滅びの日04

 押し倒された、と理解するのに、継実は少なくない時間を要した。

 眼前に迫る、男の顔。吐息が微かに掛かるぐらい近い。いや、男の吐息がそれだけ近いという事か。

 男は継実をじっと凝視していた。吐息が掛かるぐらい近いというのに、瞬きすらせず、眼球が飛び出そうなほど見開いている。よく見ればその瞳は血走り、太くなった血管は今にも破裂しそうだ。

 もしも傍に焚き火がなければ、夜の暗闇に紛れてこの恐ろしい顔を見ずに済んだだろう。されどもしもを語ったところで今は変わらない。眼前に突き付けられた『現実』に、継実は背筋が凍るほどの不安と恐怖を感じる。

 何より、男が直前に語った言葉が、頭の中を延々と周り続けていた。


「……あ、あの、か、身体で支払うって、なんの話で……」


「知らないのかい? 君が何歳かは知らないけど、初経ぐらい迎えているだろう? だったら尚更、知っとかないとなぁ」


 震えた声で、だけど信じて問い質すも、男の答えは生理的嫌悪を煽るもの。ぞわぞわとした悪寒が全身に走り、身体が強張ってしまう。

 そんな時に、男の手が継実の内股に触れた。

 嫌悪は一気に最高潮まで登り詰め、継実は拒絶の言葉を叫んだ。


「や、止めて! 離して!」


「酷いなぁ。何か出来る事はないかって訊いてきたから、出来る事をやってもらおうとしているだけだよ」


「こんな事!」


「暴れないでよ」


 藻掻いて抜け出そうとする継実だったが、男はそんな継実の両腕を掴み、抑え付けた。更には無理矢理腕を動かし、継実の頭の上で両手を重ねさせ、そこを自らの片手で抑え付ける。継実は両手が使えなくなったが、男は片手が自由なまま。

 手慣れている。

 あまりにもスムーズに、それでいて迷いのない動きから、継実は男が『この手』の行いが初めてではないのだと理解した。即ち女を捕まえ、身動きを封じ、こちらの気持ちを無視して辱める……強姦魔なのだと。

 それを理解した途端、継実の身体は震え出す。自分の身で受ける事になる『辱め』を予期したがために。


「や、やだ……お願い……た、助けて……」


「そのお願いは聞けないなぁ。なんのために食事を振る舞ったと思う? 君みたいな可愛い子に、俺を信用してもらうためさ」


 懇願するも男は一顧だにせず。それどころか先の食事すらも罠だったと聞かされ、継実はこの男の念入りさに震える。

 何故自分は、こんな男のところに来てしまったのか。生き残った人は他にもいるだろうに、どうしてこんな強姦魔と出会ってしまったのか。一人で不安な時に人と出会ったら、誰だって出会った人に安堵し、信じるだろうに。それに両親のような善人があんな虫けらみたいに殺されたのに、何故よりにもよってこんな人間が生き残る?

 そしてどうして、こんな男が食べ物を持っていたのか。あの肉さえなければ、もうしばらくはこの男を警戒していた筈。

 天は、何故この男にばかり恵みを与えたのか。


「全く、あの『男』には感謝しないとな。アイツがいなければ、こんな簡単に油断してくれなかっただろうし」


 理不尽に震える継実に、男は愉悦に浸った声を漏らす。仲間がいるのかと思った継実はますます恐怖が噴き出し、ガチガチと顎が震えた。


「な、仲間まで、いる、なんて……」


「仲間? ……ああ、違う違う。アイツは仲間じゃない。それに君も一度会ってるよ」


「あ、会ってる……?」


 男の言葉が理解出来ない。継実は、ムスペルの死体を見た時から、この男以外の人間には会っていないのだから。

 或いは、都市部から逃げ出す際に出会った化け物達の事を言っているのだろうか? そうだとしたら堪らなく恐ろしいが、しかしレーザーを撃ちまくるチョウや音よりも速く飛ぶハエが、どうしてこんな男に協力するのかという疑問もある。化け物達と協力しているとは考え辛い。

