私たちは雨の中

扇智史

* * *

「雨はいいわ。ずっと変わらないから」


 皐月さつきはそう言って、淡い色使いのアイラインの奥から私を見ていた。酔いの回り始めた彼女の瞳は、いくぶん赤みを帯びて、薄暗い店内照明の向こうに沈みかけているようだった。

 まっすぐな皐月の視線にとらえられると、私は、昔に引き戻される。


 皐月のことをはじめて認識したのは、4歳のときだ。

 幼稚園の外遊びの時間が、強いにわか雨のせいでふいになった日だった。がっくりして、遊戯室のすこし湿り気を帯びた床にべったりとほっぺたをくっつけて寝転がっていた私は、窓辺にたたずんでいた皐月の背中を見つけたのだ。

 いまの半分くらいの背丈しかなかった私にとって、幼稚園の窓は高くて巨大で、自分ひとりでは開けることもできないものだった。自宅の冷蔵庫のドアよりもずっと大きなそれは、外の世界と私とを隔てる、越えられないものの象徴であるように思っていた。

 その大きなものと向かい合う背中が、やけにまぶしく見えた。

 同い年の女の子と比べて、驚くほど長い髪をしていた。短いピンク色の靴下で包まれた両足は、床をがっちりと握りしめているみたいで、そのたたずまいはとても堂々としていた。

 私の目は、皐月の背中をずっと離れなかった。

 皐月はそれからずっと、降り注ぐ雨だけを見ていた。


 皐月も変わらないな、と言ったと思う。あの日の同窓会では、私の方がずっと酔いが回っていて、なにをしゃべったのかよく覚えていない。甘いアルコール飲料と、塩の味しかしないようなつまみを代わる代わる口に流し込み続けて、いろいろ忘れようとしていた。


 2年前に会ったときの皐月も、いまと同じ顔をしていた。3年前も、5年前も、そのずっとずっと前も。

 真木子まきこのことを引きずっているのだな、と一目でわかった。

 殺風景な部屋の真ん中で、薄いクッションを敷いて座り込んでいた皐月は、私からコーヒーカップを受け取りながらうすく笑った。濃いめのマンデリンの湯気に満たされた部屋で、甘い果実に似た香気のなかに、そのまま溶けていってしまいそうだった。

 もう何年も、ずっとそうだった。いまもこの部屋で形を保っているのがふしぎなくらいに、皐月ははかなく見えた。

 私は皐月の隣に座り、話をした。たいへんだった仕事の話や、どうでもいい私生活のトラブルの話や、ひさびさに会った友達の話をした。皐月はほんのりとほほえんで、相づちを打っていた。

 いつしか、私は皐月の唇に触れようとしていた。鼻先をコーヒーの香りがくすぐって、同じ味の口づけを求めていた。

 皐月は私を拒んだ。永遠に変わりそうもない瞳で私を見据えて、その瞬間だけきっぱりと、「それはできないわ」と告げた。


 店の外に出ると、雨が降っていた。アスファルトを叩いて跳ね返る雨のしぶきは、そのまま夜気のなかに散乱して、独特のうっすらとしたにおいを生み出していた。まっすぐ注ぐ雨の筋が光っていた。

 幹事に誘われて、二次会に行く面々が集まっていた。私は、すぐに仕事に帰らなくてはいけなくて、最初から一次会で切り上げるつもりでいたから、彼らに手を振って駅へと向かう道に振り返った。

 皐月は、どちらに向かうでもなく、店の軒先に突っ立っていた。

「雨がやんでから行くわ」

 私が声をかけるより先に、皐月は言った。私に向けて言ったのかどうか、わからなかった。


 小学校に上がるころには、私と皐月はお互い無二の親友となっていた。いつだって私は皐月にまとわりついて他愛ない話をし続けていたし、皐月はそんな私をまっすぐな視線で見つめていた。

 皐月自身は物静かで、教室の自分の席か、図書館の隅っこの席に腰を下ろしているような子だった。手元では、本を読んでいたり、ステッチを編んでいたり、様々な趣味に手を出している子だったけれど、それが皐月のあり方をゆるがせにするようなことはひとつもなかった。何にも屈せず、何にも曲げられない子だった。

 そんな皐月のそばにいれば、私も、強く、全うにいられるような気がしていた。

 真木子が、私たちの前に現れるまでは。


 折りたたみ傘を開いて、駅に向かう。

 すぐにやみそうに思えた雨は、予想に反して、ますます強くなりつつあった。スマホで予報を見ると、今夜は一晩中降り続くようだった。

 雨やどりしていればよかったのかな、と、つかのま思い、首を振る。おしゃれな雑貨屋で買ったデザイン重視の傘は、荒天の日にさすにはすこし頼りない。これしか持たずに電車に乗った時点で、とうに手遅れだったのだ。


 真木子がいなくなってからの皐月は、抜け殻のようだった。

 何も言わずに消えた真木子を一生懸命に探したのは、私のほうだった。真木子と同じ大学にいた共通の友人や、彼女が前にアルバイトをしていたショップ、彼女の家族や中高の教師にまで声をかけ、手がかりを追い求めていた。

 いくつもの予兆があったことはわかった。金の問題、体調の悪化、将来への漠然とした不安、そういう断片を拾い上げることはできた。だけど、それらはもっとも知りたい答えを教えてはくれなかった。

 途方に暮れた私を、ただ、皐月は見つめているだけだった。

 覚えているのは、雨に濡れて疲弊しきった私を、皐月が部屋に招き入れてくれた日のことだ。彼女は、濡れそぼった私の髪を拭き、肌を拭き、手早く服を脱がせて、いっしょにバスルームに入った。

 皐月の裸体を見たのは、それがはじめてだった。真っ白な陶器のような肌に、かすかな血の色が内側から透けて見えて、なめらかな曲線に命の息吹が添えられていた。手のひらが私に触れると、冷たいようでもあり、熱いようでもあったけれど、シャワーのしぶきのなかでは、区別がつかなかった。

 凝っていた感情が、シャワーと皐月のせいですこしずつ溶け出して、私はとてもたくさんのことを口走ったと思う。

 皐月のために奔走したこと、雨が冷たくてさびしかったこと、つまずいてケガをしたこと、古い友達に奇異の目で見られたこと。

 皐月を愛していること。

 そのすべてを、皐月がどんなふうに受け止めたのかは、わからない。私のよりずっと広いバスルームでいっしょにシャワーを浴びながら、皐月は、私のびしょ濡れになった瞳を、昔からずっと変わらない視線で見つめて、何も言わずにいた。

 私は、頭の上から勢いよく落ちてくる熱い水のなかで、唇をすこし開いてかすかな息を漏らすことしかできないでいた。

 ずっと、私は雨の中にいたのかもしれなかった。


 強い風を受け、傘の骨が一瞬ひしゃげる。正面から雨を浴びて、私は顔をゆがめる。いつもより気合いを入れたメイクが崩れてしまったのがくやしくて、でも、考えてみればもうどうでもいいことだな、と思う。

 皐月は、私のメイクなんて眼中になかったろう。私がどんな顔をしていたって、きっと皐月にとっては、同じことだから。


 どんなときでも、雨は冷たく、水のにおいを漂わせて、同じ色の空から降り注いでくる。

 皐月はいつまでも雨やどりして、その先に起こる何かを待っている。

 私は冷え切った体を抱えて、そぼふる雨の中に、置き去りにされたまま。

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