新たな世界03

 継実が察知した『気配』までの距離は、直線にして約五キロほどあった。

 、人間の走る速さは時速三十七キロ程度が限界だった。百メートルを九・七秒で駆け抜ける速さであり、しかも全力疾走なのでそう長い時間は続けられない。五キロという距離を渡りきるには、二十分かそれ以上の時間は必要であろう。

 されど継実は違う。彼女の身体は秒速三・四キロマッハ十という速ささえも簡単に出せるほど、圧倒的な力に満ち溢れているのだから。

 本気で走れば、『気配』のすぐ傍まで辿り着くのに二秒と掛からない。


「(――――間に合った!)」


 その二秒という時間さえ長ったらしく感じていた継実は、ついに『気配』の正体を目にする。

 一番に目が留まったのは、黄緑色の奇妙な髪色。

 キラキラと光り輝くセミロングの髪は、走る事で生じた風により大きく靡いている。顔立ちは子供のようにあどけなく、継実よりも二~三歳ほど下に見えた。身長も、女性としてはちょっと背が高い継実より頭一つ分は小さい。

 そんな数々の幼さに反し、胸は大きくて腰も括れているなど、スタイルはどれも女性的だ。纏う服が木の葉で編んだ原始的な代物であるため露出が多いものの、見えている肌にはシミ一つなく、生まれたての赤子のように美しい。

 七年前ならばアイドルにもなれたであろう容姿をしている少女。それが継実が察知した気配の正体だった。尤も、その少女の可憐さに見惚れている暇はない。

 少女のすぐ後ろには『奴』が居る。

 体長四メートル超えの、巨大なだ。


「! にん、げっ!?」


 継実に追いついたモモも少女、そして巨大ゴミムシの存在に気付く。「げっ」という言葉の矛先は、勿論巨大ゴミムシに対してだ。

 巨大ゴミムシの外観について、特筆すべきところはない。やや細長いフォルムの身体と黒光りする硬質の羽根を持ち、左右に広がった六本の脚で大地を疾走。頭には発達した複眼と触角、そして鋭くて大きな顎が備わっている……大きさ以外は全て普通のゴミムシと大差ない。変わらないからこそ、この途方もない巨大な身体が如何に異質か分かるというもの。

 このゴミムシもまた『超生命体』。ただし七年前に一斉発生した個体群ではなく、そこから繁殖した数代目の個体だ。

 超生命体達は、進化のやり方さえも普通の生物とは異なるらしい。繁殖により生まれた個体達の中には、まるで「こうなりたかった」と意思を持つかのように、新たな姿を獲得するものがいたのである。核兵器にも易々と耐える身体能力なのだから、スペック的には四メートルと言わず数百メートルもの巨躯に至っても不思議はない。されど肉体の成長というのは、可能だから出来るというものではない。長い年月を掛けた進化により、暮らす上で最適なサイズで収まるよう遺伝子に刻まれている筈。これを無視する事が異常でなければなんなのか。

 されど超常の生物達にとって、人間の『常識』など一瞥にすら値しない。それが適応的なら生き残る……彼等を縛り付けるルールはこれだけ。このゴミムシも巨大化が適応的だったからこそ、子孫もどんどん巨大化し、今やこの草原生態系の頂点に君臨したのだ。

 無論そんな事は草原で暮らす継実達には周知の事実。問題は、あの巨大ゴミムシの進化的意義などではない。

 巨大ゴミムシに追われている少女を、助けるか否かだ。


「(助けなかったら、間違いなくあの子は食べられる……!)」


 巨大化してもゴミムシとしての基本的な食性……肉食傾向が強い事は変わっていない。自分より小さくて食べ応えのある生き物ならなんでも襲う。特にシカやイノシシなどの、体重三十~六十キロほどの動物が好みらしい。つまり、丁度あの少女ぐらいの。

 あの少女も『超生命体』らしく凄まじい速さで逃げているが、巨大ゴミムシの走力は確実にそれを上回っている。このままでは間違いなく捕まり、奴の朝飯と化すだろう。

 しかし、では助けようと簡単に言えるものではない。

 七年間この地で生きていた継実は知っているのだ。アイツは『ヤバい』と。

 残忍という訳ではない。厳しい自然界で、無意味に相手を嬲る暇も余裕もありはしないのだから。むしろエネルギーの消費を抑えるためか、腹さえ空いていなければ大人しいもので、イノシシなど大きな獲物を食べている時はかなり近付いても安全である。

 ただ、どうにも執念深い。

 身体を維持するために大量の食物が必要なのだろう。一度見付けた獲物は延々と追い駆け回し、そう簡単には諦めない。ましてや獲物を横取りしようものなら、生涯敵意を向けてくる。奴等は昆虫だがそれなりには賢いのだ。犬であるモモが人間並の知能を持つように。

 そして身体の大きさからも分かるように、巨大ゴミムシの戦闘力は圧倒的だ。継実の身には人類文明をも滅ぼせる力が宿っているが、そんなものは今や『普通』でしかない。相性抜きで考えればデカい奴が勝つし、難なら相性の悪さを体格で押し潰す事も可能だ。継実では絶対に、あのゴミムシには勝てない。

 あの少女を助けるのはあまりにも危険過ぎる。合理的に考えるなら、見捨てるのが得策だ。命あっての物種と言うではないか――――脳裏を過ぎる数々の『警告』。

 されど継実は一瞬の間を置いてから、それらを切り伏せた。

 なんて事はない。そんな理屈で納得出来るなら、最初からこんなところに来ちゃいない!


