第6話
『仙波渉。黙って俺の言うことを聞いてほしい』
俺があの世界に訪れたとき、目の前にいる俺そっくりの男は、俺に手をかざしながら、こう伝えた。
『俺はもうこの世界にはいられなくなる。心臓が止まり、俺という生命は終焉を迎える』
『え……』
『でも、俺はまだ死ぬわけにはいかない。俺が死ねば、あの人を庇えなくなる。だから、仙波渉。少しでいい。残りのその命、どうか、あの人のために使ってくれないか』
『あの人……?』
『うぅ、そろそろ時間のようだ。後は任せた……仙波……渉……。あの人を……救ってくれ……』
苦しそうにそう言いながら、ソイツは静かに倒れこんだんだ。
けど、その瞬間、俺もまた倒れこんでいた。だが、この時既に、俺はワタルになっていた。まるで、ワタルと融合したかのようだった。
起き上がろうとした際に、俺の脳裏にある人物が浮かび上がってきた。それは、死んだ兄貴にそっくりな男だった。
『ワタル。お前に頼みがある。お前の能力で、アイツを憑依させてくれ』
その男は、俺に向かってそう言ってきた。一方、俺はその男にこう切り返した。
『……分かった。ただし、一つ条件がある』
『なんだ?』
『……俺だけじゃなくて、サヤカも頼む。独りで生きるのはごめんだ』
『よし、交渉成立だな』
『……魔力多めで頼む。少しでも長く生きられるように』
『はは、注文の多い奴だ。ったく、こっちのお前は、可愛いガールフレンドがいていいな』
『……ただの幼馴染だ』
浮かび上がったのはここまでだった。
結局、あの人が一体誰の事だったのか、アイツとは誰なのか、今もまだわからない。でも、ワタルには助けなきゃいけない人がいたのはわかった。そして、何か大きなことを成し遂げなければならなかったということも。
「はあ……。夢だったのか、それとも」
仙波渉。21歳。大学生。とある月曜の朝8時過ぎ。
「ごめん、ワタル。夢じゃなくて現実だったんなら、謝る。失敗した」
よく知っているその部屋で目を覚ました俺は、頭を抱え込んだ。
「次のニュースです。穿いていた下着が突然消えるという事件が相次いでいます。警察では、ここ数日で発生している痴漢・わいせつ事件との関連も含め捜査を進めており」
テレビから流れるその音声を聞きながら、俺は水を何度も何度も飲み干した。でも、飲んでいるその水と一緒に、何種類モノの処方せんが入っていた。
ずきんずきんと痛む左胸を押さえながら、俺はカバンの中に資料をつめていく。
『元の世界に帰れ。そして大学に行け』
アカネさんと初めて会った時に言われたセリフが、頭をよぎった。
「あー、もう! わかりましたよ! 行きますよ! 行けばいいんでしょ!」
左胸を押さえながら、誰もいないその部屋で俺は声を荒げた。
異世界でそこそこな時間を過ごしたのに、こちらの世界は本来起きるはずだった時間、7時より1時間弱過ぎた状態だった。もちろん、日付は同じ。こっちの世界で眠ったのは1時30分過ぎ。寝落ちした時間こそ不明だが、一体どのタイミングで向こうの世界にいったのだろうか。向こうの時間と、こっちの時間の流れが違うのか、それとも時間とかそういう概念は異世界転生には関係ないのか、はたまた、ただの夢だったのか。
「夢だったんなら、ずいぶんと長い夢だよな」
夢だったんならそれでいい。俺はこれから大学へ行く。それだけだ。
でも、もしも夢じゃなかったんなら……この状況は最悪だ。なぜなら、ワタルとの約束を果たせていないからだ。
アンチ異世界転生世界で、ワタルに転生した事が周囲にばれないように、ワタルとして行動する。それが、俺こと仙波渉の役目だった。でも、こうして元の世界にいるってことは、俺は失敗した。たぶん、アカネさんにばれてしまっていたんだ。
「夢であってほしいな。あの世界の存在は」
果たせなかった約束の重圧と責任から逃れたい俺は、とっさにそう口走ってしまった。でも、そんな時だった。
「残念だけど、夢じゃないわ。だって私がここにいるもの」
「え……? ええ!?」
後ろから聞き覚えのある声がするなと思って後ろを振り向いたら、ムスッとした表情で、座ってこちらを見る金髪ツインテの少女が一人。
「ワタル。いや、仙波渉と言ったかしら。あんたに聞きたいことがある」
ムスッとした表情は一変し、まっすぐに目を据える真剣な表情で、ヒカリは俺の部屋に出現した。
それは、あの世界が夢ではないことの証拠と同時に、俺が約束を果たせなかった事の証明でもあった。
「ど、どうぞ……」
「どうも」
時刻8時30分。今時珍しいちゃぶ台に、俺はコーヒーを置いた。座布団に座るヒカリは、鋭い目つきでコーヒーを眺める。
「砂糖ないの?」
「ないです……」
「信じらんない」
「ごめんなさい……」
そうは言っても、そもそも俺はブラック派。砂糖は入れないんだよ……。
