第6話 憧憬
その日の朝は、不思議と早く目が覚めた。昨日、少しだけ早めに寝たからだろうか。それとも寒さのせいだろうか。違う、そんな理由ではない。この言いようのない落ち着かなさが原因だ。
不思議となんて言ったが、ここ数日はいつもこうだった。佳純とぎこちなくなった日から、落ち着かなくてやたらと早く目が覚めてしまうのだ。とは言え、早く起きてもやることがないため、学校に行く時間になるまでなんとなく過ごしていた。だが、それはあまりにも無意味な行為であり、時間の浪費というものだ。だから今日は、少しだけ違うことをしようと思い、一時間早く家を出ることにした。
しかし、家を出てすぐに後悔した。寒い。凄く寒い。たった一時間違うだけでこんなに寒いものなのか。太陽を隠す雲が恨めしく、時折吹く風が憎らしかった。かといって、家に引き返すわけにもいかない。今はただ寒さに耐えて、学校に向かうしかない。
それにしても人が少ない。普段であれば、同じく学校に向かう生徒が途切れ途切れの列を作っている。けれど今、ここには遥しかいなかった。
たかだか一時間。一日のたった二十四分の一でしかない。そのはずなのに、感覚も風景も、それこそ世界を大きく変えてしまう。そのことを証明するかのように、遥は一人の人影を見つけた。
自分と同じ制服を着て、同じ学校に通う何百といる生徒の中の一人。そうだとしても、見間違うはずがない。小柄な体躯。風にたなびくポニーテールの髪。肩から下げた少し大きめのスポーツバッグ。間違いなく、それは七瀬佳純であった。
どうして佳純がと思ったが、驚くようなことではない。佳純は部活の朝練があるため、普段から遥などよりもずっと早く登校している。しかし、部活の朝練をするにしては、少し遅いような気がした。いや、今はそんなことを考えている場合ではない。
今、自分はどうするべきなのだろうか。佳純のもとへ駆け寄り、自然に会話を始めようか。それとも、このまま気付かなかったふりをして、ただ学校へと向かうのか。
出来ることなら前者を選択したい。だが、遥は容易にそれを選ぶことが出来なかった。あの日から今に至るまで、何度か佳純と話そうとした。でも、どこかぎこちなくなってしまい、会話という会話にならないまま終わってしまう。またそうなるくらいならいっそ、そう思った瞬間だった。
人は歩いていると、無性に振り返りたくなることがある。なんて言葉を、聞いたことがあったようななかったような。何が言いたいのかというと、突然、佳純が後ろを振り返ったのだ。
遥の存在に気付いたわけではない。恐らく、本当にたまたま後ろを振り返りたくなる気分に、佳純がなってしまった。ただそれだけの偶然である。
「……遥。な、何で……?」
その場に立ち止まり、驚いた顔をする佳純は、同じく驚いた顔をする遥を見つめる。気まずいと思いながらも、今更無視するわけにもいかない。そのため遥は、立ち止まる佳純へと近付いていく。
「お、おはよう。か、佳純……」
なるべく自然体を、と意識し過ぎたためか逆に不自然になってしまった。それは佳純も変わらないようである。普段の自分は、どんな風に笑っていただろうか。恐らくは、そんなことを考えながら笑顔を作っていた。
「……うん、おはよう。今日は、その……早いんだね。どうしたの?」
「別に大したことじゃないよ。早く起きちゃったから、早く来ただけで……。佳純こそ、朝練あるんじゃないの?」
「今日は、朝練ないんだ。でも、いつもの癖で早く起きちゃうから、それで」
「そう、なんだ」
「うん」
会話はすぐに事切れ、示し合わせたかのような沈黙が流れた。それが事前に話し合って決めたことだったのなら、どれだけ良かっただろうか。いくら沈黙が続こうとも、普段通りの二人に戻る算段などついていないのだ。
何故だろう。いつもであれば、何も考えずとも言葉が出てくるはずなのに。口が勝手に喋り出すはずなのに。今回ばかりはどうしても上手くいかない。今までだって、気まずくなることは何度もあった。でも次の日には、気まずさなんてお構いなしに、笑い合っていたはずなのに。今回に限って、何でそうならないんだろう。
もしかして、本当にこのまま……。そんなことを思った時、高宏の言葉を思い出した。
――お前が本気で離れたいと思っても、お前の傍に居続けてくれる。
そうなのかな? 私のそんなわがままだけで、佳純は傍にいてくれるのかな? 傍にいたいと、思ってくれるのかな?
