第7話 真実

 ホームルームが終わり、クラスメイトたちは三々五々に散っていく。部活へ行く者や教室で駄弁る者、早々に帰宅する者と実に様々である。

 放課後、学校に用のない遥はいそいそと帰り支度を済ませ、昇降口へと向かった。下駄箱に内履きをしまい、外履きに履き替えようとする遥を、意外な人物が呼び止めた。

「春日野さん、ちょっといいかな?」

 五十嵐和哉、言わずと知れた校内の有名人である。佳純と一緒の時ならいざ知らず、遥が一人の時に話しかけて来たことなどこれまでにはなかった。そのためか、遥は自然と警戒態勢を取り、一歩距離を空けた。

「……何ですか?」

「今、時間あるかな? 春日野さんと話したいことがあってさ」

「五十嵐先輩なんかが、私に何の話ですか?」

「なんかって……酷い言われようだな。僕、春日野さんに嫌われるようなこと何かしたかな?」

「いえ、特に何も」

 実際、五十嵐に何かをされたことなどない。けれど、気がかりなことならあった。以前会った時、去り際に言われた「また今度ね」という意味深長な言葉。もしかしてそれは、今のことを言っていたのだろうか。

 よりにもよって、佳純がいない時に来るとは間が悪い。いや、ひょっとしたらそれを見計らって話しかけてきたのかもしれない。そう考えると、なおのこと五十嵐が不気味に思えて仕方がなかった。

 それにしても、五十嵐が纏う雰囲気は、どことなく殺人鬼ちゃんに似ている気がする。本人を前にして、遥は改めてそう感じていた。けれど、殺人鬼ちゃんにこんな嫌悪感は抱かない。性別による違いでもあるのだろうか。

「それで、お話ってなんですか? 早めに済ませて欲しいんですが」

「何か用事でもあるの?」

「早く帰りたいだけです」

「ならいいじゃないか。僕は春日野さんとゆっくり話がしたいから」

 遥は一刻も早くこの場を去りたかった。理由は簡単である。帰りたいというのも本当だが、それ以上に五十嵐と一緒にいたくなかったのだ。子どものような理由であるが、それが遥の包み隠さない本心であった。

「そうですか。でも、私は先輩と話したいことがないので帰ります」

 正直、我ながらこれは酷いと思った。いくら嫌いな相手とはいえ、ここまで露骨に避けなくてもいいはずだ。けれどどうしても、五十嵐に近寄りたくなかった。どんな屁理屈をこねてでも、その存在を拒絶する何かが遥の中にはあったのだ。

「……そっか。だったら、春日野さんが僕と話をしたくなる物を見せてあげるよ」

 そう言って五十嵐は徐に携帯を取り出し、液晶画面に映し出された一枚の写真を遥に提示した。

「これ、何だか分かる?」

「――っ⁉」

 そこに映し出されていたのは、血溜まりに横たわる遺体と、その場から去ろうとする少女らしき人影。それは紛れもなく、先日、高宏が佳純に見せた写真と同じものであった。

「どう? これで、僕と話をしてくれる気になった?」

 必死に動揺を隠そうとしたが、ニヤリと笑う五十嵐を前に手遅れであると理解した。既に手遅れであるのなら仕方がない。今はただ、この状況をどう対処すべきか考えなくてはならなかった。

 まず、高宏が言っていた事件の目撃者というのは、間違いなく五十嵐のことだ。警察である高宏と同じものを五十嵐が持っているなど、そうとしか説明がつかない。更に、写真に写っている人影が遥であることを五十嵐は知っている。でなければ、こんな風に写真を見せたりはしないはずだ。

 だがしかし、写真に写っているのが遥だと知っているのなら、何故それを警察に言わなかったのか。どのように思考を巡らせても、五十嵐に生じるメリットが浮かばない。加えて、殺人鬼ちゃんのことを認知しているかどうかも気がかかりであった。

 何にせよ、この時点で遥は、五十嵐と話をつけなくてはならない理由が出来たのだ。

「……分かりました。少し、話をしましょうか」

「良かった! それじゃ、場所を移そうか。僕としても、他に人がいないところで話がしたいからね。どこがいいかな?」

 学校内であっても、人が来ない場所はいくらでもある。だが、話す内容が内容だ。万が一があってはならない。そのため、話をするのは確実に人が来ない場所でなくてはならなかった。候補地を絞っていく中で、遥は条件に合う場所を思いついた。

