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「随分と昔にね、ロボット工学三原則とかいう、ロボット開発でとても重要視されていた原則があったらしくてね」
病院からの帰り道、眠気を感じたカノコは助手席でツンとしているタタに話しかけて気を紛らわそうとした。
「ロボットは人間の命をなによりも優先しなきゃいけないとか、そんな内容だったらしいの。うん千年も前の話よ。当時の人類がほとんど絶滅しかけて、文明レベルがすっかりリセットされる前の話」
幹線道路に入り、カノコはアクセルを踏み込んで車の速度を徐々に上げていく。エンジンの唸りがうるさくて、カノコは声を少し張り上げた。
「タタは、ロボット工学三原則、知ってる?」
カノコは後続車がいないことを確認し、アクセルから足を離してエンジンを気持ち程度黙らせた。
「存じております」タタはそっけない返事を寄越す。「トキタ様から伺いました」
「なんだ、ソースは同じか。ロボットのタタはそれについて、なんか思うことあるの?」
そうですね、とタタは考え込む。
「私の……信仰です」
「信仰?」
「生き方、と言い換えていただいても構いません」
つまりは、簡単にいえばタタは三原則をかなり重要視している、ということなのだろうとカノコは解釈した。宗教が生き方を決めるように、法制度もまた人の道徳行為や生き方を規定する。
「タタの代わりに当時のロボットがいたら、トキタのことどうするんだろうね」
三原則に縛られるかつてのロボットであれば、今回のトキタのケースにおいて、治療をやめるという選択肢を選ぶことは決してないのだろうとカノコは思う。その選択をロボット自身が疑うことは決してない。当たり前のようにそんな選択肢を選ぶことを強制され、まるで道具のようだな、とカノコは嘆いたが、道具であることが悪いことなのかは分からなかった。タタも当然のようにトキタを生かす選択をするのだろうか、とカノコは思いを巡らす。
「カノコさん」
突然タタがカノコを呼び、カノコは目の前の信号が赤であることに気づいてやおら焦る。
「やっ、ば」
カノコは急いでブレーキを踏みこみ、車は横断歩道に半分はみ出してようやく止まった。T字路の信号で、そのまま突っ込んでいたらかなり危なかったかもしれない。周りを見渡すが幸いにも車や人は全く見えず、何かを跳ねる衝撃もなかったように思う。後続車もおらず、念のため車を降りて確認してみるが、問題はなかった。
「……ありがと。危ないところだった」
タタは何も言わず倒れたゴミ箱を起こし、車内に散乱したゴミを拾い始めた。
・・・
カノコは二十歳のとき両親を亡くし、二十二歳のとき生家を離れ、以降三年間、その家はトキタの管理下に入った。カノコが家を出てすぐにタタを迎え入れたというので、実質の家を管理してきたのは、おそらくタタだろう。カノコがこの家に帰ってくるのは三年ぶりで、つまり家を出てから一度も帰っていなかった。もちろん、タタとも初対面だ。
玄関には空の花瓶が置いてあった。先の廊下を抜け、リビングのドアを開ける。正面の奥の壁側に掃き出し窓があり、カノコより先にリビングに入っていたタタがグレーのカーテンを引いた。隅にはテレビが置かれ、その手前にウォールナット材のローテーブルがある。青いクッションがテレビを正面に見れる位置と、その左手側に一枚ずつ置かれている。ラグ類はグレーで、棚はだいたいテーブルと同じくウォールナット材。部屋の広さに比べて家具が少なく、二人では持て余しているようだった。
タタはキッチンに向かい、お湯を沸かしはじめた。カノコは適当に持ってきた部屋着に着替えると、テーブルの前に座りテレビをつけて、漫然とバラエティ番組を眺めた。
「どうぞ」
コトンという音がして、ハーブティーがカノコの前に置かれる。
「ありがと」