 分からない。全く理解が及ばなくて、恐怖が更に募っていく。

 あたかもその不安を解消してあげようと言わんばかりの、人の良い笑みを浮かべながら、


「君が食べたお肉だよ」


 男は、なんの淀みもなく答えた。

 確かにその答えは、継実の中から恐怖を消し去った。頭の中が真っ白になったのだから。


「男なんていらなかったし、食べ物を探そうだの協力しようだの、鬱陶しい奴だったからさ。こんな時だから警察もいないと思って、後ろからガツーン……一発だったよ」


 継実が固まる間、男はつらつらと自らの『武勇伝』を語る。恥じる様子も、脅かす様子もなく、まるで大きなカブトムシを捕まえた少年のように誇るばかり。

 強姦どころか殺人まで犯した男。されど今の継実は、男にそれほど恐怖は感じなかった。感じる余裕すらないというのが正しい。

 自分が美味しい美味しいと言いながら食べたものが何か、知ってしまったのだから。


「うぶ、うぶぇぇ……!」


 顔を青くし、継実は胃から昇ってきたものを吐いた。我慢しようなんて微塵も思わず、むしろ全部出そうと必死になる。

 男は継実を見て、肩を竦めるだけだった。


「おいおい、吐いたら勿体ないじゃないか。食べ物は粗末にしちゃいけないよ」


「げほ! かっ、う、おぇ……」


「それにさ、これからしばらく一緒に暮らすんだから、これぐらい慣れてもらわないとね」


 まるで宥めるように、空いた手で男は継実の頬を触る。気持ち悪くて、怖くて、自分の血が凍ったかのように冷たくなるのを継実は感じた。

 狂ってる。

 強姦魔という時点でろくな人間じゃないし、人殺しとなればどう考えても危険人物だが……人肉食となれば、最早人である事すら止めたと言うしかない。それも数十日もの飢えなら兎も角、精々夕飯を抜いた程度で手を出したのだ。追い詰められた訳でも、魔が差した訳でもない。恐らくコイツは普段からやりたがっていて、全てが崩壊した事でたがが外れたのだ。


「あんまり五月蝿いと、君もお肉にしちゃうよ?」


 ならば、どうしてこの言葉がただの『脅し』だと思えるのか。

 継実は、息さえも詰まってしまった。


「そうそう、大人しくしてればすぐ済むよ。恥ずかしながら俺は方でね」


 何が、なんて訊く気持ちすら湧かない。身動きすら取れなくなった継実を見て、男はニヤニヤと嗤う。

 そして慣れた手付きで、片手でズボンを下ろし始める。


「――――い、嫌ああああああぁっ!」


 その悲鳴は最早ただの反射行動。自分が何をしているのかすら理解していない、呼吸と変わらぬ無意識の行い。

 僅かでも冷静さが残っていれば、男の機嫌を損ねる事がどれだけ恐ろしいか理解しただろう。されどもう、それすら考えられない。怖くて、どうしたら良いのか分からなくて、本能のまま動いてしまう。

 突き出すように動かそうとした、未だ片手で押さえ付けられている両腕も同じ。無我夢中であり、無意識であり、勝ち目があるとか怒りを買ったらどうなるかとか、何も考えていないそれは、

 ボヒュッ、という間の抜けた音を鳴らした。

 次いでどろりとしたものが、下半身に降り掛かる。


「ひぁっ……!」


 反射的に継実は目を開け、自分の下半身を見遣る。強姦魔に襲われ、どろどろしたものを掛けられたのだ。人並にはそうした知識を持つ継実は、掛けられたものの正体を予想し、『万一』の恐怖に突き動かされて目を開けた。

 結果的に、その予測は外れた。

 継実の身体に降り掛かったのは、確かに男の体液だが――――白いものではなく、赤いものだったから。

 それよりも。

 


「……え……ぇ……?」


 意味が分からない。最早恐怖も嫌悪もなく、思考が停止した継実はただただ呆けるばかり。

 されど世界の時間は止まらず、男の身体は重力に引かれてぐらりと傾き、倒れた。ズボンを脱いだ間抜けな下半身だけが大地を転がり、どろどろとした赤いものを溢れさせる。倒れた拍子に足先が焚き火に触れ、ズボンが燃え始めたが、下半身はぴくりとも動かない。

 当然だろう。指令を伝える脳が、上半身と共に消え失せたのだから。


「ひっ……!?」


 燃え始めた下半身に、継実は更なる恐怖を覚えた。

 男が死んだ。

 上半身が消えたのだから、間違いない。自分を穢そうとした者の死であるが、されど継実に安堵を覚えるような暇なんてない。一体何が起きたのか分からないが、その『何か』が自分に襲い掛からないとは限らないのだから。

