第14話 マスター流理性の保ち方
「いってえ‥‥‥ちっとは手加減しろよなあいつ」
あの後、凛にボッコボコに叱責を受け、最終奥義女の恨みチョップを頭頂部に直撃させられ、俺は一人残された部屋で呆然としている。
「幸せなはずなのに‥‥‥不幸だ」
とある幻想を殺す人の気持ちがとても良く感じ取れる、いや俺に比べたらマシか‥‥‥。
何はともあれ、昨日からスタートした凛と先輩との同棲生活。
俺の日常の崩壊についてはもう諦めがついたところで、まず問題となってくるのは、「俺の理性」の問題である。
これから屋根の下で二人の、しかも美人と美少女と過ごすという試練が待ち受けている。
俺は理性が中々弱い方だ。
現に、凛のこともすぐ抱き締めてしまうし、一昨日付き合いたての夜に抱いてしまったし、今日は朝チュンで先輩を抱き締めて寝ていたから、一般的な高校生並の理性より少し弱い気がする。
こんなことでは、彼女である凛も、世話になった先輩にも示しがつかないってもんだ。
くそ‥‥‥どうしたらいい。考えろ、考えるんだ荒木健人!
その瞬間、俺の頭に電撃が走るような感覚で、ある事の閃きを導いた。
「理性の強さに定評のある人物に、修行を乞えば解決するんじゃね?」
そうとなれば、行先はただ一つ。
理性を保つのが得意かつ、女性の扱いにとても慣れており、適度な距離感を保つことで己の生業を立てている人物と言えばーーー。
俺は二人に、「今日はバイトだから」と言って、家を飛び出した。嘘はついていない。これから行く場所に、全ての答えが存在する。
「マスター! いるか!」
駅前のケンズカフェと書かれた看板の店に突撃し、マスターを呼んだ。
時刻は朝の九時。開店まであと三十分は余裕があるはずだ。
すると奥の方から、
「なんだァ? 朝っぱらからうるせえなぁ、ってケン坊じゃねえか」
マスターは欠伸をしながら気だるそうに出てきた。開店三十分前にしては気が抜けすぎじゃないか‥‥‥と思ったが今はそれどころではない。
「今日は折り入って頼みがあるんだ」
「お? やっとスミレとの結婚を認めたか」
「違うわ! 大体、俺は凛と付き合っているしな」
「なにぃ、凛ちゃんと!? この浮気者めが!」
「だから違う! そうじゃなくてだな! 今日はマスターに『理性の保ち方』をご享受願いに来たんですよコノヤロウ!」
俺がそう言うと、マスターは驚いたような顔をしてこちらを見てきた。
というか、どんだけスミレちゃんとの結婚をさせたがってんだこのおっさん‥‥‥。気を抜くと勝手に婚姻届出されそうだな‥‥‥。
それはさておき、
「はぁ? 理性の保ち方だと? そんなもん知ってどうするつもりだ」
俺を訝しげに見つめながらマスターが訊ねると、俺は少々呆れた様子で答える。
「いやぁこれにはな、深いわけがあってよ‥‥‥」
俺はここ最近の事の経緯をマスターに全て話した。
凛と付き合ったにもかかわらず、先輩に欲情しかけてしまうこと。
それを聞いたマスターは突然笑いながら、
「アッハッハッ!! あーおっかしぃ! お前は本当になんと言うか、純だよな」
涙目になるまで腹を抱えて笑うマスターに憤慨しそうになるが気持ちを抑え、
「笑うなよ! まぁ、俺もピンチだってことだ。このままじゃ絶対に先輩に誘惑されて終わっちまう」
「ほう?」
マスターはそう言うと、妙に迫力のある覇気を身体から放出し、こちらを睨むように見つめてくる。
その気迫に押されかけ、俺は一歩後ずさる。
すると、マスターが口を開いた。
「俺はな、本当に好きな女以外じゃ勃たないんだよ」
その瞬間、胸を刃物でグサリと刺されるような感情が、俺の中を駆け巡った。
スゴい事を言っているのだが、俺は何も言えず、その言葉の説得力に押し負けた。
そうか、好きな女以外じゃ勃たない、か。
よく考えれば当たり前かつ簡単な事だったのかもしれない。
「お前がその先輩で勃つってんなら、きっとまだお前は凛ちゃんを本当の意味で愛せていない。勃ってしまうのは男のサガ? 理性の抑制が苦手? 甘ったれんじゃねえ。俺は今の嫁と出会ってから一度も他の女で勃ったことなんかねえよ」
マスターのトドメの一撃の一言に、俺は俺の全ての間違いを正された気がした。
俺は単に理性が弱い、だけなんかじゃない。
『中途半端な愛』を凛に向けていたのと同然の事をしていたのだ。
たとえ、先輩に寝込みを襲われようと、本当の愛があれば近づくだけで察知可能、マスターはそれがきっと出来る。
どんなに他の女に言い寄られようと、表情一つ変えずにあしらう。この時、『我慢』じゃなくて『当然』の感情であることが重要になってくる。
きっと、俺にはそれが理解出来ていなかった。
「マスター‥‥‥俺、間違ってたわ」
「あぁ、分かったんならいい。中途半端な愛や正義が一番の悪だって、てめえの心に刻んどけ」
マスターはそう言って顔をくしゃっとして笑い、早く行け、と手を払ってきた。
俺は店を出て、深く息を吸って、強く吐いた。
空は蒼い。どこまでも澄んでいて、こんなクサイ事言うような気持ちに恥を持たないくらい、心を美しく磨き上げてくれる。
きっと俺は今、ものすごく笑顔で空を見上げているだろう。
元々、『理性の保ち方』なんて考える必要は無かったのだ。自分がどちらを好きで、どちらを愛すべきかを考えれば、答えなんて簡単なものだ。
まぁでも、先輩が諦めない、って言うんなら俺はその心意気を尊重するべきだと思っている。
どんなに誘惑されようと、確固たる意思を曲げぬようにこれからは生きていく。
そんな気持ちを胸に、俺は今日も歩みを進めた。
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