藁のくつ
天音メグル
第1話 女神の祝福
碧色の衣を纏いし女神は言われた。
『この災いを免れし子に、我の祝福を与えよう。家は栄え、後々まで続くことだろう』
幸いなるかな、金の髪の女神。その黄金に輝く実りにて祝福を与え給う。
ーー世は並べて平らかに 女神の御許に清らなりーー
四角い色取り取りの陶製の板が散りばめられた廊下を、足早に歩く靴音が回廊に響く。弓形に象られた天井が続く回廊の、最奥にある書写室の扉が勢いよく開られ、静謐な空気に満たされた室内に無遠慮な音が轟いた。部屋を埋めるように並べられた台の手元へと注がれていた幾つもの視線が、静寂を破る音を立てて入ってきた男へと一斉に向けられる。その非難がましい視線に構う風も無く、皆と同じ簡素な黒い長衣に身を包んだ男は目的の人物の名を呼んだ。
「エリ・ホルター!」
顔を上げて己を見る面々の中に名前の当人が見当たらず、彼は静寂と沈黙を旨とする室内にあって相も変わらず騒々しく、書写台が幾つも並ぶ室内を目当ての人物を探して分け入った。陽の当たらない北側の窓辺に、件のホルターはいつもの指定席で神経質そうな眉を顰めながら、羊皮紙にある次の一文字を紙へと写し取ろうとしているところだった。その正確な筆致の邪魔をしないよう、最後の一画を書き終えるのを待ってから、その角張った左肩へと手を置き、逃さぬように耳打ちする。
「エリ・ホルター、副院長がお呼びだ」
唯一、彼の登場にも書写中の本から一度も目を上げなかったホルターは、自分の作業を中断させる使者の登場に、溜め息と共に脇の作業台へとインクの付いた筆を置いた。
「楽しそうだな、エリ・ライエン」
四頭立て馬車の中。揺れる荷車の隣に座って車窓を眺めている同僚に、皮肉たっぷりに問いかける。
「ああ。嬉しくないのか? エリ・ホルター」
「……君ほどじゃないな」
鼻の先を見遣るようにして冷ややかな視線を投げかけるホルターに、ライエンは屈託無く問い返す。
「どうして。俺はあの建物を出られるってだけで心が躍る」
朗らかに言うライエンに、ホルターが首を傾げる。
「そんなに居心地が悪いものか?」
彼らの住処であり学び舎である塔は、けたたましく蹴立てていく馬の蹄の遙か後ろとなっていた。それでもまだ背後に背筋を撫でるような気配を感じるのか、ライエンは大仰に身震いした。
「あの建物の中だと息が半分くらいしか吸えない」
明るい光の入ってくる車窓を物珍しそうに眺めていた目を細め、ライエンは座席の椅子のクッションに背を預けた。
「そうか?」
「そうさ」
あれだけ無神経に静謐な空間に物音が立てられる人物が、何かを気にして生活しているとは到底思えない。同僚の大袈裟な表現に、ホルターは細い眉を僅かに絞り、嫌味を嫌味と受け取らない同僚は、相も変わらず流れる車窓に視線を向けたまま。何がそれ程までに楽しいのかと、臙脂色をした絹張りの天井を眺める。
「私は出掛ける事の方が気が重い」
豪華な天鵞絨生地の返りの良い座面に居心地悪そうに腰掛け、深い飴色に塗られた樫の木材の肘掛けに寄りかかりながら肘を突き、彼は隣の同乗者に気を使ってか浅く溜息を吐いた。
「お前はな。生まれた時からあそこに居るんだ。羽を伸ばすコツを心得ているんだろ。日がな一日、只管文字を書き写すなんて、俺には退屈極まりない」
無邪気に豪華な馬車の乗り心地を堪能している風な同僚に、凡そ何十回となく繰り返したであろう抗弁をする。
「あれは大切な職務だ。塔の書物庫に保管されている大事な知の蓄積たる記録を書き写すという、大事な」
「一抱えもある、あの重たい本と一日中睨めっこしてるなんてうんざりするな。今じゃ本なんて、片手に持てる大きさだぞ」
