第二章 新たな世界
新たな世界01
地平線の彼方まで続く、草原がある。
地面はでこぼこと波打っているが、斜面と言えるほどの坂もないその草原は、青々と輝いていた。青空から燦々と降り注ぐ春の朝日を浴び、生い茂る草花は丈が三十センチほどにも育っている。それだけの大きさでありながら、葉の色合いはとても若々しい。疎らに生える木々も新芽や枝を伸ばし、暖かな時期は始まったばかりなのに、もう全ての準備を終えたとばかりに動き出している。
植物達の目覚めに呼応し、虫達も冬の眠りから起き始めていた。木々の新芽を齧るイモムシ、草の隙間で羽を休めるハエ、可憐な花の上に陣取るハチ……植物の根元でもダンゴムシやミミズが活動し、小さな生き物達の世界は活気に溢れている。そうした命を頂こうというのが、虫よりもちょっと大きな動物達。ネズミやスズメ、カエルなどもこの草原に集まっていた。
そして更にその命を貰おうというのが――――人間などの大型捕食者だ。
「……なんか良いの見付かった?」
草原に立つ一人の『少女』が、問う。
少女は長く伸びた、百七十センチに迫ろうという身の丈と同じぐらいある黒髪を自らの細い指先で弄る。その身に纏うのは質素、という言葉さえもお世辞に聞こえるぐらいボロボロな毛皮。それも平坦な胸と股ぐらを隠すだけで、お腹や二の腕など身体の大半は外気に晒している。
土で薄汚れた肌は、こうした格好が一~二日だけのものではないと物語る。とはいえ汚れは付着した土だけで、傷やくすみはまるでない。肌は不自然なほど透き通り、やや冷淡な印象ながらも端正な顔立ちと相まって芸術品のような美しさを生む。野性味溢れる荒々しい格好とのギャップから、見た者の脳裏に強く印象が残るであろう。
そんな少女が見る先には、白髪をツインテールの形に纏め上げた乙女が居た。こちらの乙女は少女より少し背が低いものの、同じくしている毛皮の格好がよく似合っている。勝ち気でワイルドな笑みがそうさせるのか、少女よりも少しだけ逞しい身体付きの所為か、はたまた犬っぽい雰囲気のためか。
乙女は平原の一点を見つめながら、ある場所を指差す。乙女達から、ざっと五十メートルほど離れた地点だ。他と特別違いがある訳でもなく、多種多様な草の若葉が茂るだけ。小さな虫は飛び交っているが、それより大きな生き物の姿は見えない。
されど乙女には見えていた。あの草むらの奥に潜む何かが。
「ええ。あそこにカエルが居るわね。しかもかなりデカい。ウシガエルかしら」
「……ウシガエル? え、この草原にウシガエルなんて居たの?」
「私も初めて見るわね。多分最近になって、何処かの川からこっちに進出してきたんじゃない?」
「ウシガエルって普通こんな乾いた草原じゃなくて、川辺に暮らしている生き物なんだけど……」
「知らないわよそんなの。昔の常識が通用しないのなんて、今更でしょ」
「……そうだね。今更か」
乙女の言い分に、少女はこくこくと頷く。
そんな他愛ない話が途切れた、ほんの一瞬の間に、二人の目付きは変わった。
鋭く、獰猛。情けや容赦など期待するだけ無駄と言わんばかりの視線。『かつて』の世界であれば、血に飢えたクマやトラでもその目付き一つで怯えさせたであろう。
二人は同時に顔を向け合わせ、息を合わせて頷く。
「じゃあ、後は任せたわよ」
「そっちこそしくじらないでね」
互いに名前を呼び合うや、二人は同時に草原を駆けた!
