飢餓領域02

「お、大きいぃ~!」


 『そいつ』がよく見えるところまで近付いたミドリは、子供のように明るい声を上げた。

 岩礁地帯から二十メートルほど離れた、恐らくそこそこの深さがあるだろう海面。そこに一頭の生物の背中が露わとなっている。黒に近い灰色とでもいうべき体色の身体は、推定で十五~十六メートルはあるだろうか。背中は真っ平らで、鱗や毛のようなものは見当たらない。巨大な胴体には胸ビレが、そして身体の後方には尾ビレがあったが、魚のヒレと違って四肢や尾が平たく変化したものだと窺い知れる。

 何より目を惹くのは、大きく肥大化した頭だろう。継実の目測だが、身体の三分の一ほどを占めている。肥大化した頭は先頭部分が大きく膨らみ、少し角張った形をしていた。海中から出てきた瞳はくりっと丸く、優しさを感じられる。

 継実としても実物は初めて目にする。亜種だとか近縁種などもいるだろうから、正確に分類出来る自信はないが……恐らく自分が考えている通りの種で間違いないと継実は思う。


「マッコウクジラだね。多分だけど」


 七年前では世界中の海に分布していた、巨大なクジラの一種だと。絶対ではないが、頭部と身体の大きさの比率からして、恐らく雄だとも推測した。

 継実が遠目に見付けた存在が、このクジラだ。人類文明全盛期では絶滅危惧種とされていた種だが、今でもちゃんと生き延びていたらしい。まさか生涯で出会う機会があるとは、継実としても思わなかったが。

 隣で目をキラキラと輝かせているミドリほどではないが、ちょっと継実も胸がときめいていた。


「マッコウクジラですかぁ……大きいなぁ……」


「別に、これより大きな生き物なんていくらでも会ったでしょ? 何日か前のヘビとか、この前の宇宙人とか」


「あそこまで大きいと現実味がないじゃないですか。このぐらいのサイズだと、良い感じに巨大感を味わえるんです!」


「良い感じの巨大感って何よ」


 ミドリの語る謎理屈に、感情的に見えて合理的なモモは首を傾げる。継実もミドリの無茶苦茶な言い分に思わず笑みが零れたが、彼女の言いたい事はなんとなく理解出来た。

 マッコウクジラの巨大さは、なんというか身近なのだ。生物としてなんとか理解出来る大きさとでも言うべきか。それに継実のような人間にとっては、同じ哺乳類の仲間であるのにこれほどのサイズ差があるというのが、巨大さをより強く感じさせる一因でもあるだろう。

 尤もそう語ったところで、モモは「大きさなんて見た目通りに感じるもんじゃないの? つーか哺乳類同士と爬虫類で何が違うのよ」と言うだけだろうが。

 ……さて。そんな巨大なマッコウクジラを存分に観察したところで。


「で? なんで私らは此処まで来た訳? まさかホエールウォッチングしに来た訳じゃないでしょ? どうすんの?」


 モモからそんな問いが投げ掛けられる。

 遊んでる場合ではない、というほど時間に追われている訳ではない ― そんな悪しき文化は七年前に滅んだ ― が、しかし遊んでばかりでは何も解決しない。自分達には海を渡る術がないという、極めて重大な問題は。

 継実はその解決案として、此処を訪れたのだ。

 そう、あのマッコウクジラに自分達を南まで運んでもらうという作戦……その作戦のための交渉を行うために。


「とりあえず、呼び掛けてみようかな」


「? 呼び掛けるってどういう事ですか?」


「こういう事よ。おーい! そこのマッコウクジラぁ! 聞こえてたらこっち来てくれるー!?」


 首を傾げるミドリに、これが答えだとばかりに継実は大声を張り上げた。

 するとミドリはぴょんっと跳ね上がり、大慌てで継実の身体にしがみつく。そんな事は止めてくれと言わんばかりに。


「ななな何してんですか継実さん!? い、いきなり声なんて出して、襲われたらどうするんですかぁ!?」


「んー? 大丈夫じゃないかな多分。マッコウクジラは一応海の生き物だから、陸の生物に食指は湧かないでしょ……多分」


「二回も多分って言われたら説得力なんてないんですけどぉ!?」


 ミドリが不安をけたたましく叫ぶ中、マッコウクジラはといえばしかと継実の呼び声に反応。くるりと向きを変え、継実達が立つ海岸線へと向かってきた。やがて頭を大きくもたげ、ぱくりと口を開く。

