第5話 真相

 土曜日の昼間、家へと帰る道すがら遥はとあることを考えていた。それは、あの夜の別れ際、殺人鬼ちゃんと交わした会話についてだった。


 坂の上公園を後にした二人は、他愛もないことを話しながら長い坂を下っていた。

「あー、楽しかった! ハルハルはどうだった?」

「……うん、私も楽しかったよ。殺人鬼ちゃんと色々話せたし、会えて良かった」

「えへへ、アタシもハルハルに会えて良かったよ!」

 跳ねるように歩くその姿から、本当にそう思ってくれているのだと感じた。実際、遥も同じくらい嬉しく思っていた。殺人鬼ちゃんに出会えたこと、語り合えたこと。そして何より、殺人鬼ちゃんがかけがえのない特別な存在となったこと。それが嬉しくてたまらなかった。

 当然、家族や佳純のことも特別だと思っている。けれども、それらとは根本的に違っているのだ。春日野遥と殺人鬼ちゃんは、互いに似通ったものを持っている。それは思想とも価値観とも違う言葉では言い表せないもの。言わば、人としての本質的な部分が似ているのだ。

 そして殺人鬼ちゃんは自分という存在が何なのか、その答えに辿り着いている。今と同じように、遥の先を歩んでいる。そこに追いつくには殺人鬼ちゃんのことを知り、理解しなくてはならないと遥は思っている。そのためには、是が非でも殺人鬼ちゃんに聞かなくてはならないことがあった。

 けれど、どうしても躊躇いが生じてしまう。殺人鬼ちゃんのことを知り、理解するというのは、彼女の深淵に触れるということ。生半可な覚悟では、彼女という存在に呑み込まれてしまう。だから遥は、聞くべきかどうか未だに迷っていたのだ。

 遥一人があれこれと考えている間に、二人は坂を下り切り平坦な道へと戻って来た。相変わらず人気はなく、無機質な音が聞こえてくるばかりであった。

「ハルハルの家は、右? それとも左?」

 左右に別れた道をそれぞれ指さしながら、殺人鬼ちゃんが尋ねてきた。遥の家は、来る時に通った道を途中まで戻ることになるため「左だよ」と答えた。

「……そっか。なら、ここでお別れだね。アタシは右だから」

 それじゃあ、と小さく手を振りながら、プラチナブロンドの髪が翻っていく。つられるように、遥も自分の道を進んでいく。あまりにも呆気ない別れに思わず振り返ったが、殺人鬼ちゃんは迷う素振りもなく進んでいく。遥が選ばなかった道を進んでいく。

 何故だろうか。殺人鬼ちゃんが口にする別れは、一時ではなく永遠を彷彿とさせる。それはきっと、彼女の言葉がそれだけの重さを孕んでいるから。別れを、死というものを本当に知っているからなのだろう。

 そう考えると、この分かれ道自体が大きな分岐点であるような気がしてならなかった。そして何気なく発した一言が、既に行く先を決めてしまっている。たかが帰り道、右か左か、それだけのこと。大げさだ。バカげている。そんなこと、言われなくても分かっていた。

 けれどもし、この選択が運命を決定づけるものだったら、一片の後悔もすることなく納得することが出来るのだろうか。この場を去ろうとする小さな背中を、ただ見送るだけでいいのだろうか。

 人生はゲームなどではない。セーブデータなどないし、コンティニューもない。選択をやり直すなんてズルは出来ない。だからこそ、一つ一つを悔いなく選んでいかなくてはならないのだ。

 だったら、今この瞬間を後悔しないために、盛大にズルをしてやろう。選んだ選択肢のその先で、新しい選択肢を作ってしまおう。新しい選択肢――左に進んで引き返す。遥は素早く踵を返し、たった十数メートルを精一杯、力強く蹴り進んだ。

「待って、殺人鬼ちゃん!」

 そうやって掴んだ殺人鬼ちゃんの手首はやっぱりか細くて、今にも壊れてしまいそうだった。それでも、遥は手を離さなかった。そうしなければ、すぐにでも消えてしまいそうだったから。

「フフ、昨日と同じだ。また捕まっちゃったね。それでどうしたの、ハルハル?」

「……ごめんね。でも私、どうしても殺人鬼ちゃんに聞かなきゃいけないことがあったから」

「イイよー、なんでも答えてあげる!」

 ただし、殺人鬼ちゃんはそう付け足して、遥が掴んだ手を振り解いた。そのまま遥の方に向き直り、見上げるほどの距離まで近付いて来た。

「ハルハルが、アタシの出す問題に答えられたね。さ、どうする?」

 上目遣いとなり、より一層大きく感じる瞳に吸い込まれそうになった。傍から見れば、殺人鬼ちゃんを覗き込んでいるのは遥であった。だがこの瞬間、殺人鬼ちゃんという深淵に、遥は覗かれていたのだろう。

「……うん、分かった」

 合意と同時に、殺人鬼ちゃんは無邪気な笑みを浮かべた。それは三日月とは違う、悪戯な笑みだった。けれども、爛々と輝くその瞳はどうしようもないほどに、遥を嘲笑っているようだった。

「それじゃあ早速、問題です」


 ――人間と殺人鬼の違いは何でしょうか?