一文字一文字手で写し取るだけが唯一の手段であった昔と違い、金属の小さい欠片を並べて一頁を一度に刷ることが出来る印刷技術が開発され、一枚に大量の情報を詰め込めるようになった結果、薄い紙を束ねた本が流通するようになった。昔は本は金にも値する高価なものだったが、媒体を羊皮紙から紙に変わったお陰で値段も下がり、巷に出回るようになったのだ。本は相変わらず高価ではあったが、少なくとも塔や城の図書室に鎮座する物ではなく手から手へと動く物へと変化した。
「その大きさに落とし込むためにも、一度紙に写す必要があるんだ。貴重な書物は、建物から帯出することを禁じられている」
「古くさい過去を掘り起こして何になる?」
隣で軽口を叩いて口論を仕掛けるライエンに、その手には乗らないとホルターも視線を車窓に逃がした。広大な枯れ草色に変わりつつある牧草地帯が延々と続く丘が幾つも重なり、その所々に木々の緑が段々と増えてくる。深緑の葉にくすみが掛かって、初秋の訪れを思わせた。馬車道はほぼ平坦であったが、所々不揃いな石を踏むのか時折不意に跳ねて会話の邪魔をする。
「先人の智慧に触れる事は知識の蓄積だけではなく、これから起こる事を予測する上でも重要な備えにもなるんだ」
「何をそんなに先を気にする? そうやって知識ばかり増やして何もかも知ったふうな事だらけになったら、つまらなくないか?」
「不測の事態が起こらない、この上なく充足した穏やかな日々だと思うが?」
「そんなのがこの先も続くなんてぞっとしないね」
投げやりに呟く同僚に、何が不満かとホルターが首を傾げる。
「言葉を返すようだが、我々は生涯を神に捧げた者だ。それが当然だろう」
「当然だと言われても、苦しいものは苦しい」
「窮屈だと思うから窮屈なんだ」
売り言葉に買い言葉で堂々巡りしそうなこの展開に既視感を覚え、ライエンが面倒くさそうに切り上げにしようと口調を強める。
「そういう屁理屈では納得しないからな。塔を出た時の少々の解放感くらい、味わっても罪には当たらないだろう? それに、今回はなんたって四頭立て馬車のお迎え付きだぞ」
「屁理屈のつもりはないが、どうちらかというと、この待遇こそ私は居心地悪いね」
「我々は塔の長の名代だ。堂々としていれば良いさ」
「堂々と、ね」
それで同行者は納得しないのじゃないかと、ホルターは斜向かいに座る未だ一言も発しない老紳士をチラと見遣った。正面に座りながら今の今までその存在を忘れていたのじゃないかと思われる依頼主へと、ライエンが初めて水を向ける。
「それで、お屋敷にはどのくらいで着くんですか、執事殿」
焦げ茶色の外套を羽織り、最早それが地顔になっているだろう渋い顔をして黙っていた初老の男が口を開いた。
「当家のある町へは、馬車で半日ほどです」
「半日?!」
飛び上がる程に驚いたライエンは、もっと短い旅程を想定していたようで、あと数時間も馬車の中に押し込められているのかと思っただけで意気消沈したようだった。
「はい。ミルチェ地方のレイベという町はご存じですかな?」
「あの、大きな森がある町でしょう。材木で有名な」
「ヤヌフ山から流れるエルベッツ川は塔のあるエリチェ地方を流れた後、途中で二つに分かれ、我々の住むミルチェ地方を流れる川はルカーレ川と呼ばれます。水運と森に恵まれ、レイベの町は材木を扱う町として、古くから栄えて参りました」
「材木……? レイベと言えば、銅も有名では?」
「よくご存じですな。嘗ては森の奥の山で銅を産していましたが、鉱脈が枯れ、今は閉山しております」
「あかがねの地にあおき道を通す」
不意にライエンの口を突いて出た音律に、一斉に一同の視線が集まる。
「何だ?」
「古い歌さ。『女神の祝福をうけし麦藁色の髪の子ども、あかがねの地にあおき道を通す あおき道は川となりて大地を潤す 黄金の麦の波が続くよ続く』どこでだったかは忘れたけど、子どもの時に聞いたことがある」
「それは、古詩に節を付けたこの地方の民謡です。昔話のようなものですな。以前にいらっしゃったことがおありですかな」
