第9話 再誕

 遥と再会を果たしたあの日から、佳純はずっと願い続けていた。時に耐えがたい苦痛に苛まれながら。時に枯れるほど涙を流しながら。決して後悔しているわけではない。ただ佳純は、遥との別れがどうしようもなく怖いのだ。

 一度は失くしかけた繋がり。自ら捨て去ろうとした思い。それでも遥は帰ってきた。だからもう手放さない。そのためにかけた呪いは、今まさに解かれようとしている。

 何故? どうして? そんな風には思わなかった。佳純は初めから知っていた。あの呪いは永遠などではない。だからこそ願った。終わりが来ないことをただ切に願ったのだ。それでもやはり、聞き届けてはもらえなかった。

 呪いが解かれる物語は、いつだって喜劇であるはずなんだ。だがそれは、誰にとってもというわけではない。主役にとっては喜劇でも、悪役にとっては悲劇でしかない。春日野遥の舞台において、七瀬佳純は呪いをかけた悪い魔女なのだ。そんなことなど、もうとっくに受け入れていた。

 いずれにせよ、物語は終末へと向かっている。だとするのなら、自分には後どれだけの時間が残されているのだろう。後どれだけ、遥の傍にいられるのだろう。そう考えを巡らせていた佳純は、知る由もなかった。終わりを告げる足音が、すぐそこまで来ていることを。

 静寂に包まれた部屋に、突如として着信音が鳴り響いた。机の上に置かれた携帯が、小さな光源となって暗闇を照らし出す。佳純はベッドから起き上がり、その光に吸い寄せられるように手を伸ばした。手に取った小さな液晶には〝遥〟と表示されていた。

 それを見た途端、佳純の心臓は跳ね上がった。嫌な汗が止まらない。鳴り続ける着信音に同調し、鼓動や呼吸までも荒くなっていった。出たくない。出るべきではない。そう感じているはずなのに、震える指先で液晶をなぞり、佳純は電話に出た。

「……もしもし、遥?」

『ああ、佳純。ごめんねこんな時間に。ひょっとして起こしちゃった?』

「ううん、大丈夫。寝ようとはしてたけど、眠れそうになかったから……」

『そうなんだ。でも良かった。もし寝ちゃってたりしたらどうしようかと思ってたから』

 電話越しに聞こえた遥の声は、普段と何ら変わらぬものであった。口調も声音も何一つとして違いのない、いつもの遥そのものだった。それはあまりにも自然で、だからこそ不自然であった。

 佳純が遥に自分の思いを伝えたのは今朝のことだ。昔と違い、感情的かつ一方的にではなかったが、自分の全てを伝えた。それに対し、遥も動揺や葛藤しているように見えた。だが、今はそれらが微塵も感じられない。

 たとえ開き直ったのだとしても、たった一日足らずでそこまで気持ちの整理が出来るのだろうか。自分が伝えた思いは、そんな簡単に片付けてしまえる程度のものでしかなかったのか。吐き出しそうになるもどかしさを押さえつけ、佳純は言葉を返した。

「……どうしようもなにも、明日にすればいいだけじゃん。それとも、今じゃなきゃダメな用でもあるの?」

『うん。今じゃなきゃダメなんだ。〝アタシ〟は今、佳純と会って話がしたいの』

「……え? 遥……今、なんて……?」

 言い間違い。聞き間違い。電波の不具合。何でもいい、どれでもいいからそうあって欲しかった。そうでなければおかしいから。だって、こんなにも早いはずがない。こんなにも唐突なわけがない。

『ねえ、佳純。アタシは今すぐ佳純に会いたい。会って話がしたい』

 ダメだ。今、遥と会ってはいけない。もし会えば、本当に終わってしまうから。嫌だ……そんなのは嫌だ! まだ間に合う。手遅れなんかじゃないはずだ。急場凌ぎでいい。なりふり構ってなどいられない。そうしなければ、遥との全てがなくなってしまう。