「モモ!」


「分かってる!」


 相棒の名を呼べば、彼女は言うが早いか駆け出した。巨大ゴミムシには怯みこそしたが、人間を助ける事に迷いはないのだろう。

 一瞬だけでも決断を迷った自分が恥ずかしい。自分の考え方が嫌になる継実だったが、同時に感じるのは、モモの後押しによる安心感。自分のやりたい事をやっても良いのだと自信を取り戻した継実は、モモの後を追うように走り出した。

 さて、行動は決めた。

 しかし考えなしに突撃する訳にもいかない。巨大ゴミムシとの体格差からして、例え奇襲であろうとも返り討ちに遭うだけなのは目に見えている。走って逃げようにも、向こうの方が速いのだから振りきれないだろう。真っ向勝負では命がいくらあっても足りない。

 ならばどうすべきか?

 継実が思い描く策は一つのみ。ちらりとモモの方へ視線を向ければ、彼女は無言で頷いた。

 七年の付き合いから、モモの気持ちを読み取る事など雑作もない。あれは「任せろ」という意図だ。継実もまた頷く。「任せた」という気持ちを乗せて。


「ふんっ!」


 継実の『合図』を受け、足を止めたモモは片腕を前へと突き出す。

 直後、モモは全身から放電。

 突き出した手より放たれた、無数の電撃が大地を駆けていく! 継実の目には電子の動きも見えており、一本一本の出力が雷の数倍に匹敵するものだと分かった。それを同時に何十と放つのは、モモにとっても決して小さな負担ではない。

 だが、電撃がゴミムシに命中する事はなかった。当てたところでろくなダメージは入らないだろうし、何より万が一にも怒らせたなら後が怖い。しかし、ではこれがハッタリや脅しかと言えば、それもまた否。

 モモが放った電撃はやがて一点――――巨大ゴミムシの眼前に集結。更に電撃により生じた磁力が周辺の微量な金属元素、それを含む土を引き寄せていく。雷など比にならない大出力電力を浴び続け、集まった土の原子が一部崩壊。崩壊した原子は中性子や陽子の形となって飛び散り、なんとか電撃を耐えた別の原子核にぶつかり、吹き飛ばす。

 止まらない連鎖反応。それは引き起こしている元素こそ大気中や土中に有り触れているものだが、所謂である。しかも一切制御されず、指数関数的に反応が増大していくタイプの。

 つまり、この現象は核爆発。

 強烈な閃光・爆音・熱波が、巨大ゴミムシの眼前で引き起こされた!


「あぐッ!?」


 見知らぬ少女からすれば背後で突然起きた核爆発。衝撃波に背中を突き飛ばされる格好となり、つんのめるように前のめりとなった。

 本来、核爆発をたった数メートルの『至近距離』で受ければ人間など即死だ。熱波や衝撃波のみならず、中性子線なども致死量が浴びせられるのだから。されどこの程度の攻撃を易々と繰り出す超生命体にとって、核爆発程度の事象などダメージにはなり得ない。人間は勿論、巨大ゴミムシにとってもだ。

 つまるところこの攻撃の本質は撒き散らされる光と、熱により生じた白煙。

 相手の視界を塞ぐ目眩ましである。


「っ!」


 そしてモモが何をするか継実は、この好機を逃さない!

 光と白煙が巨大ゴミムシの視界を塞いだ直後を狙い、継実は少女の下へと疾走。核分裂による閃光は百ミリ秒と続かないが、これだけの時間があれば継実には十分だ。

 閃光による目潰しはあれども、継実の目には粒子の動きが見えている。正確に少女の位置を把握して肉薄し、その小さな身体を抱きかかえる!


