第3話 再会

「ただいま」

 帰宅した遥を出迎えてくれたのは、冷たい空気が流れる無音の空間であった。両親は共働きであり、帰りはいつも遅い。加えて今日は、どちらも泊りで帰っては来ない。昔からそうであるため今更どうとも思わないが、たまに寂しく感じることもあった。だが、今の遥にとっては都合が良かった。夜中にこっそりと外出、なんてことをしなくて済むからである。

 両親がいない時は帰宅途中でスーパーに寄り、自分で料理を作るのだが、今日に限ってスーパーへ寄るのを忘れてしまった。そのため仕方なくキッチン周りを物色し、即席で食べられるものを探した。あまり好きではないが贅沢は言えない。

 粗末な夕食をたいらげ食休みを挟んだ後、遥は浴室へと向かった。入浴時間は、烏の行水より少し長い程度。本当ならばゆっくりと湯船に浸かっていたかったが、どうせまた外に出るのだからとシャワーだけにしたのだ。

 手早く髪を乾かし自室に戻る。時計を見ると時刻は九時ちょうど。まだ早い。そうなんとなく感じた遥は、学校の課題に手を付け始めた。量はそう多くないから、一時間もあれば終わるだろう。そんな風に考えながら、すらすらと課題を進めていく。

 遥は不思議と落ち着いていた。これから昨日出会った少女に、殺人鬼に再び会いに行こうとしているのに、驚くほど平常心を保っていた。普通であれば、恐怖したりソワソワしたりするはずなのだが、遥の中にそれらはなかった。

 椅子に座ったり、その辺を歩くことに恐怖する人はいない。歯を磨いたり、靴下を履くことにソワソワする人はいない。遥は少女との再会を、そのくらい当たり前のことに感じていたのだ。初めて会ったその時から、そうなることが決まっていたかのように。

 遥が課題を終わらせた頃には十時を過ぎていた。そろそろと思った遥は、出掛ける支度を始めた。下はジーンズ、上はダッフルコート。暖かければ何でもいいと適当に服を見繕い、飛び出すように家を出た。

 今宵の空も三日月が浮かんでいる。遥にとって決して嬉しいことではないが、それで少女に会えるというのなら安いものである。夜になると外は一段と冷え込んでいた。もっと厚着すれば良かったとも思ったが、歩いているうちに身体も温まり、あまり気にならなくなった。

 遥は目的地である公園の場所を知らなかったため、それとなく注意を払いながら周囲を散策していた。しばらくの間探していると、それらしい場所を見つけた。少女が言っていた通り、そこは走り回れないほど小さく、遊具がいくつかあるだけの公園であった。

 そのまま入ってはみたものの、少女の姿はなかった。一応、昨日と同じくらいの時間に出向きはした。しかしよく考えてみれば、待ち合わせの場所は決めていたが、時間は決めていなかった。これでは少女がいつ来るのかが分からない。そもそも、少女が来るという保証もないのだ。どうするべきか決めあぐねていた遥の耳元に、聞き覚えのある声が届いた。

「へえー、ホントに来たんだ」

 そう驚嘆する声に振り向くと、そこには昨日出会った少女がいた。ジャングルジムのてっぺんに腰掛け、振り子のように両足を交互にばたつかせている少女。よっと、そんな掛け声と共にジャングルジムから飛び降り、遥の近くへふわりと着地した。

「ホントに来るって思ってなかったから、ちょっと驚いちゃった! 別に来なくても針千本飲ませたりしなかったのに、どうして来たの?」

「……約束、したから」

 ――また会おう。それは何の効力も持たない、ただの口約束でしかなかった。しかし遥は、その言葉だけを信じてここまで来た。だから遥にとって、ここへ来る理由などそれだけで十分だったのだ。

「そっか、そうだよね。ウフフ。うん、じゃあ行こっか!」

「えっ⁉ 行くって、どこに? ここで話をするんじゃないの?」

「違うよ。ここはただの待ち合わせ。目的地は別のとこなんだ。だから早く行こうよ! ああ、え~っと……ゴメン、名前何だっけ?」

 何だっけという言葉以前に、自己紹介すらしていないことに今更ながら気が付いた。互いの名前すら知らないまま会う約束をして、見事再会を果たしていることに思わず感心してしまった。

「……あはは、そう言えば名前がまだだったよね。私は遥。春日野遥っていうの」

「ハルカね。うん、オッケー、分かった。アタシはね、あー、どうしようかな? んーっと、あっ、そうだ! 〝殺人鬼ちゃん〟って呼んで!」

「は?」

 何だそのネーミングセンスは? 違う、そうじゃない。こちらは名乗ったというのに、どうして名前を教えてくれないのか。名前を教えられるほど、まだこちらを信用していないということなのだろうか。それにしても、何だそのネーミングセンスは?

