翌朝七時過ぎ、カノコがリビングへ降りていくとタタの姿はなかった。よっぽど早い時間にどこかへ出かけたようだ。窓を開けると昨日より暑さが和らいでいるのを感じ、風が湿った土の匂いを部屋の中に運んだ。天気予報によると、雨は降らないが一日どんよりと曇っているらしい。若い女性キャスターが大げさに嘆いていて、どこか滑稽だった。

 カノコは寝汗を流そうとシャワーを浴びると、何とはなしに家を出て、気の向くままに懐かしい故郷の町を歩き始めた。

 田舎といえば田舎のこの町は、近くの大きい通りまで出れば飲食チェーンやホームセンターなど生活に必要な店はだいたい揃っていて、夜はちゃんと暗闇に沈み、車の排気ガスが少し気になるが、それなりに住みやすいところだ、とカノコは思っていた。通りの反対側には山の稜線が見えて、麓にあたるこの町には緑が溢れていた。

 住宅街を歩いていると、何かが噛み合うような、しっくりくる感覚があった。遅れて、小学校の頃よく歩いた道なのだとカノコは気づく。

 当時のカノコはトキタに連れられて、道を抜けて五分のところにある公園によく足を運んでいた。トキタはその公園がお気に入りで、大事な場所なのだと強い語気で説明されたことがある、その理由は実に単純で、人があまり来ないことと、ロボットがいることだった。正確に言えば、ロボットを模した滑り台で、箱を積み重ねたような典型的な見た目のロボットは、公園の一応の名物だったらしい。

 カノコはいつも、ロボット滑り台の前にあるベンチに座り、砂場で絵を描くトキタを眺め、ときには一緒に絵を描いた。トキタは同じ絵を何度も描いた。トキタとカノコ、それからロボットが手を繋いでいて、周りに花が散りばめられている。稚拙な絵だ。

「どうしてロボットが好きなの?」とカノコは一度尋ねたことがある。

「うーん」と幼いトキタは頭を掻く。「図書館にあった本にね、心がない機械のかたまりだ、って言われていじめられてるロボットが出てきた」

「うん?」

「でもそのロボットがね、僕と同じくらいの年の泣いてる女の子の体に、お母さんが僕にしてくれるみたいにやさしく腕をまわすんだ。それをみて僕にはなんだか、そのロボットにもちゃんと心があるように思えた。きっと人より優しい心なんだ。人よりも人っぽくて、だから僕はロボットがすき」

「へえ、そうなんだ」

 カノコにはトキタの言っていることがよく分からなかったが、トキタが言うならそれでいいと思った。

「いつか、うちにもロボットがきたら、僕、きっとここに連れてくるんだ」

 それはトキタが生まれて初めて抱いた、小さな夢だった。

「そっか、叶うといいね」

「うん」

 トキタは頷き、嬉しそうに顔を綻ばせる。

「そのお花、かわいいね」

「うん。青いの」

「そうなんだ」

 毎日他愛のない話をしているばかりだった。トキタはお絵かきに飽きると滑り台で一度だけ滑り、満足したようにカノコを連れて家路についた。小学生の頃はその繰り返しで、カノコはその日々がそんなに嫌いではなかった。

「懐かしいな。あんまり変わってないじゃん」

 二十五歳のカノコの視界にロボット公園が現れる。残念ながら名物ロボットには登ることができないようテープが渡されていたが、小学生の頃と比べてほとんど変わってないことにカノコは感激した。相変わらず草木が好き勝手に繁茂している様子まで同じで、それが本来の公園の姿であるかのように管理され続けていることがカノコには愉快だった。

 カノコは馴染みのベンチを見つけると腰を下ろし、手で撫でてざらざらとした感覚を楽しみながら、ロボット滑り台を見上げる。

「お前も、なんだか老けたな」

 ロボット滑り台はペンキを何度も塗り直されているようだったが、経年劣化を完全に隠しきることはできていなかった。にもかかわらず、かつてと変わらずまっすぐにそびえる様子が、壮健な祖父のような頼もしさをカノコに与えた。

「さて、トキタのこと、どうしたもんかね。どうしたらいいと思う?」

 目の前のロボットを眺めていると、カノコはふとロボット工学三原則のことを思い出した。

 ロボットは人に危害を加えられないし、危険を看過することで人の命を危険にさらしてはいけない。命令に従わなければいけないし、自分の身を守らなければいけない。

 昨日の帰り道、タタはそれを自分の信仰であり、生き方だと言った。ならばタタはおそらく、当然のようにトキタの治療の継続を、つまり人間の命を守る選択を取るのではないだろうか。そこには確固とした信念があるはずだ。

 一方のカノコは、きっと私はなんだかんだ最終的には治療を継続しない方の選択肢を選びそうだなと自分を分析していたが、それは結局のところ「なんとなく」だ。

 であれば、優先すべきはタタの決断なのだろうな、とカノコは結論を出した。トキタへの思いの強度で比較考量されるべきことだ。

「決まりかな。一応タタに聞いてみるか」

 カノコはベンチから立ち上がり、なんとなく砂場をぐるっと回ってから公園の出口に向かった。

 出口から道路に出ようとしたとき、カノコはふと後ろから足音が聞こえたような気がして、振り返ると、公園の奥側出口の先の道にタタの姿があり、カノコの視界を右から左へ横切っていくところだった。タタはカノコに気づいていないようで、声をかけようと手を挙げたが、家でいいやと思い直してタタを見送った。

 家に戻ったカノコは、ぼんやりとテレビを眺めたり、持ち帰った仕事を片付けながらながら数時間を潰した。カノコが公園から帰宅した十数分後にタタが帰宅したが、リビングには寄らず二階に上がり、そしてまたすぐに家を出ていったので声をかける暇はなかった。

 やがてそろそろ夕方近くかというときになってカノコの携帯が着信を告げた。それは医師のヤナギからだった。何だろうと不審に思いながらその電話に出ると、ヤナギはどこか困っている様子だった。

「タタさんは家に戻っていますか?」

「いえ、まだですけど。どうされましたか?」

「多分なんですけど、こちらで預かっていたトキタさんのリビング・ウィルの原紙を、タタさんがどこかへ持ち出したようで……。」

「はい?」

 ヤナギが言うには、ついさきほど病院にやってきたタタは、リビング・ウィルを見せてほしいと言ったらしい。コピーを取ってないのかと尋ねたが何も答えず、不思議に思いながらもヤナギはタタに紙を渡したが、目を離した隙にどこかへいなくなってしまったらしい。

「心あたりはありませんか?」

「いえ……」

 カノコはロボット公園の近くでタタを見たことを思い出したが、それは何時間も前で、有用な情報ではないだろうと思ってヤナギには言わなかった。

 ヤナギは、いずれ紙は戻ってくるだろうと楽観視はしているが、少し気になってカノコに電話したと言った。 

 どうしようかと考えていると、家のインターホンが鳴った。

「すみません、一度切ります。何かわかったら連絡します。ご迷惑をおかけしてすみません」

「よろしくお願いします」

 ヤナギは終始優しい声色だった。電話を切ると、カノコは玄関へと向かった。

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