 それが、殺人鬼ちゃんが出題した問題だった。そしてそれは、遥が殺人鬼ちゃんにどうしても聞きたいことでもあった。正確には違うのだが、きっと同じことだったのだろう。遥が本当に聞こうとしていたのは、殺人鬼ちゃんがどうして人を殺したのかということ。

 遥は、自分と殺人鬼ちゃんが本質的に似ていると感じた。多分それは、殺人鬼ちゃんも同じだったはずだ。だからこそ、自分のことを話してくれたのだと思う。それでも、二人は異なる存在である。

 何故なら、遥は人を殺したことがない。それどころか、誰かを殺したいと思ったことさえないのだ。それ故に、自分と似た存在である殺人鬼ちゃんが、どうして殺人という行為に及んだのかを知りたいのだ。

 どうして人を、自分の家族を殺したのか。家庭の事情……虐待と言う言葉が真っ先に浮かんできた。しかし殺人鬼ちゃんに限って、そんなにもつまらなく、不純な理由で人を殺すはずがない。確信というよりも、願望に近い思いが遥の中で渦巻いていた。

 どういった経緯や動機で人を殺し、何を感じ、何を思ったのか。そのことを聞きたかったのだが、ある意味で先手を打たれてしまった。聞きたいと思っていたことを、そのまま問題として出題されてしまったのだから。

 人間と殺人鬼の違いとは何か。それはつまり、遥と殺人鬼ちゃんの違いとは何かということなのだ。両者の違いとは何か。人を殺したかどうかなんて、単純なことではないはずだ。だとするのなら一体何なのか。自分一人だけの考えは行き詰ってしまった。

 誰かと一緒に考えたいところだが、いつもそうしてくれる佳純とは未だにギクシャクしたままだった。会えば多少の言葉を交わすが、どうしてもぎこちなくなってしまう。それに関係を修復出来たとしても、こんな話をしたらまた綻んでしまうだろう。

 やはり一人で考えるしかない。そう割り切った時にはもう、住んでいるマンションの前に着いていた。考えるのはまた後にすることとし、遥はマンション内へと入った。

 エレベーターを降り、いつものように部屋へ向かうと扉の前に誰かが立っていた。立つというよりは、寄りかかっていると言った方が正しいかもしれない。とにかく、扉に背を預け、タバコをふかす男性がいたのだ。

 トレンチコートを違和感なく着こなせる長身に、ほどよく彫りの深い整った顔立ち。無造作に生えた無精髭も相まって男らしく見える。だが、寝癖がついたままの髪や、ネクタイが曲がっていることなどから、単にだらしないということが露呈していた。

 一瞬誰かと警戒し睨み付けたが、すぐに怪しい人物でないことに気が付いた。遥が知る人物で、これらに該当する者は一人しかいないからだ。

「ん? おお、遥! 丁度良かった。待ってたぜ」

 タバコを咥えたまま、笑顔で手を振る中年の男性。

 春日野高宏、三十七歳、独身。遥の叔父であり、外見からは想像しづらいがこれでも立派な公務員。刑事課に所属する警察官である。

「……高兄? わあ、高兄だ! 何してるの?」

「お前なあ……いい加減その呼び方どうにかなんねえのか? 俺もうアラフォー男だぜ。そろそろ高宏叔父さんとかって呼べよ。恥ずかしいだろ」

「だって高兄は高兄だし。それに、そう呼べって言ったの高兄じゃん」

 そう言われた高宏はばつの悪そうな顔をし、知らぬ存ぜぬと目を逸らした。高宏がまだ二十代の頃に、叔父さんと呼ばれることを嫌がったつけがようやく回って来たのである。しかし単なる呼び名としてではなく、遥は高宏のことを文字通り兄のように慕っていた。

 遥の両親は共働きであるため、家を空けることも多かった。そのため両親に代わり、高宏が遥の面倒をよく見ていたのだ。高宏にとって遥は姪っ子であるが、娘のようなものでもある。だが、小さな頃からよく遊んでいてもらっていた遥にとっては、歳の離れた兄も同然だった。

「あと、来るなら急にじゃなくて、前もって連絡してよね。いくら身内相手と言えど非常識だよ。そんなんだから、寒い中で待つ羽目になるんだよ!」

「へへっ、悪りぃ悪りぃ。つーか、お前も大概だろ。俺さっきから、何度もお前に電話かけてたんだぞ。なんで出ねえんだよ?」

 嘘だと思いながら携帯を確認すると、液晶画面を埋め尽くす勢いで着信の通知が来ていた。その数なんと十八件。

「……あ、本当だ。ごめん、考え事してたから気が付かなかった」

「ったく、まあいいや。それはともかく鍵開けてくれねえか? 寒くてしょうがねえよ」

「それはいいけど、別に私を待たなくても良かったんじゃないの? お父さんかお母さんに入れてもらえば良かったじゃん」

「いや、その……チャイムは押したんだが、留守みたいでよ」

「あれ? 二人ともいないんだ。何でだろう?」

「……ん、ああ、何でだろうな?」

 咥えていたタバコをそっと口から離し、静かに煙を吐いた。漂うヤニ臭さに、大げさに顔をしかめる遥を見て高宏は苦笑いを浮かべた。

 それにしても、両親がそろって家にいないというのは少し不思議であった。今日は土曜日であるため、どちらも仕事は休みのはずだ。ひょっとしたら、二人で出掛けているのかもしれないが、連絡くらいして欲しいものだ。

 だが、遥ももうそこまで子どもではないし、夫婦水入らずを邪魔するつもりもない。何にせよ、そんなことは当人たちが帰って来てから聞けばいいだけである。

「まあ、たまにはそんなこともあるだろうさ。ていうか、お前こそ何やってたんだ? 土曜の昼間だってのに、何で制服着て出歩いてんだ?」

「うち進学校だから、土曜でも学校あるんだよ……。あるって言っても、午前中だけね」

 本来ならば貴重な休日であるが、来年には受験を控えている身であるため、仕方ないと割り切るしかなかった。しかし、もうそろそろ将来のことを視野に入れて、どこの大学を受験するか考えるべきかもしれない。