「よーし、それじゃあ改めて行こっか!」

「え! いや、ちょっとまっ……」

「レッツ、ゴ―‼」

 本当の名前も目的地も教えてくれないまま、少女は行ってしまった。マイペースというよりも、人の話を聞かないタイプなのかもしれない。何にせよ今は、殺人鬼ちゃんと名乗るあの少女について行こう。そう思った遥は、小走りで少女の後を追った。

 公園を出てからしばらく経ったが、相変わらず目的地は分からないままだった。先導を続ける少女……いや、殺人鬼ちゃんは、一体どこへ向かうつもりなのだろうか。

「あの……さ、殺人鬼……ちゃん」

「ん? なになにー?」

「これからその……どこに行くの?」

「フッフッフッ、よくぞ聞いてくれました! 今から行くのは、アタシのお気に入りの場所なの。イイとこだから期待しといて」

「へ、へえー。そうなんだ……」

 具体的なことは結局何一つ分からなかったが、これ以上は聞かないことにした。たとえしつこく聞いたとしても、教えてくれるとは限らない。加えて、万が一にも機嫌を損ねるようなことをしたくなかったからだ。

 それにしても彼女は、殺人鬼ちゃんは一体何者なのだろうか。幼く見えるが、歳は自分とそう変わらないように感じた。だからこそ、疑問を抱かずにはいられない。彼女は本当に殺人鬼なのか? と。

 確かに初めて会ったあの時は、現場の状況やただならぬ雰囲気にただただ気圧された。何より、殺人鬼ちゃんが浮かべた三日月の笑みを見て、直感的に彼女がブギーマンなのだと判断した。しかし、今の彼女からは不気味さも血なまぐささも感じられない。

 やはり、初見の彼女とは明らかに異なっている。人とはこれほどまでに変わることが出来るのだろうか。いっそ二重人格か、二卵性双生児とでも説明された方がよっぽど納得がいく。

 殺人鬼ちゃんの後ろ姿をいくら眺めても、謎が増えていくばかりであった。それどころか、ゆらゆら揺れる髪を見ていると、某美少女戦士が連想されてしまい余計にややこしくなる。髪型や髪色が似ているし、セーラー服を着ているからそう見えるのかもしれない。そして何より、今時の人に某美少女戦士と言って通じるのかと、やや心配になってしまった。

 またくだらないことを考えた。そう心の中で吐き捨てようとした時、遥は重大なことに気が付いた。

「殺人鬼ちゃん! そのセーラー服……は?」

「ん? これ? 可愛いでしょ! 普通のセーラーと違って、スカーフの代わりにリボンってのがイイよね! それがどうかしたの?」

 振り返って見せてくれた服は、見覚えがあるどころではない。殺人鬼ちゃんが着ているセーラー服は、遥が通う高校の制服そのものだった。

 どうして殺人鬼ちゃんがそれを着ているのか。思い返すと、昨日も同じような格好をしていた気もするが、あの時はそれどころではなかった。しかし今は、何故すぐに気が付かなかったのか。いくつか考えは浮かんだが、いまいちピンとくるものがない。本人に聞いた方が早いだろうが、聞くことが出来なかった。

「いや、その……さ、寒そうだなって思ってさ。殺人鬼ちゃんコートとか着なくて平気なの?」

「全然平気だよ! アタシ寒いの得意だから」

 聞いたところでどうせまたはぐらかされる。そう思ったから聞かなかった。だけど本当は、殺人鬼ちゃんという存在に踏み込むことを躊躇ってしまったからだ。殺人鬼ちゃんのことを知るために来たはずなのに、知るのが怖くなったのだ。

「そ、そっか、羨ましいな。私は寒いの苦手なんだ」

 強引かとも思ったが、なんとか誤魔化せたはずだ。それに実際、殺人鬼ちゃんはコートを着ていない。それどころか、セーラー服にカーディガンを羽織っているだけという軽装だった。自分だったら凍死するかもしれない。そんな華奢な体で本当に平気なのかと、つい親身になって自分のコートを貸そうかとも考えた。

 だがそんな遥の心配をよそに、殺人鬼ちゃんは後ろ歩きのまま、鼻歌交じりで進んでいた。どうやら、強がりなどではないらしい。

「ねえ、ハルハル。アタシも聞きたいことあるんだけどイイ?」

「ハ、ハルハル……? ひょっとしてそれ、私のこと?」

「そだよ。決まってんじゃーん!」

 唐突なあだ名呼びに遥は少々困惑した。何故なら遥は、佳純とさえあだ名で呼び合ったことが一度もなかったからだ。だからだろうか、ハルハルという呼び名がとても新鮮で、嬉しいと感じたのだ。

 自分も殺人鬼ちゃんをあだ名で呼ぶべきだろうか。呼ぶとしたら何にしよう。殺人鬼ちゃんだから、サッちゃん? それともキーちゃんかな? うーん悩む。

……いやないな、これはない。そもそもがあだ名のようなものなのだから、つけたところで意味が無いじゃないか。

 殺人鬼ちゃんのネーミングセンスを毒づいておきながら、自分もこの程度かと、勝手に落ち込む遥であった。

「あれ? 聞こえてる? もしもーし?」

「あっ! うん、ごめん。それで、何?」

 自分の世界に没頭して落ち込んでいる場合ではない。殺人鬼ちゃんからの初めて質問が来たのだ。どんなことを聞いてくるのか怖くもあったが、その分少しワクワクもした。

「ハルハルが着てるの、それメンズものだよね? 何で? もしかして男装趣味?」

「っぐぅ……!」

 何だろう……心を深く抉られた気がする。軽いキャッチボールのはずが、思いがけず百マイル越えの超剛速球が飛んできた気分だった。

「……あ、あはは、そういう趣味じゃないけど、やっぱり変……かな?」

「ううん、変じゃないよ。むしろ似合ってる。でも可愛くはない」

 似合っているというのはギリギリ救いであったが、可愛くないというのはあまりにも辛辣な言葉であった。確かに遥は、見た目よりも機能性を重視する方である。しかし本当のことを言えば、可愛いと思える格好をしたいのだ。