 ヒントがあるとすれば、男の亡骸にあるだろう。

 本当は見たくもない。だけど死ぬのはもっと嫌だから、継実は恐ろしい骸を凝視する。

 男の死体は丁度腰から上が消えており、断面から腸が零れていた。剥き出しの血管から染み出すように血が溢れ、火に照らされている地面に赤黒い水溜まりを作る。断面はぐちゃぐちゃに潰れていて、鋭利な刃物で切断したのではなく、大きな力で吹き飛ばされたのだと分かった。

 そして断面部分の肉が微かに向いている方角から、その力がものだと察せられる。


「……ぇ」


 その事実に気付いた瞬間、継実は顔を真っ青に染めた。身体はガタガタと震え、寒気を覚え始める。

 次いで、ちらりと見たのは己が右手。

 そこには未だ自分の手首を掴む、男の手首が残っていた。もう身体なんて残っていないのに、男の執念が宿っているかのように未だ離してくれない。

 気持ち悪い。

 だから継実はこれを振り解こうと、力いっぱい己の右手を振り下ろす。

 その瞬間、男の手首がバラバラに砕け散った。

 否、手首だけではない。振り下ろした先にある地面さえも爆発したように吹き飛ぶ。まるで巨大怪獣が爪でも立てたかのように、直線上の溝が大地に刻まれたのだ。確かに地面を形成しているものはただの土だが、だとしても離れた位置の腕の動きで消し飛ぶほど軟弱な代物では断じてない。

 加えて、確かに思いきり振ったとはいえ、気持ち悪さから出した全力に過ぎない。命や純潔の危機から湧き出した力が、こんなものと比べられる筈がない。

 ならば。

 自分があの時、無我夢中で突き出した腕の前に居た男は――――


「違う……違う、違う違う違う違う! わ、私じゃ、私じゃない……!」


 否定する。否定するが、出してしまった力の痕跡は消えてくれない。男の下半身は燃えながらもそこに残り、掴み続けていた指の後が手首に残っている。

 自分が殺したのだ。襲い掛かってきた男を――――今まで生きていた一人の人間を。


「い、いや……嫌ぁ!」


 震える足腰で立ち上がった継実は、走り出した。

 どうして走る? 分からない。何処へ向かう? 分からない。

 分かる事なんて一つもない。自分はただの小娘で、特別な力なんてなんにもない。大人の男に襲われたら何も出来なくて、怖くて辛くて悲しい想いをするだけの立場の筈。

 人殺しなんかになる訳ない。こんな弱い自分に人なんて殺せない。殺せないんだからあの男を殺したのは自分じゃない自分じゃないのだから何かがいたんだだから逃げなきゃいけないそうだ危ないものから逃げているのであって――――

 ぐるぐると否定の言葉を頭の中で繰り返す。繰り返すが、その度に手首に残る感触が意識を引き留める。

 お前がやったんだ。

 お前の所為だ。

 お前が、『俺』を殺したんだ。


「私じゃ、私じゃ、あ、ぶっ!」


 無我夢中で走っていた継実は、不意に足がもつれ転んでしまう。大きめの瓦礫に蹴躓いたのだ。起き上がろうと無意識に身体は動き、だけどもう走り出す事はなく、継実はその場で蹲る。

 もう、何も考えたくもない。

 それは逃げといえばその通りだろう。けれども幼い継実の心には、こんな経験を飲み込むほどの力はない。疲れ果てた精神は休息を求め、何もかも嫌になった精神にそれを拒む体力は残されていなかった。

 辺りを見渡せば、此処が比較的瓦礫が少なく、見晴らしの良い……『化け物』に見付かりやすい場所だと普段の継実なら思っただろう。しかし此処が安全かどうかも、最早どうでも良い。一刻も早くこの苦しみから逃れたかった継実は、その目を瞑り―――― 


「こんばんわーん」


 能天気な声が、眠りを妨げる。

 俯かせていた顔を上げたのは、反射的な行動だった。それがどんな声だとか考える間もなく、身体が勝手に動いただけ。

 故に継実は、顔を上げてからその目を大きく見開いた。何故ならそこにあったのは、継実が予想もしていなかったものだから。


「そんなところで寝るつもり? 今日も冷えるから、風邪引いちゃうわよ」


 可愛らしい微笑みを浮かべる、麗しい少女がこちらを見下ろしていた。

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