 出会った喜びも、芽生えた愛も、抱いた怒りも、失った悲しみも、これまで積み上げてきたもの全てが消えてしまうんだ。

「べ、別に、今すぐ会わなくても……いいじゃん。それに、こうして電話してるんだから話だったらそれで……」

『それじゃダメ。アタシは佳純と、直接会って話がしたい。そうしないといけないの。だってこれは――佳純が望んだことだから』

 嗚呼、そうだ。

 七瀬佳純という人間は、春日野遥の舞台に出演している役者の一人だ。だがそれと同時に、七瀬佳純自身の舞台にも出演している。そこでの佳純は主役であり、監督であり、脚本家だ。だからこそ、この舞台の結末を知っている。そうなるように演出したのは、他の誰でもない自分自身なのだから。

「……そう、だね……。うん、今から行くよ」

 さあ、最後の舞台へ上がろう。自らが望んだ結末を迎えるために。


 大した支度をすることもなく、佳純は早々に家を出た。夜間の寒さは少々身体に堪えるが、そんなことが気にならないくらい頭の中がぼんやりとしていた。何も見えず、何も聞こえないまま歩いた。無意味に彷徨い続ける救われない亡霊のように、ただただ歩いた。

 何も感じられないほどに、佳純の心は遥で満たされていた。自分はこれから遥と会う。そして遥に……。分かっている。分かっているはずなのに、未だ希望に縋りつこうとしている。やり直せる道を見出そうとしている。なんて、なんて浅ましい人間なんだ。

 儚さという鎖が、佳純の心を縛り付ける。自己嫌悪という足枷が、佳純の身体を重くする。それでも歩みを止めないのは、遥に会いたいから。偏にその思いのためである。

 ほどなくして、佳純は目的地である坂の上公園に辿り着いた。電話を切る直前に、遥が指定してきた場所である。実に五年振りだというのに、何も変わってない。まるで、この場所だけ時が止まっているようだった。それはきっと、遥も同じなんだ。

 初めはどうしてここなのかと思ったが、よく考えてみれば当たり前のことだった。琴吹遥の時間は、五年前で止まっている。それは遥が、春日野遥として生きるためにこの場所に置き去りにしていったからだ。

 だから遥はここを選んだんだ。琴吹遥を、かつての自分を取り戻すために。もう一度、産まれ直すために。遥はこの場所を〝母体〟として選んだんだ。

 だとすれば、ここはもう母親の体内なのだろう。慈しまれ、育まれ、脈打ちながら胎動し続ける。そんな我が子の誕生を待ち望む、母親そのものなんだ。生命の誕生。それは唯一、生きとし生けるものが神に近しい存在となれる瞬間である。

 その瞬間に、今宵立ち会うことが出来るんだ。だとするのなら、あまり待たせるわけにはいかない。いつまでもここで佇んでいるわけにはいかない。そうして佳純は、時が止まった世界へと足を踏み入れた。

 遥の話では、校舎裏から中に入れるとのことだったため、佳純はすぐに校舎裏へと回った。すると、ずらりと並んだ窓の中に、一つだけ開け放たれているものがあった。遥が言っていたのはきっとこれのことだろう。佳純はそう思い、迷うことなく中へ入った。

 教室内は、机と椅子が片側に寄せられており、これから掃除の時間でも始まるかのようであった。恐らく、話し合いのために準備されたのだろうが、肝心の遥の姿が無かった。ここで待つべきかとも思ったが、教室内を漂う雰囲気がどうにも落ち着かず、じっとしていられなかった。

 そして、遥を探しに行こうと歩を進めた時、佳純は唐突に足を滑らせ転んでしまった。どうやら、床が濡れていて滑りやすくなっていたようだ。

「痛たた……なに、水?」

 そう思うはしたが、水にしてはやけに粘度が高いように感じた。佳純はすぐに起き上がらず、転んだ時に手に付着した液体を確認した。しかし暗がりであるため、目を凝らしてもそれが何であるかは分からなかった。

 だが、液体から漂う臭気が、佳純の記憶に眠るある惨状を想起させた。首の刺傷。変形した顔。泣き叫ぶ友人。無力な自分。鼻孔をくすぐる鉄臭さが、それらの光景を呼び覚ました。

「これ……血だ……⁉」

 服が汚れることもいとわず、佳純は慌ててポケットをまさぐり携帯を取り出した。そして辺りをライトで照らすと、そこはまさに血の海だった。いや、規模からして池と呼ぶべきかもしれない。どちらにせよ、おびただしい量の血が、床を染め上げようとしていることに変わりはなかった。

