飢餓領域03

「ひゃっほぉー! 気持ちぃー!」


 モモの元気な声が、大海原に響き渡る。

 その声にちょっとだけ耳がキンッとなった継実は苦笑い。ミドリも目を丸くし、驚いた様子を見せる。

 けれども二人とも、すぐに笑顔を浮かべた。

 継実達は今、海原のど真ん中にいる。右を見ても左を見ても、前も後ろも全て海。自分達の立ち位置を知るためのもの、どちらに向かって動いているかを知るためのものが何もない。精々雲一つない空で輝く太陽のある方が東だと分かる程度。勿論陸なんて何処にも見えやしない状態だ。

 陸地と呼べるのは、精々継実達が乗っている黒くてつやつやした『小島』――――ニューギニア島の海沿いで出会ったマッコウクジラだけ。


「楽しんでるなら、何よりなんだなぁ」


 喜ぶモモの姿は、彼の目の位置から考えるに見えてはいないだろう。しかしその声だけだ気分を良くしたのか、マッコウクジラのおっとりした言葉遣いの声はちょっと弾んでいた。

 マッコウクジラは背中側をほんの十数センチ海面に出しながら、時速百キロ近い速さで大海原を進んでいる。ミュータントからすればどうしようもない鈍足であるが、しかし七年前の一般的なマッコウクジラの遊泳速度が時速二十二キロ程度。シャチなどの天敵から逃げる時でも時速四十五キロ程度というから、ミュータント化以前と比べれば圧倒的な速さと言えるだろう。

 何よりこの速さなら一時間でオーストラリアに辿り着ける筈。時限がない旅路なのに、たった一時間で楽しい時間が終わりだなんて勿体ないというものだ。


「ええ、楽しんでるわ。あなたのお陰でこっちの旅は順調にいきそうだし」


「はいっ! それにこんなゆったりとした旅が出来るなんて、思いもしていませんでした」


「でへへへ。そんなに褒められると、なんだか照れるんだなぁ」


 継実とミドリが褒めると、マッコウクジラは心底嬉しそうな反応をした

 直後、継実の真っ正面からボシュゥゥゥッ! という音と共に暴風が吹き付ける。

 暴風の発生源はマッコウクジラの上に開いた一つの穴……鼻の穴から。鼻穴は暴風を吹き終えるときゅっと閉じ、何事もなかったかのように静まる。暴風が吹いていた時間は精々〇・五秒ぐらいで、マッコウクジラの上にはすぐ静寂が訪れた。

 暴風の直撃を受けた継実も、ほんの少し表情を引き攣らせるだけだ。確かに暴風だったがそれは七年前の人間基準での話。ミュータントと化した今の継実には体幹を揺さぶる事すら出来ないし、ましてやダメージなんてこれっぽっちも受けていない。何よりこれはマッコウクジラの鼻息、つまり息継ぎなのだから、顔面に吹き付けてくるからといって邪魔する訳にはいかない。

 それに思い返せば小さい頃、夢見ていた事ではないか。クジラの潮吹きを間近で見てみたいというのは。


「……あっはははははははは! 凄い凄い! こんな近くで潮吹き見たの、初めて!」


 継実がはしゃぐのと同時に、継実達が乗っていたマッコウクジラが大きく浮上を始める。頭を左右にくりくりと、ちょっとだけ傾げるように彼は動かす。


「楽しそうなんだなぁ。面白いものでもあったのかぁ?」


「あっははは! いやぁ、もう面白いものは終わっちゃったからなぁ」


「そっかぁ。残念なんだな」


 継実の答えを真に受けて、マッコウクジラは本当に残念そうに答える。

 こうして話してみる前、海沿いで交渉していた時から継実は薄々勘付いていたが、彼は極めて純朴な性格をしていた。人を疑うという事を知らず、疑問を追究する事もなし。

 道中でした話曰く彼は今年十歳になる若者らしく、それでいて人間の文明が存在する頃の事も知っているらしい。そして人間達がやっていた捕鯨という行為により、マッコウクジラ同族が相当数殺されてきた事も。にも拘らず自分も南に行くからという理由だけで、人間をこうして背中に乗せてオーストラリアまで親切に運んでくれる。一応話し相手になるという『リターン』を渡しているが、最初はその対価なしに引き受けた訳であり、こうして話している間も実に親しげだ。人間に対する恨みなど、まるで持っていない。

 いや、動物に恨まれているという考えそのものが既に人間的なのだろう。彼からすれば人間など過去の遺物であるし、人間文明に殺される心配なんてない身体を手に入れた。家族や群れの仲間を目の前で殺されれば、危険視というか不快には思うのだろうが……それだけ。『恨み』なんて感情は抱きもしない。

