アンビバレンス・バグ

結城七

 タタを先に病室に向かわせたカノコは、その姿が見えなくなるまで眺めたあと、エンジンを切った車の中でシートに深くもたれた。エアコンの冷気が薄れ、だんだんと背中が汗ばんでくる。一人になる時間が少しだけ必要だから、先に一人で病室に向かってくれ、とタタには説明したが、機械仕掛けの彼女に意図が正しく伝わったのか分からない。なにせ、今からおよそ六時間前にカノコが初めてタタと対面してからというもの、カノコの呼びかけに対し、タタはろくな反応を返さなかった。

 目を瞑ると、ちらつきながら駐車場を照らす電灯の騒々しさが遠のき、ねっとりとした静寂がカノコを包んだ。カノコは頭の中で淡々と数字を数え続け、三百まで到達したところでようやく目を開ける。何も考えずに落ち着きたいときに、カノコがよくとる方法だった。体を起こして汗ばんだ髪を後ろで一つに結び、息を一つ長く吐く。自分を奮い立たせるように勢いよく車を降りて、タタの後を追った。


 病室の中央にはベッドが据えられ、その前にくたびれた白衣に身を包んだ、医者らしき若い男性が立っていた。

「カノコさん、ですか?」

「あ、はい。トキタの姉のカノコです」カノコは疲れた声で答える。「その、遅くなってすみません。色々整理がつかなかったのと、道を間違えたり、家に寄ったりとかで」

「問題ありませんよ。はじめまして、医師のヤナギです」

 ヤナギは寛容な微笑みを浮かべ一揖したあと、視線をカノコの隣に移した。

「そちらのアンドロイドがタタさんであってますか?」

 タタはドアを開けてすぐ、左手側の壁に張り付くように控えていた。

「そうです。トキタの家のハウスロイド、タタです。先にここへ向かうよう私が指示したのですが、ご迷惑をおかけしなかったでしょうか?」

「ここに来てからずっと無言で、何を尋ねても返事がなかったのでちょっと困ってました」

「……すみません」

 ヤナギはハハと朗らかに笑った。苦情を漏らした、という様子ではなかった。カノコも釣られてハハと乾いた笑いを漏らし、トキタが眠るベッドへ近づく。その後ろをタタが続いた。

「さて、トキタさんについて、すでに多少の説明があったかとは思いますが、改めて」

 カノコは包帯が巻かれたトキタの頭を眺める。ヤナギの説明のおおよそは事前に聞いていた内容だった。発作による一時的な心停止、それに伴う脳への酸素供給の途絶、そして昏睡。

「脳へのダメージはかなり大きい。遷延性意識障害に陥る可能性は非常に高いと思われます」

 遷延性意識障害。それがいわゆる、植物状態のことを指すということも聞いていた。

「今の状態は植物状態と違うんですか?」カノコは素朴な疑問をヤナギに投げかける。

「通常、昏睡してから自立歩行や自立摂食、意思疎通や発話などの活動が困難である状態が三ヶ月以上続いた場合、その患者は植物状態とみなされます。昏睡していても意識があるような、いわゆる閉じ込め状態である可能性もあるので、慎重に観察を続ける必要があります」

「なるほど」

 理解したというポーズは示してみたものの、実際のところはよく分からなかった。ヤナギの説明はノイズが混じったように聞こえた。なんだかざらざらしているな、とあらぬ方へ意識が飛んでいく。

「カノコさん?」

「あ、ああ、はい。ええと、なんでしたっけ」カノコは慌てて意識をしっかりと保つ。「それで、率直に、回復の見込みというのは?」

 ヤナギは答えあぐねて、落ち着かないように視線を彷徨わせた。

「……正直に申し上げて、回復する可能性はほとんどない、と言わざるを得ない状態です」

「はあ」ヤナギの迂遠な表現に、カノコは間の抜けた返事をした。

「植物状態から回復した事例は数多くあります。しかし、トキタさんの場合は脳幹にも若干のダメージがあり、自発呼吸等に問題はないものの、ほとんど脳死に近い状態です。脳への障害は不可逆的で、仮に奇跡的に回復したとしても、以前と全く同じ生活は送れないでしょう」

「つまり、私は」カノコは少し言い澱み、素直に言葉を続けた。「どうすればいいのでしょう?」

「選択肢は二つです」ヤナギは指を二本立てる。「まず、このまま延命治療を続けるという選択。絶対に回復しないとは言い切れませんので、奇跡に賭けるのも一つの手です」

 選択肢は二つ、とカノコは心の中で繰り返した。

「二つ目は、一つ目の逆です。つまり、治療を続けない」ヤナギは手元に持っていた紙を捲りはじめる。「タタさんからの事前連絡では、トキタさんは事前指示書の用意があったと聞いています」

「事前指示書?」

「聞いてないですか?」

 ぽかんとしているカノコの横からタタが前へと歩み出て、トートバッグからファイルを取り出し、中の紙束をヤナギに渡した。

「通称リビング・ウィル」ヤナギは受け取った紙束にはろくに目もくれなかった。「たとえば意識障害に陥った時、どういう治療を受けるか、あるいは受けないのか。そういった意思表示をしておく書類です。トキタさんは一切の治療を拒否することを宣誓していると伺っています。もっとも、法的な拘束力はないのでご家族が同意しなければ適用されない場合もありますが」

 トキタは紙束をカノコに差し出す。リビング・ウィルというのは初めて聞く単語だった。パラパラと捲り眺めてみるが、どうにも目が滑って内容が頭に入ってこなかった。ともかく、カノコの選択肢はヤナギの言った通り二つで、トキタを生かすか死なせるかだ。

「少し考えさせてください」

「もちろんです」ヤナギは快く了承した。「そこまで急ぐ必要はありませんので、しっかりと考えてください」

 後悔のないように、と言い残してヤナギは病室を出ていった。しかし、どうあっても大なり小なり後悔することは目に見えていた。タタは無表情で、トキタを見下ろしていて、それがカノコには冷たく感じられた。

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