飢餓領域10

 ぞわりと、全身に悪寒が走る。フジツボだらけでボロボロになった肌に、無数の鳥肌が立つ。

 本能が警告を発していた。この声に逆らってはならないと。ニューギニア島で遭遇した大蛇やヒトガタほどのパワーはなくとも、自分達では決してどうにもならない、破滅的で絶対的な力がそこにあるのだから。

 酸素もエネルギーも尽きた身体で聞かされた、想像を絶する力の存在。しかし継実は絶望なんてせず、むしろ身体に活力が戻ってくるのを覚えた。

 何故ならその声には聞き覚えがあったから。


「(……マッコウクジラ?)」


 心の中で呟きながら、継実はその目を海底方向へと向ける。

 全身の力を視力に費やして見てみれば、継実達の下数十メートルほどの位置にマッコウクジラの姿があった。

 継実達より一足先に沈んでいた彼もまた、全身から大量のフジツボを生やしていた。いや、最早全身の九割近くがフジツボで、彼自身の皮膚など殆ど見えない有り様だ。身体の大きさが継実達とは全然違うので、どの程度消耗しているかは分からないが……自力での浮遊が出来なくなって沈んだぐらいなのだから、かなり衰弱しているのは間違いない。

 だが今の彼はもう沈んでいない。大きく広げたヒレを器用に動かし、その場に浮かんでいる。しかし決して休んでいる訳でない事は、全身から発せられ、時間と共に高まり続けている『闘志』からも明らかだ。

 何より。


「チョーシに……乗ってんじゃねぇぞこの虫ケラ共ガアアアアアアアアアアアアアッ!」


 仲間である自分達すら背筋が凍る、怒りに塗れた声が彼の心情を物語っていた。

 次の瞬間、マッコウクジラはその全身から虹色の光を放つ!

 光といったが、それが可視光線の放射でない事を継実の目は理解する。マッコウクジラが放ったのは、正確には『音波』だ。超音波と呼ぶのも生温い、超々高周波の音が放出されている。異常なまでに振動数の多い音は水分子を震わせる事で加熱。瞬時に沸騰させるだけでは留まらず、一気にプラズマ化させていた。電離化した大気は莫大な熱だけでなくあらゆる波長の光も放出し、それが虹色の光という現象を引き起こしたのだ。しかも自分の身体まで加熱しているのか、全身の肉までも赤熱している有様である。

 これが、マッコウクジラの能力か。


「(確かに、マッコウクジラは音を使って獲物に攻撃をするとか聞いた事あるけど……)」


 だとしても浴びた相手をプラズマ化させる音とは、なんとも凄まじい。感じ取れる出力からしても、継実では到底受け止められそうにないパワーだ。例えるなら、全身から粒子ビームの数十倍もの力を放出しているようなものだろうか。

 これならフジツボなんて跡形もなく……などと思う継実だったが、マッコウクジラ体表面を覆うフジツボ達の外観に変化はない。奴等の頑強な甲殻はマッコウクジラの攻撃でも砕けぬほどらしい。

 これでも駄目かと継実は顔を顰めた、が、その表情はすぐに驚きに染まったものへと変わる。

 マッコウクジラの体表面から生えていたフジツボ達が、ざわざわと蠢き始めたのだ。

 何か、新たな事を始めようとしているのか? そう思う継実だったが、どうにも様子がおかしい。フジツボ達の動きは妙に忙しなく、不規則で、慌てているように見えたからだ。それに皮を突き破って姿を現したとはいえ、まだまだ埋没しているその身がどんどん表に出てきている。

 やがて、一個のフジツボがぽんっと海中に抜け出た。

 まるでその一個を合図とするように、次々とフジツボ達が抜け出ている。マッコウクジラから離れたフジツボは、今まで蓋をしていたてっぺん部分を開き、中から櫛状のヒゲのようなもの ― 正確には脚が変化したものだ ― を出し入れしていた。なんらかの能力を使っているのか脱出したフジツボ達はゆらゆらと、なんとも下手くそな泳ぎ方でマッコウクジラから離れていく。

 フジツボの顔は殻の内側であるし、見えたところで甲殻類の顔なのだから感情など窺い知れないだろう。しかし継実は奴等の動きから、その気持ちが手に取るように理解出来た。

 奴等は逃げている。

 マッコウクジラの攻撃から、必死に逃げているのだ!