ハーブの仄かな香りが鼻腔をくすぐり、事故を起こしかけて未だ興奮冷めやらぬカノコの神経を落ち着けるように浸透していく。カノコはそれをすすりながら、トキタのことについて思いを巡らせる。
トキタが発作を起こしたとき、タタは買い物に出かけていて、すぐに帰っていたら事はここまで大きくならなかっただろうが、タタは買い物のあとたまたま馴染みの花屋の手伝いをしていて、ゆえに倒れたトキタの発見が遅れた。トキタが病院へ運ばれたとき、脳への酸素供給不足は取り返しのつかないところまできていたらしい。タタが悲観的であるならば、それは自分のせいだと思うだろう。責任を転嫁すわけではないが、そとき車で数時間かかる別の県にいたカノコには、どうすることもできなかった。
気づくとバラエティ番組は終わり、カノコはふと思い立って二階へと上がった。二階には個人部屋がいくつか並んでいる。三年前と変わらずトキタの部屋の場所は同じで、階段を上がったすぐ目の前だった。タタの部屋はその隣のようで、「タタの部屋」とトキタの字で書かれた青い質素なプレートがかかっていた。
カノコはトキタの部屋の方のドアを開ける。こっちにはプレートはかかっていない。トキタの部屋はリビングに比べると雑然としていて、本がそこかしこに転がっていた。トキタは昔から自分の部屋の本を動かされるのを嫌った。掃除をしたがるタタのせめてもの抵抗か、本の位置以外のところは不自然ほどに綺麗だった。カノコはトキタの本棚を上から順に眺めていくが、残念がら目的としていたトキタのアルバム写真は見つからなかった。
トキタの部屋を出るとカノコはリビングに降りていき、タタに声をかけた。
「タタの部屋入っていい?」
「どうぞ」
タタはキッチンを掃除していた。いったい、いつまで掃除をしているのかこの子は、とカノコは少し呆れた。くるりと反転して再び二階に上がり、タタの部屋のドアを開けると、プレートがガタリと思いのほか大きな音を立ててカノコは驚いた。タタの部屋は想像に反して家具が多く、おそらくトキタがタタのために揃えたのだろうとカノコは推測した。ただ、誰かが暮らしているという独特の空気感はほとんど感じられず、全てが定規で測ったようにピシッと整えられていた。そんな中、デスクの左の抽斗がわずかに手前に引かれているのをカノコは見つけた。カノコは部屋を汚さないようにと、そろりそろり部屋を横切り、抽斗をあける。そこには丁寧に切り取られたノート紙が数枚入っていて、その全てに、拙い花の絵が書いてあった。カノコはそれに見覚えがあるような気がしたが、やがてリビングの物音に気を取られ、思い出すのを諦めた。あとでもう一度考えようと紙を一枚だけポケットに入れ、プレートの鳴らさないように慎重にドアを閉めて部屋を出た。
その後カノコはシャワーを浴び、タタが再度入れてくれたハーブティーを飲みながら、深夜ニュースを眺めた。自動運転の特集をやっていて、画期的な技術にスタジオは湧いていた。数千年前の文明では自動運転の方がロボットよりも先に実用化されていたらしく、現代の科学は、人類が一度衰退する前の状態になるよう歴史をなぞるように再興しているが、やはりまったく同じとはいかなかったようだ。自動運転とロボットの開発の順番やロボット工学三原則の有無とか、様々な面でブレは少なくない。
「あまり悩んでもられないけど、ヤナギさんも言っていたようにものすごく急いで決断することでもない。まあでも、長くて一週間くらいかなあ」
カノコは独り言を漏らすとハーブティーを飲み干した。空のカップを洗うと洗面台へと向かう。歯を磨きながら、都合よく何もかもが自明になるような、そんな冴えた夢でも見れたらいいのに、とカノコは願った。しかし、カノコの脳はだんまりを決め込み、朝になるまでついぞ夢なんて見なかった。夜明けのまどろみの中で、ガタリという音が聞こえたような気がした。
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