 だが、人生とは実にままならぬものである。したいと思う格好が、必ずしも自分に似合うわけではないのだ。それでも、似合わない分かっている格好を無理にするよりは悲惨ではないはずだ。遥はグッと堪えながら、苦し紛れに強がった。

「……可愛くない、かぁ……。で、でもね、こういう格好にも、一応それなりに利点はあるんだよ!」

「ホーホー、その利点というのは何かな?」

「ほ、ほら私背が高いし、顔も中性的だから、こういう格好してると男の人っぽく見えるの! だから夜中に出歩いても、変な人が寄って来ないん、だよ……」

 自殺点のハットトリックが決まった。どうして自分の傷口をこんなにも必死に広げているんだろう。なんだか無性に悲しくなってきた。

 しかし事実として、女性よりも男性の方が夜道で狙われることは少ないだろうから、利点としては十分だと思った。むしろそう思わないと、なけなしの自尊心を保てる気がしなかった。

「そっかぁー、そうだよね。夜道で一人の時に会いたくないもんね。不審者とか変質者とか、それから殺人鬼とか、ね」

 ……だとすればもう手遅れだろう。

 ほんの一瞬だったが、遥は見逃さなかった。殺人鬼ちゃんが、一際不気味な笑みを浮かべたことを。今まで半信半疑であったが、たったそれだけのことで確信した。やはり別人などではない。殺人鬼ちゃんこそが、昨日出会った少女で間違いないと。

 そうなるとやはり、どうしても確かめなければならないことがある。遥は意を決して、殺人鬼ちゃんに尋ねることにした。

「あの、殺人鬼ちゃん。一つ、確認しておきたいことがあるんだけど、いいかな?」

「うん、イイよ!」

「その……殺人鬼ちゃんはブギーマン、なの?」

 遥がそう聞くと、殺人鬼ちゃんは足を止めた。先程まで絶やすことのなかった笑顔も消え、真っ直ぐに遥を見つめる。冷たい風が頬をかすめ、ただならぬ緊張感が辺りを包んでいく。

 ただの道だったはずなのに、気付けばそこは地雷原のど真ん中であった。禁足地に足を踏み入れたような、触れてはならない禁忌に手を伸ばしたような、嫌な息苦しさがひしひしと伝わってきた。

 呼吸どころか瞬きさえ出来る気がしない。そんな重苦しい空気を殺人鬼ちゃんは、

「何それ?」

 吹き飛ばしていった。

「……え、違うの? ていうか殺人鬼ちゃん……知らないの?」

「うん、知らない。なにそのブギ……なんとかっての? 有名なの?」

 あり得ない。どれだけ世情に疎かったとしても、ブギーマンという存在を全く知らないわけがない。嘘をついているのかとも思ったが、それこそあり得なかった。

 何故なら、殺人鬼ちゃんが遥に嘘をつく理由が無いからだ。今更嘘をつくぐらいなら、こうして話をするどころか、初めに殺されているはずだ。

 何より遥は、殺人鬼ちゃんが嘘をつくような人に見えなかった。確かに、本当のことを隠している節はあるが、嘘は言っていない。はっきりとそう感じるほど、殺人鬼ちゃんが純粋な存在に思えたのだ。

「有名だよ! テレビや新聞なんかでも報道されてるし」

「アタシ、そういうの見ないし読まないんだ。あんまり興味ないから。それで、そのナントカは何で有名なの?」

「ブギーマンだよ……。えっとね、今から一年半ぐらい前に現れて、未だに正体が掴めていない謎の殺人鬼なんだよ」

「何それっ⁉ スッゴーイッ‼ そんな人いるんだ」

 もしかしたら、ブギーマンと呼ばれている自覚がないだけかとも思ったが、反応を見る限り違うようだ。

「……うん。もう、十人以上殺されてて、昨日殺人鬼ちゃんが殺した人も、ブギーマンがやったって報道されてたよ」

「ああ、なるほど! だからハルハルは、アタシがそのブギーマンだって思ったんだね。でもそれ、アタシじゃないよ」

「どうしてそう言い切れるの?」

「だってそのブギーマンって人は、今までにもう十人以上殺してるんでしょ? でも、アタシが今まで殺した人は、たったの三人だけだから」

 ――三人、確かに少ない。いや、少ないと言うのもどうかと思うが、報道されているブギーマンの被害者の数とは明らかに食い違っている。数を誤魔化しているということも考えられるがが、やはり殺人鬼ちゃんがそうする理由が思い浮かばない。

