滅びの日07
「え。なんでその事知ってんの?」
目を丸くしながら、心底驚いた様子を見せるモモ。
『今朝』の事を全く覚えていない友達に、継実は乾いた笑い声が漏れ出た。
――――今の時刻は、恐らく昼だろうか。
継実とモモの周りにあるのは、元はアパートか一軒家だったであろう瓦礫と、その瓦礫に埋もれなかった背の高い街路樹ばかり。建物内の時計なんて見られず、腕時計も装着していない二人ではあるが、それでも燦々と輝くお日様が雲一つない空で輝けばそれぐらい分かる。
継実が起きたのは、ほんのついさっきの事だ。起きたというより、目が覚めたと言うべきかも知れないが。目覚めてしばらくはぼうっとしていた継実であるが、先に起きていたモモと顔を合わせた瞬間、気を失う前の事を鮮やかに思い出した。
たくさん人間がいる場所に行こう。
モモが寝言で語っていた話。嘘か真かだけでも確かめたくて、朝の挨拶も差し置いてそれを尋ねたところ――――先の答えが返ってきたのである。
「……モモが教えてくれた。寝る前に、多分寝惚けて」
「あら、そうだったの?」
「そうなの。それで、モモは知ってるの? 私以外の人間が、たくさんいる場所」
改めて問う継実は、真剣な眼差しをモモに向けた。
正直、人間に会うのは怖い。
昨日出会った『変質者』のような輩に会いたくないというのもあるし、モモのお陰で少しは受け入れられたとはいえ、自分の力も未だに怖いのだ。特に力については、感情が暴走すれば恐らく無意識に出てしまう。あの男のように、また人を殺してしまうかも知れない。
殺すのは嫌だ。例えそれがどんな悪人だとしても。人一人の人生を奪い取ってしまったあの時の重圧は、思い出すだけで叫びたくなるほど苦しい。二つも三つも背負ったら、きっと生きていけなくなる。
なら、これから一人で生きていくのか?
今の継実ならそれも出来るだろう。普通の人間でも、密林地帯などで何十年も一人で隠れ住んでいたという話もあるぐらいだ。超常の力を持った今なら、食べ物を探す事も、『普通』の獣から身を守る事も出来るだろう。モモとも協力すれば、生きていく事は十分に可能な筈。
そう、生きていく事は。
――――だけど駄目なのだ。
人というのは、たくさんの人と関わらずにはいられない。例えそのたくさんの人とは話しもせず、横を通り過ぎるだけの関係でも、誰とも会わないだけで不安になる。それはきっと、人としての本能がそうさせるのだ。
継実は会いたかった。たくさんの人に。会いたくない理由を押し退けてでも。
……そうした切実な理由が継実にはあるのだが、モモはといえばボケーッとしてるだけ。あまりやる気が感じられない。
「いや、ぶっちゃけ具体的には知らない」
何しろ、未だ目的地すら設定していないのだから。
期待していた継実は、すんっ、という息と共に、興奮していた気持ちが冷めていくのを実感した。
「……知らないんだ」
「うん。でも、どっちに進めば良いかは分かるわよ」
項垂れる継実にモモはそう語った。重たい覚悟の反動から一気に気が抜けていた継実は、モモの言葉の違和感に遅れて気付く。
場所は知らない。だけど方角は分かる。
場所が分からないのに、どうして方角は分かるのか? 人間的な感覚にはない表現に、継実は眉を顰める。するとモモはまるで自慢するかのように不敵な笑みを浮かべ、褒めて褒めてと訴えるように尻尾を振り回す。
「言ったでしょ? 私は犬よ――――何十キロ離れていようがね、臭いがするなら辿り着いてみせるわ」
それなら自信満々に、言われてみれば疑問も何もない答えを返すのだった。
人々の声が聞こえてくる。
数は数十。若い男の声も、年老いた女の声もある。楽しげな、とは言い難いが、がやがやとした活気はあった。
