旅人来たれり08
猛然と草原を駆け抜ける、一頭の牡鹿が居た。
疾走する速さは時速六万三千二百キロ。音など彼方に置き去りにする、圧倒的な速さだ。空気抵抗が生じていないのか
あらゆるものを寄せ付けない、圧倒的なスピード。そのスピードを繰り出すパワーも凄まじく、隕石が落ちてこようとも揺らがない草花を蹄で蹴散らしていく。もしもその足が当たろうともなら、きっと
だからもしもこのシカを狩ろうというのなら、決して油断などしてはいけないのだが。
「……あれ?」
継実は目前に迫るまで、シカの接近に気付かかった。
音速などすっとろいぐらいに感じる動体視力はあるものの、流石に太陽系から脱出出来る速さである第三宇宙速度を超えたものに素早く反応するのは難しい。最初から構えていれば躱すぐらいはなんとかなるが、寸前まで迫っては身動ぎすらする暇がないもので。
「あ、これヤバごぼぉ!?」
「継実ぃぃぃ!?」
回避運動すら取れなかった継実は、シカの前膝蹴りを腹に喰らう事となった。目撃したモモの叫びが聞こえた頃には、継実は大空を舞い、シカは遥か彼方に逃げ去ってしまう。
数百メートルほどの高度に上がった後、継実は自由落下で地面に墜落。モモは瞬時に駆け寄り、遅れて、少し離れた位置に居たミドリも傍までやってきた。モモは呆れたように肩を竦めたが、ミドリは本気で心配している様子だ。
「だ、だだ大丈夫ですかぁ!? け、怪我とか……」
「だ、大丈夫。消化器系の七割と心肺が、ぐちゃぐちゃに潰れただけだから。ごぶぅ」
「ちちちち致命傷ぅぅぅぅぅぅ!?」
「別に腹の中身潰れたぐらいじゃ死にやしないし、再生出来るから後遺症も残んないわよ。それよりどしたの? ボーッとしちゃって」
狼狽するミドリを宥めつつ、モモが尋ねてくる。実際ボーッとしていた継実は、乾いた笑みを浮かべるだけ。
端的に言えば、継実には悩みがある。
しかしあくまでも継実の『個人的』な悩みであり、家族である、いや、家族だからこそモモやミドリにはちょっと言い辛い。
加えて。
「あなたが逃がしたシカは捕まえましたよー……なんか蹲ってますけどどうしたのです? シカにでも踏み潰されましたか?」
「あ、あの。大丈夫、ですか……?」
遅れてやってきた、死んだシカを引きずるフィアと、心底心配した様子の花中こそが、悩みの元凶。
そんな彼女達が近くに居たら、継実は苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。
……………
………
…
「で? なんでボケッとしてた訳?」
住処であるクスノキの傍。今日はフィアが仕留めたシカの肉を食べながら、モモが継実を真っ直ぐ見つめながら尋ねてきた。
生のシカの太ももを齧ったまま、継実は一瞬ぴくりと震える。視線を逸らし、唇も僅かに震わせた。
「……別に?」
「ふーん」
「いや、モモさん。こんなので誤魔化されないでくださいよ。嘘吐いてますよ、継実さん」
そうして吐いたあからさまな嘘を、モモは全く疑わずに信じた。ミドリは信じずツッコミを入れたが、嘘の下手さ云々をミドリに言われるのは心外なので継実は唇を尖らせる。
「えっと……何か、あったのですか?」
それに嘘だと指摘された所為で、一緒に食事をしている花中にまで心配されてしまった。無関心なのはフィアだけ。
フィア以外の視線が集まり、継実は居心地の悪さから身動ぎ。そうした些細な仕草が自分の隠し事を物語っているだけに、今更口で誤魔化すのは難しいだろう。
別段、酷い隠し事をしている訳ではない。単に言い辛いだけ。こちらの事などとことん無関心なフィアにならぽろっと話してしまったかも知れないが、モモ達が聞いている場所では話したくなくて口をぎゅっと閉じてしまう。
だって、言える訳がない。
……自分も、南極への旅に同行したいなんて。
「(自覚してるつもりだったけど、『人肌』への恋しさを拗らせているなぁ、私)」
鹿肉を食い千切り、ゆっくりと咀嚼して喋らない時間を稼ぎながら、継実は自分の内面にほとほと呆れ果てる。
南極に、生き延びた人間が集まっている。
昨日花中から教えてもらったこの話は、正直、継実は半信半疑であった。何しろ花中自身確信がある訳でもなく、なんやかんや「機会があったら行ってみたかった」程度の動機だ。本当に南極に人間が集まっているかは分からない。それに文明崩壊直後の七年前の時点で怪物とミュータントが跋扈していたのだから、航空機や船舶が自由に世界を行き来出来るような状況ではないだろう。南極は、能力を持たない人間が生身で易々と行けるような場所ではない。果たしてこの噂を聞いた生存者が全員南極に向かったとしても、何人が辿り着けるのやら。
大体この話に『現実味』を与えている南極無菌説も、何処まで信じれば良いのか。ミュータントの環境適応力は凄まじい。南極では気温がマイナス八十度以下になる事もあるらしいが、その程度の気温変化、継実でさえ裸でなんとか出来る自信がある。寒さに強い種類ならなんの問題もあるまい。餌が少ないので、たくさんのエネルギーを必要とするミュータントはあまり寄り付きたくないだろうが……それは七年間一匹も近付いていない証拠とはならない。むしろ競争に敗れた『負け犬』が一匹二匹迷い込んでいると考える方が自然である。