「……坂の上公園はどうですか? 少し歩きますが、まず人が来ることはありません」

「あそこか……うん、いいね。そこにしよう」

 提案したのはいいが、あまり気は進まなかった。あそこは遥にとっても、殺人鬼ちゃんにとっても特別な場所だ。そこに五十嵐を連れて行くことは、聖域に汚物をまき散らす行為に等しかった。しかし、急を要する上に、確実性を重視するのであれば止むを得ない。

「じゃあ、僕はもう行くけど、一緒に行くかい?」

「いえ、私は一度家に帰ってから向かうので、先に行ってて下さい」

「うーん、女の子を待つのは歓迎だけど、この時季だとちょっと辛いかなぁ……」

「それなら、校舎裏の右端から三番目の窓が開いているはずなので、そこから中に入って下さい。外よりはいくらかマシなはずですから」

「へえー、そうなんだ。分かったよ。じゃ、先に行ってるね」

 五十嵐は、自分の下駄箱がある昇降口へ向かう途中「一応、言っておくけど」と振り返り、遥に釘を刺した。

「もし来なかった場合……分かってるよね?」

 そんな脅し紛いの言葉に、遥は沈黙を貫いた。それを返答と受け取ったのか、明るく不愉快な笑顔を見せながら、五十嵐は行ってしまった。無意味に垂れ流されるスノーノイズを見るように、遥はただ眺めていた。その姿が見えなくなるまで、光を宿さない虚無的な瞳が、五十嵐を見つめ続けていた。


 遥が坂の上公園に着いた頃にはもう、日が沈みかけていた。前に来た時よりも底気味悪く感じてしまうのは、夕暮れのせいだろうか。それとも、五十嵐が待っていると思うからなのだろうか。

 校舎裏に回り屋内を確認すると、五十嵐が机の上に座っていた。視線に気付いた五十嵐は、笑みを浮かべながら遥へと歩み寄り、窓を開けた。

「待ってたよ、春日野さん。来ないんじゃないかと心配してたけど、ちゃんと来てくれたね」

「……ええ、本当は来たくなかったんですけど。あんな風に言われれば、来るしかありませんから」

「くふっ、そうだよね。それじゃ、中に入ってよ」

 五十嵐の言う通りにするのは癪に障るが、遥は申し訳程度に靴をはたいてから中に入った。教室内は以前とは違い、机や椅子が片側に寄せてある状態であった。恐らく、待っている間に五十嵐が動かしたのだろう。

 教室内に出来た空間には椅子が二つ置かれており、五十嵐はどうぞと言わんばかりに片方の椅子を手で指した。遥が椅子に座ると、満足げな顔をして五十嵐も椅子に座った。

「あははっ! やっと春日野さんと話をすることが出来るね!」

 いつもは大人びた振る舞いの五十嵐が、どことなく子どものように落ち着きなくはしゃいでいるように見えた。そこに可愛げなどはなく、遥からすれば薄気味悪いとしか感じなかった。

「やけに嬉しそうですね。そんなに私と話したかったんですか?」

「ああ! だって僕は、春日野さんのことがずっと好きだったからね」

「そうです……か、……はぁっ⁉」

 一瞬、聞き間違いかと思った。だが、幸か不幸かそんな聞き間違いをするほど、頭も耳も正常さを失ってはいなかった。けれど今だけは、致命的な異常が存在していて欲しいと心から願ってしまった。

「ど、どういうつもりか知りませんが、冗談ならやめてもらえますか?」

「冗談なんかじゃないさ。初めて会った時から、僕は春日野さんのことを好きになったんだ。多分、一目惚れだったと思うよ」

 五十嵐の告白が冗談ではないと判明したことにより、遥の心中は最悪そのものだった。好きと言われれば、相手のことを意識して好きになってしまう。そんな心理が人間には存在している。しかし好意の返報性とは、両者の関係がフラットであることが前提である。故に、自身が嫌っている相手からの好意など、不愉快なものでしかないのだ。