 頭の幅と比べれば、正に骨と皮しかなさそうなほど細長い下顎。しかしその下顎にはずらりと、巨大で鋭い歯が何本も並んでいた。あからさまに肉食動物的な特徴に、ミドリが「ぎゃあっ!」と悲鳴を上げる。今まで感動していた気持ちは何処へやら、だ。

 実際マッコウクジラは食性的に肉食獣に分類される。勿論上陸して人間を食い散らかすなんて記録はなく、主な獲物はイカだ。しかしイカはイカでも体長五~十八メートルもあるというダイオウイカを喰らうというのだから、人間ぐらいぺろりと丸呑みにしてもおかしくないだろう。


「なんだなぁ? 呼んだんだなぁ?」


 開いた口から出てきた惚けた声を聞けば、そんな危機感は彼方に吹っ飛んでしまったが。


「……随分と純朴そうな話し方でいらっしゃる」


「だなぁ?」


「ま、いいや。ねぇ、あなたに一つお願いがあるんだけど、話だけでも聞いてもらえない?」


「んー? 構わないんだなぁ」


 試しに話してみれば、マッコウクジラは興味津々な様子。頭の左右に付いている瞳が、じっと継実の事を見つめる。

 交渉をする上で最初の問題――――相手との対話に取り付けるのは成功したようだ。

 正直なところ此処で転ける可能性も大いにあった。ミュータント化して多くの生物が知性を得たものの、その知性の有り様は人間と大きく異なる。人間の事を餌としか見てなければ問答無用で食べようとしてきただろうし、或いは人間の事が嫌いで嫌いで堪らないというような奴もいるかも知れない。そもそも人語を使えないような奴がだったら、継実達の話は聞けても向こうの言葉は分からず、意思はあるのに話し合いが出来ないという悲しい展開もあり得ただろう。無論知性など欠片もないただの畜生という可能性もあった。

 そうした問題は一先ずクリア出来た訳だ。しかしここで安心するのはまだ早い。今後の交渉内容次第では、折角のチャンスがおじゃんになる可能性は十分にあるのだから。


「実は私達、此処から百五十キロぐらい南にあるオーストラリア大陸に行きたいの」


「ふぅん。おーすとらりあかはよく分からないけど、島があるのは知ってるんだなぁ。おっきな島なんだなぁ」


「そうそう。それで海を渡らないといけないんだけど、私達だけだと上手く行けるか分からないから、あなたに手伝ってほしいんだ。手伝いといっても、背中に乗せて運んでほしいだけなんだけど……」


 何をしてほしいのか説明しながら、しかし継実は段々と説得出来る自信をなくしてくる。

 交渉というのは、単にお願いするだけでは基本成り立たない。相手に何かを要求するからには、こちらからも何かを差し出す必要があるものだ。しかしマッコウクジラが喜びそうな、或いは『対価』と認識してくれそうなものがとんと思い付かない。いや、或いは七年前まで存在していた文明で、人間同士でしてきた交渉があまりにも単純なもの……お金を出せば大抵締結出来るものだった事が原因か。

 人間社会が高度に発達出来た要因の一つには、貨幣の存在があるという。共通の価値が存在する事で取引が活発化し、経済的発展を促したというのがその理由だ。そして経済社会において交渉は、極論金銭の量だけが問題となる。揉める事がないとは言わないが、シンプルで分かりやすい図式だ。

