横たわる大森林06
大きな口を開けて、がぶり、と齧り付く。
瞬間、口の中に広がるのは強烈な酸味。しかしその強い酸味に負けない、いや、むしろ打ち負かすほどに強い甘味が舌に纏わり付いてくる。
噛めばしゃきしゃきと心地良い音が鳴り、鼻を突き抜ける香りが断面より溢れ出す。染み出す汁はジュースのように喉を潤し、一瞬で疲労感を吹き飛ばした。胃から腸へと流れ、即座に吸収された糖質によりどんどん身体に活力が戻っていく。
至福。本当はこんな言葉では例えられないほどの幸せを味わっているが、人間の言語能力ではこう表現する他ない。
故に、
「うみゃあぁぁ~いぃぃ~」
リンゴを一口齧った継実は、その顔をでろんでろんに弛めてしまうのだった。
「ほんっとうに美味しいです! これが地球の果物なんですね! 糖質の甘さが身に染みますぅ~!」
同じく満面の笑みを浮かべ、アケビの実をぱくぱくと食べるミドリ。継実はミドリと目を合わせ、同時にこくこくと頷き、笑い合う。
オオスズメバチという暴君の襲撃を受けた継実だが、あの可愛らしい捕食者は樹冠より外までは追ってこなかった。
恐らく効率的な狩りを優先するため、獲物が一定範囲より外に出たら襲わないという『決まり』があるのだろう。実に合理的だ。樹冠部分に果物の楽園がある限り、サルや鳥は何時だってやってくる。襲われるリスクがあろうとも、強靭な外皮を持つ虫や、途方もない強さを持つ獣を襲うよりは安全に食べ物を得られるのだから。
お陰で継実は大量の果物を、難なく仮拠点であるクヌギの洞まで持ち帰れた。今はみんなで果物パーティーの真っ只中。七年ぶりの甘さに、継実の脳はすっかりやられている。
「そんなに美味しいもんかしらねぇ、これ」
唯一冷静なのは、肉食獣であるモモだけだ。彼女の手には柿が握られ、一口食べただけで止まっている様子。言葉通り、あまり美味しいとは思っていないらしい。
「美味しいですよ! 果物はどの文明でも嗜好品の一つになるぐらい、素晴らしいものですから」
「ふーん。宇宙にも果物ってあるんだ」
「栄養価の高いもので動物を引き寄せ、次世代を遠くに運んでもらうというのは有効な戦術ですからね。動けない生物は子孫を残す上で、このような形質を獲得する傾向が強いのです。自走する植物なら、そういう戦術はいらないので発達しませんけど」
「自走する植物ってヤバくない? そんなの見たら腰を抜かす自信があるわ」
「核融合炉並の発電能力を持つ小型生物に比べれば、遥かに常識的ですけどねー」
わいわいと話し合う中でも、モモは柿に手を付けない。やはり、肉食動物に果物の味は合わないようだ。
「ほれ、モモ~。リンゴの皮」
「ぱくっ!」
……それでも
「はぁー。まぁ、私はもういいや。二人で満喫しといてー」
それでもやっぱり食指は働かないようで、モモは座る継実の傍に仰向けで寝転ぶ。お腹をわしわしと撫でると、「ぐぇへへへへへ」と幸せに笑いながらぶっさいくな顔になった。ひっくり返ったまま脱力した結果歯茎が剥き出しになった、犬のようである。
可愛らしい家族の声をBGMにしながら、継実とミドリは食事を続けた。しゃくしゃく、しゃくしゃく。爽やかな音が洞の中に響く。
「……ありがと、ミドリ」
その中でぽつりと、継実はミドリに感謝を伝える。
独り言のようにも聞こえる言い方だったからか、ミドリは最初キョトンとしていた。少ししてお礼を言われたと気付いたようだが、今度は首を傾げてしまう。
「えっと、あたし何かしましたっけ?」
考えてみたものの心当たりがなかったのだろう。ミドリは淡々と聞き返してくる。
実際、ミドリが継実に対して何かしたかといえば……恐らく、ミドリ自身にそんな自覚はないだろう。ミドリとしては思い付きを語っただけであり、継実を励まそうとした訳ではない。継実自身、そう思っているぐらいだ。
