新たな世界04
「ぶはぁ! はぁ、はぁ……はぁ……!」
「はっ、あ……ぁ……」
青々と茂る草むらの上で継実が膝を付き、少女もその場に倒れ伏す。どちらも息も絶え絶えで、消耗が激しい。
遥か彼方から巨大ゴミムシの雄叫びが聞こえると、今まで追われていた少女は飛び起きて慄いたものの、直線距離で六キロ離れた事を知っている継実は膝を付いたまま。長年草原で暮らしていたので、聞こえてきたゴミムシの叫び声の意味を理解して笑みまで浮かべる。
しかしその笑みはすぐに強張り、激しく呼吸を繰り返す。疲弊した身体を一ミリ秒でも早く回復させるために。
目的地までの全粒子の運動・位置を観測、全身を形成する粒子の状態を完全に記憶、亜光速化した粒子の軌道を予測、目標地点で肉体を再構築するための仕込み……粒子テレポートを行うためには様々な『準備』が必要であり、身心にかなり負荷が掛かる。使うのには時間だけでなく、体力や気力も必要なのだ。
どうにかゴミムシからは逃げられたが、今の継実は満身創痍。そして草原に潜む捕食者は巨大ゴミムシだけではない。大蛇、キツネ、ワシ……いずれも万全なら左程問題ない、むしろ獲物として狙う相手だが、今襲われるとかなり危険だろう。最低限、自衛出来る程度には戦う力を回復させねば命が危ない。それに捕食者というのは弱った獲物を襲うものであり、疲れた姿というのはそれだけで敵の攻撃を誘発する。虚勢でもなんでも良いから、元気さをアピールしなければならないのだ。
何より連れてきたのは少女だけで、モモは向こうに一人残されている。彼女の事だからあの巨大ゴミムシ相手でもすぐにやられはしないだろうが、それでも早く助けに戻らねば――――
「おっつかれー」
そんな心配も、モモがこの場にやってきた事で必要なくなったが。
「……おかえり。大丈夫だった?」
「ええ。アンタ達が注意を惹き付けてくれていたから、私なんて見向きもされなかったもの。隙を突いてこっそり逃げ出せたわ」
「そりゃ何より。私は……疲れた」
「でしょうね。ま、その疲れに見合うものは手に入ったんじゃない?」
モモはそう言いながら、継実に向けていた視線を別の場所に移す。モモが何を見ているかは分かっているが、継実もその視線を追う。
そこには、自らの身体を抱き締めるような格好で縮こまる少女が居た。
目が合った瞬間、少女は顔を引き攣らせながら後退り。身体を小刻みに震わせ、明らかに恐怖に慄いている。命の恩人に向かって、と言うのは簡単だが、しかし少女と継実達は初対面の間柄。おまけにいきなり自分の身体を粒子レベルでバラバラにされたのだから、ビビるなという方が無理だろう。
勿論、じゃあお好きに逃げても構いません、なんて事はない。
折角出会えた人間の生き残りなのだ。たくさん話がしたい。どんな名前か教えてほしいし、どんな生き方をしてきたのか知りたいし……自分がどんな名前か話したいし、自分がどんな生き方をしていたのか聞いてほしい。
危機を切り抜けてから、そんな衝動がどんどん強まっている。やはり人間は社会性動物なのだと、本能的に自覚した継実は緩んだ笑みを浮かべた。
継実の笑みで敵意がないと分かってくれたのか。ほんの少し、少女の顔から恐怖心が薄れたように見える。まだまだ警戒はされているが、話し掛けた途端に逃げ出すという事にはなるまい。
「えっと……こ、こんにちは」
そう信じて、継実は少女に声を掛けた。
軽い挨拶だったが、少女はびくりと身体を震わせる。あれ? もしかしてなんか間違えた? ……七年ぶりに再会した人間の反応に、継実もびくりと震えてしまう。
胸に手を当て、継実は深呼吸。逸る気持ちを静め、もう一度話を振る。
「え、えっと、私は有栖川継実って言うの。あなた?」
「……………」
「あ、言いたくないなら、言わなくて良いよ。初めてで、信用出来ないよね。大丈夫、問い詰めたい訳じゃないから」
「……………」
「……………えっと……」
頑張って話そうとしたが、少女からの返答がなく、躓いてしまった。
しかしながらどうにもこの少女、質問を無視しているという様子でもない。しきりにこちらの顔色を窺い、口許をもごもごと動かしている。何かを答えようとはしていて、だけど答えられないような雰囲気。
その時、ふと継実の脳裏に一つの可能性が過ぎる。
この可能性が正しければ、お話ししてくれない事も納得がいく。彼女の容姿から考えても、あり得ない話ではないだろう。
アプローチを変えるしかない。そう考えた継実が起こした行動は、
「は、はーわーゆー」
英語で話し掛ける事だった。
「え。いきなり何変な声出してんの?」
なお、大切な家族曰く英語にすら聞こえなかったようだが。
モモに悪気がないのは分かっているが、自分なりに頑張った結果だけに、継実はぷくりと頬を膨らませる。
「変な声って言うな。英語で話し掛けたの」
「ああ、今の英語だったんだ……まぁ、確かに日本人っぽくはないかもね。でも、いきなり英語で話し掛けるよりも前に、尋ねるべき事があると思うんだけど」
モモはそう言うと、ずかずかと少女の目の前に歩み寄る。見知らぬ人物にいきなり歩み寄られて少女は身動ぎしたが、モモの素早さはそれを上回る。
立ち上がる暇すら与えず、手を伸ばせば捕まえられるところまで少女に接近したモモは、その場でしゃがみ込んだ。目と目が合い、少女は息を飲む。対するモモはにっこりと、実に犬らしいフレンドリーさ全開の笑みを浮かべる。無邪気な笑みに少女はキョトンとし、その間にモモは早速話し掛けた。
