新たな世界15

 黒い靄を貫いた継実の拳は、その黒い靄の背中へと突き抜けた瞬間に実体化。腕を引き抜いた継実はよろめきながら後退りし、がくりと膝を付いてしまう。大技故の著しい体力消耗で、身体に力が入らなかったのだ。

 継実の身体には、未だに尾で貫かれた穴が開いている。出血こそないが、向こう側が見えてしまう大穴だ。その再生をするためには粒子操作能力のための演算、つまり頭を働かせなければならないが、集中力が続かず計算など全然出来ない。身体だけでなく、精神の疲弊も小さくなかった。


「ぐ、ぎ……!」


 だが継実は迷わずその身体に鞭を打ち、全身に走る痛みを押さえ付けてなんとか顔を上げようとする。顔は苦悶で歪み、砕けそうなほど歯を食い縛ったが、一休みしようなんて頭の片隅にすら思わない。

 継実は心臓を貫かれても死ななかった。それは自らの能力である、粒子を操る力のお陰だ。血液の粒子を操って体組織内を循環させれば、酸素や栄養の供給はなんら問題ない。いっそ血管が全部破裂したってどうにかしてみせただろう。計算機能の主体である頭以外は、なくなっても多少は融通が利くのだ。

 では、黒い靄はどうだ?

 心臓を貫いても生きていた自分にあれほど驚いていたのだから、きっと大丈夫? 。アイツは生まれついての強者であり、恐らく苦戦などした事がない身。怪我すらろくに負った事がないなら、自身の生命力がどの程度かさえも把握していない可能性がある。加えて相手は不定形の存在だ。一体身体の何処に失われたら致命傷になる器官があるというのか。

 身体をぶち抜いた事で生じた、生まれて初めての激しい痛みで錯乱しながら突撃してくるかも知れない。満身創痍になった継実にとって、その攻撃が一番恐ろしい事態だ。

 幸いにして、此度に限れば杞憂だった。


【ィイイイギギギロロオオオィイィロロロギギギギィイロロオギギィイイイイイオオオロロロロロオオオオオオ!?】


 黒い靄は吼えていた。胸に大穴を空けたまま、両腕を万歳するかのように大きく広げ、股が裂けそうなほど開いて。尻尾は丘に上げられた魚のように跳ね、全身に至っては痙攣というより『踊り』のような激しさで震えている。

 七年間超常の生物との生存競争を繰り広げ、だからこそ大きな油断など基本的にしない継実であるが……此度ばかりは、こりゃ勝ったなと思った。そしてその予感が確信へと変わるのに、長い時間は必要ない。

 間もなく黒い靄は、その身体を霧散させる。

 爆発というほど激しくない。音も全く聞こえない。人のような形を失って本当の靄へと戻り、そのまま大気中に広がりながら溶けていく。最初こそ周辺が黒い霧に包まれたように色付いたが、十秒も経てば完全に消えてしまう。大気の消滅などの、黒い靄が行っていた謎現象だってもう起きていない。

 文字通り、この世から消えてしまったようだ。


「……なんだったんだ、アイツ」


 訳が分からない。本当に、何がなんだかさっぱり。

 倒せたのだからそれで良いと言えば、確かにその通りなのだが……無関心を装うにはあまりにも不気味な存在。何か少しでも情報が得たくなる。

 そういえば、ミドリが黒い靄を見た時に酷く怯えていた。倒した今なら何かを教えてくれるかも――――


「って、暢気してる場合じゃない!?」


 自分の危機が去って気が抜けていたらしい。継実は今になってミドリ、そしてモモの存在を思い出す。

 モモ達は空からやってきた、二体目の黒い靄と出会った筈。

 自分一人でもなんとか勝てたので、継実としてはモモならば大丈夫だと信じたい。しかしそれは楽観的な見方だ。継実が相手した個体は『経験不足』故にどうにかなったが、モモ達の傍に降下した個体がそうだとは限らない。もしかするとあちらはベテランの戦士という可能性だってある。