「今時の高校生も大変なんだな。ま、そういう話は中でゆっくりとしようぜ。流石にもう限界なんだわ……」

「そだうだね。私も冷えて来ちゃった。今開けるね」

「おう、助かる助かる! 早いとこ開け……ん?」

 再びタバコを咥えようとする手を制止され、高宏は怪訝な顔をする。それに答えるように、遥はタバコを指さし無言で首を振った。

「……んだよ、別にいいじゃねえか」

「お客様。大変申し訳ありませんが、当店は禁煙となっておりますので」

「けっ! さいですか。かしこまりましたよ……」

 鞄をおぼんに見立て、ウェイトレスのように頭を下げる遥に、若干呆れながらも高宏はタバコを吸うのを止めた。「ほんと最近はどこもかしこも!」などと、喫煙者特有の愚痴をこぼしつつも、潔く携帯灰皿に吸い殻を落とす。

 満足げに頷きながら遥は鍵を開ける。そして、高宏が携帯灰皿をしまうのを見計らい、二人は部屋に入った。

 部屋の中は外に比べ暖かくはあったが、やはり少し肌寒かった。二人はそれぞれ椅子に上着をかけ、高宏はリビングのテーブルに着き、遥はキッチンへコーヒーを淹れに行く。

「ミルクと砂糖、両方だっけ?」

「おう! たっぷりとな」

 片方のカップに一杯分のインスタントコーヒー、砂糖と粉ミルクを多めに入れる。別に高宏はブラックが飲めないわけではなく、単に甘党なだけなのである。そんな高宏に合わせ、遥も普段より多めの砂糖を自分のカップに入れた。

「そういえば高兄、今更だけど仕事はどうしたの? 今日お休み?」

「いや、仕事だ。今はまあ、休憩中みたいなもんだな」

「とか言って、サボってるだけでしょ。……全くもう。はいこれ、高兄の」

 高宏にコーヒーを渡し、遥も席に着く。「さんきゅう」とコーヒーを受け取り、美味しそうに飲む姿を見て遥も口をつける。火傷しそうなほど熱かったが、それが心地良く思えるほど、身体が温まっていくのを感じた。どうやら高宏も同じようだ。

「ま、ぶっちゃけサボりだが、ただサボってるわけじゃないぜ」

「へえー、サボることを正当化できるちゃんとした理由があるんだ」

「ああ。仕事の関係で近くまで来たから、久しぶりに遥の様子を見ておこうと思ってな」

「……なんかそれ、私をサボる口実にしてるように聞こえるけど?」

「ありゃ、バレたか。あっはっはっはっ!」

 明朗に笑う高宏につられて、遥も声を出して笑った。二人の笑い声が響くリビングは、すっかり暖かさに満たされていた。暖房が効いてきたからだろうか。それとも、心が温かくなったからだろうか。

 正直な話、高宏が訪ねて来てくれたことは、遥にとってとても嬉しいことであった。遥が信頼を置く数少ない人物である高宏は、兄でもあり親しい友人と呼べる存在でもあったからだ。

 佳純と折り合いが悪くなっている今、遥の傍には心を許せる者がいなかった。両親は違うのかと聞かれると、少々返答に困る。信頼は置けるが距離が近すぎる分、悩みなどは相談し辛いのである。

 だからこそ、高宏の来訪は遥にとって大きかった。それこそ、口や態度には決して出さないが、飛びつきたいほどに感謝していた。

「それにしても、高兄と会うの本当に久しぶり。最後に会ったのっていつだっけ?」

「んー、確か、高校入学前ぐらいじゃないか? 入学書類とか書いたの覚えてるし、制服の採寸も一緒に行ったからな」

「ああ、そうだ思い出した! そうだったね。それで、肝心の入学式には来てくれなかったよね。約束してたのになあ……」

「うっ……し、しょうがねえだろ。あん時は仕事が忙しくなって、行きたくても行けなかったんだよ。……悪かったって、今でも思ってるよ」

 申し訳なさそうな顔で「本当にすまなかった」と頭を下げる高宏を見て、遥は当時のことを思い出していた。入学式の前夜、電話越しに聞いた「明日、行けなくなった。本当にすまん」という高宏の声。悲しくて寂しかったが、迷惑をかけてはならないと「仕事でしょ? 気にしないで」と強がった。

 それからは、高宏とは会う機会がなくなってしまったが、連絡はちょくちょくしてくれた。何より、今こうして会って話すことが出来ているだけで満足だった。

「謝んないでよ。私こそ意地悪なこと言って……ごめんね。あの時のこと、別に怒ってないよ」

「……そうか? そう言ってくれると助かるが、ちゃんと詫びを入れたくてな。ま、そう思うならケーキの一つでも買って来いって話だよな!」

 自虐気味に浮かべる笑みは、高宏が優しい人物であることを感じさせるには十分であった。幼い頃から優しくて正義感が強く、「大人になったら警察になる」と豪語していたそうだ。口だけでなく、実際に自分の夢を叶えているのだから立派である。

 ――警察。その単語が浮かんだ瞬間、遥の脳裏は急速に記憶を巻き戻した。今日、高宏と再会してから入学式前夜までの記憶を、これまでのやり取りの全てを思い返した。

「……ねえ高兄。今日さ、仕事で近くまで来たって言ってたけど、それって、なにかの捜査だったりする?」

「おお、そうだけど。それがどうかしたか?」

「高兄が今……と言うよりも、前から捜査してるのって、もしかして『ブギーマン事件』だったりする?」

 遥の言葉で、高宏の顔は親しい叔父から、捜査をする刑事へと変わった。どうやら、的外れではなかったようだ。

 高宏の仕事が急に忙しくなったのは、遥が高校へ入学する少し前辺りから。それは、今から一年半ほど前のことだ。時期的に、ブギーマンの噂が世間に出始めたころと重なっている。また、この近くでの捜査というのは、数日前に隣町で起きた殺人事件についてのはずだ。

 それ以外にも、高宏が連絡を寄越してくれた度に、「仕事がうまいこと進んでいない」とぼやいていたことから導き出した推測だ。かなり大雑把ではあったが、合ってさえいれば特に問題ない。