「ミルクは?」
「ありますけど、賞味期限いつだったか」
ミルクはたまに入れる。でも、ここら辺はズボラで本当に申し訳ないと思う。
「はあ。これだからブラック派は」
などと色々文句を言う中で、ヒカリは渋々とブラックコーヒーを口に運んだ。
「うぅ、苦ぃいいい!」
ムスッとした表情を歪ませるヒカリ。なるほど、ヒカリは苦いものダメなのか。
「んで? あんたは一人暮らし?」
「あ、うん。もう好きに生きろって両親が言うので、そうさせてもらっている。一人だと色々気楽だし」
「そう。で、そこにある仏壇は、一体誰の?」
ヒカリが指をさすのは、テレビの横にある仏壇。そこには、一人のスーツを着た男性の写真が飾られていた。
「仙波進。俺の兄さん。数年前に事故で亡くなった」
「ススム、ね……。そっか……」
ヒカリは聞いたことに対して少し申し訳なさそうに、目を伏せる。
「……とんだ親不孝者ね。あなたたち」
けど、ハッキリとそう言ってくるヒカリは、やっぱ辛辣だなと思った。
兄貴も先立ち、そして、あと数年もすれば俺も……。
ヒカリの言う事は間違いではない。俺たち兄弟は親不孝者だ。
「やっぱ、わかるのか? 俺が、いつ死ぬかもわからない状態だって事」
「イクトへの説得もそうだったけど、そんだけ苦しそうに胸押さえられたらそりゃあ、ね」
「は、はは……。だよな」
ヒカリの指摘通り、俺は今胸をぎゅっと押さえている。正直な話、胸の奥が痛くて痛くてたまらない。
「それと、実はその……」
「ん?」
ヒカリは何かを言いたげな様子だったがすぐにこう切り出した。
「……なんでもない。それより、仏壇に手合わさせてもらっていい?」
「い、いいけど?」
ヒカリは仏壇前へと移動し、そして静かに手を合わせた。なが―く手を合わせるその姿は、他人に対しての祈りとしては少し違和感を覚えた。それはまるで、家族に対して合掌するかのようだった。
「ヒカリ……? なんでそんな長く俺の兄さんの……うっ……」
く、やっぱ辛いなコレ……。今日の痛さは尋常じゃない。病院行くかコレ……?
「くそ、今日は一限からだってのに」
普段なら余裕で自主休講したところだ。まあ、それが積もりに積もって単位不足に陥っているわけだが。だが、行かないと叱咤してくれたアカネさんに申し訳が立たない。
「……あんた、そんな状態で出かける気? 正気?」
手を合わせ終えたヒカリは心配そうに俺の方に身体を向けた。
「アカネさんに、学校行けって言われたからな。それに、俺にできることは、今という日常を精一杯生きること。それだけだから」
「渉……」
俺は不治の病持ちの余命宣告者。もう、そんなに長くは生きられない。長くて3年。奇跡が起きればもう少し先まで。けど、正直いつあの世行ってもおかしくはないらしい。
だからこそ、残りの人生は一般の人と同じように生きてやろうって思った。痛みを我慢しながらでも、ありとあらゆる薬を飲みながらでも、胸を抑えながらでも。血を吐きながらでも。命削りながらでも。
それもあるから、先が長い人は俺にとっては皆チート能力者と言っても過言ではないんだ。なんせ、今の時代、医学も進歩しているし、平均寿命だって延びている。要は、人は100年近く生きられるんだ。本来は。
正直そんなに時間あるんなら、皆やりたい事は必ず貫けるし、いつか絶対叶うものだって感じている。難しい事なのかもしれないけど、そのくらいの時間があれば、絶対いけると思っている。俺からすれば、どうせ無理だとか、時間がないとか、もう若くないからだとか、そんなのは単なる諦めた奴の言い訳だ。だって、それでも皆まだ生きているし、生きられるんだから。
「はぁ、痛み少し、治まったかな……」
それでも、胸の奥は痛む。また、いつ痛みが襲ってくるのかは分からないけど。
「ごめん……。てなわけで、俺はこれから大学に……うっ……また……か」
色々考えちゃったからかな。いつにもまして酷い。これ、もしかしたら今日で……。
「はあ。世話の焼ける兄弟ね。本当に」
「え? それってどういう……ん!?」
ヒカリは身を乗り出して俺の胸に手を当て、そっと目を閉じた。
「あ、あの……これって」
「私の能力は、重力操作……ってわけじゃあない」
「え?」
「ありとあらゆる対象に対して、重いか、軽いか、を自由に選択できる。重いと軽いって言葉は、別にモノの重さ……ニュートンだけに使うわけじゃあないでしょ」
「んと、何の話?」
「だから、あんたの病状を、一時的に軽くしてあげるつってんの。重い病気と軽い病気って言葉あるでしょ。感謝しなさい」
「え、嘘!?」
と言っているうちに、なんとなく、胸の痛みが和らいだ……というか収まったようさえ感じる。ってことはこれで俺も長く生きられるって事なんじゃ!?