「ようやく顔を合わせられたなぁ……」


 全身から剥がれ、四方八方に散っていくフジツボを見て、マッコウクジラが唸るような声で語る。

 フジツボが剥がれたところで、失われた体力が回復する訳ではない。しかしマッコウクジラの身体が放つ力はどんどん高まっていく。

 やがて彼は遠く離れたフジツボの一群に、頭の先を向けた。


「今までの礼ぐらいさせろよクソ虫共オオオオオオオオオオオオ!」


 そして咆哮と共に、頭の先から『極大のビーム』を放つ!

 正しく言うならビームではなく、音波だ。それも先程全身から放っていた、粒子ビームの数十倍の威力を持つ光を一点集中したような力。名付けるなら超高出力音波砲、だろうか。

 マッコウクジラは大きく膨らんだ頭から音波による『遠隔攻撃』を行い、ダイオウイカのように大きくてリスクある獲物を安全に仕留めるという。勿論それは七年前までの、ミュータント化する前のマッコウクジラの話。だがマッコウクジラという種はこの能力をミュータントになっても引き継いでいたようだ。

 超高出力音波砲は水分子を瞬時に崩壊させ、光と熱を放出。これが一見してビームのような見た目を作っているのだと、継実の目は捉えていた。しかしそれにしても、の極大ビームはあまりにもインパクトが大きい。勿論威力も見た目相応だ。

 そして超高出力音波砲は逃げているフジツボ達を正確に捉え……泳ぎの遅いフジツボ達は逃げる事も出来ずに直撃。マッコウクジラが全身から放った超音波攻撃には耐えたフジツボだったが、此度の極大ビームには成す術もなし。浴びた瞬間に蒸発、いや、消滅するように吹き飛ばされた。

 粒子ビームの数十倍の威力の光にも耐えた甲殻が消滅するとは、あまりにもインチキ染みた破壊力。しかもこれだけの威力を持ちながら、マッコウクジラにとって左程負担はないのか。超高出力音波砲は何秒も放ち続けられている。

 何より、怒りがまだ収まらないのだろう。

 マッコウクジラは自身の身体をぐるりと一回転させ、超高出力音波砲を撒き散らす! 逃げ惑っていたフジツボだけでなく周りにいた魚などの海洋生物も巻き込んだが、マッコウクジラはお構いなし。怒りに任せて撃ちまくり、フジツボ諸共殲滅していく。

 これが、大海原に生きる頂点捕食者の力なのだ。


「フシュウウウウウウウウウ……!」


 一通り音波を吐き終え、スッキリしたのか。荒々しい吐息を水中で吐くマッコウクジラ。身体の発光も収まり、傷だらけながらも元の黒い色合いに戻っていく。その傷もみるみる塞がり(どうやら音波を身体に流す事で血流を活性化。細胞分裂を促進しているらしい)、生命力の強さを見せ付けた。周りはすっかり静まり返り、彼がもたらした破壊の大きさを物語る。

 それからマッコウクジラは急速浮上。継実達の前までやってきて。


「だなぁぁぁぁ……な、なんかみんな大変なんだなぁ。ボカァに手伝える事はないのかなぁ?」


 急に今まで通りの、弱気な言い方で訪ねてきた。

 先程までと全く違う言葉遣いに、継実は水中でずっこけてしまった。二重人格なのアンタ? と聞きたくなったが、恐らくどちらも素なのだろう。人間のように『キャラ』という縛りはなく、思った通りに行動するだけで。こちらを助けたいのも、折角の話し相手を失いたくないからだろう。

