南海渡航08
大空の旅を初めてから約十分が経ち、旅路も半ばを迎えた頃。
「……おかしい」
ぽそりと、モモが呟く。
音速を超える空の旅の最中での発言。本来ならばそれが横に並ぶ者の耳に届く事は物理的にあり得ないが……粒子の動きを捉えられる継実には聞き取れる。
継実はちらりとモモの方を向く。モモは相変わらず空中で寝そべっているが、つい先程までリラックスしていた表情は消えていた。目付きは鋭く、口許も引き締まったもの。寝転ぶ身体にはみしみしと力が入り、何かあればすぐに動ける体勢だ。
モモはたった一言ぽつりと述べただけで、何が、については語っていない。しかしモモの姿を見れば、継実には彼女の言いたい事が理解出来た。そしてモモの『意見』に心の中で同意する。
きっと、何時の間にか黙ってしまったツバメも同じ事を考えている筈だ。
「はい? 何がおかしいのですか?」
気付いていないのは、誰よりも気配を察知する能力に長けているミドリだけ。ちなみに彼女はモモよりも前を飛んでいて、こちらもやはり物理的に声が聞こえる筈もないのだが、索敵能力の応用で声の『波形』も捉えたのだろう。
ミドリだけが呆けた様子だが、しかし彼女が間抜けという訳ではない。空を埋め尽くす青空は何処までも広がり、地平線の先まで続く水面は静かなもの。キャーキャー喧しいカモメの声だって今は何処からも聞こえてこないし、獰猛な魚達が泳ぐ影も見えてこない。
平和だ。とても、とても。
――――あり得ないぐらいに。
「静か過ぎるのよ」
「? そうですね、とても静かです。お陰で襲われる心配がなくて……」
「なんで静かな訳? ううん、こう訊きましょうか……どうして生き物が少ないと思う?」
「え? そりゃ外洋はそういうものだと、思うのですけど……」
モモに問われたミドリは『科学的』な話をしようとして、段々と尻窄みになっていく。答えようとはしている。だけど、自分自身納得がいかなくなったのだろう。
――――陸から遠く離れた海は海洋生物の宝庫である。そう考えていた人類は、恐らく少なくないだろう。
実態は真逆だ。陸から離れるほど、生物の密度は著しく減っていく。面積や深さが圧倒的に上なので総数なら勝るだろうが、個体密度は圧倒的に陸の近く、特に浅瀬などの環境の方が高い。
何故なら陸の近くでは川から養分が流れ込み、その栄養を糧にして植物プランクトンが増えやすいからだ。また浅瀬であれば海底まで光が届きやすいので、海藻や藻、サンゴなどの『生産者』が生きていける。生産者は他の生物の餌というだけでなく、住処や避難所としても役立つ。故に多種多様な生き物が数多く生きていけるのだ。
ところが外洋はそうもいかない。莫大な海水で薄められる養分、暗黒が支配する海底、隠れられる場所などない開けた空間……何もかもが生物にとって不都合である。海の砂漠という表現もあるほどだ。
だからあまり生物を見掛けないというのは、決して不自然な話ではない。
……七年前であれば。
「(ミュータントが、高々外洋ってだけで個体数を減らす?)」
あり得ない、と継実は断じる。確かにミュータントは強さと引き替えに大量の食糧を必要とするが、植物のミュータントの増大した生産力が全てを補って余りあるのだ。草原でも森林でも、生物数は減るどころかむしろ増大しているぐらい。
なら、外洋でも生物の数は増えている筈である。流石に継実達が暮らしていた草原や通り過ぎた森ほどたくさんはいないだろうが、それでも七年前の浅瀬ぐらいには頻繁に生き物の姿が見えそうなものだ。
勿論継実の予想が外れている可能性もある。例えばミュータントによって環境が変化し、外洋の貧栄養化がますます深刻になったとか。しかしもしも予想通りなら、いる筈のミュータントの姿が見えない理由はただ一つ。
何かがあるのだ――――ミュータントの個体密度さえも変えてしまう、何かが。