 佳純は口元を押さえながら、窓際へと駆け寄った。こういった状況は見慣れているつもりだった。けれどやはり、いざ目にすると耐えられるものではない。

 何度も嘔吐しかけたが、それでもどうにか心を落ち着け平静を取り戻した。気を静めるのに時間をかけたおかげか、暗がりに目が慣れ、教室内がある程度見えるようになっていた。すると、床に広がる血溜まりの一部が、廊下へと伸びているのが分かった。

 後を追うように廊下へ出ると、何かを引きずったと思われる跡が、更に先まで伸びていた。どこまでも続くその跡を道標の代わりとし、佳純はひたすらに進んでいった。長い廊下を曲がり、階段をひたすらに上がっていく。そして、屋上へと続く扉まで辿り着いた。

 躊躇いを感じつつも、今更だと割り切ってドアノブを回す。扉を開けた瞬間、視界を遮るように凍てつく風が後ろへと吹き抜けていく。薄目を開けて見える屋上の中央に、少女は立っていた。

 佳純よりも、頭一つ分以上に高いスラリとした長身。ショート寄りのセミロングの黒髪が、風になびかれ揺れている。少女は扉が開いたことに気付いたのか、ゆっくりとこちらを振り向いた。

「久しぶり、佳純。待ってたよ」

 そうやって向けられた無垢な笑顔は、あまりにも純粋で、近付けないと思わせるほど美しかった。姿を見ただけで、声を聴いただけで分かってしまう。それは佳純が好きになった人。愛した人。この世に二人といない特別な存在なのだと。

「……遥」

「あれ? アタシ、今何で久しぶりなんて言ったんだろう? いつも学校で会ってたのにね。でも、不思議とそう思うんだよね。変かな?」

「……そうだね。だけどあたしも、遥と会うの久しぶりって思うんだ。変かな?」

「ウフフ、二人してそう思うなら別に変じゃないか!」

 そう、何もおかしなことなどない。たとえ、明確な記憶が残っていなかったとしても、五年という長い歳月が経過したことを、遥も感じているんだ。その間、佳純がどんなに遥のことを思い続けていたかを、当の本人である遥が知っているはずもない。

 けれど、そんなことはもうどうでもいいんだ。ほんの少し前までは、遥に会うことが怖かったはずなのに、そんな感情はどこかへ行ってしまった。今はただ、遥にもう一度会うことが出来たというその事実だけが全てだった。

「ああ……遥だ。本当に、遥なんだ。ずっと、ずっと会いたかった……」

「うん。アタシもだよ、佳純」

 佳純は遥のもとへと歩み寄り、手を握った。そしてそのまま、存在を確かめるように、遥の手をそっと自分に頬へと押し当てた。温もりを、柔らかさを、脈動を、遥の全てを感じることが出来た。

 そして気付いた。遥の手から、噎せ返るほどの血の臭いがすることに。

「そういえば佳純。アタシが屋上にいるって、どうして分かったの?」

「あっ……それは、えっと……」

 遥との再会に浮かれ忘れかけていたが、この場所に来てすぐに佳純は凄惨な現場を目撃している。それなのに、佳純よりも先にいた遥があの現場を目撃していないはずがない。それどころか、恐らく遥はあれに関わっている。佳純の中には、そんな確信めいたものがあった。

「その……遥が言ってた教室に入ったら、床に血溜まりが広がってて……。そこから伸びてた血の跡を辿って、ここまで来たんだ」

「ああ、アレか! そっかー、なるほど。そうだったんだ」

「ねえ遥! あれは……何なの? あの教室で一体、何があったの?」

「ん? 気になるの? だったらほら、あそこを見てごらん」

「あそこ……?」

 遥が指さした先はフェンスであり、特別何かがあるようには見えなかった。しかしよく目を凝らすと、教室から伸びていた血の跡がそこまで続いており、その先には人影らしきものが見えた。人影を視認できる距離まで近付くと、そこにいたのが佳純もよく知る人物であると分かった。

「……五十嵐……先、輩⁉」

 まるで額縁に飾られたかのように、五十嵐はフェンスに磔にされていた。金網に無理やり手足を通されたその姿は、神の独り子を思わせるものだった。しかし、かの御仁の如き神々しさなど欠片なく、ただただ醜悪で悍ましいものでしかなかった。