「ごめんね、まずは質問させて。あなた、日本語は分かるかしら?」
「……………」
モモが尋ねると、少女は少し間を空けた後、こくんと頷いた。
「Hello. Are you and English understood?」
「……………?」
次いでモモが英語で話し掛けると、少女は首を傾げてしまう。
「ふむ。日本語は分かるけど、英語は分からないと。親の人種は兎も角、生まれと育ちが日本なのは間違いないんじゃない? 喋れないのは、なんでかしらね?」
その二つの質問から得た考えを、モモは継実に語る。
当の継実は、目を丸くして呆けていた。
「……何よ、その間抜け面」
「え。いや、だって……なんで、英語喋れるの?」
「知らない。この能力に目覚めた時には使えるようになってたわ。まぁ、飼い主がよく洋画を字幕版で見ていたから、その所為じゃない?」
「いやいやいやいや」
何かがおかしいでしょそれ、とツッコミたくなる継実。されどモモは何故継実がそこまで動じているのかと言いたげだ。
確かに、今更と言えば今更である。犬であるモモがべらべらと日本語を話しているし、継実も義務教育すら終えていないのに原子や量子力学を把握しているのだから。どうにも超生命体達は、個体差ないし種族差はあるものの、能力に目覚めるのと同時に高度な専門知識を宿すものらしい。
モモはその結果英語などの語学が、人間である継実よりも優れていたのだろう。理屈は納得出来る、が、人間として妙に悔しい。シジュウカラやイルカなど言葉を操る動物はいくらでもいるが、人間はその多さと複雑さが群を抜いていた筈なのに。
そして何より苛立つのは。
「なんで今まで言わなかったの?」
そんな大事な話を『家族』である自分が今まで知らなくて、挙句初対面の人が最初に知ったという事実。
継実だって分かっている。この苛立ちが如何に理不尽で不合理なのかは。されど元より論理的帰結の苛立ちでなく、嫉妬心という無茶苦茶な感情によるもの。端から論理など破綻している。
「え? そりゃ、使う機会なかったし」
感情的な継実にとって、モモの一分の隙もない論理的返答は、むしろ神経を逆撫でするものだった。
「~~~っ! バカっ!」
「えぇー……なんでいきなり怒ってんのよ」
「バカバカバカっ!」
拗ねてしまった継実にモモは戸惑うが、継実は止まらない。
「……ぷく、くくく」
そんなやり取りを見ていた少女が、噴き出すように笑い出す。
『第三者』の存在を今更思い出した継実は、顔を真っ赤にしながら後退り。モモは呆れたのか眉を顰めつつ、あやすように継実の頭を撫でた。なんとなく継実が何を怒っていたのか察したのだろう。それがますます恥ずかしい。
俯き、黙った継実に代わり、モモがそのまま少女と話をする。
「ま、ちょーっとヤキモチ焼きだけどこっちも良い子よ。よろしくね」
「……」
「さっきから無言だけど、上手く喋れない感じ?」
「ぁ……あぅ……あ、か……」
モモが尋ねると、少女は実演するように声を出した。お世辞にも言葉とは言えない、『鳴き声』染みたそれが全てを物語る。
もしかするとこの少女は、継実と違って七年間独りぼっちだったのかも知れない。
継実にはモモという話し相手がいたが、少女の周りには誰もいなかったとすれば、自ずと話す機会はなくなる。最初は独り言を繰り返すなどしていても、やがてそれすらしなくなるだろう。そうなるともう、狩りのために声を上げるぐらいしか声帯を使わなくなり、段々と声の出し方を忘れて……なんて事もあるかも知れない。
少女が自身の話をしていない以上、これはあくまでも推測だ。しかし突拍子のない考えでもないだろうと継実は思う。
「……今まで、寂しかった?」
だから、継実は思わずその言葉が出てしまった。
ハッと我に返り慌てて口を両手で塞ぐも、出てしまった言葉は戻らない。
少女は最初、言われた事の意味がよく分かっていないのか、ニコニコと笑うだけだった。けれども段々と笑みが引き攣り、目許が潤み……ぽろりと涙が零れる。
少女は慌てて涙を拭う。だけど涙はまたすぐに出てきて、何度も何度も拭ったが、すぐにまた零れる。むしろ溢れ出る量が増え、頬に跡を作り出した。
少女の涙を見て、継実は自分の考えが正しかったと思う。だから彼女は、泣いている少女の身体に抱き付く。かつて自分がモモと出会った時、なんの迷いもなくモモに抱き締めてもらえた事が、とても嬉しかったから。
継実が抱き付くと少女は一瞬泣き止み、だけどまたすぐに泣き始めた。両手を背中に回し、毛皮で作った服をぎゅうっと握り締める。とても強い力で、比喩でなく痛いぐらい。七年前に栄えていた普通の人間なら、間違いなくくしゃっと潰れているであろう。
その力強さがこれまで味わってきた孤独の強さを物語り、継実はその愛おしさから自然と笑みが浮かんだ。笑いながら少女の背中を撫でると、少女はもっと強く継実を抱き寄せる。そんな二人のやり取りを羨ましく思ったのか、モモが「私も混ぜてよー」と暢気に言いながら抱き付いてきた。継実と少女を纏めて抱きかかえる、欲張りセットだ。
ついに少女はわんわんと泣いて、涙も声も盛大に撒き散らす。
継実とモモはその泣き声を静かに聞き入れながら、ただただ少女のしたいように身を任せた。
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