「さあ。何しろ、幼い頃は養い親についていろいろな場所を放浪しましたから。はっきりした記憶は無いんですが、この辺りを彷徨いていたこともあったかもしれませんね」
塔の門を潜るまでの道程は人によって様々だ。幼少期から学び舎で生活し、女神の僕としての役目を生涯とする者もいれば、少年期に入ってから退っ引きならない事情によって身を寄せる者も居る。年嵩が増してから塔の戸を叩いたライエンにしてみれば、全てを女神への信仰に捧げ、己を律する事を旨とした生活を閉ざされた空間の中で送るのは、やはりどこか窮屈かもしれない。
だが、そうしたそれぞれの生い立ちの違いは女神の下される試練の前には瑣末なこと。今は目の前の課題に集中するべきだ。脱線気味の話題を、ホルターが本線へと戻す。
「我々の役目は、新しい御当主の祝福でしたね」
「はい。先代が亡くなられ、今回新しい当主を迎えるにあたり、女神の御長子であられる塔の長殿による祝福を授けて頂ければと、遙々お迎えに上がった次第なのですが……」
どう年齢を見積もっても三十路手前の二人の学僧の同行だと告げられた時には落胆し、説き伏せる塔の副院長の言葉に頷きはしたものの、まだ納得のいっていない執事は語尾を濁して不服を表する。
「我々はこう見えて、優秀なんですよ」
「自分で言う事ほど信用ならないものはないな」
安請け合いとばかりに胸を張る同僚に辛辣に返せば、ライエンは実績として以前の事件引き合いに出す。
「この前の女神像の盗難だって、見事に発見して解決したじゃないか」
「あれは、元はと言えば幽霊騒ぎのせいで呼び出されたんだ。女神像の発見は、謂わば付け足しだ。成果とは言えない。それに、女神像の件は盗難ではなく信仰心の成せる事件だった。もし本当に盗難なんだったとしたら、隠したり埋めたりせずにさっさと売り飛ばしていたさ。そうなれば、我々の出る幕では無かっただろう」
「信仰心、ねぇ。『女神が見ていなさる』ってやつだろ?」
含みのある言葉に、ホルターが聞き返す。
「何か気に食わないことでも?」
「俺は、どんな理由であれ、人のすることに私情が無いなんて思えないね」
「厳しい見解だな」
「人間、良かれと思ってっていうのが、一番質が悪い。そう思いませんか、執事殿」
それまでまるで二人の他に誰も居ないかのように遣り取りされていた話しを急に振られ、件の執事は言葉に詰まる。
「左様……ですかな」
小さく首を傾げる老紳士に、ホルターが助け船を出す。
「お気になさらないでください、執事殿。彼はこう見えて、まま皮肉屋な面もありますが、他意はありません。
長はお忙しい身で、塔での用件が済み次第、今回の件に当たられるのです。その前に、長を迎えるにはそれなりの準備がありましてね。我々はいわば、露払いといったところです。長ともなれば立場上、直ぐに動くというわけにいかないのはご理解頂けますか。数々の聖務やそれにまつわる雑事、人々の裁定や国々の諍いの仲裁も任されることしばしばとなれば、軽々に出歩くことは出来ないのです」
それまでと打って返って塔の代弁者宜しく立て板に水の如く喋り出したホルターに、老執事は気圧されたのか黙して耳を傾けた。
「御当家が名家でありかつ資産家であることは、お迎えに上がられたこの馬車を見れば一目瞭然。ですが、ご依頼の手紙の到着から塔の返事を待たず、三日と経たずにお迎えとは、中々に慌ただしい申し出だとは思いませんか?」
「……急ぐのには、それなりの訳がありそうだな」
ホルターの攻勢の尻馬に乗ったライエンの相槌に詰められて、老執事は被っていた鍔無し帽を脱ぎ、散切り頭の白髪を僅かに項垂れさせた。
「仰るように、急であったことは認めます。少々、礼を欠いていたことも。ですが、こちらにも急ぐ理由があるのです」
「理由?」