 もし本当に両者が同一でないとするなら、殺人鬼ちゃんという存在が更に謎めいていくばかりであった。

「それにしても、その謎の殺人鬼さん可哀相だなぁ」

「可哀相って、何で?」

 事件の被害者に対しての言葉なら理解は出来るが、加害者を気の毒に思うようなことがあるのだろうか。もしかしたら、同じ殺人鬼として、何か思うところでもあるのかもしれない。

「だってその殺人鬼さん、ブギーマンなんて呼ばれてるんでしょ? 可哀相だよ……。アタシだったら、そんな可愛くない名前、絶っ対イヤッ!」

「……か、可愛いかどうかなんて、そんな気にすることかな?」

「ちょっとー、何言ってるのハルハルぅ? アタシたち、女の子なんだよ。可愛い方がイイに決まってるじゃん!」

「そ、そっか、そうだよね。……何か、ごめんね」

 勢いに呑まれたのか、つい謝ってしまった。どうやら殺人鬼ちゃんにとって、可愛いことは最重要案件のようである。今でも十二分に可愛いというのに、まだ足りないというのか。殺人鬼ちゃんの上を目指し続ける姿勢に、思わず敬服しそうになってしまった。

「それなら、もし殺人鬼ちゃんが呼ばれるとしたら、どんな名前が良いの? やっぱり、そのまま殺人鬼ちゃん?」

「ん~、それもイイけど、どうせなら違うやつがイイなぁ……」

 殺人鬼ちゃんは小首をかしげながら指を顎に少し当て、いかにも考えているという仕草を取った。こんな芝居がかった格好は、普通であれば恥ずかしいだけである。しかし、殺人鬼ちゃんほどの美少女がすると、やはり絵になるものである。すでにこれだけ可愛い彼女の口から、一体どんな名前が飛び出してくるのか、遥は少々興味があった。

「あっ! ホワイトチャペル・マーダー‼ あんな感じのがイイ! あれはスゴく可愛いって思うの」

 とんでもないものが飛び出してきた。

 ホワイトチャペル・マーダー。一八八八年に、イギリスで発生した猟奇殺人事件の犯人である。こちらの呼び方よりも、切り裂きジャックと呼称される方が一般的であろう。確かに、響きだけなら可愛げがないことも……。うん、やっぱりない。殺人鬼ちゃんが持つ独特な感性は、遥にはまだ理解出来そうになかった。

「そ、そっか。人の感性はそれぞれだもんね……」

 話せば話すほど、知れば知るほど謎に包まれていく少女、殺人鬼ちゃん。ブギーマンと同様に、その正体は未だに掴めそうにない。

 それでも遥は、殺人鬼ちゃんと言葉を交わすことが嫌ではなかった。家族や佳純、他の誰とも違うものを彼女は持っている。それが何なのかを、遥は知りたいのだ。

 何より殺人鬼ちゃんといると、不思議と安心することが出来た。どこか物騒で、女の子らしくて、普通ではない彼女なら、春日野遥を受け入れてくれる気がしたから。たとえ遥かが遥でなくなったとしても、ちゃんと向かい合ってくれるような気がしたから。

 だから遥は胸の内で願った。殺人鬼ちゃんとの時間が、少しでも長く続くようにと。見上げたところでろくに見えもしない星に、その願いを託した。


 歩き始めてかなりの時間が経ったが、まだ目的地に着く様子はない。もしかしたら、夜通し街を歩き回るのかと、遥は少々不安になった。

「殺人鬼ちゃん。いい加減、目的地を教えてくれてもいいんじゃないの?」

「えー、期待しておいてって言ったじゃん!」

「そうだけど……。流石に疲れてきたよ」

「もう、しょうがないなぁ。んー、そろそろのはずだけど……あっ、見えた!」

 途端に殺人鬼ちゃんが物凄い速さで走り出し、あっという間に五十メートル以上離されてしまった。ハルハル早くー、と遠くから手を振り、急かすように呼びかけてくる。そうは言われても、今の遥には走り出せるほどの元気はなかった。

 遥は急かされながらも、何となしに周囲を確認しながら、自分のペースで進んで行く。そうしていると妙な既視感を覚えた。今まで何度もこの風景を見たことがある。この道を歩いたことがある。全身がそう訴えかけてくるような気がしたのだ。

「遅いよ! ハルハル」

「ごめん。それで、もう着いたの?」

「ううん、まだ。でもね、この坂を上った先が目的地だよ!」

「……この坂って」

「よーしっ! それじゃあ、もうひと踏ん張りだ!」

 意気揚々と殺人鬼ちゃんは坂を登っていく。遥はその場で立ち止まったまま坂を見上げていた。疲れて嫌になったわけではない。確かにそれもあるがそうではない。遥はこの坂を知っている。そして、坂の上に何があるのかも知っているのだ。

 傾斜が二十度近くある坂を五百メートル以上登った先にあるのは、坂の上公園と呼ばれる、もともとは小学校だった場所である。数年前に、建物の老朽化が原因となり新校舎を建てることとなった。だが、生徒数の減少や、立地条件の悪さなどから別の場所に建てられることとなり、今では廃校となっている。

 しかしそれなりに歴史のある校舎らしく、災害時の避難場所としても利用出来るという点から、取り壊されることなく残っているそうだ。

 なぜ公園と呼ばれているのか。それは、校庭にある遊具がそのままにされているため、公園みたいという単純な理由からである。と言っても、わざわざこんなところまで遊びに来る人はそうそういないと思う。