 自然の雄大さというのは、決して規模やパワーだけの話ではない。心意気や考え方までも大海原のように大きく、対する人間というのはどこまでもちっぽけなものなのだ。


「じゃあ、ボカァまた潜るんだなぁ」


 なお、雄大過ぎて人間の事をうっかり失念する事も多く。

 マッコウクジラは継実達が背中に乗っているにも拘らず、一気に潜水を始めた。時速百キロ越えの速さでの急速潜行。七年前の生身の人間だったら、あっという間に水圧で肺が潰れて窒息してしまうだろう。

 しかし今の継実にとっては問題なし。

 粒子操作能力の応用で海水に溶け込んだ酸素を血中に取り込み、体組織内の酸素濃度を維持。水中での『呼吸』を確保した継実は、瞳の中の水晶体を僅かに変形させて水中の屈折率に対応する。

 そうすれば継実は、生身でのスキューバダイビングを楽しむ事が出来た。

 海の中は無数の魚が泳いでいた。いや、無数という言葉すら生温いかも知れない。目の前をサバやイワシのような、だけど日本の食卓に並んでいたものとは微妙に見た目が異なる見知らぬ魚が、数千から数万という大群で横切っていく。その魚達をカツオやマグロに似た大型魚が猛烈な速さで追い、襲って食べていた。イワシのような魚は ― なんらかの能力により ― 体表面を超高密度にして身体を頑強にしていたが、マグロ達はお構いなしにその守りを噛み砕いていく。そんな大型魚の方もサメに襲われており、複雑な海の生態系の一端が垣間見える。

 海面付近にはクラゲもたくさん浮いていた。クラゲは何やら衝撃波染みたものを撒き散らして生き物を追い払っていたが、そのクラゲを次々と食べていくウミガメの姿もある。ウミガメは甲羅をぶるりと震わせて衝撃波を発し、クラゲ達の出す衝撃波を中和していた。また空からは海鳥が超音速という言葉すら生温い速さで突入して、海面が湯立つほどの摩擦熱を出しながらも平然と小さな魚を捕まえては浮上していく。浮上する前より羽毛が赤くなっているのは、摩擦熱で自分の身体も熱くなっているからか。

 生き物達が所狭しと泳ぎ、生を謳歌している。ここまでくると賑やかというより喧しいぐらいだが、その喧しさが心地よい。少なくとも生き物が好きな継実にとっては。

 海中というのは海洋生物のテリトリー。だから継実一人、いや、モモやミドリと協力してもこの光景を見る事は出来なかっただろう。正確には見ようとすれば、それが末期の光景となる。海生生物のテリトリー内で襲われようものなら、陸上動物である継実達なんて成す術もなく食べられてしまうのだから。

 だけど今はマッコウクジラが一緒だ。

 小魚達は勿論、カツオのような大型魚やサメまでもマッコウクジラから逃げるように離れている。どうやら誰もがマッコウクジラを恐れているらしい。

 まだまだ若いこのマッコウクジラであるが、それでもこの付近にいるどの『魚類』よりも巨大だ。大きさとは強さの証。自分よりも大きな生物に近付かない事は野生の世界で安全に生きるための方法の一つであり、魚達はその方法を実践している。実際人類の研究によれば、マッコウクジラは主にイカを好んで食べるが、小魚やマグロも食べなくはないという。継実達の乗っている個体にその気はなさそうだが、魚達からすれば信用する事は出来ない相手に違いない。

 故に継実達に近付いてくる魚は皆無。継実達の誰もが安全に、海中の生き物達を観察する事が出来る。厳しい大自然を特等席で観察出来る事に、継実は思わず笑みを浮かべた。


「うぶぶぶぶぶぶぶぶー!?」


 残念ながらミドリにこの特等席の環境は合わなかったようだが。息が出来なくて、海中で溺れている。

 よくよく見てみれば、モモも顔を顰めていた。彼女は電撃を生み出せるので、水がたくさんある海中でも酸素を作り出せる……が、海水には多量の塩分が含まれている。『食塩水』を電気分解すると塩素ガスと水酸化ナトリウムを生成してしまう。どちらも生物体にとって極めて有害な物質だ。モモは体毛を器用に操ってそれらを追い出しているようだが、どちらも見えないものであるため物理的方法での分離は困難。顰め面になっているので、多少の塩素は吸い込んでいるかも知れない。

 もっと海中遊泳を楽しみたいという気持ちはあるが、家族が苦しんでいるにも拘わらずそれを続ける事など継実には出来ない。マッコウクジラには浮上してもらわねばならないだろう。


「おーい、マッコウクジラ。私らはアンタほど長く息を止めていられないんだから、背中だけは海面に出しておいてよー」


 継実な能力で水分子を震わせながら、マッコウクジラに話し掛ける。

 継実からのお願いを聞いたマッコウクジラは、一瞬キョトンとしたように呆けていた。とはいえすぐに自分の背中に乗っているのがどんな生き物なのか、思い出してくれたのだろう。「ごめんなんだなぁー」という反省しているのか軽く謝っているだけなのか、いまいち判別付かない返事と共に浮上。空気中に顔が出て、ミドリとモモは安堵したような顔を浮かべた。