「でも、勘違いしないでよね。私が軽くしたのは、あくまでもあんたの胸の痛みを軽くしたってだけ。病気そのものがなくなったわけじゃあない。……ごめんだけど」
「ヒカリ……っ!!」
俺は声を荒げて、思わずヒカリの顔に迫った。
「んな!? ご、ごめん……。私の力じゃあこれが限界なの。ホント、ごめん」
「ありがとう!! ホントに、ホントにありがとう!! ヒカリは命の恩人だ!!」
「ええ!? あ、えっと……」
辛辣で気が強くて少しきついから苦手だなあって思っていたけど、もう、そんな意識はどこかへと消えうせた。痛みがすっかり消えた。まるで、異世界にいた時と同じように。正直これ今日痛みで死ぬんじゃあないかとさえ思っていたから。
「もう一度だけ言わせてほしい! ホントありがとうな!」
嬉しさのあまり俺の頬は緩む。けど、間近にあるヒカリの表情は、うっすらと赤く染まっていった。
「べ、別に好きで助けたわけじゃあないんだから! そこは、勘違いしないでよね!? あくまでも私は、渉がこのままだと任務に支障が出ると感じたわけで、渉が可哀想でやったわけじゃあないんだからね!」
「ははは。その感じ、やっぱヒカリっていわゆるツンデレ……え? 任務?」
「うん。任務」
きょとんとするヒカリだが、俺は首を傾げざるを得なかった。
「え、俺も? 俺もいっしょに?」
「イエス」
ヒカリはそう言うと、懐から何かを取り出した。
そこには、世界管理機関転生者解放騎士団クレナイ隊と書かれた書類と、解放騎士団公式のシャチハタが押されていた。そして、そこに書かれている内容をヒカリは読み上げた。
「緊急任務。クレナイ隊より、ヒカリ及びワタル、以上の二名は、タソガレ隊に代わり、直ちに地球世界への転生者を探し出し、帰還させよ。尚、隊長のアカネはタソガレ隊と任務中につき二人で出撃せよ……って内容ね」
「え? ええええ!?」
そこに書かれていた内容に思わず叫ばざるを得ない。
「あの、俺ってこっちの世界に追い返されたんじゃ?」
「はあ。さて、どこから話したらいいものだか」
ため息をつくヒカリだが、そのまえに俺は手でヒカリを制止した。
「まって。歩きながらでいいか?」
「え?」
「今日は一限からなんだ。もう出なきゃ。電車にも間に合わない」
「こんな状況でもホントに学校行くのねあんた。意外と真面目ね」
その通り! って言いたいところだが、正直そんなんじゃあない。
……もうそのくらいしか、俺には生きがいがないからだ。
「あーっと、高島選手、男子800メートル自由形、ベスト記録更新! さすがは水泳界の王子と呼ばれる存在だーーっ! あの伝説の貴公子、進選手の再来かーーっ!?」
と、テレビからそんなニュースが流れてくる。
『もう少し! もう少しで泳ぎ切れる! やった!? やったぞ渉! 凄いぞ!』
『はぁ……はぁ……。泳ぎ切った……。かなえ義姉さん、時間は……?』
『あー……タイムこそは愚図の極みだが……。でも、泳いでいる時の渉は最高にかっこいい。義姉さん、嬉しいぞ。頑張ったな、渉』
……思わず俺は立ち止まっていたようで。
「どした? 出ないの?」
「あ!? 出る! 出なきゃ!」
テレビを消して、俺は鞄を持ち上げる。
『かなえ義姉さん、俺、悔しいよ……。もっと、泳ぎたいよ……』
『渉……』
『心臓に負担がかかるから泳いじゃダメだなんて……。悔しいよ……。泳ぎたいよ……』
『……ごめんな。何言えばいいのか、私もわからない。ごめん、渉』
……何思い出してんだ、俺。もう、関係のない事だ。
「もしかして、まだ胸痛む?」
「いや。大丈夫。大丈夫だから……」
けど、胸の奥からは、痛みとは違った、モヤモヤが込みあがってきていた。
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