酷い病気なのは明らかで、七年前なら病院の診察を受けるべきところだ。それが出来ない現状を、あまり楽観視するものではない。

 しかしもう駄目だと諦めるほど、絶望的状況でないのも確かな訳で。


「まー、どっちにしろ寝床は探さないとね。ほれミドリ、ちゃんと索敵。あと寝床になりそうな場所も探しといて」


「むぅ。話を逸したー」


 不服そうに顔をむくれさせるミドリだったが、あっちこっちに視線を向けているので、言われた通り索敵を始めたらしい。

 ……大きな不安を解消した反動からか、今のミドリはかなり楽観的な様子だが、モモとしてはそこまで安堵も出来ない。継実の体調の悪さは見た限りかなりのもの。継実は人間としては若くて体力がある年頃だが、それでも完全無欠の肉体という訳でもない。何かの拍子にころっと逝ってしまった……なんて展開もあり得なくはないのだ。

 勿論、だからといって不安がる必要もないが。不安になったところで問題は何も解決しないのだから、それなら楽観的に振る舞い、精神状態を良くしておく方が合理的だろう。

 つまるところ事実をありのまま受け入れて、想定される範囲内の問題には準備を万端にし、何かが起きたらその都度対処する。モモ達に出来るのはそれだけであるし、それが重要かつ最適なのだ。

 そしてケダモノであるモモにとって、そんなのはとても簡単な事である。


「(んでもって、今の私に出来るのは――――周りの警戒ぐらいかねぇ)」


 だからモモは淡々とした態度を崩さずに、全身を臨戦態勢へと移す。

 病気でへろへろに弱った個体がいたなら、自分ならば絶対にチャンスだと思って攻撃を仕掛けるのだから。

 そして。

 何処を見ても地平線が確認出来るぐらい開けたこの草原に、自分達の休める場所があるなんて『楽観』を抱けるほど、モモは能天気ではないのだから……

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