 しかし動物相手となると金銭なんて意味がない。いや、そもそも何をすれば喜ぶのか分からないし、自分達に出来る事かどうかも分からないのだ。物々交換よりも難しい交渉を、果たして十七年の月日で話し合いなんてろくにしてこなかった自分が成功に導けるのか。だがここは自分が、唯一交渉技能を持ってるであろう自分がやらねばならない――――


「それぐらいお安いご用なんだなぁ」


 等という不安は、マッコウクジラの一言であっさりと吹き飛ぶ事となった。

 頭の中の大部分を占めていた疑問が消え去り、真っ白になった思考のままこてんと首を傾げる継実。アレが出来るこれを渡せるなど様々な事を考えていたのに、全部が一瞬にして無駄となる。

 無論その無駄は良いものなのだが、あまりにも望み通りの答えに継実は激しく動揺してしまった。


「え。あぇ、え、なんで……?」


「? ボカァも南に行きたいから、ついでに連れてくだけなんだなぁ。それだけなんだなぁ」


 尋ねてみれば、マッコウクジラはそのような答えを返す。人間とは違う顔立ちから表情を窺い知る事は出来ないが、少なくとも悪意は感じられない。


「あら継実、良かったじゃない。偶々南に行くつもりの奴を見付けるなんて、ついてるわ」


 モモなんかは疑いすら持たず、マッコウクジラの言葉を信じているのか。すっかり安心したような笑みまで浮かべていた。

 きっと、モモの考え方が正しいのだろうとは継実も思う。自分達人間と違って、普通の生物達は交渉で相手を騙そうなんて思わないだろうから。それに自分達はマッコウクジラと比べれば、文字通り虫けらのように小さい身。自分が南に行くから相手も南に連れていくなど、とても簡単な事なのは確かだ。

 確かなのだが、しかし対価もなしに助けてくれるという事に心がもやもやする。それも相手の嘘や裏切りを警戒してとかではなく、単純に居心地が悪い。何しろ貨幣経済社会の中では対価なしにお願いを聞いてくれる事なんて、親族や親しい間柄でもなければ早々ないのだから。


「え、えと。でもなんか、お礼とかしておきたいというか……」


「えっ。自分からそれ言う?」


「継実さんって結構損な性格してますよね……個人的には好ましいと思いますけど」


 殆ど無意識に渡せる対価がないか訊いてしまい、モモとミドリに呆れられてしまう。自分が一番交渉に向いていると思っていた継実だが、実は一番向いていないのではと、自分の思い上がりが恥ずかしくなる。

 そんな継実の気持ちをどう考えているのか。マッコウクジラはしばし考え込むように沈黙。


「じゃあ、ボカァの話し相手になってほしいんだなぁ」


 やがて告げられた言葉は、なんともおっとりした『対価』の要求。

 そんなもので、とも思ったが、よくよく考えれば自分が渡せるものなどそれぐらいしかない。何より対価というのは自己満足ではなく、相手が欲しがるものでなければ無意味だ。

 マッコウクジラがそれを欲しいというのなら、それを渡すのが正しい対価というもの。


「……じゃあ、それでお願いするね!」


「やったんだなぁ。これで退屈しないで良いんだなぁ」


 継実が快諾すれば、マッコウクジラは嬉しそうに跳ねてざぶんと波を起こす。

 それから継実達に彼は背中を向け、尾ビレをびたびたと動かし始める。

 言葉はなかったが、彼の言いたい事は継実にもすぐ理解出来た。モモとミドリも分かったように、顔を見合えばこくりと頷き合う。

 継実が一番手でジャンプして、マッコウクジラの背中に飛び乗る。次いでモモが、ミドリを連れてやってきた。三人ともマッコウクジラの平らな背中に乗れば、準備は万端だ。

 継実はマッコウクジラの頭近くまで前進し、びしりと前を指差す。


「よーし、しゅっぱーつ!」


「なんだなぁ!」


 そして力強く掛け声を発すれば、マッコウクジラが進み出した。

 距離にしてたった百五十キロの、ミュータントにとってはとても短い四人旅が始まる。全員が前向きな気持ちを抱きながら。

 ――――そこで何が起きるのか、誰も知らぬままに。

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