 どうしてそんなことを遥が知っているのか。それはこの元小学校が、遥にとっての母校であるからだ。下の通りに見覚えがあったのも当然だ。通学路として何度も通っていたのだから。およそ五年振りだろうか。もう来ることはないと思っていた。それがまさか、こんな形で再び足を運ぶことになってしまうとは想像していなかった。

「着いたよ」

 少し息を切らしながら辿り着いた場所には、あの頃と変わらない校舎があった。管理が行き届いているのか、校庭も校舎も思っていたよりも綺麗なままだった。そのことが嬉しくもあり、寂しくもあった。

 まるでこの場所だけが、時の流れに置き去りにされてしまったように思えたから。そんなところに帰ってきた自分は、一体どれだけ変わったのだろう。この校舎と同じように、周りに置いて行かれているのではないか。ただその場で足踏みをしているだけではないのか。そう考えると、虚しくなって怖くなった。

 本当に足を踏み入れていいのだろうか。迷っている遥の手を、小さな温もりがそっと握ってくれた。

「何してるの? 早く行こうよ」

「う、うん」

 殺人鬼ちゃんに引っ張られ、なんてことなく一歩を踏み出すことが出来た。おかしな話である。昨日まで怖いと感じていたはずなのに、殺人鬼ちゃんといると恐怖が和らいでいく。自分で思うよりも、人は案外簡単に変わるのかもしれない。殺人鬼ちゃんのおかげなのか、遥はそう思うことが出来た。

「ところで、行くって言ったけどもう着いてるよね?」

「まあ、そうだけど。アタシがホントに行きたいのは、ここの屋上なんだ」

「屋上? 流石に無理じゃない? 鍵が掛かってるだろうし、中には入れないと思うよ」

「大丈夫っ! アタシに任せといて」

 自信満々な殺人鬼ちゃんに引かれたまま、遥は校舎裏へと連れて来られた。そこは一直線に窓が並んでおり、ひとつひとつが教室に繋がっていた。

「そこの一番右端から三番目の窓、開けてみて」

「開けてみてって、どうせ閉まってるよ?」

「イイからイイから!」

 言われるがまま、遥は窓に手をかける。軽い力で引いてみると、カラカラと音を立て簡単に窓が開いた。

「えっ、嘘⁉ 何で?」

「ね! 開いたでしょ」

「殺人鬼ちゃん、これどうやったの?」

「アタシは何もしてないよ。単にね、ここだけ鍵が壊れてるからいつも開いてるの」

 よく見ると、確かのこの窓だけ鍵が壊れていた。意図的ではなく、古くなって壊れてしまったようである。一見綺麗に見えた校舎ではあったが、こうして見ると着々と老朽化が進んでいることが分かる。

「ささっ、入ろ入ろ!」

 躊躇うことなく殺人鬼ちゃんは校内へと入っていった。いつもと言っていたし、恐らく殺人鬼ちゃんは何度かここに来たことがあるのだろう。遥もそれに続こうとしたが、いくら廃校になったとはいえ、土足で入るのは流石に気が引けた。そのため、申し訳程度に靴をはたいてから中に入ることにした。

 教室内もとても綺麗で、昔のままであった。だが、机や椅子は小さく、黒板の位置や天井さえも低く感じた。身体だけはちゃんと成長したのだと、はっきりと実感した。

「屋上はこっちだよ」

 そう言われるまでもなく、場所は分かっていた。しかし、なんとなく黙ってついていくことにした。教室を出て、月明かりに照らされた廊下を進んだ。そこまで暗くはなかったが、階段は流石に見え辛く、一歩一歩確かめるように登った。

「そういえば、何でこの場所知ってたの?」

「ああ、アタシ高いところが好きなんだ。それで、この辺で高いところないかなぁ、って探してたら見つけたんだ」

「そんな理由でよくこんなところまで来たね」

 俗に、ナントカと煙は高いところが好きと言うが、もしかしたら殺人鬼ちゃんもその類なのだろうか。確かに普通ではないだろうが、頭が悪いのとは違うはずだ。

「まあね。そういうハルハルもこの場所知ってたみたいだけど、何で?」

「ここ、私の母校だから」

「あっ、やっぱり! リアクション見てそうかなって思ってたんだ。それに、顔に思いっきり懐かしい、って書いてあったし」

「そ、そうかな……」

 分かりやすいようなリアクションをした覚えはないが、流石によく見ている。それか、自分で思っているよりも、この場所に来たことを懐かしんでいたのかもしれない。

「そうだハルハル。目、瞑ってくれる?」

「え、どうして?」

「イイからお願い!」

「……分かった、じゃあ瞑るね」

 目を瞑らせるからには見せたくないもの、いや逆に、見せたいものがあるのだろう。だが、この学校の屋上にそのようなものがあった覚えはない。一体、殺人鬼ちゃんは何を見せたいというのだろうか。

 本当に何も見えない暗闇の中、遥は手を引かれながら先程よりも更にゆっくりと階段を登っていく。ようやく最上階についたのか、前を歩く殺人鬼ちゃんが止まった。そして、扉が開く音と共に、冷たい風が後ろに流れていく。