「……別に隠してたわけじゃねえが、よく分かったな。んで、だったら何だ?」

「お詫びのケーキなんていらないから、代わりに事件のこと教えて」

 高宏は意外そうに目を丸くした。そして丸くなった目を僅かに細め、遥を見つめた。決して睨み付けているわけではなく、人を心配する時、高宏はそういう目つきになるのだ。

「何だ、珍しいじゃねえか。いつもは仕事の話をすると、すぐつまらなそうにするくせによ。……今日はどうした?」

「そんな大した理由じゃないよ。この事件かなり話題になってるし、この前の被害者だって隣町だったから。私だって、それなりに気にしてるんだよ」

 高宏には申し訳ないが嘘である。話題になってることや隣町で起きたことなどはどうだってよかった。遥が気になっているのは、捜査がどこまで進展しているかということ。つまり警察側がどの程度、殺人鬼ちゃんについての情報を掴んでいるかということだけだった。

 当の本人は、自分がブギーマンではないと言っていた。だが、隣町で起きた殺人事件の犯人は間違いなく殺人鬼ちゃんなのである。そのことを知っている遥にとっては、気が気ではないのだ。

 しばらく考える素振りを見せ、高宏はカップに手を伸ばした。少しぬるくなったコーヒーを飲み干し、迷いを断ち切るようにカップを置いた。

「本来なら、たとえ身内と言えども部外者に話すことじゃないが……まあいいか! とその前に。遥、お前この事件について、というか犯人についてどのくらい知ってる?」

「え⁉ えっと、ニュースでやってることくらい……かな。神出鬼没で正体不明だとか。被害者がもう十人を超えてるだとか……そのくらい」

 犯人について、という質問に思わず鼓動が早くなった。万が一にも、遥に疑いがかけられているわけではないが、取り調べを受ける気持ちをなんとなく理解した。当たり障りのない答えをし、高宏の反応を待った。

「……うーん。ま、そうだよな。世間的には、そう広まってるよな……。よしそれじゃ、最初から話すとするか」

 意味ありげな物言いをし、高宏は椅子に掛けた上着のポケットを漁る。だがすぐに何かを思い出したような顔をして、溜息を吐きつつポケットから手を出した。どうやらタバコを吸おうとしていたらしい。

「……はあ。まず初めに言っておくが、この連続殺人事件、通称『ブギーマン事件』の犯人は複数存在する」

「……へ? うぇっ⁉ そ、それ、どういうこと?」

 驚きのあまり椅子を倒し前のめりになりながら、遥は立ち上がってしまった。勢いで倒れた椅子にではなく、遥の反応に高宏も驚いていた。ここまで驚くとは思っていなかったようだ。

「落ち着け。話は最後までちゃんと聞け。にしても、お前がそこまで驚くとはな……やっぱ何かあったのか?」

「べ、別に、何でもないよ。あ、あはは……」

 自分で倒した椅子を起こしながらなんとか誤魔化した。

 驚いた。正直本当に驚いたが、言える筈がなかった。何人もの殺人鬼ちゃんが、目の前に現れたことを想像してしまったなんて……。

「そうか? それならいいが。んで、話の続きだ。犯人が複数だと言ったが、別にこの事件が組織立って行われてるって意味じゃねえ。……なんつーかまあこの事件は、悪魔じみた偶然が重なって生まれた、いわば偶像みたいなもんだ」

「……悪魔じみた偶然?」

「ああ。事の発端は、去年の二月だ」

 そうして高宏が語りだした内容は、要するにこういうことだ。

 去年の二月に、殺人が起きたと通報があった。それも同日に三件、全く別々の場所で。現場には証拠となるような物は無く、目撃者もいなかった。また、被害者達には間接的な接点さえもなかった。共通点と呼べるものは、三者とも人通りが少なく、監視カメラなどがない路地で殺害されていたこと。それから、刃渡り十数センチの刃物で刺されていたことぐらい。

 犯人の足取りが掴めず、警察側が慌ただしくなった頃を見計らったようにマスコミがそれを嗅ぎつけた。事件の内容や警察側の現状を曲解し、『怪奇、正体不明の殺人鬼現る‼』などというふざけた記事を書いたのだ。

 それをきっかけとし、世間がざわつき始めた。噂が一人歩きをし、尾ひれや背びれが付き放題となった。さらにネットでもデマ情報が横行し、噂がさらなる噂を作り出した。

 信じる者、疑う者、ただただ面白がる者、それら全ての想念を集約して生まれたのが、この事件の象徴『ブギーマン』なのである。

「と、これがブギーマン事件のおおよその概要だ」

 話し終えた高宏は空いたカップを手に、キッチンへと向かう。遥が作ったものよりも多めに砂糖とミルクを入れ、二杯目のコーヒーに口をつけた。

「……つまり、その事件の犯人たちが、今も殺人を続けてるってこと?」

「そうとも言えるが、少し違う」

 カップをテーブルに置き、椅子の背もたれを正面に持ってくる形で高宏は再び席に着いた。大の大人がする座り方ではないが、話が途切れると思いあえて指摘はしなかった。

「そもそも、世間で言われているブギーマンってのは、特定の人物を指す言葉じゃないんだ。今じゃもう、人殺しをしてすぐに逮捕されなきゃ、もれなくブギーマン扱いさ」

「それじゃあ、全然関係ない事件までブギーマン事件になってるの?」

「いぐざくとりー、そういうこと。なまじ特徴的な犯行じゃないから、誤解が生じやすいんだよ。その上、マスコミ連中が面白がって記事にする度、世間がざわめき立つ。そのせいで、バカな愉快犯どもがここぞとばかりに湧いてんだよ」