――そういうのを親友って呼ぶんだよ。
うん、そうだね。私にとって、佳純は親友で特別なんだ。でも、佳純もそう思っているかは分からないよ。分からない。けど、それでも、私は佳純と離れたいなんて思わない。だから、今までと同じ関係に戻りたい。
「あ、あのね佳純! わ、私……」
「遥」
言葉も決意も掻き消すように、佳純の声がその場を征する。
「……あたし、遥のことが好きなの」
「……え? それ、どういう……」
「聞いて」
真っ直ぐに向けられた視線を前に、遥は瞬きをすることすら許されないような気になった。それこそ、身動き一つ取れなくなるほどの力を、佳純の瞳は秘めていた。
「ごめんね……急に変なこと言って。でも誤解しないで。好きって言ったけど、それは別に恋愛対象とかじゃなく、人として、友達としてってことだから」
一瞬、本気で告白されたかと思った。そのぐらい動揺したが、友達としてという言葉を聞いて、遠のきかけた意識を辛うじて繋ぎ止めることが出来た。
「あたしは遥が好き。大好き。傍にいたい、ずっと隣にいたい。遥の隣で色んなこと話して、笑ったり泣いたりして、時々だったらケンカしたっていい。今も昔もそう思ってる。だって遥は、あたしにとって特別だから。……遥は、どうなの?」
「……私も、私だって、佳純のことが好きだよ。大好きだよ。傍にいて欲しい。ずっとずっと隣にいて欲しい。私にとっても、佳純は特別なんだよ!」
互いのことが好きで、互いにとっての特別な存在。これ以上があるだろうか。遥は今、本当の意味で佳純と分かり合えた気がした。そんな気がしたのに。
「ありがとう。遥なら、そう言ってくれるって分かってた。分かってたから……」
真っ直ぐな瞳から、真っ直ぐな雫が落ちた。その雫は、喜びや感動などの感極まったものでは決してない。堪え切れなくなった悲しみや苦しみが、形となって流れたものだ。
「……佳純? ねえ佳純! どうしたの? 何で、佳純は泣いてるの?」
「遥は、あたしを特別だって言ってくれた。でもね、あたしの思う特別と、遥の思う特別は、全く違うものなんだよ」
「違くなんかないよ! 佳純は特別で、大切な存在。私にとってたった一人の親友で、どこを探したって佳純の代わりになる人なんていないよ!」
「あたしは特別? あたしの代わりはいない? ……そうだよ。だってそれは〝あたしのせい〟だから」
「佳純? 何を言ってるの? 私はただ、佳純に」
傍にいて欲しい? あれ? そう言ったはずなのに、そう思ってるはずなのに、心の中で違うと言っている自分がいた。私はただ、佳純と一緒にいたいだけなのに、どうして違うと思うのだろう?
もし仮に、本当に違うのだとしたら、私は佳純と、どうありたいんだろう? 私は佳純をどうしたいんだろう?