しかしそれでも継実が感謝している事実は揺らがない。
彼女が最後まで諦めずに食べられるものを探してくれたから、こうして希望が繋がったのだから。
「……果物の事、考えてくれた。お陰で私達はお腹いっぱい。そのお礼だよ」
「え? そんな事ですか? いや、むしろお礼はあたしの方が言うべきでしょう。こんなにたくさん果物を採ってきてくれた訳ですし」
「うん。そうなんだけど、ね」
濁すような曖昧な言葉で、継実はミドリに肯定と否定を示す。
ミドリがその果物という案を出してくれるまで、継実はかなり諦めの状態にいた。生きる事まで諦めてはいないが、死んでも仕方ないと考えていたし、それどころかミドリとモモを安全な場所に送り届けるためなら死んでも構わないとすら考えていた。
何がなんでも生きていたいと思うのと、いざとなったら死んでも良いと思うのには雲泥の差がある。もしも勝つか負けるか五分五分の強敵が現れた時、意地でも死んでやるものかと考えるのではなく、自分が犠牲になってみんなを守ろうと考えたなら……本来ならなんとかなったかも知れない危機で死んでしまうかも知れない。
ミドリが提示した可能性は、継実に希望を与えた。この鬱蒼とした森の中でも生きていく術があるのだと、まだ諦めなくても良いのだと、教えてくれたのだ。
だからミドリは命と心の恩人。その恩人にお礼を言わないほど、継実は薄情ではないのである。
「うーん、あたし的には旅が楽しいので、少しでも続けられるようにと考えただけなのですが……」
「いいのいいの。感謝なんて結局一方的なもんなんだから」
「そーですかねぇ?」
ミドリは納得出来ていないようだが、今し方話したようにこれは継実の勝手な気持ち。納得出来ないのも無理ない事である。
ミドリの方も釈然とはしないが、感謝されて悪い気もしないだろう。じゃあそれでいいやと、特に追求もしてこなかった。
「ま、それならそれで良いですが……ところで果物で栄養はたっぷり取れましたけど、どうですか? すぐに移動を始めますか?」
「ん? うーん……」
ミドリに問われ、少し考え込む継実。
ミドリが言うように、果物をたくさん食べた事でエネルギーは賄えた。疲労はすっかり回復し、戦いは問題なく行えるだろう。
だが、これでは駄目だ。
「……エネルギーは十分だけど、足りないものがまだある」
「足りないもの、ですか?」
「うん。タンパク質が足りない」
腕を曲げて力瘤を作りながら、継実は首を傾げるミドリにそう答える。
現在、継実の身体はかなり『縮小』している状態だ。というのもハエトリグモに片脚の膝から下を奪われ、野犬とクマの攻撃で腕の肉を、アリの猛攻とモモの電撃で全身の肉をかなり喪失したから。食い溜めしていたので森突入前は五十キロ超えの体重があったのに、今の継実の体重はたったの三十五キロほどしかない。果実によりエネルギーは充填しても、アミノ酸が足りなくて身体の再構築は叶わなかった。
体重は重要だ。巨大な生物ほど肉体的な力が強いように、フィアのような一部の例外を除いて、ミュータントの力も体重によって出力が増大していく。つまり森突入前と比べて七割まで体重が減少した今の継実は、どう頑張っても七割の出力しか出せないという事。いくらエネルギーが満タンでも、力不足では倒せない敵が多くなる。
元の力を取り戻すにはしっかりとした肉体を作る必要があり、故に肉体の材料であるタンパク質の摂取が必要だが……タンパク質が豊富な食べ物とはつまり、動物である。果物にも少しは含まれているが本当に微量で、例えばリンゴの場合百グラム当たり〇・二グラムしか含まれていない。鳥肉ならば(部位にもよるが)百グラム当たり十六・三七グラム。鳥肉百グラム分のタンパク質を得るには、リンゴを八キロ以上食べねばならないのだ。