 しかし助けようとしてくれる、その言葉だけでも継実にとっては嬉しい。

 何より、彼のお陰で打開のための策が思い付いたのだ。


「大丈夫、何も問題ないよ。あなたのお陰で、なんとかなりそうだから」


 水分子を震わせて声を発した継実は、自らの身体を丸めるように縮こまらせた。それからどうにか、自分の細胞に残っている僅かなエネルギーを絞り出し……

 継実は自らの身体を発熱させた。数千、数万度という高温に達するまで。

 思い返すは、この海域に暮らす海洋生物達。

 イワシのような魚は体表面を高密度にしていた。物質は密度が上がると温度が上がっていく。

 サバのような魚は強力な遠赤外線を放っていた。遠赤外線は物体を加熱する性質を持つ。

 マグロのような魚は全身の筋肉を震わせて発熱していた。超高温を出すというそのままな能力だ。

 サメの電流だって流せば熱が発生する。自分の身体に電気を流せば、超高温まで加熱出来るだろう。クラゲやウミガメの使っていた衝撃波を発する振動も、使い方を変えればマグロのように身体自体が高熱を生み出す。海鳥は超音速で突っ込む事で、海水が沸騰するほどの高熱を発していた。摩擦熱によるものなら、海鳥自身の身体も相当熱くなっている筈。それが身体の赤熱という形で現れていたのだろう。

 どの生物も『高温』を生み出すのだ。それも自分の『体温』を上げるという事が出来る形で。マッコウクジラの全方位音波から逃げたのも、マッコウクジラが発した内熱を避けるためと考えれば辻褄が合う。つまりフジツボは、体内からの高体温に弱いのである。

 何故高体温に弱いのか? 自分の身体で試してみて、継実にも理解出来た。フジツボ達の白い甲殻自体は非常に頑強で、粒子ビームにも難なく耐えるぐらい熱に強いのだが……その殻に守られている中身は左程熱に強くない。そしてフジツボ達は熱や栄養素を自在に吸い取る力はあるのだが、のである。だから宿主の身体自体が超高温になると、その高温が流れ込んできてしまい、甲殻内に隠れ潜んでいる本体がダメージを受けてしまうのを避けられない。

 エネルギー吸収系は限界以上の力を流し込んで倒す。数多のバトル漫画で使われていた手法が、このフジツボ達にも有効だったのだ。


「ぐ、ううううぅぅぅぅぅ……!」


 継実は唸り声を上げた。しかしこれは自分が発した熱による呻きではなく、激しいエネルギー消費に伴う疲労によるもの。継実の身体はその気になれば、自力で数万度の高熱を出せるのだから。

 継実の発する熱を受けたフジツボ達は、ざわざわと蠢き出す。熱くて堪らない、早く逃げないとといわんばかりに次々と肉の中から這い出し、そして大海原を泳ぎ出す。

 発熱を始めてから五分も経たずに、継実の身体からフジツボ達は全員逃げ出した。今までの頑強さが嘘のように呆気なく解決し、継実も少し呆気に取られてしまう。しかし呆けている暇はないとすぐに思い出し、頭を振りながら緩んだ思考を引き締めた。

 まずは身体中に出来た穴を修復。突き破られた事で中身が露出していた傷口を全て塞いだ継実は、モモとミドリの下に向かおうとする。勿論二人の治療をするために。

 されどモモの方は、既にフジツボが辺りに漂っている状態だった。ぶるぶると身体を震わせたモモは、随分とスッキリした表情を浮かべている。どうやら自力でなんとかしたらしい。恐らく体毛を体組織に突き刺し、フジツボがいる場所の根元だけに通電・加熱したのだろう。生身部分はほぼミュータント化していない犬と変わらないモモにとって決して小さなダメージではないが、止血や消毒も兼ねていると思えば悪くない手だ。

 残す問題はミドリ。彼女は既に失神していて自力での回復は出来ないし、そもそも能力的に自力での撃退が難しい。

 彼女だけはこちらが助けないとどうにもならない。


「マッコウクジラ! 私達を背負って浮上して! 海上でミドリを治療する!」


「分かったんだなぁ」


 継実が指示を出せば、マッコウクジラはすぐそれに応えてくれた。彼は継実達の真下に潜り込み、そのまま浮上。継実達三人と共に背中を海面に出す。


「ぶっはぁ! あー、ようやく普通に息が出来るわ……」


 久しぶりの空気にモモが感動したように声を出す。

 継実としても同じ気持ちだが、感動に浸る暇はない。今はミドリの治療が最優先だ。継実の所見ではミドリは呼吸が止まっていて、細胞そのものが飢餓で瀕死の状態になっている。七年前の人類文明なら、打つ手なしといって匙を投げるところだろう。