「ねえ遥。あたしは今も、遥の傍にいたいと思うよ。でも遥は、そんなあたしを置いて遠くへ行こうとする」
「……何の話を……しているの?」
「遠く遠く、あたしなんかじゃ辿り着けないところへ行こうとする。今までは大丈夫だった。なんとか繋ぎ止めてこれた。……でも、今回はダメかもしれない」
佳純を置いて行ったりしない。遠くへなんて行ったりしない。そう思い定めているはずなのに、佳純の言葉を聞いて、嫌気が差すほど心がざわつく。
「……遥。もし本当に、遠くへ行くことになったら、最後に……あたしに会いに来て」
未だに溢れる涙を拭いながら、「ごめん、先に行く」と駆け出した佳純。ただでさえ小さな背中が、どんどん小さくなって、ついには見えなくなってしまった。
気付けば遥は、中庭のベンチに腰掛けていた。なぜ自分がこんな所にいるのかと一瞬驚いたが、おぼろげな記憶を辿り、徐々に思い出した。
佳純と別れてから、おぼつかない足取りのまま学校に着き、そのままぼーっと呆けていたのだ。何を考えるでもなく、ただ呆然としていた。授業の内容なども頭に入らず、時間ばかりが無意味に過ぎて、いつの間にか昼休みになっていた。そして、無意識で中庭に来ていたようだ。
どうして中庭? とも思ったが、今の遥には都合が良かった。もともとそこまで頻繁に使用もされていない上に、この時季、上着を羽織ってまで外に出ようという生徒はなかなかいない。一人になるにはうってつけの場所である。
そうは言っても、やはり外は寒い。だが、今の校内でほぼ確実に人が来ない場所など、ここぐらいしかない。人がいない方が落ち着いて考え事が出来る。
違う。それはただの言い訳だ。人の有無など関係ない。単純に、人が来ない場所に来たかった。そうすれば、佳純と会わなくてすむのだから。
今、佳純と会うわけにはいかなかった。会えばどうなるか、遥自身、全く見当がつかないからだ。気まずさなんてものはとうに振り切った。もっと別の隔たりが、二人の間には存在している。しかし遥には、それを埋める術がない。
遠いところ。それは一体どこなのだろう。どこにも行ったりしないというのに、佳純はどうしてそんなことを言うのだろう。
溜息ばかりが口から漏れ出す。こんなにも開放的だというのに、遥の周りだけやたらと空気が淀んでいた。誰でもいい、この重苦しさを吹き飛ばしてくれる人はいないものだろうか。
「ヤッホー、ハルハル! 元気―?」
「うわっ⁉」
それは唐突に現れた。腰まであるプラチナブロンドに輝く髪、雪のように白い肌、人形と見紛うほどに整った顔をした、小柄で美しい少女。殺人鬼ちゃんだった。
「えっ⁉ 何で? どうして殺人鬼ちゃんがここにいるの?」
「ん? その辺フラフラしてたら、ハルハルがそこでボッチしてるの見つけたから声かけたんだよ?」
「ふらふらって……」
仮にも殺人鬼であるはずなのに、よくこんな人の多い場所に来られるものだ。指名手配などはされていないにしても、周りは何とも思わなかったのだろうか。
こんな絵に描いたような美少女がいたら注目されるはずなのだが、そんな様子もない。それならやはり、ここの生徒なのだろうか? そうだとしてもおかしい。こんな子がいれば必ず噂になる。噂話に疎い遥であっても知っているはずだ。ならば転校生か? それとも……。
「うんうん唸ってどうしたの? ……もしかして、あの日?」
「……はは、違うよ。殺人鬼ちゃんがここの生徒なのかなって、考えてたんだ」
「ううん、アタシここの生徒じゃないよ。でもこの学校の制服は可愛いから好きっ!」
やはりここの生徒ではないようだ。よくよく考えてみれば当たり前のことだ。制服にしたって、生徒じゃなくても手に入れるのはそう難しくないのだから。
色々と考えているうちに、殺人鬼ちゃんは遥の隣に座っていた。他に人がいなくて本当に良かった。こんな美少女と並んで見比べられるなど、たまったものではない。
