南海渡航09

 積乱雲。

 七年前、まだまだ文明が存在していた頃の日本にとって、その雲は夏の風物詩の一つだった。十数キロもの範囲を覆うほどに幅広く、そして一万メートルを超えるほど空高く積み上がる様は、雄大な自然を思わせる事だろう。どっしりと構えるように佇む姿は美しさすら感じられる。

 だが、魅了されて近付くのは御法度。

 巨大さとは即ちパワーの大きさ。莫大な水分を含み、ただの雲とは比較にならない大きさにまで成長した積乱雲の力は生半可なものではない。内部では雷が頻発し、その下では竜巻や雹、何より大雨をもたらす。見た目の穏やかさを信じて傍に近寄れば、瞬く間に粉砕されるだろう。

 正しく災厄の権化。


「んじゃ、アレの下をちょっと通るからなー」


 その権化を前にしたツバメは臆するどころか、炉端の石ころを跳び越えるぐらいの気軽さで挑もうとしていた。


「え。えええええぇっ!? とととと通る!? 通るのですかぁ!?」


「え、うん。そうだけど……なんでそんな驚くの?」


「だ、だって、せ、積乱雲って言ったら……ヤバい奴じゃないですか!」


 興奮のあまり語彙力が欠損したのか。それぐらい怯えるミドリに、ツバメはむしろ不思議そうに首を傾げる。

 『常識的』にいえば、ミドリの反応が正しい。雲の下は荒れ狂う嵐も同然。やむを得ない事情があるなら兎も角、そうでないのに突っ込むのは無謀も良いところだ。

 しかし。


「いや、ミドリ。別にアンタの身体でも積乱雲ぐらいなら多分痛くも痒くもないから」


 モモがツッコんだように、ミュータントにとっては積乱雲など『霧』のようなものに過ぎない。

 何しろその身は自然災害を克服するほどに強靭なのだ。例え雷に打たれようが、竜巻のミキサーの中に放り込まれようが、ちょっと鬱陶しいだけで済むだろう。


「……あ。そうでした。あたしの身体、すっかり頑丈になったんでしたっけ」


「なんでコイツ、自分の身体の事がよく分かってないんだ?」


「なんでだっけ? 元々違う身体で……頭だけすげ替えたんだっけ?」


「違いますよ!? なんでそんなホラー展開みたいな覚え方してるんですか! ただそこらに落ちてた死体を借りてるだけですー!」


「十分ホラーじゃんそれ」


 ミドリの天然ボケにツバメがツッコみ、けらけらとモモが笑う。一瞬緊迫していた空気が解れ、継実も自然と笑みが零れる。

 とはいえ懸念がなくなった訳ではない。

 積乱雲は脅威となり得ない。それは間違いない事である。しかし積乱雲以外の脅威が消えたとは誰も言っていない。

 そして積乱雲の中に、誰もいないとはツバメは言っていないのだ。


「(つーかこれ、誰もいないとかあり得ないでしょ)」


 頭の中を過ぎった『もしも』に継実は思わず鼻で笑う。

 一般的な積乱雲の高さは、凡そ十キロ前後。

 この値は、実のところ地域によって異なる。赤道付近のように温かくて水分の多い地域では雲がよく育つので、部分的に二十キロを超えるようなものが生まれる事もあるという。物理的な限界がどの程度かは継実も知らないが、もしかすると、条件が最高に良ければ二十五~三十キロぐらいの高さにはなれるのかも知れない。

 しかし、どう考えてもにはならないだろう。

 そんなあり得ない筈の雲が、継実達の目の前に広がっていたのだ。無論あくまでも目視による測定だが、粒子操作能力を応用すれば、物体の距離や高さを正確に測る事は造作もない。行く手を遮る積乱雲は、間違いなく高さ六十キロはある。

 自然界、少なくとも地球上の環境では発生しない筈のスケール。異常気象でも起こりえない現象の原因は何か? 少し考えれば、答えはパッと思い付く。

 ミュータントだ。

 恐らくなんらかのミュータントが積乱雲の中心に陣取っている。どのような意図で積乱雲を発生させているかは分からないが、それ以外の原因はまずないだろう。


「……一応訊くけど、あの中、何かミュータント……私達みたいな生き物がいるって考えて良い?」


「おう。デッカくてヤバい奴がいるみたいだぞ」


「みたい? 正体は知らないって事?」


「ああ、知らないね。誰も見た事ないみたいだしな。オイラもあれを通るのはこれで三度目になるけど、中の奴は見た事もない」


 平然と語るツバメだが、その言葉の意味は重い。

 毎年大勢のツバメが渡りで此処を通っている筈なのに、誰も積乱雲の元凶を見ていない。

 つまりという事だ。それが元凶に襲われたからか、それとも正体が見えるほどの中心部だとミュータントすら危険な状況なのか……いずれにせよあの積乱雲に突撃するのが危険なのは間違いないだろう。