「ひぅ!? ぇあ、あっ」


 突然現れた『人間』に抱えられて、パニックに陥ったのか。ジタバタと少女は暴れ、目には涙も浮かんでいた。

 継実にも気持ちは分かる。いきなり誰かも分からぬ輩がやってきて、しかも捕まえてきたのだ。怖くて堪らない筈である。むしろ自分ならもっと必死に、がむしゃらに抵抗しただろう。怖い想いをさせてしまった事は大変申し訳ないとは思う、が、のんびり説明している暇はない。

 矮小な人間さえも蹴躓かせる程度の一撃では、あの化け物は怯みもしないのだ。


「(!? ヤバっ……)」


 ぞわりと過ぎる悪寒。反射的に身を伏せると、白煙の中から巨大な『腕』が跳び出してくる。

 巨大ゴミムシの前脚だ。核をもはね除ける超生命体の身体であろうとも、易々と切り裂く爪が継実の頭上を通り過ぎる。危うく頭を粉砕されるところだっただけに、流石の継実もじわりと恐怖を感じた。こんなところにいたら殺される! 理性が喧しく警告し、早く逃げろと訴えてくる。

 しかし七年の野生生活により培われた本能が、継実の理性を押さえ付けた。白煙は未だ残り、閃光も弱まり始めたがまだまだ視界を潰している状態。恐らく苦し紛れの一撃だ。こちらの居場所がバレている可能性はまだ低い。

 大体、走って逃げたところでどうにもならない。

 恐らくもう十ミリ秒も経てば、巨大ゴミムシは白煙も熱波も容赦なく吹き飛ばす。そうなればこちらの姿は丸見えだ。あとは仲良く食べられるか、少女を囮にして逃げるしかなくなる。真っ向勝負も追い駆けっこも、勝てる見込みがないのは最初から分かっている事。

 だから自分と少女が助かるためには、あの『技』を繰り出すしかない。継実は駆け出す前から決意していた。


「(落ち着け、落ち着け……!)」


 逸る心をどうにか押し留め、継実が思い描くのは『演算』。

 演算対象は、地平線の先である六キロ先の地点、及びそこまでに至る『道中』に存在する粒子全て。無尽蔵に存在する粒子の動きを脳内でシミュレートしていき、未来の軌跡を全て把握する。

 さしもの超人的演算力も、六キロもの範囲となればそれなりに辛かった。時間を掛ければどうという事もないが、悠長に考えていたら折角の目眩ましが消え、巨大ゴミムシはこちらを見付けるだろう。そうなれば時間切れ。みんな仲良くゴミムシのお腹の中だ。

 冷静に、だけど急いで。継実は頭が痛くなるほどの強さで考えを巡らせ――――


「(見えた!)」


 ついに一つの『道筋』を見付ける。

 一定時間、全ての粒子の干渉を受けない、ごく狭い領域だ。幅は場所によって異なるが、平均すれば二酸化炭素分子が数個通れる程度。だが、これだけ広ければ十分である。

 道を見付けた継実は、自分と少女の身体を形成する、素粒子の位置と運動量を全て記憶。その数は膨大なものになるが、これまでの計算に比べれば遥かに少量だ。難なく覚える。

 そして継実は、自分と少女の身体を形成している粒子を

 全身が素粒子レベルで分解されていく様は、まるで手の込んだ自殺。事実魂なんてものがあるなら、確かにその通りだが……魂がないならなんの問題もない。

 遥か六キロ彼方に、継実達は再び姿を現すのだから。

 原理は簡単。一度バラバラにした素粒子を、六キロ離れた場所で再構築するだけ。完全に元の姿を再現出来るのだから、それは本人と何も変わらない。心も脳のシナプスの繋がりが生むのだから、完全に模倣した脳は間違いなく本人と同じ考え方をする。そしてこの時分解した粒子を亜光速まで加速して動かしたなら、亜光速で別の場所に『瞬間移動』したのと変わらない。

 さながらそれはSF小説に出てくるテレポート装置と同じ原理――――名付けるならば『粒子テレポート』という技だ。無論これは七年前の、全盛期の人類では例え総力を結集しても指先一つ分すら再現出来なかった技術。或いは星々を行き来する宇宙人のテクノロジーでも不可能かも知れない。

 しかし今の継実になら出来る。

 だから継実は躊躇わずに自らの技を用い、己と少女の身体をバラバラに砕く。身体の素粒子が亜光速で飛び、描いたルートを通って彼方へと去る。


「ギシャアッ!」


 故に巨大ゴミムシが核爆発の残渣を一鳴きで吹き飛ばした時、そこに継実達の姿はなかった。

 今までそこに居た筈の獲物が目の前から消えてしまった事に一瞬呆けたのか、巨大ゴミムシの動きが止まる。尤も、あくまで一瞬だ。一ミリ秒にも満たない刹那の時間で、ゴミムシは我を取り戻す。次いで周囲を素早く見渡し、獲物を取り逃した事にようやく気付いたのだろう。表情筋などない甲殻質の顔が、みるみると怒りの覇気を纏った。


「ギィイイアアアアアアッ!」


 上げたのは平原中に響き渡るような、おぞましい雄叫び。

 聞いた者の背筋を凍らせるその叫びこそが、継実達が無事に逃げ果せた事を物語るのであった。

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