「やれやれ。のんびりしてるのも困りものね」


「ぜー……ぜー……あ、あたし的には、困りものどころじゃ、ないですけど……」


「まぁ、元々深海とかに餌を取りに行くような生き物だし、うっかりで潜っちゃう事もあるんでしょ。私らの身体ならそう簡単には死なないし、気にしない気にしない」


「うう……窒息を気にしないとか、もう生き物としてなんかおかしいですよぉ」


「何を今更。私らミュータントが宇宙でも非常識な生物だってのは、ミドリが言ってた事じゃない」


 そーですけどー、と不服そうにぼやくミドリ。モモもくすくすと笑い、継実もにっこりと笑う。笑われたミドリはちょっと唇を尖らせたが、すぐに笑い出した。

 周りの警戒もなく、ただただお喋りを楽しむ。七年前なら普通に出来ていた事だが、何時肉食獣に襲われるか分からない今の世界ではもう出来ない事。出来ているように見えてもそれは『表面的』なもので、本質的には常に警戒を続けなければならなかった。本当に気を緩められたのは、果たして何時ぶりだろうか。

 これもマッコウクジラが一緒のお陰だ。彼が穏やかで人懐っこい性格でなかったなら、こんな機会は訪れなかっただろう。いや、そもそも彼に南へ行く用事とやらがなければ、こうして出会う事すらもなかったのではないか――――


「そーいや、アンタはなんで南に行こうとしてたの?」


 ふと継実が疑問を抱いたところ、モモも同じような事を感じたのか。継実が訊こうとした事を先に尋ねる。

 家族と気持ちがシンクロしていた事を嬉しく思いつつ、継実はマッコウクジラの言葉に耳を傾けた。彼はのんびりとした口調で、モモの問いに答える。


「ボカァ、もう大人だから、そろそろお嫁さんが欲しいんだなぁ。でもボカァ他のみんなよりのんびりしてて、みんなお嫁さんを取らちゃうんだなぁ」


「あ、自分がのんびりしてる自覚はあんのね」


「だから他のみんながいない南の方にいって、お嫁さんを探すんだなぁ。こっちの方は危険だって他の群れから聞いたけど、全然そんな事なかったんだなぁ」


「あはは……仲間の言う事は信じた方が良いと思いますよ……」


 大蛇とヒトガタの激戦遊びを思い出したのか。ミドリはちょっと苦笑いを浮かべ、継実も同意するように乾いた笑みが浮かんだ。マッコウクジラ達もあの化け物共の頂上決戦を知っていて、この辺りの海域には近寄るなと言い伝えているのだろう。それをお嫁さん欲しさに無視するのだから、このマッコウクジラ、意外とアグレッシブな性格なのか、それとも先人の言いつけに興味すらない『今時の若者』なのか。

 とはいえ彼を愚かな存在と断じるのは早計である。新天地への冒険は種がより繁栄する上で重要な事であるし、個体が拡散しなければ局所的な環境変化でも種そのものが絶滅する恐れもある。彼のような能天気な若者や恐れ知らずの冒険者というのは、生物が種を存続する上で欠かせない存在なのだ……大半は、種族の忠告通り死ぬとしても。

 それに大蛇とヒトガタの決戦はほんの数日前に終わった事。彼等 ― 或いは彼女等なのかも知れないが ― がどの程度の頻度で遊んでいるかは知らないが、流石に数日から一週間程度の頻度で暴れていたら島の自然回復が間に合わないだろう。継実の勘では最短でも半年に一度程度、恐らく一年に一度のイベントの筈。先日そのイベントが終わったばかりなのだから、数ヶ月はこの辺りの海域は安全と見て良い。

 他の群れの仲間がしていた忠告も、今この時に限れば杞憂というものなのだ。


「あの、ちなみに群れのお仲間さんやご両親は今回の旅についてはなんと?」


「んー? みんなボカァが何処でお嫁さんを探してるかなんて、知らないんだなぁ。そもそも群れを離れてから思い立った事なんだなぁ」


 ……杞憂とすら思っていないかも知れないが。どれだけ人に優しくとも、彼等もまた野生動物なのだから。

 なんにせよ他の群れの仲間とやらがしていた忠告は今や無用。マッコウクジラに近寄る生物の姿もなく安全もバッチリ。

 だったら今この時を心から楽しまなければ損というもの。


「よーし、それじゃあお嫁さんを欲しがってるあなたに女心の掴み方とか教えちゃおうかな!」


 十歳の少女のように、継実は新たな話題を言葉にするのだった。

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