 とはいえやるべき事が分かっていれば、継実が迷う事はない。継実はフジツボだらけのミドリの肌に手を翳すと、能力によりミドリの体組織を加熱していく。その熱量はミドリの全身を軽く数千度まで加熱するほど。普通の人間なら一瞬で黒焦げだが、如何に上手く能力が使えない身体といっても人間のミュータントの肉体だ。流し込まれた数千度もの熱にそこそこの抵抗があるようで、ミドリの身体はちょっと焼けた臭いを漂わせるだけである。

 対してフジツボの方はこの程度の熱にも耐えられず、大慌てで這い出してくる。額や腕からぼろぼろと落ちると、海水を求めてか ― 一体どんな力を使っているかは不明だが ― フジツボ達は滑るようにマッコウクジラの背中を滑走。ぽちゃんぽちゃんと音を鳴らして海に逃げていく。

 ミドリの身体が穴だらけになったのと同時に、継実は酸素、それから自分の身体に残っていた栄養素を能力で移動させる事で分け与えた。瀕死の状態だったミドリの細胞は、少しずつ機能を回復していく。自発的な呼吸を再開し、細胞もどんどん活性を取り戻す。

 しばらくすれば、眠りから目覚めるようにミドリは目を覚ました。


「……あ……あたし……」


「喋らなくていいよ。とりあえず、あのフジツボはなんとかしたって事だけ分かっていれば良いから。あ、それと身体中が穴だらけだから、そっちの治療もしちゃうね」


 継実は更に能力を使い続ける。フジツボが這い出した跡である穴を塞ぐために。

 尤もやる事は、ミドリの細胞に対して効率的に酸素や栄養分を送り込むだけ。細胞が最も効率的に働く濃度を探り、その濃度を維持してやれば、細胞は驚異的な活性を発揮して傷を修復してくれる。

 結局のところ治療対象の回復力次第な技。相手の細胞が若くて健康的でなければ出来ない事だ。


「……継実さん、自分以外の人の回復も出来たんですね。なんというか、魔法使いみたい」


 なのでミドリからこうして褒められると、ちょっと照れてしまう。


「そんな便利なもんじゃないよ。相手の回復を手伝っているだけなんだし。まぁ、傷跡ぐらいなら消せるけど……あ、モモも後で治療させてよ。どーせ無茶して身体中傷だらけでしょ? その傷痕を消すから」


「えー? もう止血は済んだし、傷なんて消しても消さなくても変わんないし、面倒なだけなんだけど」


「女の子なんだから駄目」


「そうですね。ちゃんと治してもらわないと駄目ですよ、モモさん」


 継実だけでなくモモからも忠告され、モモは心底面倒臭そうに顔を顰めた。野生動物である彼女からすれば、戦いの傷跡が残るかどうかなど興味もない話だろう。

 なんとも普段通りの家族の姿を見ていたら、継実は思わず吹き出してしまう。ミドリもくすりと笑い、和やかな雰囲気が戻ってくる。

 そうして笑えば、ようやく平穏が戻ってきたのだと継実は実感した。

 小さいながらも恐ろしい敵だった。何かが一つでも食い違っていたら、このマッコウクジラ以外の相手と交渉して海に出ていたら、きっと誰一人として助からなかっただろう。しかし自分達はなんとかチャンスを作り出し、それを掴む事が出来た。だからこうして今、生き延びる事が出来ている。

 困難は乗り越えた。その喜びに浸りたいところだが、まずは一休みしたいなと、継実は大きなため息を吐く。

 ――――全てがただの思い込みに過ぎないと知ったのは、その直後の事。

 海から何かが飛び出す音によって、継実の意識は再び油断など許されない野生の世界へと引き戻されるのだった。

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