南海渡航16
先程まで継実達を襲っていた引力は、正に恒星をも彷彿とさせるものだった。
しかし今や恒星など比にならない、圧倒的な引力を継実達は感じている。太陽系からの脱出すら容易な力で飛んでいるにも拘わらず、継実達の身体はどんどん竜巻の中心へと引き寄せられていく。
恐るべき、アホウドリが発する引力。
今までの苛烈な引力攻撃すらも、アホウドリとしては余力を残していたという訳だ。
「ほんっと……とんでもない化け物じゃないの……!」
体重差を考えれば、いくらなんでもこのパワーは馬鹿げている。継実は悪態を吐きたくなった。しかし思い起こせば、草原で戦ったフィアも似たようなものだ。体重一キロもあるか怪しいフナの癖に、フィアの強さは草原のどんな生き物をも上回っている。
身体の大きさで凡その強さは測れる。だがどんなものにも例外は存在するもの。そして例外とは、数は少なくとも、決して唯一無二の『特別』ではない。
このアホウドリも、そんな例外の一つなのだ。
「こ、の! このこのこのッ!」
モモは体力の消耗も考えず、ゴミを兎に角投げ続けた。後先考えない『猛攻』は今まで以上の推進力を生み出すが、引力の強さを上回るには至らない。
「ぐ……ぎ……!」
歯を食い縛り、あらゆるものを絞り出すつもりで力を込めても、継実の手から出てくる粒子ビームは左程出力を増さない。前へ進もうとする力と、引き戻そうとする力が押し合い、身体が潰れそうになる。内臓と血管が潰れる痛みで、意識が遠退きそうだ。しかしこれでもまだ引力に負けてしまう。
戦闘形態へと切り替えるべきか? 否、無駄である。あの姿はあくまでも肉弾戦特化であり、粒子ビームの威力を上げるものではない。むしろ身体能力に演算力とエネルギーを奪われるので、粒子ビームなどの遠距離攻撃は弱体化する恐れすらある。『通常』の姿こそが、粒子ビームを放つ上では最上なのだ。
その最上が及ばない以上、継実にこれ以上の手はない。
継実の肩の上でツバメは千切れそうなぐらい翼を羽ばたかせているし、ミドリだって大きな光をどんどん投げている。けれども継実達は前に進めない。それどころか引力はどんどん強くなり、継実達の足掻きを嘲笑う。じりじりとではあるが、後退する速度は加速していくばかり。
全員が死力を尽くしている。にも拘わらずアホウドリの力はそれをあっさりと上回っていた。条理も道理もない力。いや、条理も道理も世界には最初からなかったのだ。虫けら四匹がティラノサウルスには勝てないように、アホウドリに自分達四人は勝てないというだけの事。
最早どうにもならない。
それを理解した時、継実は――――微かに笑う。
「(ああ、そうだろうさ。普通にやったって、そっちの引力に勝てない事は最初から分かってる)」
巨大竜巻の外から強引に引き寄せられた時に感じたパワー。あの時も全員で協力して推力を生み出したが、まるで敵わないほど強烈だった。此度継実達が協力して繰り出した推進力はその比ではないが……アホウドリとて、『餌』を引き寄せるのに全力など出してはいないだろう。
そのままやっても勝ち目がない事は最初から想定していた。ならば大事なのはそれからどうするか。自分達の力だけでは足りないのなら、どうしたら足りるようになるのか。
答えは簡単だ。
自分達以外の力を足してしまえば良い。しかも好都合な事に自分達よりも遥かに強大な力が此処にはある。
「――――逆転だぁ!」
継実が出した大声。それが最初から決めていた『合図』。
ぐるんと継実は身を翻す。ただし粒子ビームは撃ったまま。ツバメの力で竜巻から巻き取り放出している周りの空気も、モモの電気で撃ち出された荷電粒子砲も、ミドリの謎熱攻撃も、全てが反転する。
だから、継実達はアホウドリ目掛け飛んでいく!