 遥は湧き上がる悪寒と吐き気を、奥歯を力強く噛み締めながら必死に堪えた。そして、無言のまま五十嵐をきつく睨み付ける。

「うーん、そんなに睨まないで欲しいな。嫌われてるのは分かってたけど、そこまであからさまだと流石にショックだよ……」

「だったら最初から、告白なんてしなければいいじゃないですか! そもそも、私はそんなことを言われるために来たわけじゃありません」

「それもそうだね。なら、本題に入ろうか」

 五十嵐は薄ら笑いを浮かべながら、自分のポケットをまさぐる。そして中から携帯を取り出し、「これの話、だよね?」と先ほど見せたものと同じ写真を映し出した。

「先に言っておくけど、この写真はもう警察に渡してある。だけど、春日野さんのことは何も話してないから、安心していいよ」

 既に高宏から話を聞いていた遥からすれば、そんなことは分かり切っていた。だとしても、安心など出来るはずがない。それを知ってか知らずか、一人へらへらとしている五十嵐に、無性に腹が立った。

 だが今は、そんなことに気を立てている場合ではない。目の前の問題に対処していく方が優先である。

「……いくつか聞いてもいいですか?」

「いいよ。どうぞご自由に」

「その写真を撮った時、私以外の人を見ましたか?」

「……いや、春日野さん以外は誰も見てないよ」

 少し考える素振りを見せたが、嘘をついているようには見えなかった。まだ確定したわけではない。それでも、五十嵐から殺人鬼ちゃんの存在が明るみに出る、という不安要素は無くなったと考えていいだろう。

「そうですか。ならどうして、私のことを警察に言わなかったんですか? 好きだから、なんて理由じゃないですよね?」

「半分くらいはそれが理由だよ。でも確かに、それが全てじゃないね」

「全てじゃないなら、本当の理由は何ですか?」

「本当の理由か。正直、大した理由はないんだよね。ただ何となく、多少のスリルがあった方が、面白いかなって思っただけだよ」

 どうも五十嵐は、この状況を楽しんでいるように見える。もし本当に、五十嵐が遊び半分で今の状況を作ったのだと思うと、怒りを通り越して呆れてしまう。

「……ふざけないでもらえますか?」

「ふざけてなんていないさ。いたって真剣だよ。僕だって、春日野さんに捕まって欲しくないって、本気で思ってるよ? だって君は、僕にとって唯一の〝理解者〟だからね」

「……理解者?」

「そうだよ。僕らはこの世界でも数少ない、本当の意味で互いに分かり合うことが出来る存在なのさ」

 単純に、五十嵐が何を言っているのか分からなかった。今の発言すら理解出来ないというのに、互いの理解者であると豪語するなど、笑い話にもならない。

 それ以前に、一体何をもって五十嵐がその様なことを思ったのか、全くの不鮮明であった。

「理解者って、なんのことですか?」

「分からないのかい? でも、とっくに気付いているはずだよ。僕らは初めて会った時から、互いを意識していた。僕は好意、春日野さんは同族嫌悪という形でね」

「同族……? 私と先輩の、何が同じだって言うんですか‼」

 静かではあったが、遥の奥底から燃え盛るような怒りが込み上げてきた。同族と言われたことがどうにも我慢できなかった。五十嵐を嫌っているのだから当然と言えば当然である。けれど、それ上回るものが腹の底に潜んでいる気がしてならなかった。

「同じだよ。と言っても、君は僕のことを知らないから、認められないのも無理ないか。そうだな……折角だから、僕のことを教えてあげるよ。その代わり、少し昔話に付き合ってもらうけど、いいかな?」

「……はい」

 本音を言えば、五十嵐の話など聞きたくはなかった。しかし、このままでは話が進展しないことも明白であった。そのため気乗りはしないが、遥は五十嵐の昔話とやらに付き合うことにした。

 そうして五十嵐は、手を組みながらやや前のめりな姿勢を取り、物思いにふけるような表情で語り出した。

「昔、僕の家では犬を飼っていたんだ。僕が産まれる前から飼っていた犬でね、ルナって名前だったんだ。僕はルナのことが大好きで、ルナも僕によく懐いていたよ。大切な家族であり、僕にとっては初めての友達だった」

 五十嵐が語り出したのは自身の話ではなく、飼っていた犬の話だった。何故そんなことを語るのか、いまいち要領を得なかったが、遥はそのまま聞いてやることにした。

「……けど、僕が十歳の時、ルナは死んだ。寿命だったんだ。死ぬ直前に、ルナは僕のもとに来て、寄り添いながら静かに息を引き取ったよ」

 生き物を飼っていれば必ず訪れる喪失と別れ。それを嫌う人も多くいるが、命の在り方を学ぶという意味ではこれに勝る経験はないだろう。

 だが、別段珍しくもない話だ。それに、これが遥とどう結びつくのか皆目見当がつかなかった。こんな話をして、五十嵐は一体どうしようというのだろうか。

「あの時は本当に、干からびるほど泣いたよ。今思い出しても、涙が出そうになる。そのくらい悲しかった。……でもね、その時からずっと、ある一つの欲求が僕を駆り立て続けたんだ。それは、」