そしてその考えが事実であれば、冬になる度に渡りをしている『ツバメ』達が知らぬ筈がない。
「ふむ。そろそろ説明しておくかね」
悪びれる様子もなく語り出したツバメを、継実はぎろりと睨み付けた。
「……人を雇う時には、契約を交わす前に全部話してからの方が良いわよ。後で揉めるから」
「揉めるから此処まで連れてきたんじゃないか。断られないようにしないとね」
責めるように問い詰めても、ツバメはへらへらと答えるばかり。
やはり対話で油断するべきではなかったか。一瞬そんな考えも過ぎったが、悩んでも仕方ないと継実は割りきる。仮に全てを予め聞かされていたとして、だから断るなんて選択肢はなかった。継実達だけでは、日本列島から出る事すら出来なかったに違いないのだから。
道中で問題がある事は仕方ない。それを織り込んでいない甘さを責めるべきだろう。
そうだ。例え直接語られずとも、問題がある事は簡単に想像出来た。ちゃんと、常に思考を働かせていたなら。
「(コイツがゆっくり飛んでいたのは、やっぱり体力の温存が目的だった訳か)」
ツバメが出している飛行速度は秒速二・五キロ。確かに凄まじい速さだが……陸上生活者である継実と比べて、たったの二倍ちょっとしかない。大空で生きる生き物が、陸の生き物の小手先の技を二倍しか上回らないなどあるものか。大体陸地近くでサメに襲われた時など、軽々とスピードアップまでしている訳で。
全力を出していないのは明白だ。そして危険な生物がひしめく大海原で全力を出さない理由など、体力の温存以外に考えられない。
実際継実は既にその可能性を考え、だからこそ身を休めていた。モモも同じである。分かっていたのだから、こんな事をぎゃーぎゃー問い詰めたって無意味だ。
故に今、尋ねるべきは現状を認識するために必要な情報。
「一体、何がある訳?」
「『アレ』さ。もう見えてきた」
その答えを、ツバメはすぐに教えてくれた。
同時に、ツバメは大空で急停止。次いで今まで直進していた動きから、ぐるぐると同じ場所を旋回する航路に変える。ホバリングではなく動き続けるのは、例え同じ場所に留まるとしても、絶え間なく動き続ける方が幾分安全だからか。
そうして飛び続けながらも、ツバメは一方向を眺め続ける。
その視線の先に何があるのか。継実とモモはツバメが見ているものへ目を向け、ミドリは遅れて継実達と同じ方を見遣った。
「え……ぅ……」
最初に怯んだように声を上げたのは、ミドリ。一瞬呆けたように固まり、不安そうに実を縮こまらせた。
勿論ミドリが最初に『それ』の恐ろしさに気付いたのではない。継実とモモは既に覚悟を決めていただけ。空中で寝転がっていたモモは起き上がり、警戒するように目付きを鋭くする。
見ただけで分かる。それが一筋縄ではいかない相手であると。
「さぁて、そろそろ本気で飛ぶかねぇ……全員気を付けな。オイラ達ツバメの半分が死ぬのは、此処から先の話だぜ」
そしてツバメが告げる、恐ろしき言葉。
大海原を高速で飛び、天敵達を次々と振り払うツバメ達さえも多くが生きて帰れない……これが恐怖でなければなんなのか。ツバメの手助けがあっても、半分の確率で生きて帰れない事が絶望以外である筈もない。
ましてや陸の生き物である継実達が、大空の危険相手に一体何が出来るというのか。
何も出来る筈がない。合理的に、論理的に、無感情に考えれば、その結論に辿り着くのが必然。
されど継実は、笑う。人間というのは非合理的で、意地っ張りで、感情的な生き物なのだ。
「上等。私達の本気も、こっから見せてあげる」
継実は自信満々に大口を叩く。
自分達の進む先を塞ぐかのように広がる、途方もなく巨大な『積乱雲』を臆さず見据えながら。
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