「ッ!?」
アホウドリは大きく目を見開き、翼を僅かに広げる。獲物が自分からやってきたから大喜び? そんな訳がない。
自分の失態に気付き、大慌てだ。
もしも引力がなければ、継実の計算通りなら、彼女達は『秒速三十キロ』もの速さを出していた。これは第三宇宙速度、即ち太陽の重力圏から脱する速さである秒速十六・七キロを遥かに上回るスピードであり、比喩でなく継実達はその気になれば太陽系の脱出すら可能だった。そして物体の運動速度は単純な足し算で求める事が可能であり、秒速三十キロで飛んでいた継実達を止めるには、反対方向に秒速三十キロの速さを足さなければならない。ちょっとずつでも後退させるなら、それよりも更に大きなパワーが必要だ。
そうして『マイナス』側に力が掛かっている状態で、突然『プラス』側がマイナスの方へと向きを変えたなら? ごく簡単な足し算だ。向きが同じになれば速度は合算され――――倍増する。
継実達は今、秒速六十キロを優に超える、圧倒的な速度で飛んでいるのだ!
「ク、クァ……!」
アホウドリはすぐに引力の向きを逆転させようとする。しかし最早手遅れ。秒速六十キロ以上の速さでカッ飛んでいく継実達は、一瞬でアホウドリの真横を通り過ぎる。
僅か一ミリ秒の隙であろうとも、一秒で六万メートルも飛ぶ速さであれば六十メートルも進めるのだ。振り返り、力を逆転させようとして……〇・〇一秒後には六百メートル先へ。
アホウドリが継実達の方を見た時、もう、継実達は巨大竜巻の中へと突入済みだった。
「ぐ……ぐううううぅぅぅ……!」
巨大竜巻の中でもみくちゃにされながら、継実は唸る。エネルギーを守りに割けばなんの問題もないが、しかし継実は粒子ビームを止めるつもりなどない。荒れ狂う竜巻の中、摩擦熱と雷撃と無酸素に耐えながら撃ち続けた。
しばらくして、ぼふんっ、と音を鳴らしてついに継実達は巨大竜巻の外へ。見慣れた積乱雲の姿を目にした……途端、継実達の速度ががくんと落ち始める。
みんな力の放出は止めていない。継実だって同じだ。空気抵抗なんてツバメの能力で空気を操れば無視出来る。なのに大きく減速する理由はただ一つだけ。
ついに引力に捕捉されたのだ。しかしこれもまた元より想定内。
「(ここからが本番だ!)」
引力操作を逆手に取った加速、自分達のフルパワー――――今この身を襲う引力によりその二つが尽きる前に、積乱雲を抜ける!
元より死力は尽くしている。そうでなければ
ここで最善を超えるのだ!