 子どものように椅子を前後に揺らしながら「ほんと、ふざけてやがる」と、落ち着きない様子で高宏は言い足した。恐らく、ブギーマンの神出鬼没さや正体不明という点は、それら愉快犯たちの出現が原因で拍車が掛かったのだろう。これでは、警察や高宏の仕事が忙しくなるのも無理はない。

 未だに椅子を揺らし続ける高宏をたしなめようとしたが、「だがな」と言葉を発し、動きを止めた。

「俺たち警察だってバカじゃない。件の連続殺人鬼ブギーマンとは、そろそろ決着がつくぜ」

「決着がつくって……この事件、愉快犯が後を絶たないんでしょ? なら、解決はまだ先になるんじゃないの?」

「ああ、違う違う。今言ったのは、『世間で言われてるブギーマン』とじゃなくて、俺たち『警察側にとってのブギーマン』と決着がつくってことだ」

「……ええっと、ごめん。それって、何がどう違うの?」

 世間が話題に上げるブギーマンと、警察が追っているブギーマンが違うとはどういうことなのだろうか。確かに高宏は、複数の犯人がいると言っていた。加えて、愉快犯も多く現れているらしい。

 しかし、それら全てがブギーマンとして扱われている以上、警察側も放っておくわけにはいかないはずだ。ならば結局、世間と警察にとってのブギーマンは、同じものではないのだろうか。

「つまりだな、世間が言ってるブギーマンは、今起きてる事件そのもの指す言葉だ。コレの解決に関しては大分先になるだろうな、はぁ……。んで、警察側が言うブギーマンってのは、れっきとした特定の人物を指す言葉なんだ」

「特定の、人物……!」

「そう。それこそが、この事件の発端となった三件の殺人事件、その犯人だ」

 一瞬、警察が殺人鬼ちゃんのことを既にマークしているのかと思ったが、そうではないらしい。

 警察側は、最初に起きた三件の殺人事件の犯人が、ブギーマン事件の中心となっていると考えているようだ。もちろんそれは、愉快犯を含めた犯人たちが、徒党を組んでいるという意味ではない。

 言わば、カルト宗教における教祖のようなものと想定しているようだ。それ故、大本を叩いてしまえば自然と収束していくはず。高宏の話を聞く限り、警察はそう踏んでいるのだろう。

「……うん、なんとなく理解出来たけど。最初の事件の犯人って、証拠とか目撃情報とかないんでしょ? どうやって捕まえるの?」

 その言葉に大きく溜息をつき、高宏はうなだれる。落ち込んでいるというよりは、呆れていると言った方が近いだろう。だがそれは遥に対してではなく、もっと別の何かに対してであった。

「……はぁあ……お前がそう言うってことは、世間じゃそう認知されてるってことだよなあ。まったく嫌になっちまうぜ」

「ご、ごめん高兄。私、何か悪いこと言った?」

 苛立つ高宏をあまり見たことがなかったため、遥は少しどぎまぎした。だが、高宏はすぐに何でもないといった笑顔を見せ、話を続けた。

「悪りぃ悪りぃ、気にすんな。お前のせいじゃねえよ。ちょいと、マスコミやら報道関係の連中に嫌気が差しただけだからよ」

「そ、そうなんだ。他人事みたいで悪いけど、なんか大変なんだね、色々と。でも、高兄の言い方だと、最初に事件には進展があったってこと?」

「ああ、この際だからちゃんと聞いとけ。いいか、最初に起きた三件の殺人事件。この犯人はもうとっくに捕まってんだよ」

「えっ⁉ そ、それじゃあ……」

「話は最後まで聞け。捕まったって言っても、二人だけだ」

「……二人、だけ?」

「そうだ。そしてもう一人いる。三件の殺人事件には、それぞれ別の犯人がいたんだよ。ま、そんなこと、普通に考えりゃ当たり前のことだがな」

 事実は小説より奇なり、なんてことはなかった。三人の犯人が、たまたま同じ日に、全く別々の場所で人を殺した。そいてたまたま証拠が挙がらず、目撃もされなかった。悪魔じみた偶然とはよく言ったものである。

 既に捕まった二人は、それぞれ二件目の殺人を犯した時に足が付き、呆気なく逮捕されたそうだ。当然、警察側はそのことを公表している。ニュースや新聞などでも、どんな形でかは知らないが報道はされたそうだ。

 しかしながら、遥をはじめ、世間はそのことを知らない。本当に知らないのか、知らないふりをしているのかは分からない。だが、歪曲された情報が飛び交う中で、真実のみを選び抜くというのも難しいのかもしれない。

 しかし、今遥にとって重要なのは、そんなことではなかった。

「……もう一人。そのもう一人は、どうなってるの?」

「そいつはまだ、捜査中だ。そいつだけが、何の手掛かりもないまま手詰まりの状況だった。けどな、」

 嫌な予感がした。なんとなくではあるが、寒気にも似た感覚が全身を駆け抜けた。違っていて欲しい。ここまで明確に自分の予想が外れろと願ったことはない。

「つい最近、ようやく進展があった。さっきお前も言ってたが、数日前に起きた隣町での殺人事件。あれは、そいつがやったもんだ」

「どうして、そう……断言できるの?」

「遺体の刺傷が、去年の二月に起きた事件と一致する奴があってな。同一の刃物によるものだと判明した。それに、ちと曖昧だが目撃情報もある。何より、初の物的証拠が挙がった」

 そう言ってまた、椅子に掛けてある上着のポケットを漁る。いっそタバコでも出して、そのまま吸ってくれればいいのに。そうしたら、今回だけは特別に、笑って見逃してあげるのに。そんな期待はあっけなく掻き消されていった。

「こいつが、初の物的証拠だ」

 テーブルの上に置かれたのは、一枚の写真。全体的に暗くてぼやけているが、赤い水溜りに横たわる何かと、そこから去ろうとするセーラー服を着た人影が写っていた。

「目撃情報とこの写真を照らし合わせた結果、犯人は恐らく、十代後半から二十代前半の女。しかも見て分かると思うが、この制服からしてお前が通う高校の卒業生。……あるいは、在校生の可能性がある」