総合的に考えれば、あまり期待出来る話ではないのだ。それこそ花中のように「仲間と合流するついでに見に行ってみよう」という状況でもない限り、行く価値もあるまい。だから花中も、同じ人間である継実に旅の誘いをしてこないのだろう。
しかし、南極や北極以外に人が生きていける可能性のある場所がないのも事実。
南極がミュータント化した細菌に汚染されていないという確証はないが、支配されているという考えもまた可能性に過ぎない。普通の人間が辿り着くには過酷な道のりだが、必ず脱落するとも限らない。もしかしたら、本当に人間が暮らしている可能性だってゼロではないのだ。そこで社会を築き、新しい世代だって生まれているかも知れない。文化が生まれ、独特な風習や暮らし方をしている事もあるだろう。
そんな『希望』を突き付けられたら、行きたくなってしまうのも仕方ないというものだ。
「(だからって、これは私のワガママだから言えないけど)」
旅をするとなれば、住み慣れたこの地を離れる事になる。旅の道中にもミュータントはいるだろうから、それなりには危険だってある筈だ。
自分一人なら、迷わずにやった。しかし継実にはモモとミドリという家族がいる。二人を置いて、自分だけが南極を目指すか? それとも二人にも住み慣れた地から離れる事を強要し、危険な旅路を強いるか?
出来る訳がない。家族に心配させたり、危険に晒すなんて真似、継実自身が許さないのだから。
答えは最初から決まっている。だからこれは相談する価値もない、大した問題じゃないのだ。とはいえモモ達がそうした考えを察してくれる筈もなく、むしろ察したらますます意固地になって問い詰めてくるであろう。どうしたものかと継実は頭を抱える。
「さぁてと私は適当に虫でも捕まえてきますかねぇ」
そんな継実にとって、フィアの言葉は正しく助け舟と呼べるものだった。モモ達の視線を潜り抜けるように避けながら、継実は閉じた口を開いてフィアに話し掛けた。
「――――あ、フィアは鹿肉食べないの?」
「私はフナですからね動物の肉は好まないのです。それよりも昆虫が良いですねー具体的にはイモムシが良いのですが」
【それならわたくしの身体に付いている、アオスジアゲハの幼虫はどうですの?】
愛実に尋ねられたフィアが要望を口にすると、傍に佇むクスノキがそう提案してきた。
フィアとクスノキは『契約』など結んでいないが、クスノキ的には害虫と駆除してもらえれば誰でも良い。フィアにとってもイモムシが食べられるのなら、クスノキの提案を受ける事を拒む理由などないだろう。
二匹の利害が一致するのは自然な事だ。
「おおそれは良いですね。アゲハの幼虫は大振りで食べ応えがあるので好みです。そうそう花中さんも一緒にどうですか?」
「え。いや、わたしイモムシはあまり好きじゃないって」
「食わず嫌いは美味しいものを食べた事がないのが原因だってミリオンの奴が言ってましたよ。ほらちゃんと食べてみれば美味しさが分かる筈です!」
「そ、そういって、もう何度も食べさせてきたじゃん!? その度に嫌って言ったよ!? というかミリオンさんには味覚がない、な、な、ああああああああぁぁぁ……」
反論、というより抗議をする花中だったが、フィアは聞く耳を持たず。巨大ミミズを翻弄する圧倒的火力で花中を引きずっていく。花中は諦めているのか、大した抵抗もなく連れ去られていった。
残された継実達は、ぽかんとしてしまう。しかしお陰で空気が切り替わったと、継実はひっそり安堵の息を吐く。
「で? なんか悩みがあるなら聞くわよ?」
「はい! あたしで良ければ力になります!」
残念ながら、モモとミドリは追求を止める気がないようだが。
「……言わない」
「言いたい事があるのは認めると。ちょっと素直になったけど、言いたい事があるならちゃんと言いなさいよ」
「言ったところで変わんないし」
「か、変わるかも知れないですよ! そりゃ、あたしなんかじゃ力にはなれないですけど、でも……」
「いや、ミドリが役立たずだからという訳じゃ――――」
卑屈になろうとしているミドリに、そうではないと継実は否定しようとする。
振り返って、本気で心配した顔をしている二人と目が合った途端、その言葉を思わず飲み込んでしまったが。
……うじうじとした自分の態度が、二人を心配にさせてしまっている。
それでいて話せないとばかりにつんけんした態度を取った所為で、何か重大な悩みだと勘違いさせてしまったのだろう。心配してもらうような事じゃないというのに。加えてその心配を突っぱねた所為で、お前達じゃ役に立たないと告げている状態だ。
家族に誰よりも拘っておきながら、自分が一番家族を傷付けている。
悲しい、というよりも忌々しい。こんな事で一々家族に心配を掛けさせるなんて、自分で自分が嫌になる。