 太陽のように眩しく輝いていた笑顔も、今では生気を失い、呆けた顔のまま絶命していた。

「アレ、運ぶのすごく大変だったんだよ。大きいし重いし。だけど、あんなのでもああやって飾れば、少しはマシに見えるよね!」

「……何で、先輩が?」

「佳純、どうかしたの? ああ、そっか。佳純は、アレのことが好きだったんだもんね。ごめんね、勝手に殺しちゃって」

 その謝罪はあまりにもぞんざいで、人ひとり殺したなどとは到底思えないものだった。しかしそれこそが、佳純が知る遥という存在である。

 教室の血溜まりを見た時から、薄々そうではないかと思っていた。けれどまさか、その相手が五十嵐だとは、佳純も予想していなかった。

「もしかして佳純、怒ってるの?」

「……ううん。怒ってなんかないよ」

 遥が言うように、佳純が五十嵐を好きだったことは事実である。佳純自身、そのことを自覚していた。しかしその好意は、恋愛感情によるものではなかった。

 一年半前、佳純は遥と再会したことで、遥と共に過ごせる日常を手に入れた。だがそれと同時に、どうしても埋めることの出来ない喪失感が生れた。人間となった遥に対して、物足りなさを感じていたのだ。

 そんな時に、佳純は五十嵐と出会ったのだ。最初はただ、容姿や才能に恵まれただけのつまらない人間だと思っていた。けれど、関わりを深めていく中で、五十嵐の内に潜む屈折した部分が徐々に見えてくるようになったのだ。

 当然五十嵐は、そんなものをおくびにも出してはいなかった。五十嵐の不道徳的な行いについても、佳純は何一つとして知り得てはいない。だがしかし、長らく遥の傍にいた佳純は、五十嵐の異質さを本能的に感じていたのだ。

 それ故に、佳純は五十嵐に惹かれていった。遥には遠く及ばないが、五十嵐という存在は、佳純の空虚さを満たしてくれていたのだ。形こそ歪ではあったが、好きと思う感情に嘘偽りはなかった。

「……それに、前にも言ったじゃん。好きだけど、そういうのじゃないって」

 好意自体は本物であった。しかしそれは、代用品に湧いた僅かな愛着のようなもの。本物が目の前にある以上、今の佳純にとって五十嵐など、使い道のないガラクタ同然であった。

「そう、なら良かった。そんなことよりホラッ、空を見てよ! お月さまが、あんなに綺麗に輝いてるよ!」

 そうはしゃぐ遥につられ、佳純も空を見上げた。辺りはこんなにも暗いというのに、街の明かりのせいで相変わらず星一つ見えやしない。そんな夜空に浮かぶのは、淡い光を放つ三日月だけであった。その輝きは、決して弱いわけではない。けれど、綺麗だと称するにはあまりにも儚く、寂しげなものであった。

「いつか佳純と一緒に、あのお月さまを見たいって思ってた。その夢が、今叶ったよ」

「……そっか」

 夢が叶った。無邪気に笑う遥の顔を見て、佳純はだけ少し申し訳なくなった。確かに二人は、同じ月を見た。けれど、同じ月に見えたわけではないのだ。

 前にも言ったが、遥と佳純では見えているものが違う。生きている世界が違う。今更気にしたところで仕方がないことだ。どれだけ夜空を見上げようとも、遥と同じものは見えない。佳純の頭上には、淡く光る三日月があるだけであった。