 なんとなく分かっていた。流石に、写真が出てくるとまでは思っていなかった。それでも、殺人鬼ちゃんに繋がる何かが出てくるということは薄々勘付いていた。

 心の中が、急に寒くなった。それが寂しさであるとすぐに理解した。

 殺人鬼ちゃんが捕まってしまう。殺人鬼ちゃんが遠くへ行ってしまう。出逢って数日しか経っていない。過ごした時間も多くはない。それでも彼女は、遥にとってかけがえのないものなんだ。自分が何者であるのかを教えてくれる、ただ一人の存在なんだ。

 失いたくない。たとえ自分の半身を引き千切ってでも、殺人鬼ちゃんとの繋がりを無くしたくない。きっともう、彼女のような人とは出会うことは出来ないはずだから。

 だが、仕方ないとも思っていた。殺人鬼ちゃんは、人を殺しているんだ。いくら遥がその事実を受け入れようとも、周りはそれを認めない。どんな理由があろうとも、許されるものではない。

 自分はなんて冷たい人間なんだろう。かけがえのない存在と思っている相手が捕まるかもしれないのに、仕方が無いで片付けようとしているのだから。ひょっとしたら、殺人鬼ちゃんなら何とかなるかもしれない。などという、楽観的な思考に逃げようとしたが、そんなわけにはいかない。そう思えるほど日本の警察は甘くない。

 複雑な罪悪感を抱きながら、もう一度写真を確認した。するとそこには、一つの違和感があった。おかしい。どこか不自然だと。

「実はこの写真を警察に提供したのは、お前んとこの学生なんだ。目撃者ってのもそいつだ。そいつの話だと、暗くてはっきりとしなかったが、犯人は〝黒髪〟だったそうだ。つっても、髪色なんて情報としちゃ不十分だが、ま、無いよりマシだな」

「……くろ、かみ?」

 そんな筈がない。殺人鬼ちゃんの髪は、透けるようなプラチナブロンドで腰まで届く長いツインテール。いくら暗くても、見間違える筈が、な……い……。

 その瞬間、遥はたった今感じた違和感の正体と、一つの事実に気が付いた。

 殺人鬼ちゃんの髪は長いプラチナブロンドだ。いくら暗くてぼやけていようとも、それが写っていないというのは不自然なのだ。加えて、目撃者の黒髪という発言。これらから言えることは、この写真に写っているのは殺人鬼ちゃんではないということだ。では、ここに写っているのは一体誰か? 簡単なことである。

 この写真に写っているのは――遥だ。

 写っているのが殺人鬼ちゃんでないと分かり、遥はホッとしたが、それ以上にゾッとした。あの日、あの時、あの場所に、黒髪でセーラー服を着た人物は遥しかいなかった。恐らく、殺人鬼ちゃんがあの場を去った後に写真を撮られたのだろう。そう考えるのが妥当である。

 この写真が、殺人鬼ちゃんに繋がる直接的な証拠でなくなったことは喜ばしいことだ。しかし、写っているのが遥だとバレることは、非常に都合が悪い。

 あの事件に関して、遥は何もしていない。そう、通報なども全くしていないのだ。本来であれば、この事件の第一発見者は遥である。だが遥は、何もせずに現場ただから去ったのだ。その瞬間を写真に撮られた。こんなもの誰がどう見ても、遥が犯人だと疑わざるを得ない。

「どうした? 顔色悪いが、大丈夫か?」

「…………」

 顔色が悪いなど、言われるまでもない。今はただどう誤魔化すべきか、どうすればこの状況を切り抜けられるか、それだけで頭が一杯だった。

 万が一バレたとしても、言い訳ならいくらでも出来る。実際、遥は人殺しなどしていないのだから。それでも、どんな言い訳をしようとも、殺人鬼ちゃんという存在を隠し通せる気がしなかった。一体、どうすればいいのだろうか。

「……悪かった」

「……えっ⁉」

 高宏は写真を裏返しつつ、上着のポケットに戻した。そして、覆い隠すように片手を顔に押し当て、溜息を吐いた。

「事件にようやく進展があって、つい興奮しちまってた。この写真、ぼけちゃいるが、遺体とかも普通に写ってた。それに突然、お前の学校に殺人鬼がいるかもしれない。なんて言えば、誰だってそうなるよな。気が回らなくてすまん……」

「いや、その、えっと……うん大丈夫」

 勝手に勘違いされてしまった。冷静に考えてみれば、遥が容疑者として疑われているわけではない。そんな事実は、遥の頭の中にしかない。焦る意味などなかったのだ。それが分かるとすぐに落ち着きを取り戻せた。

「自分で話しといてなんだが、正直、この話は他言しないでくれ。……つってもやっぱ、一人で抱え込むのも辛いよな。なんだったら、口の堅い奴になら話しちまってもいいぜ! 佳純ちゃんとかどうだ?」

「えっ! ……ああ、佳純……か」

 佳純の名前を聞いて、少し驚いた。しかしそれは、高宏の口から佳純の名前が出たことにではない。遥はよく知らないが二人は面識があるらしく、佳純のことはよく話題に上がったりもするため、何ら不思議なことではない。