 助けなければ不味い。果たしてモモ達は今どの辺りだと、疲労感に飲まれている頭を再度フル稼働


「継実! 大丈夫!?」


「ぴゃあっ!?」


 した途端背後から声を掛けられたものだから、飛び跳ねてしまうぐらい驚いた。

 なんとも可愛らしい悲鳴を上げてしまったが、恥ずかしいと感じるよりも早く身体が動く。

 振り向いた先には、心配げな顔をしたモモ、そのモモの後ろに隠れているミドリの姿があった。


「モモ! 無事だったの!? 怪我はしてない!?」


「それはこっちの台詞よ。ああ、でも大丈夫そうね、一応」


 継実が駆け寄れば、モモは心底安堵したように語る。

 話し方や見た目からして、怪我どころか消耗すらないようだ。自分と同じく、黒い靄に襲われた筈なのに。


「モモ達はどうやってあの黒い靄を倒したの? そっちにも行ったよね? なんか弱点でもあったの?」


「ううん、私らは何もしてないわよ。ただあの時、ゴミムシが近くに居たから」


「……ああ、うん。そゆ事」


 あっさり明かされた種明かし。それだけで継実には、モモ達が目にしたであろう光景が目に浮かぶ。

 あの巨大ゴミムシからすれば、継実の戦闘形態など虫けらの足掻き。もしも本気で怒らせたなら――――あの黒い靄なんて、一発で踏み潰しただろう。そもそも黒い靄相手に発動した『戦闘形態』は戦うためではなく、ゴミムシのようなどうしようもない強敵からに編み出した訳で。


「ほんとはすぐ駆け付けたかったけど、私達も目を付けられちゃってね。振りきるのに時間が掛かったのよ」


 そんな恐ろしいであろう巨大ゴミムシからモモはたった一匹で逃げ果せたのだから、やはり凄いものだと継実は思った。

 ともあれモモに怪我はないと分かり継実は安堵。自然と笑みが浮かんだ。

 勿論モモだけでなく、ミドリが無事である事にも安心している。彼女の顔を覗き込むように、継実はミドリの傍へと寄った。

 ミドリは身動ぎし、モモの影に隠れてしまう。


「ミドリも大丈夫? 怪我はない?」


「……あ、あの……」


「うん?」


「ご、ごめんなさいっ!」


 ミドリは突然謝り、頭を下げる。必死に、何度も何度も。

 呆けてしまった継実は目をパチクリ。モモと顔を見合わせると、モモは肩を竦めた。


「ほら、この子あの黒い奴が現れた時、逃げちゃったでしょ? その事を謝りたいとかなんとか」


「ん? ……ああ、そういえばそうだっけ?」


「何よ、もう忘れたの? 頭でも殴られてボケたんじゃない?」


 呆れるようなモモに、失敬な、という返事の代わりに睨んでおく。その程度で怯むほど、付き合いが浅いモモではないが。

 実際のところ、継実はミドリが逃げた事など本当に失念していた。思い出したところで、怒りなどは湧いてこない。

 確かにミドリが逃げなければ、三人であの黒い靄に挑んで、楽に勝てただろう。しかしそれは継実が描いた机上の空論。ミドリの立場からすれば、走って逃げるのが最適解だったろう。

 なのにどうして怒るというのか。


「気にしてないから平気。ほら、笑って」


 継実はミドリの頭を優しく撫でる。

 撫でられた瞬間、ミドリはびくりと身体を震わせた。嫌だったかな? と思う継実だったが、ミドリは逃げない。下げていた頭は少しずつ上がり、継実にその顔を見せてくれる。

 泣いていたのだろうか。顔に赤い筋が出来ていた。

 心配してくれた。あらゆる生命が自分の命を付け狙う、この苛烈な自然界ではその気持ちだけでも嬉しいもの。継実が笑い返すと、ミドリも微笑む。モモも頭の後ろで手を組みながら、素直になれない『新米家族』を愛でるように見つめていた。