 その瞬間、教室内の、いや、五十嵐が放つ空気が変化した。それはあまりにも異質で、普段の五十嵐とは明らかに違っていた。そう、この時遥は、初めて本物の五十嵐和哉と対峙することとなったのだ。

「生き物が死ぬという……あの感覚っ! 命の炎が消えていく感覚を、もう一度……もう一度味わいたい! いやっ! 一度だけじゃ物足りない。たとえ反芻してでも、何度も何度も味わい続けていたい‼ ……そんな風に、思うようになったんだ」

 今遥の目の前にいるのは、学校中の誰しもが知る五十嵐などではない。獣のような荒い息遣い、獲物を舐るような視線、いやらしく纏わりつくねっとりとした雰囲気。それはまさに捕食者そのものであった。

 遥がずっと感じていた、五十嵐の内に潜む不気味さや不自然さ。その正体が、ようやく露わとなったのだ。

「だから僕は、また犬を飼おうとしたんだ。……けどそれじゃあ、いつ死ぬかなんて分からない。辛抱強くなかった僕は、すぐにでもあの感覚を味わいたかったんだ。そのためにどうすればいいか、必死になって考えたものさ。まぁ、答えはとても簡単だったけどね」

 五十嵐は再び携帯を取り出し、液晶を指でなぞり始めた。唐突に薄気味悪い笑みを浮かべたかと思うと、そのまま遥に携帯を差し出した。

「これを見ておくれよ」

 差し出された液晶を見た遥は息を飲み、言葉を無くした。そこに映されていたのは、数え切れないほどの小動物の死体であった。しかもそれらは、疑う余地なく意図的に殺されていた。それも、嗜虐的趣向の持ち主によるものだとすぐ分かるような、残忍な殺され方であった。

 頭を潰されているもの。四肢を引き千切られているもの。内臓を無理やり引きずり出されているもの。全身が焼けただれているもの。どれも目を背けたくなるような、惨たらしいものばかりであった。

「どうだい? どれも素晴らしいだろ? 簡単なことだったんだ。死ぬのを待つんじゃない。僕が殺してしまえば良かったんだよ! そのことに気付いてからは本当に楽しかったよ。四六時中、生き物を殺すことばかり考えて、そのための飼育小屋を山奥に作ったくらいさ」

 この男は、五十嵐和哉は狂っている。何かを隠しているとは感じていたが、ここまでとは遥も思ってはいなかった。こんなにも冷酷無比な人間が、普段は溢れんばかりの笑顔を振りまいていたのだ。

「でもね、最近はそれだけじゃ満足出来なくなってしまったんだ……。どうしたものかと困り果てていたある夜に、僕は見たんだ……!」

「……見たって、何をですか?」

「もちろん決まっているだろ? 春日野さんをだよ。人を殺している君を見た。あれを見た瞬間、これは運命なんだと確信したよ! ずっと思っていた人が、自分と同じ……いやそれ以上の存在だったんだからね‼」

 ようやく遥は、五十嵐の言う〝理解者〟という言葉の意味を解することが出来た。五十嵐はあの現場を目撃したことで、遥を殺人犯だと思い込んでいる。それも自身と同じく、嗜虐的趣向を持つ異常者だと勘違いまでしている有様だ。

 こんなことならば、殺人の容疑を掛けられて、脅し紛いの尋問を受ける方が良かったとさえ思った。

「先輩がどうして、私を理解者と呼ぶのかは分かりました。ですが私は、人殺しなんてしていない。あなたのような狂人に、同族呼ばわりされる筋合いはない!」

 遥の言葉に、五十嵐は僅かに面食らった表情を見せた。だがすぐに、呆れたと言わんばかりに溜息をつき、顔を手で覆いながら項垂れた。

「……まさかここまで来て、白を切るなんて思っていなかったよ」

「白を切るも何も、誤解だって言ってるじゃないですか! そもそも、あんな写真一枚で人を殺人者扱いする方がどうかしている」

 そうだ。自分は人殺しなんてしていない。遥の中にその事実がある限り、五十嵐が何を言おうと怖くはなかった。たとえ警察に垂れこまれようとも、言い訳などいくらでも出来る。