「御承知の通り、私がお仕えするリットー家はミルチェ地方でも指折りの御一家です。血筋に於いてもその力の及ぶ範囲に於いても。また、財力に於いても」
「リットーといえば、有名な豪商ですね」
「はい。この地方で産する材木の殆どを扱っております。塔の管轄地であるセイゼルの土地にある良質な木の管理と切り出しについても、関わらせて頂いております」
しっかりとリットー家と塔の関わりについて臭わせつつ、老練な政治家のように執事は皆まで言わぬが華と結んだ。セイゼルといえば、最前に出向いた女神像の盗難があった学び舎を抱く森のある地方である。その深き森が産する材木の資産が学び舎の聖職者をして目を眩ませたのだ。祈りと献身を捧げる慎ましやかな生活をすべき者たち、そしてそれを誓い立てしている者たちをして本来の道筋から道を逸らさせ狂わせる。リットー家はそうした力の及ぶ存在であると、執事は暗に仄めかしたのである。
「それで、その御一家にどういったご不幸が?」
急ぐ理由、それは大抵良い理由で無い事が多い。それと踏んだ上で水を向けると、老執事は潔く情報を渡した。
「病です。リットー家のある町には昔から数年に一度、流行病が広がることがあるのです。多くは大人が罹り、病を得た大抵の者が命を落とします。特効薬は無く、罹ったら最後、その夜の内に高熱を出して衰弱し、次の朝を迎える頃には息を引き取るのです」
「そんな恐ろしい病が、町を覆っているのですか」
真顔になって身を乗り出したライエンに、老執事は安心して良いと手で制した。
「覆っていた、と言うべきでしょう。それというのも、流行るのは夏の長雨で大水が出た後に続いて大風が吹いた数日間だけで、次の雨が来た時には去るのです。理屈はわかりませんが、そうした言い伝えです。ですが、その後病で亡くなった者は出ていないので、恐らく正しいと思われます」
「リキュリルのつむじ風」
年若い学僧の、口を突いて出た言葉に一同は驚きと共に視線を注ぐ。
「そうです。土地の者でもないでしょうに、よくご存じですな」
目を大きく開いて驚く執事に、ホルターは情報源を開かす。
「塔にはあらゆる記録が残されているのです。頁を捲るだけで、大昔からの出来事を知ることが出来る」
「ああ成る程、智の集積、ね」
茶々を入れるライエンには構わずに、ホルターはまるで辞書でも読み上げるかのようにその頭脳に収まった知識を紐解いてみせた。
「ミルチェ地方で数年に一度起こる、風土病ですね。病の蔓延は一日二日で終わり、その後ぴたりと治まる。それが十数年周期で流行るという。病の流行期間が短いが故に、その特効薬を探す時間的余裕は無く、不治の病と言われている。クシャミ咳発熱と、普通の風邪と一見何ら変わらないように見えるが、その夜尋常で無い高熱に魘され、衰弱し死に至る。明確に始まったという自覚も無く、気付いた時には病人の呻吟で家々の間は満たされ、人々がその絶望に慣れた頃には知らぬ間に消えている。流行の始まりも終わりも、あやふやだ」
五十年前にミルチェ地方の司祭であったエリ・アルバンの手記にあった記述を思い出しながら、ホルターは中々に剣呑な情報を披露する。
「なんだ俺達は本当の斥候ってわけか」
絶望したかのように大袈裟に馬車の天井を仰ぐ同僚に、追い討ちをかけるようにホルターが止めを刺した。
「まあ、そういうことになるな。しかし雨が降れば終息するというのは初耳だが」
新しい情報に、これは帰って修正を加えなければと逃さずに質問すれば、執事からは驚くような情報が語られた。
「私はこれまでに三度、幼い頃と大人になってからと今回と、病が流行るのを経験しております。それのどれもが、雨を契機にピタリと罹る者が居なくなるのです。このことは町の者なら多くが知っている事です」
「そうですか。では、実際に確認して記録に付け加える必要がありそうですね」