 単純に、今の遥にとって佳純という単語は、ある種のNGワードになっているのだ。

「なんだ、歯切れ悪いな。さては、佳純ちゃんとケンカしたな?」

 鋭い、というより目敏い。だが少しだけハズレ。

「別にケンカしたわけじゃないよ。……ただ、私が変なこと言っちゃって、少し気まずいってだけ」

「ふーん、そうかなるほど、それでか」

「……? なるほどって、どういう意味?」

「なんか今日、少し様子がおかしいと思ってたんだよ。お前、悩んでたりするといつもそうだからな」

「そ、そうかな? えへへ、自分じゃ、よく……分かんないや」

 何故だか少し恥ずかしくなってきた。高宏に自分の全てを見透かされているような。なんだったら、今履いてる下着の色まで知られているような、そんな気分になった。

「でもまあ、あんまり気にしなくてもいいと思うぜ。あの子は昔からずっと、お前の傍にいてくれた。一緒にいてくれたんだ。ならもう、そいつは特別なものなんだよ」

「特別……なのかな?」

「そう、特別だ。それこそ、お前が本気で離れたいと思っても、お前の傍に居続けてくれる。そういうのを親友って呼ぶんだよ。だから、さっさと仲直りしちまいな!」

「……う、うん。がんばる」

 特別。確かにそうかもしれない。親友というのはきっと、家族や恋人よりもずっと特別な存在なのだろう。

 ならば、殺人鬼ちゃんは自分にとってなんなのだろう。友達であるが、親友とは少し違う。家族でもないし、当然恋人でもない。それでも彼女は特別だ。

 同じようで、全く異なる二つの特別。どちらが上か下かなどはない。決して天秤にかけていいものではない。けれども、いつか自分は、そのどちらかを選ばなくてはならないような気がした。二つを手にしたまま、歩むことは出来ないと思った。

 唐突に、殺人鬼ちゃんに投げかけられた問いが頭をよぎった。遥一人では行き詰っていた難題。高宏ならば、何と答えるだろうか。これはズルなのかもしれない。問いかけられたのは自分なのに、誰かに答えを委ねてしまうのは。それでも、殺人鬼ちゃんのことを知れるのなら、近付けるのなら、迷いはなかった。

「ねえ、高兄」

「ん? 何だ?」

「ちょっと、変なこと聞いても、いい?」

「変なことかよ……。別にいいけど、その前に俺からも一ついいか?」

「……いいよ。何?」

「タバコ吸っていいか?」

「……あー、はいはい。いいよ別に。でも、」

「分かってるって。部屋じゃ吸わねえよ。そうだな、ベランダでならいいか?」

 一瞬、殺人鬼ちゃんの時と同様に、また自分の質問が潰されてしまうのか? などと思ったが、取り越し苦労であった。

 遥は窓越しのベランダに目をやり、洗濯物の有無を確認した。現在洗濯物は干されておらず、今日は干す予定もないため問題ない。

「うん、ベランダならいいよ」

「おお、助かる。ニコチン切れてきちまって、まいってたんだよ」

 先ほどからやたらと落ち着きがないと思っていたが、それが原因だったか。本当に、どうして大人はあんな毒物としか言えないような物を好んで摂取するのだろうか。全くもって疑問である。

「高兄さあ……タバコ吸うの止めたら? 身体に良くないし、高いでしょ?」

「いくら高かろうが身体に悪かろうがいいんだよ。そんなもん屁でもねえ。それにな、刑事のベストパートナーはタバコって、昔から決まってんだよ。そこらの夫婦より、よっぽど固い絆で結ばれてるぜ」

「奥さんどころか、恋人もいないくせに……」

「うっせほっとけっ‼ 何と言われようがタバコはやめねえ! 一箱千円超えねえ限りは絶対やめねえ!」

 嗚呼、いくらベストパートナーでも限度はあるようだ。千円で別たれるような絆なら、はなから結ばなければいいのにとは、言ってはいけないのだろうな。

「っと、いけねえ。で、お前が聞きたい変なことってなんだ?」

「あー、まぁ……別に、大したことじゃないんだけどね」

 なんというか、聞きづらい雰囲気になってしまったが仕方ない。あのまま聞いても変な空気になっていただろうし、今更気にすることはないだろう。

「その……人間と殺人鬼の違いって、なんだと思う?」

「うっわ、ほんっとに変なこと聞いてきたな……。まさか、佳純ちゃんと気まずくなったの、それのせいじゃねえだろうな?」

「違う、違うよ。佳純とは、もっと別のことだから……」

 佳純とのいざこざも、こんなあっさりと話せてしまう程度のことだったらどれだけ楽だっただろう。いっそもう、全部話してしまおうかとも思ったが、止めておくとこにした。それこそ、今よりもひどい空気になってしまう。

「そうか? ならいいが。にしてもなんだ、その謎の哲学は?」

「友達と、なんか流れでそんな話になっちゃって。ずっと一人で考えてたんだけど、行き詰っちゃってさ。ほら、高兄は一応刑事だし、そういうこと考えたりもするかなって思ったから」

「一応って……お前なあ。まあいいか。それにしても、人間と殺人鬼の違いか。あーん、そうだなあー……」

 意外にも、高宏は真剣に考えているようだ。やや俯き、顎に手を当て、いかにも考え事をしているという格好で。殺人鬼ちゃんの時は絵になるとも思ったが、改めて見るとやはり恥ずかしい格好である。捜査の時などでも、このような格好をしているのかと思うと少し心配になる。

「うーん? ま、やっぱこれかな」

「何か思いついたの?」

「あー、実を言うと、俺も似たようなこと考えたことがあってな。それも含めて、改めて考え直してみたんだが、そん時と同じ考えだったわ」

「へぇー、そうなんだ。それで、高兄は何だと思ったの?」

「あー、多分違いってのは、殺したかどうかだって俺は思うぜ」

 きっと今、無意識に溜息をついたと思う。あまりにも単純。単純すぎて、遥が最初に否定した考え。刑事という、一般人に比べ非日常な世界を生きる高宏ならば、もっと他の考えが出てくるはずと期待していた。だが実際に出てきたのは、日常を生きる者が最初に思いつくようなごくごく一般的な答えでしかなかった。