「そっか。でも、ここの生徒じゃないならどうやって入って来たの? 校門閉まってたはずだけど」
「ああそれなら、その辺の壁をよじ登って来たんだ」
「壁? 壁を⁉ 確か、三、四メートルはあったと思うんだけど……」
「そのくらいならへっちゃらへっちゃら。ヨユーデースッ!」
以前もフェンスを登っていたが、壁までよじ登るとは思っていなかった。顔の横でピースをし、白い歯をむき出しにして笑うその姿は、無邪気な子どもそのものだった。今更ながら、こんな子が殺人を犯しているなんて信じられなくなる。
いやむしろ、そんな子どもだからこそ人を殺せるのかもしれない。子どもというのは、大人からは考えられないほど、残虐な一面を持っている生き物でもあるのだからから。
「ところでハルハル。花の女子高生たる者が、どうしてこんな人気のないところでボッチなんてしてるの? あっ! ひょっとしてハルハル……友達いないの?」
「いる。いるよ! だから、そんな哀れなものを見るような目をしないで」
「なーんだ、ちゃんといるんだぁー。ホッとした! でも、友達いるならどうしてボッチしてんの?」
「うぅ……ボッチボッチ言わないでよ、もう……」
痛いところを的確についてくる。多分、誤魔化したりは出来ないだろう。嘘をついたりしても、殺人鬼ちゃんには通じない。彼女の瞳もまた、そういう力を秘めているから。
「……その友達とは、何て言うのかな? 今は……会えないんだ」
「会えない? その友達、病気でもしてるの?」
「そういう訳じゃないよ。ただその……ケンカ、とも違うんだけど。自分でもどうしたらいいのか、分からなくなっちゃって。それで、会わない方がいいかなって……そう思ったの」
分からない。佳純の言ったことの意味が、思いが、何を考えているのか。
分からない。自分の気持ちが、何がしたくて、何をすればいいのか。
何もかもが分からない。だから今は会わない。それ以外の方法を見つけられないから。
「ふーん、そっかぁ。ハルハルも若いのに色々と大変なんだね。でもアタシなら、どうにかしてあげられるよ。ハルハルが抱えているそのモヤモヤを消す方法。アタシが教えてあげようか?」
「ほ、本当⁉ だったら」
言い切る前に、人差し指を口に当てられ塞がれた。ダーメ、そう言って嗤う殺人鬼ちゃん。無邪気さなんて欠片もない。手の届かない高い空から、人を見下す三日月の笑み。昼夜を問わず現れる分、夜空の三日月よりもよっぽどたちが悪い。
「約束、ちゃんと覚えてるよね?」
殺人鬼ちゃんの問題に答えることが出来たら、遥が聞きたいことを何でも教えてくれるという約束。当然遥はその約束を覚えていたし、考えてもいた。
「人間と殺人鬼の違いは何か、だよね?」
「そうだよ。答えは見つけられたかな?」
自分で答えを出せたわけではないが、背に腹は代えられない。頷いた後、遥は高宏の言葉を思い出しながらゆっくりと答えを述べた。人間と殺人鬼の違いは、殺したいという衝動を抱えた、黒い自分を殺せたかどうか。自分自身を殺せたかどうかだと。
そう口にしながら遥はふと思った。この答えは多分、間違っていると。もちろん、高宏の考えに不満があるわけではないが、納得は出来ていなかった。人に考えさせておいて何様という話だが、不思議とそう思ってしまったのだ。
「フフッ、それが答えか。ねえハルハル。それさ、ハルハルが自分一人で出した答えじゃない気がするんだけど、どう?」
やはりバレている。物凄く勘が鋭いのか、読心術の心得でもあるのか。はたまた、本当に超常的な力でも持っているのか。何にせよ、高宏とは別の意味で、見透かされている気がしてならない。
「……うん、ごめん。これは、私の叔父さんが考えた答えなんだ。私一人じゃ、何も思いつかなかったんだ。やっぱりダメだよね、ズルなんかしたら……」
「え? 別にズルじゃないよ? だってアタシ、ハルハル一人で考えてなんて言ってないし。そもそもアタシは、ハルハルがちゃんと答えてくれたらのなら、それでイイって思ってたから、そんな深く考えなくても良かったんだよ?」