 再び手を引かれ、躓かない様に慎重に歩を進める。高所であることと遮るものがないためなのか、風を強く感じた。屋上に出て少し歩いたところで立ち止まり、殺人鬼ちゃんは遥の手を離した。

「もう開けてもいいよ」

 目を開けた先に広がっていたのは、街が作り出した一つの夜景だった。所々に点在しているのは住宅や店の灯りで、並んでいるのは街灯、動いているのは車のヘッドライトだろう。フェンス越しに見えたそれらは、お世辞にも百万ドルの夜景とは言えなかった。それでも、暗闇を消すには十分なほど、眩く光を放っていた。

「ねっ、スゴイでしょ! ハルハルもそう思うよね?」

「……うん。そうだね」

 言葉とは裏腹に、そんなこと微塵も思ってはいなかった。実を言うと、遥は以前にもこの景色を見たことがあったのだ。もちろん、ここの屋上で見たわけではない。どこかは忘れたが、この街の夜景を遥は知っていた。

 まるで宝石のようだと例えられる夜景を前に、人は「キレイ」「素敵」と感嘆の声を漏らす。しかし当時の遥は、そんな風にはとても思えなかった。

 夜景を目にした途端、名前の分からない感情が心の中でのたうち回った。言葉に出来ない思いが神経を駆け巡り、身体中を掻き毟りたくなる気分になった。どうすることも出来ないまま、ただ耐えるしかなかった。そんな判然としない思いに好きではないという形を与え、その場をやり過ごした。

 そしてそれは今も変わらない。その時ほどひどいものではないが、のたうつ感情も、駆け巡る思いも、何一つ理解出来ないままだった。結局、何も変わってなどいないのだ。あの頃置き去りにした自分のもとに、同じ自分が帰って来ただけだった。

 悲嘆にくれる遥をよそに、すぐ近くでガシャガシャとフェンスが軋む音が聞こえた。音の方へ目をやると、殺人鬼ちゃんが屋上を囲うフェンスをよじ登っていたのだ。

「ちょ、ちょっと殺人鬼ちゃん! 何やってるの⁉」

「ヘーキヘーキ。いつもやってるから」

 登る様子から慣れているということは伝わったが、危険なことに変わりはない。フェンスの高さは三メートルほどだったが、万が一落ちてしまったら怪我で済むはずがない。すぐに止めようとしたが、そうする間もなく殺人鬼ちゃんは屋上の縁に降り立った。

「ねっ、言ったでしょ?」

「ね……じゃないよ! 危ないから、早く戻っておいでよ」

「ヤーだ。そっちだとフェンスが邪魔でちゃんと見えないから」

 殺人鬼ちゃんはそのまま遥に背を向け、夜景をじっと眺めていた。お気に入りの場所と言っていたからには、きっと殺人鬼ちゃんもこの人工光らが好きなのだろう。意外というよりも、信じたくなかった。殺人鬼ちゃんまでも、こんなものを見てあのありきたりな言葉たちを口にするのだろうか。そう思うと何故か、何故か無性に、

「ああホント、この景色を見ていると、」

 ――反吐が出そうになる。

「……え?」

 そう口に出したのは殺人鬼ちゃんだったが、遥は一瞬、自分が口走ったのかと思ってしまった。そのくらい、二人の思いは重なっていたのだ。

「こんなものを見てキレイだなんて抜かす人を、ハルハルはどう思う?」

「わ、私は……」

「アタシは、何も知らないバカな人なんだなって思う。ハルハルも、そうなんでしょ?」

 怪しい光を宿すその瞳には、嫌悪や侮蔑が込められていた。しかしそれは、遥に対してではなく、街を照らす明かりやそこで暮らす人々へ向けられているような気がした。そして遥は、ようやく悟った。自分の中にある名前の分からない感情も、言葉にならない思いも、殺人鬼ちゃんの瞳に浮かぶものと同じなのだと。

「……うん。多分、私も……そう、思ってる」

「だよね。だからここに連れてきたんだ」

 なんとなく理解は出来たが、どうしてそう思うのかはまだ分からなかった。漠然とそう感じたとしか説明できない。それでも、あの頃の自分から変わることが出来たから、今はまだ、それだけでいいと思った。

 殺人鬼ちゃんは、いつの間にか屋上の縁に腰掛けて、宙ぶらりんの足をばたつかせていた。フェンスに寄りかかる小さな後姿を見て、背中合わせになるように遥もそっと腰掛けた。

「ホントは皆、あんなものをキレイだなんて思ってないんだよ。だけど皆、少しでも明るい所にいたいから。そう思わないと、そこにはいられないから」

「それは、暗闇が怖いから、ってことなのかな?」

「そうだね。でもそれだと半分かな。もう半分が何だか分かる?」

 人が暗闇を恐れるのは当たり前のことである。それは本能のようなものだから、理屈としては十分なはずである。しかしそれでは足りないらしい。

 それ以外に、明るい所にいたがる理由などあるのだろうか。もともと暗闇にあまり恐怖を感じない遥には、尚のこと思いつかなかった。

「ごめん、私には分からないや」

「そっか。なら、今回は特別に教えてあげる!」

 スッと立ち上がった殺人鬼ちゃんは、身体を捻るように振り返り、質問の答え合わせをしてくれた。

「もう半分は、自分が独りぼっちだってことに、気付きたくないからだよ」

「気付きたく……ないから?」

「……そうだよ」

 そう囁かれた声は、風に掻き消されそうなほどか細かったが、何故だかはっきりと届いた。瞳を閉じた殺人鬼ちゃんの顔は、もの悲しくて、寂しくて、切なくて、それを見た遥は思わず泣いてしまいそうになった。