そしてその声は決して幻聴ではなく、肉の身体を持つ人々が発している。
声がする場所では、声と同じぐらいの数だけの人影があった。人々は大きな瓦礫を協力して運んだり、年寄りの身体を支えたり、小さな子供達を一ヶ所に集めたり。やっている事はバラバラだが、だからこそ全員が協力して作業していると分かる。
分業は『社会』の基本。
つまり、例え此処が大量の瓦礫に埋め尽くされた場所のど真ん中だとしても、その生活が元の暮らしと比べてあまりにも惨めで貧相なものだとしても――――あの人々のいる場所には、新たな社会が出来ているという事。
継実の目に涙が浮かぶには、十分な光景だった。
「ほ、本当に、居た……本当に人がまだ居た……!」
「あったり前でしょ! この私の鼻なら朝飯前よ! ほら、もっと褒めて良いのよ!」
継実が嗚咽混じりの声を漏らす横で、モモが身体を傾けて頭を差し出してくる。継実は無意識にその頭を撫でると、モモは「うへへへへ」と嬉しそうに笑った。尤もその可愛らしい声は、今の継実には殆ど聞こえていないのだが。
継実達は今、恐らくマンションが倒壊して出来たであろう、小高い瓦礫の上から人々の暮らす『社会』を見下ろしている。距離は凡そ五百メートル。普通ならばどれだけ健康的な視力でも早々ハッキリとは見えない遠さだが、今の継実には人々の手足どころか顔の表情まで見えてしまう。人智を超えた力は視力にも適応されているらしい。
最早見ている景色すら人間離れしてしまった事にショックを覚えなくもないが、しかし今はそれどころではなく、何よりお陰で遠くから人々の様子を窺い知れるのだ。落ち込んでいる暇などないのである。
「(凄い……こんなにたくさんの人が、まだ生きていたんだ)」
継実がまず喜んだのは、その社会の一員であろう人々の数。
大まかに数えた限り、三十人以上居るだろうか。当然彼等は昨日の ― 思い返すとまだ丸一日も経っていないのだ ― ムスペル事変を生き延びたという事。正直継実はあの地獄のような災禍を生き延びた人間はごく少数で、会えても一人か二人だと思い込んでいた。
しかし考えてみれば、人間というのは都市部だけで暮らしている訳ではない。散歩で開けた公園を出歩いていた人もいるだろうし、川岸で寝泊まりしていたホームレスなどもいる。このような人々ならば倒壊した建物に巻き込まれずに済む筈だ。そう考えると、意外と難を逃れた人は多いのではないかと思えてくる。
もう一つ喜んだのは、その人々の中に若い女性や子供の姿がある事。
男性に対し特別な嫌悪感がある訳ではない……が、しかし先日の強姦魔のような、女性に対し狼藉を働こうとする悪人という可能性はある。今の継実の身に宿る力ならば男の一人二人簡単に消し飛ばせるが、人殺しをしたくない継実にそんなのはなんの安心材料にもならない。女子供が共に生活しているのなら、その心配はあまり要らないだろう。
あの人々との接触を躊躇う理由などない。
「よーし、そうと決まれば早速突撃よ!」
しかしモモほど思いきりの良くない継実は、欲望一直線な犬の思考に追い付けなかった。
「え? ……え。待って、いきなり行くのはちょっと」
「ほら、何してんのよ! 待ってても何も変わらないわよ!」
引き留めようとする継実だったが、人間より聴力に優れる筈のモモは聞く耳持たず。それどころか継実の手を引き、継実を失神させたパワーで引っ張る。
十数メートルの高さがある瓦礫の崖を一気に駆け下り、その勢いを弱める事なくモモは大地を走った。体毛で編まれた偽物の身体故か、彼女の両足が生み出すスピードは明らかに人間離れしている。継実が抵抗するように引っ張っているにも拘わらず、五百メートルの距離を五秒と掛からず走り抜けそうなほどだ。
「待って! この速さで突っ込んだら普通の人間はビックリするから!」