「はあああぁぁぁぁ!」
継実の唸り声は呼気によるもの。大量の酸素を取り込み、エネルギーを増産するため。
加速する血流により身体が熱くなる。毛細血管が傷付き、内出血が至る所に出来た。全身が殴られたように痛むが、継実は攻撃の手を弛めない。弛める訳にはいかない。痛みに悶えている今この瞬間ですら、前へ進む速さは減速しているのだから。雷も暴風も雨も全てを貫くスピードは、果たして何時まで続くのか。
秒速五十キロ、四十キロ、三十キロ……瞬く間に減っていく速さ。時間が経つほど前へと進むが、時間が経つほど遅くなる。まだかまだかと心は逸れど、距離は時間と速さにより無慈悲に決まるのみ。
積乱雲の外、晴れ間が見えた時、継実達は秒速十キロまで減速していた。
「み、見えた! 見えました!」
「ああ! オイラにも見えたぜ!」
「あともう少しよ!」
ミドリの声にツバメが答え、モモが励ます。三人に希望が残る中、継実は頭の中で計算を始める。
そして気付いてしまう。
届かない。
今の減速率から計算したらどうやっても積乱雲の外にあと五十メートル届かない。何度もやり直したが答えは変わらない……当たり前だ。等加速度直線運動の計算など、紙と鉛筆があれば小学生でも出来るぐらい簡単なのだから。粒子の動きさえも緻密に計算出来る継実の頭脳を以てすれば、こんなのは一桁の足し算と大差ない。間違えようがなかった。
継実が気付いてしまった事を、最初に察したのはモモ。ミドリとツバメも、自分達の減速率と距離から、感覚的に理解したのか。希望に満ち溢れていた顔が青くなる。
あともう少し。ほんの少しなのに、届かない。
モモが、ミドリが、ツバメが、絶望に満ちた表情を浮かべる中で
「いっ!」
継実は大きな声を上げた。
全員が継実を見る。ミドリやモモが心配したような表情を浮かべるのは、継実が痛みから声を出したとでも思ったのか。
「せぇっ!」
しかし二言目で、二人とも継実が痛みで呻いているのではないと察する。
ツバメが羽ばたくのを止めた。モモがゴミを撃ち出すのを止めた。その身体に大きな力を溜めていく。
「「「のぉー!」」」
掛け声を合わせる三人。ミドリもハッとしたように気付き、大慌てで特大の光を構えて……
「「「「せええええぇっ!」」」」
声を合わせて、一斉に渾身の力を放つ!
ぴたりと合わさる力。勿論この世界に奇跡なんてないし、神様の加護もない。どんなに息がぴったりでも、周りから称賛されるぐらい美しいコンビネーションを披露しても、物理法則は無慈悲に働く。
全ての力が合わさった事で、引力の力を上回るという事実は恙なく生じた。
ほんの僅かに、継実達全員が『加速』する。ミュータントからすれば誤差にしか思えないような、本当に小さなもの。だけど秒速五百メートルもあれば、〇・一秒で五十メートル進める。継実達は僅かだが積乱雲の外へと身を乗り出した
瞬間、引力は突如として消え失せる!
「どどおおおわぁ!?」
今まで自分達を減速させていた力が消えた事で、継実達一行はその引力を上回る勢いで急加速。突然の事に驚いた継実は粒子ビームの射出角度を狂わせてしまう。
あらぬ方角へと向いたビームが生み出した推進力は、継実達を大海原に叩き付けようとした。
「ひええええ!?」
「継実ストップ!? すとぉーっぷ!?」
「や、やってる、けど……!」
ミドリが悲鳴を上げ、モモが止めるよう叫ぶ。継実はなんとか姿勢を制御しようとしたが、一度狂った体勢は中々立て直せない。
「ぬあぁあアァッ!」
ツバメが爆風を起こして減速させなければ、全員海の中に投げ出された事だろう。
減速した事で稼げた時間により、継実は粒子ビームを止めれば良いと今更ながら思い至る事が出来た。ぷすんっ、と間の抜けた音を鳴らして継実の手の輝きは失われる。
ツバメの方も力尽きるように羽ばたきが止まり、ふわふわと継実達は海面数十センチの高さで浮かぶ。足下の水面穏やかな波がちゃぷんと音を鳴らし、快晴の空から降り注ぐ光を浴びて輝いていた。嵐の気配なんてない。