「ねえ佳純。アタシがどうして、この場所を選んだか分かる?」

「え? うーん、そうだなぁ……ここが、あたし達の母校……だから?」

「ウフフ、それもあるけど違うよ。ここはね、この街で一番高いところなんだ。一番高くて、一番空に近い場所。だからアタシは、ここで佳純と話がしたかったんだ」

 遥は夜空を見上げるのをやめ、佳純の方へと向き直った。そして佳純の手を取り、自身の両の手でそれを握った。優しく、けれど力強く、佳純の小さな手を包み込んだ。

「遥……?」

「アタシね。佳純にずっと、お礼が言いたかったの」

「お礼? あたしなんかに……どうして?」

「だって佳純は、アタシに大切なことを気付かせてくれたから」

 遥が向けた視線は、しっかりと佳純を捉えていた。それは空虚なわけでも、吸い込まれそうな穴でもない。目の前にいる佳純と真剣に向かい合う、真っ直ぐな瞳だった。

「アタシは、ずっと自分が独りぼっちだと思ってた。でも、そうじゃないって教えてくれた。佳純の中に、アタシがいることを教えてくれた」

「……やめてよ。遥にお礼を言われる資格なんて……あたしには無い。むしろあたしは、遥に謝りたいって思ってた。ひどいことを言って、遥を傷付けた……」

「うん。確かにあの時のアタシは、佳純の言葉を受け止められなかった。だけど、今なら分かる。佳純の気持ちや思いを、ちゃんと感じることが出来る。だから」

「違う! 違うよ……。あたしはただ身勝手な思いを、自分のわがままを、遥にぶつけただけなんだ。そのせいで、遥は……」

 遥を壊してしまったのは自分なんだ。その悔しさが、惨めさが、不甲斐なさが、涙となって零れ落ちていく。ようやく遥は、佳純と向き合おうとしてくれた。それなのに、向き合えと言ったはずの佳純自身が、今は遥と向き合えずにいた。俯いた顔を上げられずにいた。

 そんな情けない思いが佳純の頬を熱く濡らしていく。自分のためにしか流せない涙が、屋上の床へと染み込んでいく。しかし突然、涙ではない別の温かさが佳純の頬に伝わってきた。

「だけど、そのおかげでアタシは、大切なことに気付けたんだよ」

 遥は、俯く佳純の頬に手を添えて、その顔を上げさせた。指先で涙を拭い、遥はそっと微笑んだ。遥の顔を見て、佳純は不意に昔のことを思い出していた。

 ……そういえば、あたしも同じようなことをしたっけ? 今の遥みたいに、こんな優しくはなかったけど。

 そんな風に自嘲しながらも、遥の微笑みに佳純も笑顔で応えた。二人が笑い合うのはいつ以来であろうか。いや、これが初めてなんだ。ようやく二人は、本当の意味で向き合うことが出来た。心から笑い合うことが出来たんだ。

「佳純の中にアタシがいる。アタシの中にも佳純がいる。そう感じるでしょ?」

「……うん。感じるよ、遥のことを」

 鼓動を伝え合うように、存在を確かめ合うように、気付けば二人は互いの胸に手を押し当てていた。一つになるでもなく、溶け合うわけでもない。だからこそ、それぞれの中にもう一人の自分を感じられる。

「ずっと独りだと思ってた。だけど、アタシの中にもちゃんといたんだ。佳純がそれを気付かせてくれた。だからお願い、お礼を言わせて?」

「うん……分かった」

 押し当てた手を後ろへ回し、互いをきつく抱き締めた。異なる心音が、それぞれの中へと響いていく。

 もし仮に二人が一つの存在だったなら、もっと早く分かり合えていただろう。けれど、別々の存在であったからこそ、相手のことを知りたいと思えた。寄り添いたいと思えた。別々の存在であったからこそ、互いを抱き締め、温もりを分かち合うことが出来たんだ。

「アタシに大切なことを気付かせてくれて、ずっと傍にいてくれて、友達でいてくれて、ありがとう。大好きだよ、佳純」

「遥っ……‼」

 もうこのまま、舞台の幕が下りてしまえばいい。そうすれば、七瀬佳純の物語は悲劇とならずに済むのだから。出会い、失い、最後には再会を果たす。そんなありふれた喜劇として終演を迎える。そうなることを、佳純は願っていた。

 ――しかし、忘れてはならない。春日野遥の物語において、七瀬佳純は呪いをかけた悪い魔女でしかないことを。

「けどね、」

 喜劇はいつだって、お決まり通りの筋書きで終わるのだ。春日野遥の物語においても、それは例外ではない。王女にかけられた呪いは解け、呪いをかけた魔女はその報いを受ける。主役は大いに笑い、悪役は惨めに泣き崩れる。それこそが王道、大団円というものである。