一秒以内に閃いた説得を早口で伝えなければ、本当にモモは砲弾染みた速さで人間達の『社会』に突っ込んだだろう。
「あ。そうかぁ」と納得したモモは、今まで出していた超スピードを一瞬でゼロにする。引っ張られていた継実の身体には強力な慣性がのし掛かり、危うく自分だけが突っ込むところだった。尤も、常人の身体ならその前に挽き肉になっていただろうが。
色んな意味で九死に一生を得た継実は、そわそわしながら適当な瓦礫に身を隠す。モモは首を傾げつつ、継実の真似をして同じ場所に身を隠した。継実が瓦礫から顔を覗かせれば、彼女も真似して同じ動きを取る。
人間達との距離は、もう五十メートルほどにまで迫っていた。
……ほんの数秒でここまで近付いており、あと数瞬遅ければ『到着』していただろう。継実が見た限り、人々は継実達の存在には気付いていない様子。正確には視線がつい先程まで継実達の居た瓦礫の山を向いていたが、その山は現在崩落中であり、大気を震わせる轟音に気を取られたのだろう。無論山を崩した犯人は、継実の背後で尻尾を振っている強靭な脚力の持ち主である。
「ねぇねぇ、何時まで隠れてるの? 早く人間のところ行きましょうよ」
その犯人からの提案。反射的に逆らいたくなる継実だが、しかしモモの言う事も尤も。此処に隠れていたところで何が変わるのか。むしろ時間を掛け、またこの人懐っこい犬が我慢出来なくなったら何もかも無意味である。
善は急げと昔の人は言った。きっとこんな状況は想定していないだろうが、先人の言葉は大事にすべきだろう。
「……うん。今度はゆっくり、驚かさないようにして」
「分かってるわよ。要は歩いて行けば良いんでしょ?」
念押しする継実に、モモは自信満々に答えながら歩き出す。継実はモモの後を追い、さて、あの人達にどう話し掛けようかと考える。
「こんにちわーん!」
なお、モモは絶対に何も考えていないであろう、一直線な言葉で呼び掛けた。
またしてもモモの行動に驚いてしまう継実。そして此度驚いたのは継実だけでなく、彼女達が目指す先に居た人々も同じ。びくりと身体を震わせながら、三十近い人達が一斉に振り返る。
「こ、子供よ! 女の子!」
「みんな! 子供が来たぞ!」
それから人々は口々に大きな声を出し、継実達に駆け寄った。
いきなりの大声、更に大勢の人達が駆け寄ってくる光景に、継実は驚きのあまりモモの後ろに隠れてしまう。対するモモは尻尾を左右に振るばかり。
人々はあっという間に継実とモモを囲う。
「大丈夫か! 怪我はしてないか!?」
「頑張ったねぇ。此処なら安全だよ」
「おい! 誰か大きな布を持ってきてくれ!」
直後に掛けられたのは、気遣いの言葉。
継実は一瞬呆けてしまった。ぼうっとしている間に人々は大きな布を持ってきて、継実をぐるぐると巻いていく。モモは暑いから嫌だと断れば、彼女の分として持ってきた布も継実の身体に巻かれた。
布は、瓦礫の中から引っ張り出されたのだろう。布は恐らく元バスタオルの類なのだろうが、泥汚れを吸ったのか色合いがかなり汚い。おまけに生地がぼろぼろで肌触りが悪い、というよりも痛いぐらいだ。漂う臭いは土臭く、そもそもあんまり温かくないという有り様。平時ならば雑巾として使うのすら躊躇う代物である。
しかしながらそれは、確かに人工的な繊維の感触を残している。
触れ合わなかった時間は精々一日ちょっと。だけどその一日ちょっとの間離れ離れだった『人間社会』に戻れたのだと、この布は教えてくれた。何より、もしもこれを捨てたら……もう二度と人の社会に戻れない気がして。
この汚らしい布を払い除ける事は、継実には出来なかった。
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