「(本当に大したものじゃないと思ってるなら、ふつーに喋ってしまえ、てか)」
それ以外にこの追求を逃れる術もないだろう。継実は深呼吸をするように、大きく息を吐いて身体の緊張を解す。
「分かった分かった。話すから、そんな詰め寄らないで」
「分かればよろしい」
「よろしい!」
降参を口にすると、モモとミドリは揃って胸を張る。まるで姉妹のような仕草に、継実はくすりと笑みが零れる。
「……あのさ、私が南極に行きたいって言ったら、どうする?」
まずは軽く、遠回しに尋ねてみる。
「? 行きたいなら行けば良いんじゃない?」
「はい。別に行っちゃダメな理由とか、ないですよね?」
すると二人は、キョトンとした様子であっけらかんと答えた。
……あまりにも簡単に答えるものだから、今度は継実が凍り付く。ぱくぱくと口を開閉するばかりで、言葉が中々出てこない。
「……いや、あの、質問の意味、分かってる?」
「? 継実が南極に行きたいって話じゃないの?」
「……そうなんだけど」
「どーせ人間がいるかもって聞いて、居ても立ってもいられなくなったんでしょ。付き合い長いんだから流石に分かるわよ」
「あ、今の質問ってそういう事だったんですね。なんかもっと凄い話の前振りかと思っていました」
唖然とする継実に対し、モモ達は日常会話のように盛り上がるだけ。二人には、話に対する真剣味をまるで感じられない。
自分が南極に行ってしまうかも知れないのに。
「なんでそんな、平然としてるの? 私が南極に行っても良いの?」
「良いんじゃない? 継実が行きたいなら」
「私もそれで構いません」
改めて尋ねても、二人の反応は何も変わらない。それどころかモモ達は互いの顔を見合い、にこりと笑う。
「だって一緒に行くんだし」
「ですよね!」
そして二人は息ぴったりな意見を語る。
落ち着いている二人と違って、継実の心は激しく揺さぶられた。
一緒に行きたいというのは分かる。二人ならそう言うのは予想が付いていた。
けれども、迷いがなさ過ぎる。まるでちょっと買い物に出掛けるかのような、そんな気軽さだ。もしや南極までの距離を把握していないのか? 隣町にお買い物に行くようなノリで行けると勘違いしているのでは? そんな気さえしてくるほどの能天気さだ。
「なん、で……」
「なんでって、何が?」
「だって、旅をしたら住処を離れるんだよ? 南極までなんて凄く遠いし、安全なのかも分からないんだよ!?」
もしかしたら本当に分かっていないのではないか。そんな心配から思わず声を荒らげ、二人に改めて問う。
それでもモモ達はなんら真剣味を見せず、いきなり声を大きくした継実に驚くかのように目をパチクリさせるだけ。
むしろモモなんかは鼻で笑ってくる始末。
「此処を離れる事が何よ。住処を移すなんて、食べ物が足りなかったり、敵がいたりしたら普通にするじゃない。仲間に会いたいから移動するのだって、普通の事でしょ」
次いで堂々と、何を悩んでいるのかと言わんばかりの物言いでそう告げてくる。
「あたし達の種族も旅はよくしますよ。積極的な拡散は種の安定性を高めますからね。地球外生命体でもよく見られる生態です」
更にミドリもモモと同意見。旅に対し、なんの不安もない事を語った。
継実としては、予期せぬ答え。執着心のない答えに、思わず呆けてしまう。
「此処での暮らしは悪くなかったから、わざわざ離れようとは思わなかったけど……でもまぁ、此処に固執する理由もないし」
「あたし的にはもっと安全なところが良いので、そういうところへ向かう旅はむしろ望むところです」
「食べ物が美味しかったら、引っ越しを考えても良いわねー。ペンギンとか特に美味しそうだし、今から楽しみだわ」
継実を他所に、二人は勝手に盛り上がる。もうすっかり旅をする気満々で、ここでやっぱ止めますと言えばブーイングが飛んできそうな勢い。
少し思いきって跳び込めば話に入り込めるけど、今の継実にはその思いきりが足りなくて。
「ぷ……はははは! あはははは!」
思わず笑ってしまった。
いや、これが笑わずにいられるだろうか?
だって、大した事じゃないと何度も頭の中で繰り返しておきながら、自分こそが誰よりも重大に考えていたのだから。
滑稽で、間抜けで、浅はかで……全く馬鹿馬鹿しい。
げらげらと笑い続けて、息まで苦しくなって。腹を抱えて転がり回り、ばんばんと平手で地面を叩く。ひーひーと情けない声を出しながら、どうにかこうにか息を整える。
身体を起こし、継実は振り返る。
二人が自分を見ていた。心配も何もない、全てを察した目で。
だったらもう、躊躇わない。
「私も、南極に行きたい。あの二人と一緒に、たくさんの人間が暮らしているかも知れない場所に」
己の内から湧き出した想いを、躊躇いなく言葉にする。
家族からの返答は、満面の笑みと頷きだった。
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