白髪の乙女が指し示した場所へ一直線に向かう、黒髪の少女。今にも倒れそうなほどの前傾姿勢を維持したまま、腕を構えて駆ける姿は『速い走り方』ではない。実際少女も、速さを求めてはいなかった。
それでも、音速の十倍を軽く超えるスピードは出ていたが。
乙女が指し示した場所までの距離は約五十メートル。秒速三千四百メートルを超える速さならば、十ミリ秒と掛からず到着だ。目的地に辿り着いた少女は素早く、朝日の中でもハッキリ見える強さで輝き始めた己が片手を草むらに突き立てようとし――――
草むらから発せられた衝撃波が、少女の身体を仰け反らせた。
「……くっ!」
顔面に受けた『打撃』から大きく仰け反りつつも、少女の視線は草むらに向けられたまま。
衝撃波により、草花は左右に大きく傾いている。お陰で草むらの中に潜んでいた生き物の姿がハッキリと見えた。
体長二十センチ近く。落ち葉のような色の肌に黒い模様が入り乱れるずんぐりとした体躯をし、逞しい四肢で地面を踏み締めている。大きな頭と目を持ち、面構えはどちらかといえば間抜け寄り。
乙女が言っていた通り、そこにはウシガエルが潜んでいた。そして大きく開いた口は、真っ直ぐ少女の顔面を向いている。
このウシガエルが少女に衝撃波を喰らわせてきたのだ。
「(『鳴き声』か……!)」
恐らくは鳴き声を集束させ、攻撃に転換した技だと推測。言うのは簡単だが、その威力は非常識の一言に尽きる。音速の十倍以上の速さを出せる少女の身体は、生半可な兵器では傷を付けるどころか怯ませる事さえ叶わないのだから。
もしも都市の真ん中、いや、住宅地近くの川沿いでこの衝撃を放てば、それだけで何万もの人が命を落とす。これほどの力を放つ身体が同等の力で消し飛ぶ筈もなく、文明が叡智を結集してもこのカエルは止められまい。
正しく文明を滅ぼす存在。しかし少女はこの事実に驚きも怯みもしない。
文明を滅ぼせる小動物など『今』や珍しくもないし、何より少女は、そんな生き物を飽きるほど仕留めてきたのだから。
「――――ふっ!」
仰け反った身体を力尽くで戻し、少女はその腕を再びウシガエル目掛け伸ばした!
先の攻撃を少し怯んだだけで耐えた少女に、二発目は通じないと判断したのか。ウシガエルは開いた口を、少女ではなく地面の方へと向けた……直後、少女の顔面に喰らわせたのと同じ衝撃波を放つ。
文明を消し飛ばすほどの衝撃波は、しかし地面を抉ったり、粉塵を巻き上げたりはしない。この地に生えている草花にとって、その衝撃波は有り触れたもの。精々虫に齧られボロボロになった葉が舞うだけ。煙幕にもなりはしない。
元よりカエルの狙いは目眩ましにあらず。
真の目的は衝撃波を地面に撃ち付けた反動により、自らの身体を大空へと浮かび上がらせる事だ。
「(しまった……!)」
伸ばした腕は空振り。音よりも速く駆ける少女はカエルの動きに反応する、が、反応出来るだけ。恐らく声を一点に集中させたのであろう。地面を攻撃した事による反動は凄まじく、ウシガエルの身体は少女の動きを易々と振りきるスピードに達す。
どうする? 飛ぶか? 否、それさえもウシガエルの方が速いだろう。
万事休す。少女にこのウシガエルを追跡する術はない。
少女一人であれば、の話だが。
「とおりゃあっ!」
ウシガエルが向かう先の草むらから、今度は乙女が跳び出した!
彼女は少女よりもずっと速く移動し、ウシガエルが逃げるであろう方角で待ち構えていたのだ。よもや挟み撃ちだとは気付かなかったのか、ウシガエルはその目を大きく見開く。
だが、諦める気はないらしい。ウシガエルは再び口を開くや、今度は横向きに衝撃波を放つ。直線的な軌道は強引に捻じ曲げられ、乙女の待ち伏せを回避するコースを描いた。
待ち伏せ作戦もこれで切り抜けられる。ウシガエルがそう思ったかは分からない。しかしどうにか難を逃れたという、僅かな油断があっただろう。
その油断が命取り。
何故なら乙女の白髪が、猛烈な勢いで伸びたからだ! 伸びる速さはウシガエルのスピードほどではない。されど緩やかなカーブを描くウシガエルは、横軸への移動速度は左程速くなかった。
ウシガエルは白髪に激突し、絡まってしまう。余程慌てたのか、のろまなカエルらしからぬ素早さで体勢を整えるウシガエル。衝撃波により白髪を引き千切る算段だろう。
如何に異種族とはいえ、そのぐらいの考えは乙女にも読める。当然、それを許すつもりは毛頭ない。
次の瞬間、乙女の美しい白髪が雷撃を放つ!