 ところがどうしたのだろうか。ミドリの表情は、笑顔から段々と張り詰めたものに変わっていく。

 まだ逃げた事を後悔しているのだろうか。一瞬そう思う継実だったが、すぐに思い違いだと察した。確かに継実の顔は真剣なものだが、後悔や懺悔の感情はないように思う。

 代わりにあるのは、『覚悟』。

 何を語ろうとしているのかは分からないが、余程大切な話らしい。継実はモモと顔を見合わせ、モモは僅かに眉間に皺を寄せつつも、こくりと頷く。継実は口を閉じ、ミドリの目をじっと見つめた。

 ミドリは呼吸を整えるように深呼吸。深く俯きながら沈黙を挟み……しばらくして上げた顔は、振り絞ったであろう勇気に満ちたもの。


「あ、あの、私、あなた達に話してない事が――――」


 そしてミドリはそのように話を切り出した

 ……が、肝心の本題に入る前に、何故か目をギョッと見開く。ぱくぱくと喘ぐように口を開閉。擦れるような吐息だけが続き、段々とその可愛らしい顔を青くする。

 どうしたのか。継実も流石におかしいと思い始めるが、ミドリの変化はあまりにも早い。継実が声を掛ける前にミドリは眠るように目を閉じ、がくりと膝を付くや大地に伏す。

 そのままミドリは動かなくなった。


「ミドリ!? どうしたの!?」


 突然の事に継実は驚き、慌ててミドリの傍に駆け寄る。能力で探る限り、身体におかしなところは見当たらない。異常がないのは喜ばしいが、原因が見付からないのは不穏。

 一体どうして――――


「ねぇ、継実。アンタそろそろ自分の怪我、治した方が良いんじゃない?」


 困惑と焦りを抱く継実に、モモが淡々と語り掛ける。自分の怪我なんかよりもミドリの方が大事だろうと、継実は半ば無意識に反論しようとして

 自分の胸に大穴が開いている事を、今、思い出した。

 ……血は出ていない。しかし傷口は丸見えで、ぐずぐずの肉やどくどくと蠢く臓器も外気に触れている。ハッキリ言ってグロテスクな様相だ。継実だって見慣れていなければ、胃の中身ぐらいは吐き出しただろう。

 さて、では真正面からこれを見てしまったミドリは、どう思ったのだろうか?


「ミドリが起きる前に治しておくのと、起きたら謝った方が良いわよ」


「……そうする」


 自分の所為で大事な話が途切れてしまったと理解した継実は、家族からの忠告に大人しく従う。


「それと、血の臭いを撒き過ぎ。集まってきたわ」


 そしてもう一つの忠告で、緩んでいた意識を引き締める。

 強敵との戦いに勝利した――――七年前の世界ならば、その事実に雄叫びを上げながら喜んでも良かっただろう。されど今の世界にそんな暇も余裕もない。

 戦いにより弱っている獲物がいる。それも出血量からして相当傷付いている……腹ペコの捕食者達からすれば、こんなにも美味しい獲物は他にない。継実だって彼等の立場なら同じ事をするだろう。

 キツネの親子。

 スズメの大群。

 体長四メートルはあるマムシ。

 独り立ちしたばかりの若いクマ。

 どんどん集まってくる肉食動物達を継実の感覚は捉える。キツネやスズメは平時ならまだしも、今の消耗具合で相手するのは厳しい。そしてマムシやクマに至っては『戦闘形態』を用いても勝ち目など万に一つもない、ゴミムシに匹敵するほどの強敵だ。

 いずれも並々ならぬ強敵ばかり、というより黒い靄よりもしんどい相手だらけ。気絶したミドリを抱えてとなれば尚更だ。

 結局のところ、宇宙から来た謎の生物とて今の地球では日常的に遭遇する生き物と大差なんてなく。


「それじゃあ、頑張って家に帰ろっか」


「ええ。今日最後の大仕事、やっちゃいましょ」


 何時も通りに、継実達は命懸けの家路に付くのだった。

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