「……高兄。流石に、そんな単純じゃないと思うよ……」

 これ見よがしに肩を落とす遥に対して、高宏もまた、これ見よがしに溜息をつく。

「お前なあ。話は最後まで聞けって、さっきから言ってるだろ?」

「……だって」

「それにな。俺が今言ったのは、お前が考えていることほど、単純じゃないと思うぜ」

「そうなの? ならその、単純じゃない考えを聞かせてよ」

「言われなくても聞かせてやるよ。俺が言った殺したかどうかってのは〝誰かを〟じゃない。〝自分自身を〟殺したかどうかってことだ」

「……ごめん、よく分かんない」

 高宏の言い分を、遥はほとんど理解出来ずにいた。全く要約出来ていないのに「要するに」などと言う、学者の説明くらい意味が分からなかった。

 自分自身を殺すというのは、自殺するということではないのだろうか? それでは、人間と殺人鬼の違いは、自殺したかどうかになってしまう。そんなのどう考えたっておかしいではないか。

「……ひょっとしてお前、国語苦手なのか? 文章の読解力低いとか言われないか?」

「し、失礼なこと言わないでよっ! これでも学年上位の成績だし、国語だって平均以下取ったことないもん!」

 意外かどうかは分からないが、遥はそこそこ勉強が出来る。というのも、帰宅部な上、趣味といえる趣味もない。家に帰っても大してやることがないため、勉強しているというなんとも悲しい理由ではあるが。

「学年上位様ってんなら、俺の言ったこと、ある程度は理解出来るはずなんだがなぁ?」

「ぐぅう……。そ、それで、結局どういう意味なの?」

 高宏に言い放たれた皮肉がかなり悔しくはあるが、それに言い返せない自分がいた。大人になろう。目の前のアラフォー男よりも、今だけは大人になろう。何度もそう言い聞かせ、沸々とした怒りを冷ましていく。

「はぁ……ちゃんと説明してやるよ。だからそんな怖ぇ顔して睨むな」

「……よろしくお願いします!」

「はいよ」

 二杯目のコーヒーも飲み干し、一呼吸おいてから高宏は話し始めた。その表情は、遥が思っていたよりもずっと真剣なものであった。

「いいか? 人ってのはな、誰かを殺したい、殺そうって思った時、自分の中にもう一人の自分が生まれるんだ」

「もう一人の……自分?」

「そう。その自分は、怒りや憎しみ、恨み、妬みなんかの、いわゆる黒い感情を抱えきれないほど持ってる。と言うよりも、黒い感情そのものなんだ」

 黒い感情。そう呼べるものは遥の中にもあった。もちろん、本気で殺したいなどとは思っていないはずだ。それでも、五十嵐と関わった時に湧き上がって来るものは、きっとその類なのだろう。

「そんな黒い自分を殺すことが出来たのなら、そいつは人間でいられる。でも、もし殺すことが出来なかったら、そいつは殺人鬼――鬼になる。ってのが、俺の考えだ」

 殺せたのなら人間で、殺せなければ殺人鬼となる。それが高宏の考える、人間と殺人鬼と違い。つまり高宏からしてみれば、殺人鬼ちゃんは鬼そのものなのだろう。殺人鬼ちゃんの考えを理解し、同じ道を歩むのなら、自分も鬼になるのだろうか。

 もし、全く違う道を歩んだとしても、いつかは鬼になるかもしれない。たとえどんな形をしていようとも、黒い感情を抱えた自分は確かにいるのだから。

 そんな黒い自分というものを明確に意識し、恐怖で凍り付いた頭を、優しい温もりがそっと溶かしてくれた。いつの間にか、高宏の大きな手が頭の上に置かれており、髪をくしゃくしゃしながら撫でてくれていた。

「大丈夫だ。俺の話を聞いて、お前がどんなことを思ったのか知らねえけどよ。お前は安心して、もう一杯コーヒーを淹れといてくれりゃいいんだよ」

 そう言って高宏は上着を羽織りながら、静かに戸を開けてベランダへと出ていった。

 ……違うよ高兄。私が怖いと思ったのは、自分が鬼になることじゃない。いつか鬼になるかもしれない自分を、簡単に受け入れてしまったこと。私はそれが怖かったんだ。

 少し乱れた髪を整えながら、頭に残った感触を確かめる。大丈夫。この感触を忘れない限り、きっと大丈夫なはずだ。そう思いながら、遥は再びコーヒーを淹れた。


 ベランダの戸を閉めた途端、寒さが増したような気がした。外に出たのだから当然と言えば当然だが、それにしても寒い。空を見上げると、雲行きが怪しくなって来た。ついさっきまでは晴れていたというのに、やたら寒いと感じたのはそのせいかもしれない。

 少し強めの風が吹く中で、高宏は慣れた手つきで消えないようにタバコに火を点ける。部屋で補充出来なかったニコチンをこれでもかと吸い込み、肺の中を満たした。満足げに吐き出した煙はその場に留まらず、風に流され消えていく。

「そうか。あの日からもう、五年が経ったのか」

 決して短くない時の流れも、高宏にとっては昨日のことのように思えた。目まぐるしい毎日だったためか、単に歳を取っただけかは分からない。どちらにせよ、あっという間の五年であった。

 窓越しにリビングを覗くと、遥は高宏が頼んだコーヒーを淹れていた。その視線に気づいたのか、「ちゃんと淹れましたよ」と言わんばかりにカップを持ち上げる。

 遥にとっては、どんな時間だったのだろうか。この五年で遥は変わった。それが良いことだったのか、それとも悪いことだったのかは分からない。ただ一つ言えることは、多分遥は、遥の世界は何も変わっていないということ。

 時々、自分の選択が正しかったのかどうか悩んだりする。だが、後悔だけはしていないと胸を張って言える。いつか必ず、そう信じてやることしか高宏には出来なかった。

 だから今は、このままでいい。そう思って吐き出した煙は、風に流されまた消えていった。

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