『体毛』同士を擦り合わせる事で生成した電気による攻撃だ。その破壊力は落雷の数倍にも達し、どんなものだろうが関係なく焼き尽くす。天災すら凌駕する一撃を三秒以上浴びたウシガエルは白目を向きながら痙攣。全身から微かに黒煙を立ち昇らせた。
そう、微かに。
「(あのカエル、耐えてる……!)」
少女の目は捉えていた。乙女が電撃を放つほんの数瞬前に、ウシガエルの体表からじわりと汁が滲み出たところを。
恐らく絶縁体の性質を保つ物質だ。ただしあくまでも持ちうる『武器』の中で一番効果的だからというだけで、左程効果は高くないだろう。故にウシガエルは身体から黒煙を立ち昇らせている訳だが……どうにか致命傷は避けたらしい。流石は侵略的外来生物。しぶとさは一丁前のようだ。
されど体重差数十倍のコンビの前では、悪足掻きに過ぎない。
「はぁっ!」
颯爽と少女は駆け付け、未だ乙女の髪の中で痙攣しれいるウシガエルに指先を突き立てる! ここまでに二度仕掛けたものの立て続けに失敗した攻撃は、三度目にしてようやくウシガエルの脳天に直撃。
指先といえども、正確に言うならばただの指ではない。先端には眩い光――――亜光速まで加速した素粒子が、超高密状態で保持されているのだ。粒子は鋭利な刃のような形態を持ち、触れる分子を尽く粉砕していく。
例えどんな守りでも、物質である限り防ぐ事など叶わない『剣』はウシガエルの皮膚を貫通。脳と脊髄を瞬時に切断した。数十億ワットもの電流に数秒間耐え抜いた身体も、直接神経系を切られてしまえば流石に持たない。間もなくウシガエルの身体から力は抜け、生気を失った。汁の分泌もなくなっており、乙女が電流を止めていなければ、数ミリ秒後には黒焦げた塊へと変化していただろう。
乙女が髪を動かして開放すれば、ウシガエルはどさりと地面に落ちる。少女はウシガエルの足を握り、片手で持ち上げた。
ずしりと感じる重み。恐らく五百グラムはあるだろう。ウシガエルより大きな生物などこの草原にも何種かいるが、所謂『小動物』のカテゴリーとしてはこのウシガエルが最大級である。そして力尽きた身体から漂う、電流により焼けた肉の臭い。
実に、食欲をそそる。
「今日のごはん、ゲットー♪」
「いぇーい♪」
ウシガエルを『食べ物』として狙っていた二人は、仲良くハイタッチを交わした。
「これだけ大きい獲物は、久しぶり」
「ねぇー。危うく逃げられるところだったけど」
「……アレ、私が仕掛ける前に気付かれていた感じなんだけど」
「待ち伏せしてた私の所為だっての? そっちの走り方が喧しかったんじゃない?」
互いに煽りながらも、二人は笑みを絶やさない。どちらも心の中では分かっているのだ。相手がいなければ、この狩りは成功しなかったと。
そして自分達こそが、この草原で最強のコンビだという想いもあった。
「ま、どーでもいいや。それより虫とかにやられる前に早く食べよう。ね、モモ」
「そだね。さっさと食べちゃおっか、継実」
相手の名前を呼びながら少女・継実は、共に狩りをした乙女・モモと帰路に着く。
音よりも速く飛ぶハエ、太陽よりも遥かに強大な重力を操るハチ、地磁気さえも狂わせるほどの電磁波を放つカタツムリ……凄まじい力を宿した無数の生命がウシガエルを狙っていたが、これをやり過ごすのだって慣れたものだ。
モモと家族になって、かれこれ七年。
これが今の継実の、そして世界の日常なのだから――――
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