付け加えると人間の身体を作るタンパク質は、二十種類のアミノ酸から作られている。アミノ酸の種類はいわば『建材』の種類であり、土だけでも木だけでも鉄だけでも家が建たないように、一種類のアミノ酸だけ大量に取っても他のアミノ酸の代用は出来ない。そのため食品のタンパク質に含まれているアミノ酸のバランスが大事なのだが、動物の肉には当たり前だがこれらのアミノ酸が全て十分に含まれているのに対し、植物であるリンゴのアミノ酸のバランスは肉ほど良くないのが実情。他の食べ物との組み合わせで多少は補正出来るが、大人しく肉を食べる方が遥かに健康的で尚且つ楽だ。
草食動物なら兎も角、人間は果物だけいくら食べても肉を作れない。元の強い身体を取り戻すには、どうにかしてこの森に棲まう強大な動物を狩らねばならないのである。
一難去ってまた一難。しかしながら今は大分余裕がある。エネルギーだけなら十分に補給出来た事で、取れる手段が増えたからだ。知恵を働かせれば、何か良い案が浮かぶかも知れない。
例え自分には思い付かなくとも、その時は家族に頼れば良いのだ。ほんのついさっき大活躍だったミドリのように。
「モモ、何かアイディアある?」
そんな想いと共に、一番長い付き合いの家族に継実は尋ねてみた。
「ふがっ!?」
モモの返事は、可愛い顔の女の子がするようなものではない呻きだった。
……どうやらお腹を撫でられているうちに、幸せのあまりうたた寝していたらしい。犬としては実に可愛らしい、が、この犬は人間並の知性と姿がある。
話を聞いていないお仕置きとして、継実はモモのほっぺたを引っ張ってやる事にした。尤も体毛で組まれた身体の頬を引っ張ったところで痛みなんてないし、むしろ構ってもらえるのが嬉しいのかモモは尻尾をぶんぶん振っていたが。
比喩ではなく可愛がった後、ぱっと手を放してモモを自由に。解放されたモモはキョトンとしていて、最初から話さねば駄目な様子だった。
「あー……モモ。アイディアがあれば訊きたいんだけど」
「アイディア? なんの?」
「私の身体、今までの戦いで結構やられて、かなり体重が減ってる状態なの。果物のお陰で体力は回復したけど、タンパク質がないから体重は元に戻っていない。何か、良いタンパク源はない?」
試しに訊いてみるが、継実はあまり期待していない。モモの事が信用出来ないという訳ではなく、元々簡単に解決出来る問題ではないと思っていたので。
「一応あるわよ。多分だけど」
ところが此度のモモは継実の期待に応える。
ある意味『期待』していたのと違う答えに、継実はぽかんと呆けてしまった。
「……え。あるの?」
「一応よ、一応。臭いがしたから、個人的には確信してるけどね」
「どんな食べ物なんですか? あんまり強くない相手なら、あたしもお手伝い出来ると思うのですが」
呆気に取られて上手く言葉が続かなかった継実に代わり、ミドリが疑問を言葉にする。
我に返った継実は、そのままモモの言葉に耳を傾けた。自分では良い案が思い付かなかったのに、モモはあまりにも簡単に答えてみせる。ミドリが果物という名案を出した時のように、何かとびっきりの名案が出てくるのではないかと期待して。
しかしその考えは、一瞬で疑念へと変わる事となる。
モモが信用出来ないのではない。突拍子のない案を出してきたとか、夢物語を語ったとか、明らかな嘘があるだとか……そんな事は一切なかった。
されど人間というのは難儀なもので。
「大丈夫よ。栄養があってすっごい美味しいけど、それ自体は滅茶苦茶弱いから」
『美味しい話』を訊くと、ついつい訝しんでしまうものなのだから。
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