 殺人鬼ちゃんは〝なりたくない〟ではなく〝気付きたくない〟と言ったのだ。それはまるで、独りぼっちであることが、初めから決まっているみたいだったから。

「独りぼっちは寂しいし、怖いよね……。それは分かったけど、そのことと暗闇に何の関係があるの?」

 遥の問いに対して少し間をおいて、殺人鬼ちゃんはくすりと笑った。まだ分からないんだ。そう小馬鹿にされた気がしたが、実際分かっていないのだから、文句は言えない。殺人鬼ちゃんが答えてくれるのを、おとなしく待つことにした。

「ねえハルハル。例えば、ハルハルが誰かとかくれんぼをして、隠れる側になったとしたら、どんな所に隠れる?」

「ふへ……? そ、そりゃかくれんぼなんだから、見つかりにくい所に隠れるよ?」

 突拍子もない質問返しに、思わず変な声が出てしまった。そのことに恥ずかしさを感じつつも、遥は答えた。

「じゃあ逆に、見つかりたいと思ったらどう隠れる?」

 ますます質問の意図が不明確になっていく。殺人鬼ちゃんがどんなことを伝えようとしているのか、遥には見当がつかなかった。

 かくれんぼにおいて、見つかりたいと思う状況などあるのだろうか? そもそも、かくれんぼは見つからないようにする遊びなのに、見つかりたいとはどういうことなのだ? そんな屁理屈ばかりが浮かんだが、一応真面目に考えてみることにした。

「強いて言うなら、初めから隠れないか、見つかりやすい場所に隠れる、かな?」

「うん、正解。それが答えだよ」

 瞬間、遥の頭がパンクした。ただでさえ、先程までの質問の応酬が整理出来ていないというのに、唐突に正解と言い渡されたのだ。当然処理し切れる筈もなく、煙が噴き出していた。ひょっとしたら、知恵熱が出ているかもしれない。

「あれ? ハルハルって、思ってたよりも鈍感なの? もう、このニブチンさんめっ!」

「ニブチンはやめて……」

 遥が未だ質問の解答を理解出来ていないことを悟ったのか、殺人鬼ちゃんが煽りをかけてきた。事実なのだろうが、その呼び方はどうにも釈然としなかった。それならまだ、察しが悪いと直接的に罵倒された方がマシだった。

「ま、要するにアタシは、どうして皆、自分が独りぼっちだってことを必死に隠そうとするのか、分からないなってことだよ!」

 殺人鬼ちゃんは飄々としていたが、つまりそれは、自分が孤独だと言っているのと同じだった。どうしてそんなことを言うのだろう。自己完結しているその答えは、遥に新たな疑問を抱かせるだけだった。

 殺人鬼ちゃんはゆっくりと屋上の縁を歩きだす。危ないと言おうとしたが、どうせ聞いてはくれないだろう。だからただ、彼女の少し後ろに同じ速度でついていく。遥よりもずっと小さな、その背中を見つめながら。

 彼女は一体何者なのだろう。彼女の中には何があるのだろう。どんなことを考えて、どんな思いを育んで、どんな人生を歩んできたのだろう。知りたかった。彼女という存在に触れてみたかった。けれど、そうすることが出来ずにいた。触れたら最後、後戻りが出来なくなるような気がしたから。

 ならば何故、自分はここにいるのだろうか。何故、殺人鬼ちゃんと再び会おうとしたのだろうか。

 そんなのは決まっている。自分がそれを望んだから。春日野遥が殺人鬼ちゃんという存在を求めたから。そのことに気付けたのなら、きっともう踏み込めるはずだ。

「……ねえ、殺人鬼ちゃん」

「何?」

「殺人鬼ちゃんは、その……独りぼっち……なの?」

 狭い足場をものともせずに、殺人鬼ちゃんはすぐさま振り返った。そして遥の問いに、僅かな間を置くこともなく言葉を返す。

「うん。アタシは独りぼっちだよ」

 言い淀む様子もなく、あっけらかんと答えた。どうして、そんなことを笑顔で言えるのだろう。悲嘆するわけでもなく、自嘲しているわけでもない。その笑顔には、どんな意味が込められているだろうか。

「でも、殺人鬼ちゃんにだって、友達や家族がいるでしょ? だったら、独りぼっちなんかじゃ……」

「いないよ」

 冷たい音が空間を支配した。時間までも凍り付かせたかのように風は止み、辺りは静けさに包まれた。もし、殺人鬼ちゃんがこのまま言葉を紡がなければ、この世界は死ぬのかもしれない。そう思わせるほどの重圧感に、遥は息を呑んだ。