 それどころか、警察と深く関わることで追い込まれていくのは五十嵐の方である。動物虐待のことが露呈すれば、罪に問われるのは間違いない。

 勝ち誇るとまでは言わないが、圧倒的に優位な立場となった今の状況に、遥は多少の優越感を覚えていた。

「はぁ……。まさか、たかだか写真一枚で、僕がここまでのこじ付けをしたと思っているのかい? だとしたら、誤解しているのは君の方だよ」

「……え?」

「言っただろう? 僕は見たんだ。君が――人を殺しているところをね」

「何を……言って、いるんですか?」

「その写真フォルダを、一番下までスクロールしてごらんよ? それを見てもまだ言い逃れが出来るのなら、是非聞いてみたいね」

 立場が逆転したかのように、五十嵐は自身の優位性をひけらかす。その態度を怪訝に感じながらも、遥は液晶を指でなぞっていく。

 殺すところを見た? 言い逃れ? 何を言おうと無意味だ。フォルダの下にどんなものがあるのかは知らないが、今更遥が揺らぐことはない。揺らぐことはない……筈だった。

「……嘘……⁉ 何、これ……?」

 フォルダの一番下に保存されていた写真を見た途端、遥は手に持っていた携帯を床に落とした。落ちた携帯は回転しながら床を滑り、五十嵐の足元で止まった。自身の携帯を拾い上げ、うっとりとした表情で五十嵐は液晶を眺めた。

「本当に、何度見ても美しい姿だ。こんな素敵な笑顔を僕は見たことがないよ」

 液晶に映し出されているのは、一人の少女だった。血に濡れたナイフを手に持ち、街灯の明かりに照らされながら卑しく笑う、セーラー服を着た少女。その姿はまさに、地上の三日月と呼ぶにふさわしかった。

 しかしその三日月は、殺人鬼ちゃんなどではなかった。写真に写る少女は、殺人鬼ちゃんのような可愛らしいツインテールでも、長く美しいプラチナブロンドでもない。端正な顔立ちであるがあどけなさはなく、体格も小柄ではなかった。

 少女の髪は黒く、ショート寄りのセミロング。顔つきは中性的で、どこか男っぽく見える。加えて、体格は女子にしては明らかに目立つ高身長。見間違える筈がない。写真に写っていた少女は、誤魔化し様がないほどに――春日野遥でしかなかった。

「な、何で……? どういう……ことなの?」

 あの夜、殺人鬼ちゃんが人を殺しているところを、遥は確かに目撃した。それが殺人鬼ちゃんとの出会いであり、始まりだった。しかし写真を見る限り、殺人を犯したのが遥であることは、火を見るよりも明らかであった。

 だとするのなら、殺人鬼ちゃんとのこれまでは何だったのだ? 出会うどころか、存在すらしていなかったというのか? 自分はただ、一人虚空と語り合っていただけだったのか? 

 違うっ! そんな筈はない⁉ だが、そう言い切れるだけの確証がなかった。渦巻く疑念を払拭し切ることが出来なかった。ならばもう一度、殺人鬼ちゃんに会えばいい。ただ会うだけで、出会いも、言葉も、微笑みも、約束も、憧れも、全てが現実となる。

 だからもう一度……。そう思った瞬間、遥の思考を遮るように、得体の知れない何かが入り込もうとしてきた。

 その何かは、今までの比ではない勢いで、遥を呑み込もうとしていた。抗えば抗う分だけ、意識が朦朧としていく。それに反するように、鼓動ばかりが大きくなっていった。息苦しいと感じるぐらい、強く、早く、全身に伝わるほど激しく鳴り響いていた。

 薄れゆく意識の中で、遥はあることに気が付いた。鳴り止まないこの音は、鼓動などではない。これは、扉を叩き続ける何者かの叫びだ。開けろ開けろと、何度も扉を叩きながら喚き散らす叫び声だった。

 誰であるかは分からないが、扉の中に入れるわけにはいかない。入れるわけにはいかないんだ。だが、その考えは間違いであった。こいつはもう……中にいる。それでも扉を叩くのは、入るためではなく出て行くため。出せ、ここから出せと叫びながら、扉を破ろうとしていた。