「へ? あの中にミュータントがいるのですか? なら、やっぱり迂回した方が良いんじゃ……」


 ミドリがそうした考えを抱くのは、ごく自然な事だろう。継実としてもそうすべきだと思う。

 だからこそ、「突っ切る」という選択をしたツバメの意見を聞きたい。そこには合理的な理由がある筈なのだから。


「残念ながらそうもいかねぇ。ほれ、積乱雲の周りを探ってみな」


「周りですか? えっと……うげっ」


 ツバメに言われるがまま気配を探ったであろうミドリが、顔を顰めながら呻く。それ以上の言葉はなかったが、継実にはミドリが何を『見た』のか凡その見当が付いた。


「……積乱雲の周り、生き物だらけなの?」


「は、はい。しかも明らかに大きな生き物ばかり……迂回ルートに陣取ってます。海だけじゃなくて、空も。カモメより、もっと大きい……」


 尋ねてみれば、ミドリからは予想通りの答えが返ってくる。

 考えてみれば納得の状況だ。危険な積乱雲を避けるために小動物達が回り道するのは必然。つまり積乱雲の傍は、たくさんの生き物の通り道という事である。そこで待ち伏せすれば、獲物が勝手にやってくる訳だ。しかも大きな生き物なら、如何にミュータントが作り出した積乱雲でも早々やられはしないだろう。

 積乱雲を迂回すれば、巨大で凶悪な生物の目に留まる。継実達を襲うほど凶悪でなければ良いのだが……願望のまま行動した場合、見るのは痛い目だけでは済むまい。

 では、更に大きなルートで迂回すべきか?


「念のために訊くけど、大回りするって方法は駄目なのかしら?」


「駄目だね。この辺りにデカい鳥や魚がいないのは、みんなあの積乱雲の周りに陣取っているからだ。大回りしたら、今度はその外側に陣取る鳥と魚に襲われる。しかも大回りだから延々と長い時間な。大体あの積乱雲、一ヶ所だけじゃねーし。安全な通路になると直進ルートの何十倍も迂回させられるし、最悪何処も通れないかも」


「だと思ったわ」


 脳裏を過ぎる、けれども端から期待していなかった案をモモが尋ね、ツバメは淡々と否定した。ちょっと条件が悪い場所だからといって即安全とはならない。最適な場所に入れない奴等が陣取るのは必然だろう。そしてミュータントが、生物が作り出すものであるなら、幾つも存在する事だって不自然ではあるまい。成程ね、と継実も心の中で頷く。

 迂回は一層危険な目に遭う可能性が高いし、そもそも切れ目があるとは限らない。ならば一点突破、積乱雲の下を最短距離で突っ切ってしまえ――――どうやらこれが一番安全なルートのようだと、継実も納得する。

 勿論不安がない訳ではない。もっと安全な手はないものか、もっと賢い方法はないものか。高度な演算能力を有す頭脳で考えてはみた。が、これ以上の案は思い付かず。いや、思い付く筈がないのだ。積乱雲の直下を突っ切るというコースは、ツバメ達が数多の犠牲を積み重ねて辿り着いた『最も安全な航路』なのだから。

 勇敢で優秀な若者が新たな道を切り開く事もあるだろう。しかし継実は、自分が先人達を超えるほど優秀だなんて信じちゃいない。凡夫は大人しく、偉大な先輩達が踏み固めた道を通れば良いのだ。


「良し、分かった。思いきってやっちゃって」


「それしかなさそうだし、仕方ないわね。ま、こーいう時のために昼寝してた訳だけど。私の体調は万全よ」


「えっ。あ、えと……が、頑張りまひゅ!?」


 継実とモモは覚悟を決め、ミドリは決めようとして舌を噛む。空中でジタバタと暴れる彼女の姿がなんとも可愛らしく、継実もモモも思わず微笑んだ。

 お陰で肩の力が抜けた。これなら万全の力を出せる。


「準備は良いな。それじゃあ空の旅の本番の始まりだ」


 そんな継実達を見たツバメは一言そう告げて――――ぐんぐんと加速していく。

 迫る積乱雲。近付けば近付くほどに分かる、自然界を凌駕する圧倒的パワー。しかしもう退く事なんて出来やしない。

 あの中に突入した時が勝負の時だ。

 ……なんてキッチリとしていれば、逆に楽なものなのだが。


「あ。ちなみに直進ルート上にもサメとかいるから、積乱雲の下に入る前からちゃんと注意しろよー」


「「「ですよねー」」」


 生憎自然界というのは、空気を読まず。

 積乱雲の中にと言わんばかりに、今まで姿を眩ませていた魚達が一斉に襲い掛かってくるのだった。

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