なんというか拍子抜けだった。遥としては、殺人鬼ちゃんの根幹、彼女の深淵に触れる思いだった。そのために考えを巡らせていたというのに、殺人鬼ちゃんにしてみれば案外軽いことだったようだ。そうだと分かるとどっと疲れたが、良しとしておこう。
「じゃあ、私の聞きたいことを、教えてくれるんだよね?」
「うん、イイよ! だ・け・ど、残念っ‼ 教えることは出来ませーん!」
胸の前で手を交差して作られたバツ印。その行為に唖然とし、遥は瞬きを繰り返すことしか出来なかった。
「アハハハ、ゴメンゴメン。でも別に、イジワルしてるわけじゃないよ? さっき言った通り、叔父さんの答えだろうと、ハルハルがそう答えてくれたのならそれで良かったの」
「ならどうして?」
「だって、ハルハルもハルハルの叔父さんも、問題そのものを間違えてるんだもん」
間違えている? そんな筈はなかった。あの夜に殺人鬼ちゃんが言った言葉を、遥は一言一句覚えていたし、高宏にも聞いた通りに伝えていた。間違える余地など、どこにもありはしなかった。
「間違ってるって……どういうこと? 殺人鬼ちゃんが聞いたのは、人間と殺人鬼の違いでしょ?」
「そうだよ。それで合ってる」
「だったら……」
「でもね、ハルハルが言った答えは、アタシが聞いた問題の答えじゃない。ハルハルが言ったのは〝人間が殺人鬼になるまでの過程〟その答えだよ」
そう言われて、ようやく納得することができた。確かに問題を間違えていた。
ヒトとは何か? そう哲学的に尋ねられた時に、生物学的に答えたり、ヒトの誕生の歴史を答えるのは少々的外れである。高宏の答えがどことなく腑に落ちないと思ったのは、そういうことだったのだろう。
「……そっか、そうだよね。たとえ答えが合ってたとしても、問題そのものを間違えてたら、ダメだよね」
「だねー。けど実は、ハルハルが言った答え、半分くらいは合ってるんだよ」
「え? でも、問題が違ってるって……」
「うーん、そうなんだけど……。なんて言うのかなぁ? 言い方の問題なのかなぁ? んー、よしっ! せっかくだから答え合わせしよう。その方がスッキリするしね!」
答え合わせというのもおかしな話だが、もともと聞きたいと思っていたことが聞けるのだ。遥からすれば願っても無いことであった。かなり遠回りになってしまったが、結果オーライというやつだろう。
「本当にいいの……?」
「アタシはイイよ。ハルハルが聞きたくないのなら止めるけど」
勢いよく首を横に振る遥を見て、殺人鬼ちゃんはくすりと笑う。そして、これから演説でも行うかのような立ち振る舞いをし、軽く咳払いをして語りだした。
「それでは、えー、こほんっ。人間と殺人鬼の違いはね、――バケモノかどうかってことだよ」
バケモノという、予想だにしていなかった解答に遥は面食らったが、殺人鬼ちゃんはそのまま言葉を続けた。
「人間はね、産まれた時から人間で、人間のまま生きて、人間のまま死んでいくの。でもたまにね、ハルハルが言ったように、何かのきっかけでバケモノになってしまうこともある。そうなればもう、バケモノとして生きて、バケモノとして死んでいくしかないんだ」
「……バケモノになった人間はもう、元には……戻れないの?」
「人間のふりをすることは出来るけど、元には戻れない。バケモノはね、人間にはなれないんだよ」
バケモノは人間にはなれない。それはあまりにも残酷で、とても当たり前のことであった。
例えば、自分の友人が、理由はどうであれ誰かを殺したとする。人殺しになったとしても、その者が自分の友人であることには変わらない。そう心の底から思ったとする。
ではその友人と、今までと全く変わることなく接することが出来るだろうか? 言葉を交わし、笑顔を交わし、何一つ変わることなく、その友人の瞳を、人殺しの瞳を見ることが出来るのだろうか?