「アタシは佳純と、お別れをしなくちゃいけない。さよならを言わなくちゃいけない。だってアタシは、そのために帰って来たんだから」

 煮え滾るような熱さが、胸の奥から湧き上がってくる。それはまるで、突き刺さるような、貫かれるような熱さ。しかし、これは決して比喩などではない。事実として、遥の握る刃が佳純の胸に突き刺さり、貫かんとしていたのだ。

 唖然とする暇もなく、花が咲くように衣服は赤く染まっていく。身体中を駆け巡る血液が食道へと流れ込み、出口を求め競り上がる。一気に口内は鉄の味で満たされ、収まりきらない血液は外に溢れ出していった。

「……はっ、はぁあ……はぁ、はぁ……」

 次第に呼吸が困難になり、立つことすらままならなくなった。佳純は力尽きたかのように倒れ込み、屋上の床に横たわる。不思議なものだ。燃えるほど熱いはずなのに、全身が寒さで震えている。のたうつくらい痛いのに、眠くて意識が遠くなる。

「バイバイ、佳純」

 辛うじて聞き取ることの出来た、最後の言葉。これでもう、本当にお別れなんだ。

 こうなることは最初から決まっていた。そのことを分かった上で、佳純は遥に会いに来た。それでもやはり、別れとは辛いものだ。たとえ結末を知っていても、流れ出る涙を止めることなど出来はしない。涙が血液と混ざり合い、床一面に悲しみが広がっていく。

 ……遥と別れるのが辛くて、あたしはこんなに泣いたんだよ。遥と別れることは、こんなに悲しいことなんだよ。その思いが、少しでもは遥に伝わるといいな。

 ……そういえばまだ、遥とお別れをしていなかった。本音を言えば、ずっと一緒にいたかったけど、何も言わずに別れるよりはいいか。

「……ばぁい……ぁい、は、るぅ……かぁぁ……」

 ……ああ、ダメだ。全然ちゃんと言えなかった。それでも、遥に届いたかな? 届いてるといいな。

 薄れゆく視界に、三日月が映り込む。儚く寂しげで、どうしようもなく孤独な三日月。やはり佳純には、あの淡い輝きを綺麗だとは思えなかった。

 あんな淡い光さえ、もう見えなくなるんだ。だったら最期くらい、遥と同じものが見てみたかった。そう思いながら、佳純は静かに目を閉じた。


 三日月だけが輝く寒空の下、少女は笑っていた。屋上に一人。踊るようにくるくると回り、歌うように高らかと笑っていた。

「ねえ! ねえねえ‼ 見てた? 見ててくれた? アタシやったよ。頑張ったよ!」

 自分以外は誰もいない屋上へと、少女は語りかける。当然言葉は返って来ず、静寂と言う返答のみがただ虚しく響いていた。それでも少女はめげることなく、いるはずのない誰かへと語りかけた。

「これでようやく、あなたとの約束が果たせる。今なら、あなたみたいに素敵に笑える! 自分よくじゃ分からないけど、きっとそうだって思えるの!」

 少女は約束を果たした。あの日、あの夜、自分を救ってくれた存在と交わした約束を。

 だからきっと応えてくれるはずだ。黙り込んでいるのは、声が聞こえていないからだ。笑顔が届いていないからだ。そう思った少女は、なおも笑い続けた。

 こだまする笑い声が、後から静寂を連れて来る。そんなことをもう何度繰り返しただろうか。いつしか少女も疲れ果て、笑い声も掠れたものとなっていた。それでも、少女に応えてくれる者はいなかった。

「ねえなんで? どうして、何も言ってくれないの……? アタシ、あれからずっと頑張ったんだよ……。信じてたんだよ。だから……お願い……」

 泣き出しそうになりながらも、少女は憑かれたように笑顔を作った。最後の力を振り絞り、届け届けと願い続けた。しかし、それが聞き入れられることはなく、無常で残酷な沈黙がそこにあるだけだった。虚ろな瞳から零れた涙は、流れ星のように消えていく。そして少女は、天を仰ぎ見ることを止めた。

 少女は全て捨て去った。望んだ自分になるために。

 少女は全て失った。求めた世界で生きるために。

 少女の中には、もう何もない。家族も、友人も、願いも、約束さえもありはしない。いくら胸に手を当てても、穴だらけの心は塞げない。空っぽの思いは埋められない。たった独りの心音が、規則正しく聞こえてくるだけであった。