 そうだ。今までずっと恐れていた得体の知れない何かは、遥の中に入り込もうとしていたんじゃない。遥の中から出ようとしていたんだ。

 一体、自分は何を閉じ込めていたのだろうか。自分の中から、何が出てくるというのだろうか。それを考えるだけの余裕はもう、遥には残されてはいない。扉を押さえつける力も、堪えるための気力もない。堅牢な錠前も、幾重にも巻き付けた鎖も壊される。

 後はただ、自分という存在が蹂躙され、塗り潰されていくのを待つだけだ。溢れ出す暴力のような激水に染め上げられ、沈むように自分が消えていく。それも悪くない。いやむしろ、ずっとそれを求めてきた。そうなることを待ち望んでいたんだ。

 ならばもう、迷いも恐れも必要ない。全てに身を委ねよう。さあ、扉は今、ゆっくりと開かれる。


 俯き続ける遥を、そっと励ますかのように五十嵐は優しく語り掛けた。

「どうだい? もうこれ以上、誤魔化す必要はないだろう? 春日野さん、君は自分で思っているよりもずっと素敵な人なんだ。そのことを隠さなくたっていいんだよ?」

 ……うるさい。誤魔化すだの隠すだのと、この男は何を言っているんだ。私はただ、大切な人の傍にいられれば良かったんだ。だけどもう、そうすることも出来なくなってしまった。

「大丈夫さ。さっきも言ったけど、僕らは理解者だ。互いに分かり合える。互いを認め合える。唯一無二の同じ存在なんだ」

 ……煩い。己が快楽を満たすためだけに、命の灯を吹き消す。そんなお前と一緒にするな。私は違う。私は何も求めない。私の中には何もない。

「だからほら、顔を上げてよ。僕と君なら、今まで見たことがない世界をきっと見ることが出来るから」

 ……五月蠅い。このどうしようもなく耳障りな声は、どうやったら止まるのだろうか。この不愉快な男は、どうやったら私の前から消えるのだろうか。

 遥は考える。五十嵐を黙らせる方法を。この場から立ち去らせる方法を。そして遥は、ある少女の言葉を思い出した。

 ……ああ、そうだ。私はただ、私のやりたいことをするだけでいいんだ。

「さあ、春日野さん。僕と一緒にっ‼」

 そう言いながら、五十嵐は遥へと手を伸ばす。肩に触れそうになった瞬間、遥はその手を強くはじいた。欲しかった玩具がようやく手に入る。期待と幸福に満ちていた五十嵐の顔は、途端に呆けた間抜け面へと変わった。

「え……?」

「違う、お前は〝偽物〟だ」

 遥は隠し持っていたナイフを、五十嵐の喉元へ突き刺した。根元まで刺さる勢いであったため、五十嵐は椅子ごと後ろに倒れた。結果として、突き刺すというよりは、突き飛ばすという形となった。

 自分の身に何が起きたのか把握し切れていないのか、五十嵐は仰向けの状態のまま動きを止めていた。しかし、すぐに苦しそうな表情をしてもがき始めた。喉元のナイフを抜き取ろうとすればするほど傷口は広がり、呼吸をする度に口から血を噴き出していた。

 そんな醜悪で無意味な行為がしばらく続いたが、次第にそれも弱々しくなっていき、ついに力尽きた。そう、どうすればいいのかなど、遥はとうに知っていた。ただそれを、忘れていただけなんだ。

 やっと訪れた静寂の中で、眠りにつくかのように遥は目を閉じた。そして思い返した。これまで過ごした、およそ一年半という日々を。永遠に感じるほど長く、一瞬と思えるほど短い人生を。それが終わる。人間として生きた時間が終わろうとしていた。

 悲しくはない。後悔はない。そう言えたのなら、どれだけ良かっただろうか。何の未練も残さずに消えていきたかった。けれど、そう思えることこそが遥が生きた証となる。

 悲しくはない。後悔はない。そんなのは嘘だ。だが、それで良いのだ。どちらにせよもう遅い。全てが戻る。全てが帰る。――五年前のあの時に。


 遥が目を開けると、そこは教室のような場所であった。いつの間にか夜になっており、辺りは薄暗く、月明かりで辛うじて周りが見える程度であった。

「あれ? ……私、なんで?」

 深い眠りにでもついていたかのように、頭がぼーっとしていた。どのくらい時間が経ったのか、ここがどこなのか、そもそも自分は何をしていたのかさえ、よく思い出せずにいた。