人を殺す。バケモノになるとは、そういうことなのかもしれない。
「……バケモノ、か。それじゃあ殺人鬼ちゃんは、もう人間には……戻れないんだね」
「ん? 違うよハルハル、誤解してる。確かにアタシはバケモノだけど、今話したものとは全然違うよ」
「違うって、どういうこと?」
「だってアタシは、初めから人間じゃなかったから。だから、戻るってこと自体が間違ってるんだよ」
自分の胸に手を当てて、殺人鬼ちゃんは小さく笑った。そこには、嘲りも、嘆きも、哀れみも、喜びも、空虚ささえもありはしなかった。これまで見てきた中で、今の彼女が最も美しいと感じた。どこまでも澄み渡り、何よりも透き通っていた。言うなればそれは、純粋そのものだった。
「アタシはね、産まれた時からバケモノなの。ずっとずーっと、バケモノだったの。どこにいても、誰といても、何をしててもバケモノだった。バケモノとして見られ、バケモノとして扱われ、バケモノとして存在した。それがアタシだよ」
何かをきっかけにそうなったわけではない。初めから歪で、壊れていて、だからこそ完成されている。そういう存在を〝本物〟と呼ぶのだろう。
遥は今になって、自分がどれだけ自惚れていたのか気付かされた。自分と殺人鬼ちゃんが似ているなど、思い違いも甚だしい。
たとえ同じ場所に辿り着こうとも、殺人鬼ちゃんにとって、遥は〝偽物〟でしかない。いくら精巧に似せようとも、所詮は贋作だ。本物以上の価値はない。そんなこと、遥自身が一番分かっていた。
殺人鬼ちゃんを、初めて目にしたあの夜に抱いた思い。それが何なのか、遥はようやく理解出来た。あれは憧れだったんだ。自分とは違い過ぎる。追いかけることも、手を伸ばすことさえも憚られるほどに遠い存在。
無意識のうちに遥は立ち上がっていたが、今までのような一歩を踏み出すことは出来なかった。あまりにも遠い理想を前に、立ち尽くすことしか出来なかった。
「さてと、色々話して満足したし、そろそろ行くね」
それじゃ! と、挨拶代わりに小さく手を振り去ろうとする後ろ姿を、どこか恨めしく思ってしまう。とどのつまり、遥にとっての悩みなど、殺人鬼ちゃんにしてみれば取るに足らないことなのだろう。だとしてもあんまりというものである。
胸の内を、遥自身ですら分からない心の奥底を、覗くだけ覗いて何もしてくれない。見下ろすばかりで、蜘蛛の糸すら垂らしてはくれない。
薄情だと思う。けれど、手を貸す理由がないことも事実だ。だからこのまま、黙って見送るしかないんだ。
「あっ、そうだそうだ!」
まるで忘れ物でもしたかのように、殺人鬼ちゃんは踵を返し、ゆっくりと遥のもとまで戻って来た。
「帰る前に、一つだけアドバイス!」
殺人鬼ちゃんの小さな両手が、遥の顔を優しく包む。そして、鼻先が当たりそうになるくらい、互いの顔が近付いていく。
「悩んだり、迷ったり、大切なことだよね。だけど結局、自分のやりたいことをするだけでいいんだよ。アタシは、ずっとそうしてきた」
「……私の、やりたいこと?」
「そう。決して自分を誤魔化さず、ありのままに……ね」
まるで、暗示でもかけられたかのように、遥は呆けていた。気付いた時にはもう、殺人鬼ちゃんはいなくなっていた。いきなり現れたり、いなくなったりと本当に忙しない。
果たして、今度はいつ会えるのだろうか。思いは募るばかりだが、なんとなく、すぐにまた会えるような気がした。
辺りにチャイムが鳴り響く。いつの間にか、昼休みが終わっていたようだ。身体もすっかり冷えてしまっている。早く教室へ帰ろう。
そういえば、殺人鬼ちゃんは一体どこへ帰るのだろう。
そんな些細な疑問の答えを、遥はすぐに知ることとなる。
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