 少女の全身を、かつても味わった孤独が掻き毟っていく。寒さが、痛みが、苦しみが、再び心を蝕んでいく。こんなはずじゃなかった。自分は変われるはずだった。自分の全てを犠牲とすれば、きっと生まれ変わることが出来る。少女はそう思っていた。

 しかし、現実は違っていた。少女は生まれ変わることも出来ず、ただ惨めに足元を見つめていた。何もかもを手放して、伽藍洞となった自分自身だけがその場に独り残された。だが、少女は気付いてしまった。自分がまだ、全てを捨てていなかったことに。

「そうか、ここにまだ……残ってた」

 まるで吸い寄せられるように、少女はフェンスへと歩み寄った。そして、躊躇いもせずにフェンスを登り始め、瞬く間に屋上の縁に降り立った。

 煌々と輝く夜景を背に、少女は屋上を見渡した。屋上にあるのは、磔にされたガラクタと、血溜まりに横たわる友人だったものだけだ。しかし、少女が向けた視線の先には、そのどちらも映ってはいなかった。

 少女が見つめていたのは、自分と同じ姿をした、もう一人の少女だった。それが何者であるのかを、少女は誰よりも知っていた。

 その少女は、己が存在の曖昧さに苦しみもがきながらも、答えを求めた。

 その少女は、たった三十センチ先の世界に憧れを抱き、一歩を踏み出す覚悟を決めた。

 その少女は、あまりに遠い憧れを前に、己を偽物と決めつけた。

 その少女は、己の中に答えを見出し、眠ることを選んだ。

 その少女は、紛れもないかつての自分だ。人間として生き、人間として死ぬことを望んだ、もう一人の自分であった。

 ……置いて行かないで。私も一緒に連れて行って。

 不安を隠しきれない瞳が、寂しげに語りかけてくる。共に行けたらいいのにと、そう思う気持ちはあった。だが、それは出来ない。少女にとって、それは最も不要なものだったから。

 あんなにも自分を思ってくれた存在を見捨てることは、少女にとっても忍びないことであった。だからせめてもと、激励の言葉を贈ることにした。

「大丈夫。きっとすぐに、こっちに来れるから。だから待ってて」

 寄る辺のない気持ちが見え隠れしていたが、もう一人の自分はそっと頷いてくれた。そうして、精一杯の笑顔を見せて、静かに消えていった。見送りが済んだ後、少女は微かに笑い再び天を仰ぎ見た。そして少女は目を閉じ、飛び立つかのようにゆっくりと身体を後ろに倒し、屋上の縁を蹴った。

 少女の身体が宙に舞う。しかし、少女は鳥ではない。ましてや魔法使いでもない。大空へと羽ばたくことも、星空を駆け抜けることも出来はしない。重力という理に引かれながら、ただそのまま落ちていくだけだ。


 遠くなる。あんなにも近かったはずの空が、遠くなっていく。だが、それでいいんだ。そうあるべきなんだ。何故ならそれは、少女自身が望んだことだから。

 少女は自らをバケモノだと蔑んだ。それは揺ぎ無い事実だろう。だがそんなバケモノでも、普通の人間と何ら変わりはしなかった。一つだけ違っていたのは、少女は生まれながらに命というものを知っていたこと。

 だからこそ、誰よりも死に対する恐怖を抱いていた。自覚こそしていなかったが、少女にとって命を奪うことは、死の恐怖から逃れたいがための代償行為に過ぎなかったのだ。しかし人の身である以上、死から逃れる術はない。安息の地などどこにもありはしなかった。

 それでも少女は探し続けた。手にした全てを失いながらも、足を止めはしなかった。そしてようやく、少女は辿り着いたのだ。

 ――死ぬことこそが、恐怖から解放されるただ一つの方法なのだと。

 少女が歩んだ、苦難の旅路が今終わる。少女の心は今までにないほど満たされ、安堵の表情を浮かべていた。すると、少女のもとに高らかな笑い声が聞こえてきた。目を開けると、あの時と同じ三日月が嗤っていた。夜空の三日月が、ようやく少女に応えてくれた。





 最後に少女は、とても素敵な笑顔を三日月に届け、また目を閉じた。




 ありがとう。

 さようなら。

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