「おかえりー、ハルハル! ようやく戻って来たんだね」

 ぼやけた頭を、叩き起こすような声が届いた。遥もよく知る一人の少女。まるで初めからそこにいたかのように、殺人鬼ちゃんは現れた。自然に、ごく当たり前のように机の上に座りながら、呑気に足をばたつかせ、彼女は笑っていた。

「うわっ⁉ さ、殺人鬼ちゃん? ……いつからいたの? ていうか、何でこんなとこにいるの?」

「ん? 来たのはついさっきかな。それに、アタシを呼んだのはハルハルだよ」

「えっ? 別に私、殺人鬼ちゃんのことなんて呼んでな……ん? 今何か、足に当た――っ⁉」

 遥の足に触れたのは、血の海に横たわる人間であった。前に一度見たためかそれが作り物ではなく、本物の死体であるとすぐに分かった。加えて、暗闇に目が慣れ、その死体が誰であるかもはっきりと見えた。

「……い、五十嵐……先輩⁉ 嘘……なんで、先輩が?」

 何故、五十嵐がこんなところで殺されているのか。この場所で何が起きたというのか。一体誰が、まさか殺人鬼ちゃんが。そうして次々と浮かび上がる疑問に思考が追い付かないためか、鋭い頭痛が遥を襲った。

「……うぅ、頭が……」

「んん? あれあれー? その様子だと、まだちゃんと思い出せてないみたいだね。まったくもう、しょうがないなあ……。よっと!」

 机から降りた殺人鬼ちゃんは五十嵐のもとへ歩み寄り、喉元に突き刺さったナイフを引き抜いた。血に濡れたナイフは月明かりに照らされ、てらてらと怪しく光を放った。

「ほらこれ、ハルハルのだよ。これを使って、ハルハルがあの人を殺したんだよ」

「……え? 何、言ってるの……? 違う。私が、そんなことするわけ……」

「違わないよ。わざわざ家に帰ってまで取りに行ったこと、アタシは知ってるよ。よーく思い出してごらん?」

 頭痛は激しさを増し、遥はもう立っていられなくなっていた。脳みそを貫くような痛みはやがて言葉となり、遥に語り掛けてきた。

 ……そうだ。私は家に帰って、自分のナイフを取って来たんだ。先輩を殺すために。

 違う。私は、そんなことしていない。

 ……目撃者が先輩と分かった時から、殺すことを決めていた。そのために、わざわざここに呼んだんだ。

 違う。そんなの知らない。それは私じゃない。

 ……そうでなくても、いつかは殺していた。初めて会ったあの時から気に食わなかったから。ずっとずっと、殺したいと思っていたから。

 違う違う違うっ! そんなこと思ってない。私は……。

「……わ、わた、しは……。わたし、は」

「もう、強情なんだから。うーん、どうしたものかなあ? あっ、そーだっ! ねえ、ハルハル?」

 痛みのあまり、返事をすることも顔を上げることも出来ない。そんな遥を気遣ってなのか、殺人鬼ちゃんはその場にしゃがみこんで、聞こえるようにゆっくりと言葉を続けた。

「前に、アタシの名前聞きたがってたよね? それ、今教えてあげる」

 遥は顔を上げた。頭痛が消えたわけではない。むしろ、痛みは増すばかりだった。それでも顔を上げたのは、そうしなければいけない気がしたから。そうしなければ、彼女が真実を告げてしまうから。


 私の目の前にあったのは、大きなお月さまだった。星のない夜空でも、地上を明るく照らせるくらい、とても大きなお月さまだった。

「……いや……お願い、やめて……?」

「でも、そうしないとちゃんと思い出せないでしょ? だから、ダーメッ!」

 私の目の前にいたのは、一人の少女だった。笑顔がとても素敵で、見ているとつい憧れてしまうような、そんな少女だった。

「だめ……! やめて……やめて……」

「アタシの名前は」

 そういえば、どうして三日月が嫌いだったのか、ようやく分かった。

「……やめて……! やめてやめてやめてやめてっ! やめてえええぇぇえっ‼」

 決して思い出さないように。喚び起こしてしまわぬように。

「――遥。アタシは遥だよ」

 過去の自分を。あの日の〝アタシ〟を。

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