くるりと継実は背後を振り返る。何十キロと離れた先に巨大な積乱雲が見えた。もくもくと激しく流れる姿は途方もない力を感じさせ、内側で雷撃を光らせる様子は怒りに震えるかのよう。恐らく今頃積乱雲の直下は、ミュータントすら身の危険を感じるほどの『天災』が起きているだろう。
しかしどれも数十キロ彼方の出来事。継実の下には届かず、なんの悪影響も及ぼさない。
つまり。
「……助かった?」
ぽそりと漏れ出る、継実の言葉。
一呼吸置いて、モモとツバメが継実に抱き付いてきた。
「助かったわ! 助かったのよ!」
「ああ! オイラ達、あのアホウドリの奴から逃げきったんだ!」
二人は喜びのまま大はしゃぎ。あまりの喜びぶりに継実は一瞬呆けてしまうが……段々と、胸の奥底から喜びが込み上がる。身体に自然と力が入り、じっとしてなんていられない。
「「「やったぁーっ!」」」
そして息を合わせたように、継実とモモとツバメは万歳で喜びを表現した。次いでまた互いに抱き合い、自分と相手の体温から、生きている事を実感し合う。
傍から見れば、おめおめと逃げ出した事を大喜びという、なんとも情けない姿であろう。それを勝利と呼ぶのは、『知的生命体』のプライドが許さない。
けれどもアホウドリは自分達を食べようとしたにも拘わらず、その肉片を一欠片も口に出来なかった。対して自分達は誰一人欠けていない。野生の本能はこれを勝利と認めていた。そして野生動物である継実達は、役に立たないプライドなんかよりも本能を重んじる。
だからこれは勝利。
継実達は、本来なら勝ち目のない相手に『勝った』のだ!
そうして喜びに満ち溢れる中、一人がゆっくり手を上げる。喜びに浸っていた継実達はその動きに気付くのに少々時間を有したが、やがて三人とも動きがあった方へと振り返る。
手を上げたのはミドリだった。
「……あの、水を差すようで悪いのですけど」
おどおどと、ミドリが何かを言いたそうに語り出す。
なんだかミドリは落ち着かない様子。顔には喜びなんてなく、それどころかなんだか酷く不安げである。
「んー? どうしたのミドリ?」
「ええ、まぁ……あの、来てます、後ろから」
「後ろ?」
継実が尋ねてみると、ミドリは継実の背後を指差す。そんなところを見ても積乱雲しかないでしょと思いつつも、大切な家族の話したい事を知るべく振り返る。
そこには一匹のウツボがいた。
……何処からどう見てもウツボだった。なんでウツボが海面から顔を出しているのかだとか、このウツボ頭の大きさから判断して体長十メートルぐらいありそうなんだけどとか、ツッコみたいところは山ほどある。しかしどれも無意味な問いだ。ミュータントだから、で全てが終わるのだから。
それよりも気にすべきは、ウツボが魚の癖してなんだかニヤニヤと、嬉しそうに笑っている事だろう。そして疲れ果てて海面付近まで降下していた継実達は、その笑顔を真っ正面から見ている事も。
「……こ、こんにちはー」
とりあえず、継実は挨拶をしてみる。
するとウツボは、ぱかりと大きな口を開いた。こんにちは、とは多分言っていない――――いただきますとは言ってるだろうが。
いや、もしかすると、やっぱりこんにちはと言ってるかも知れないと継実は思い始める。
何しろ開いたウツボの口の奥深くで虹色の、光なのか電気なのかも分からないものが輝いていたのだ。理解不能な謎の物理現象であるが、当たると多分死ぬほど痛いと直感する。ウツボが「こんにちは死ねェ」と言っていてもおかしくないだろう。
どのみち友好じゃない事に変わりはないので、やる事は同じだが。
「ひぃっ!? に、逃げて! 早く! 私もうなんも出ないから! 戦えないから!」
「え。いや、でもオイラだってもう体力使い果たして、飛ぶだけでも割と精いっぱいなんだけど」
「あ。私も駄目だわ。尻尾ぶん回す気力もないし、ましてや電気を作るなんて無理無理」
「……ごめんなさい。もう煙も出ません」
「誰も戦えないとかアホウドリの時より大ピンチじゃんこれえええええぇ!?」
一難去ってまた一難。それどころかあと幾つ難がやってくるのかも分からない。
未だ道半ばである継実達に、『勝利』を喜ぶ暇などある訳もなかった。
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