「昔はアタシも、自分が独りじゃなって思ってた。でも家族が死んだ時、アタシは自分が独りだったことを知った」

 単なる興味本位で聞いたわけではない。けれども、軽率な物言いだったと自責の念に駆られた。家族が死んでいるはずがないと、勝手にそう思い込んでいた。

 幼くして家族を亡くす人は少なくない。だからといってそれは、当たり前のことではないのだ。その人にとっては、あまりにも残酷なことで、何よりも特別なことなんだ。

「寒くて、痛くて、苦しかった。全部が無くなって、自分が誰なのかすら分からなくなった。それならもう、いっそのこと消えてしまいたいって思った」

 殺人鬼ちゃんが発する言葉の一つ一つが、遥の心をざわつかせた。それは,哀れむような同情ではなく、共感や共鳴に近いものであった。どうして殺人鬼ちゃんのことを知りたいと思ったのか。きっとそれは、彼女が自分と似ているからだ。

「でも、そんなアタシをちゃんと見てくれている人がいた。傍にいてくれる人がいた。そのことに気付けたから、今はもう大丈夫。アタシは独りでも平気なの!」

 生れも、境遇も、何もかもが違う。それでも彼女は、自分と同じものを持っている。同じ気持ちを、同じ思いを抱いている。だからこんなにも惹かれるんだ。それに彼女は答えを知っている。自分がまだ出せていない答えを。

 本当は、こんな風に思うのは間違いなのだろう。それでも、どうしようもないほどに強く湧き上がってくる。殺人鬼ちゃんが羨ましいと。

「……そうだったんだ。その、殺人鬼ちゃんの家族は……事故? それとも、病気で?」

「ううん、違うよ。そんなんじゃない。そうじゃなくて、」

 その時、遥は思い出した。今、自分の目の前にいるのが小さな少女でも、謎の殺人鬼でもないことを。

「――アタシが殺した」

 そう告げた殺人鬼ちゃんは、初めて会った時と同じ顔をしていた。子どものような無邪気さが宿る狂気を帯びた瞳を爛々とさせ、三日月が張り付いたような卑しい笑みを浮かべる。美しく可憐な少女などどこにもいない。今ここにいるのは、地に堕ちてなお怪しく輝き続ける――地上の三日月だけだった。

「……殺したって、どういうこと?」

「そのままの意味だよ。自分の家族を自分で殺した。アタシは、そう言ったんだよ」

 正直、そこまで驚いてはいなかった。家族がいないと聞かされた時に、もしかしたらと思っていたからだ。けれどやはり、いざ言葉にされると動揺するし、慄きもする。だがそれ故に、殺人鬼ちゃんが眩く思えた。遥の中で、かけがえのない存在となった。

「そっか……そうだよね」

 あの三日月のような笑みを嫌だと思うし、不気味だと感じる。それでもやはり、殺人鬼ちゃんに惹かれてしまう。恋焦がれるような熱い思いを抱いてしまう。昨日よりも強く、深く、濃く。きっとそれは、未だ全貌が見えない、殺人鬼ちゃんの本質に魅せられてしまったから。

 その本質がどういうものかは分からない。しかし、だからこそ知りたいのだ。自分という存在を理解するために、答えを持つ彼女を知らなくてはならないのだ。そのために、遥は一歩を踏み出す。何かに突き動かされるのではなく、自らの意思で前へと出る。

 フェンスを挟んで二人は向かい合う。距離にしておよそ三十センチ。たったそれだけを遠いと感じるのは、遥が答えを持たないからだろう。だからこそ手を伸ばし、答えを求める。近付きたいと心から願う。

「ねえ、殺人鬼ちゃん。私はあなたのことが知りたい。だから、」

 遥はそっとフェンスに手をかける。もしかしたらそれは、自分が逃げ出さないためにしたかもしれない。多分もう、引き返せないと分かっていたから。それでも遥は言葉を続けた。

「私と、友達になって」

 止まっていた時間が動き出す。強く吹く風と共に、多くの鳥が飛び立った。そして、聞こえるはずのないウェストミンスターの鐘が鳴り響く。

 それは幻聴だったのかもしれない。もしそうでないのなら、あまりにも酷過ぎる。途切れ途切れで調子外れ。本来ならば、始まりを知らせる鐘の音が、世界の終わりを告げているようだった。

「イイの? 後悔するかもしれないよ?」

「後悔しない。そう誓う」

「何に誓うの?」

 空を見上げて、遥はほっとした。今日だけは、そこにいてくれてよかったと、心から思うことが出来たから。

「夜空で笑う、あの三日月に」

 いつ見上げても見えない星ではなく、自分が忌み嫌う三日月に誓いを立てた。そこにどんな決意が込められていたかは、遥しか知りはしない。

そんな遥を、殺人鬼ちゃんは何も言わずに見つめ続けている。そして、遥と同じようにフェンスに手をかけ、指を絡めた。

 少女たちが交わしたのは、大げさな誓いと不格好な握手。その光景を、三日月はただ眺めていた。二人を見守っていたのか、はたまた見下していたのかは分からない。祝福か嘲笑か。夜空の三日月は、今宵も天高く笑っていた。

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