何よりも情報の更新が最重要事項であるかのようなホルターに代わって、ライエンが肝心の質問をする。
「雨は、もう降ったんですか?」
「はい。五日前に。それで手紙をお出ししたのです」
執事の言葉にホッと息を吐くライエンは、それでも不安は拭えないのか不穏な地へと誘おうとする執事に伺いを立てた。
「それにしても、そのような微妙な時期に外部の者がお邪魔して良いものですか?」
只でさえ気の立っている町に余所者の侵入が歓迎され無いであろう事は彼でなくても想像の付くことだった。
「このような時期だからこそ、だろう。人々の心は疲弊している。神の使いである塔の使者が訪れるのは救いに他ならない。ましてや祝福を与えるとなれば。そうでしょう?」
先程とはまるで人が替わったかのように塔の代弁者たる立場を語り出したホルターに、執事は力づけられたのか大きく頷く。
「全くその通りです。お若いのによくご承知でいらっしゃいますな」
「何でもご承知なんですよ、彼は」
当て擦りを言うライエンには構わず、身を乗り出したホルターは聞こえていないかのように視線を再び車窓へと投げ、質問を続ける。
「それで、新しい御当主はどのような方ですか?」
「大変聡明な方で、ご自分のお立場をしっかりと理解なさっておられます」
「?」
まるで不敬ともとれるような言い様に違和感を感じ、二人共が執事をじっと見つめる。
「御母上は森番の娘ですが、大変な器量好しの心根の良い女人で、御館様のお情けを受けてフレデリック様をお産みになられました。御方様との男児を三歳で無くされた御館様にとっては唯一の跡継ぎでございます。建前上、ずっと森番の孫として育てられましたが、道理を弁え、時に物怖じせずに話す様は御館様によく似ておいでです」
「妾腹、ということですか」
あまり良い響きとは言えない言葉に、執事が語気を強める。
「御館様のお子には違い御座いません」
「年は? 何歳なんですか?」
「当年とって九つになられます」
「……ここのつ?!」
想像していたよりも余程年少な答えに、聞くとも無しに聞いていたライエンが座席の上で飛び上がった。
「それでは、聡明というよりは利発と形容した方が良さそうですね」
「九つでは、確かに執事殿が急がれるのも道理だ」
二人が頷き合うのを執事が釈明するように情報を付け足した。
「当家にも、分家筋には当主に据えるには適齢に適当な方々もいらっしゃいますが、それだけを目的とした、あまり先々の物事を考えられない方々も居られまして」
「成る程、それはご心配でしょう」
ライエンの賛同を得て、心強く執事は頷いた。年端もいかない子どもだと軽くあしらわれ、大人達に好き勝手に振る舞われるのは、想像に難くない。
「それで? 執事殿は我々に何をご希望ですか?」
当主の代替わりという、微妙な時期に家事を取り仕切る執事が直々に塔に出向いたのだ。往復にすれば一日の旅程。それ程にして塔という機関に求めたものがあるはずだ。
「……実は、長年、フレデリック様の出自は妾腹であるとされてきましたが、その出生時に良からぬ動きがあったようでして」
「良からぬ動き?」
一段と声を低くする執事にホルターが先を促し、彼は神妙な顔で頷いた。
「取り替え子です」
「へ?」
想定外の答えにライエンは短い呻きを発し、驚く若い学僧に、執事は落ち着き払った声音で更なる情報を開示する。
「実を申しますと、本妻の御方様とフレデリック様のお母上とは、同じ時期に出産されまして。その折に、行われたようなのです」
「赤ん坊が入れ替わった?」
そんな事が起こりうるのかと怪訝に尋ねるホルターに、執事は事も無げに言い放つ。
「はい。お二人には、それを証明して戴きたいのです」
二人の前に座る初老の執事は、それまで見せなかった恭しさで頭を下げた。
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