第2話 邂逅

 とある街、とあるマンションのとある部屋。

 時刻は午前七時数分前、一人の少女が静かに目を覚ました。

 僅かに眠気を残した顔のまま、身体を起こし天井めがけグッと伸びをする。しばらく伸びたところで、本来自分を起こしてくれるはずだった目覚ましに手を伸ばす。無機質な音が響く前にスイッチを切り、元の位置に戻した。

 ある種のルーティンワークを終わらせ、ベッドから降りカーテンを開ける。天気は快晴であり、気分も晴れやか……とまではいかないが、決して悪くはない。あくび交じりに少し厚手のルームウェアを羽織り、少女は部屋を出た。

「……さむっ」

 部屋に比べ廊下は冷える。少しでも寒さを緩和しようと、自身を抱くように身体を小刻みにさする。そして、そのまま小走りで逃げ込むようにリビングへと入り、室内の暖かさに安堵した。暖房という文明は実に素晴らしいものだ。人類に火を授けた神、プロメテウスに深く感謝する。

 おはよう。キッチンから母の声がした。とくに何を考えることもなく、

「おはよう」

 と、ありきたりな言葉を返した。別に仲が悪いわけではない。親子が交わす朝のコミュニケーションなど、どこの家庭もこの程度であろう。

 少女が席に着くと、テーブルには一般的な朝食が用意されていた。品目は、厚切りのトーストが二枚、ベーコンエッグと簡単なサラダ、コンソメスープ、カフェオレである。

「いただきます」

 食事前にする当然の挨拶をし、カフェオレを口にする。まろやかな苦みと熱が喉元を過ぎ、食道を通過して胃に着地する。その感覚がはっきりと伝わってくる。身体が内側から温まっていくこの心地良さがたまらない。一息ついて、少女はテレビの電源を入れた。この時間帯は特定の番組を観るわけではなく、点けた時に映っている番組を観ている。今日はニュース番組を引き当てたようだ。

 大して興味のある内容でなかったため、トーストに塗るジャムはイチゴとマーマレードのどちらにしようか、などと考えながらなんとなしに聞き流す。そして、マーマレードにしようと決めた瞬間を見計らったように、速報が入った。

 どうやら『例の事件』のようである。これで一体何人目だろうか。覚えている限りではもう十人は超えているはずだ。しかも、今回の事件は隣町で起きたとのこと。正直、勘弁して欲しい。

 ニュースで言っている『例の事件』というのは、今より一年半ほど前から全国規模で発生している謎の連続殺人事件のことである。〝謎の〟と付くだけあって、犯人はまだ捕まっていない。それどころか、犯人像も特定出来ていない。目撃情報などは多く寄せられているが、それがむしろ問題となっているそうだ。

 男を見た。女を見た。若者だった。老人だった。そんな風に、統一性のない目撃情報が全国のいたるところで飛び交っている。警察の捜査が難航するのも無理はない。

 神出鬼没かつ特定の外観がないことから、ある評論家はこの殺人鬼のことを『ブギーマン』と称した。その呼び名はたちまち世間で広がり、今ではニュースや新聞でも当たり前に使われるほど浸透している。そのため、この連続殺人事件を『ブギーマン事件』と称するメディアが大半である。

 殺人鬼でブギーマンというと、とある映画を連想してしまうがそれとは関係ない。ブギーマンとは、スコットランドが発祥と言われる、幽霊、もしくは怪物のことである。いかなる特定の外観もなく、不定形の恐怖が実体化した存在。そんな伝承をもとに、評論家は正体の掴めない殺人鬼をブギーマンと称したのだろう。

 人は正体の分からないモノを必要以上に恐れる。その恐怖を紛らわすかのように、被害者が出る度、ブギーマンの正体について誰もが議論する。現に画面越しでも、大の大人たちが真剣な面持ちで議論し合っている。

 いつものことだ。もう聞き飽きた。そう思い、耳を傾けるのを止めようとした時「あなたはどう思いますか?」と、問いかけられた。もちろん、自分に振られた言葉でないと分かっているが、つい答えてしまう。

「金髪で、ツインテールの美少女だと思うなぁ」

 何か言った? そう母が聞いてきたから「ううん、別に」と返した。この言葉を最後とし、黙々と朝食をたいらげ片付けを済ませた。

 ちなみに、ごちそうさまは言い忘れた……。


 春日野遥、十七歳、地元の高校に通う二年生。

 血液型AB型、八月生まれのおとめ座。

 身長は女子にしては高めの一七六センチ、体重は……ヒミツ。

 などという自身の簡単なプロフィールを確認し、鏡を見ながらショート寄りのセミロングの黒髪をセットする。セットついでに鏡越しの容姿を眺める。背が高いおかげか全体的にスラっとして見えるが、スタイル抜群というわけではない。そのため、長身であることが逆にややコンプレックスなのである。

 目鼻立ちは比較的整っているが、どちらかというと中性的な顔立ちをしている。それため、可愛いかと聞かれると少し微妙。キレイ系? なんちゃってキレイ系? ……よし、今度からそういうことにしよう。そんな無駄な決意を固めるうちに身支度を終わらせ、学校へと向かうことにした。

 十一月上旬、もう完全に冬の時季に入っただろう。白い吐息が寒さを物語っている。少々早い気もするが、遥は制服の上にダッフルコートを着てしっかりと防寒していた。

 実は、遥が着ているダッフルコートはメンズものである。当然、遥はそのことを知った上で着ているが、好き好んで着ているわけではない。本来購入する予定であったレディースのコートが、身長や顔立ちのせいで似合わなかったのだ。そのため、不覚にも似合ってしまったメンズのコートを泣く泣く着ているのである。

 これは仕方が無いことなのだ。たとえそう長くない通学時間だったとしても、コートなしでは辛すぎる。冬服とはいえ、所詮はただのセーラー服だ。上にカーディガンを羽織ろうが、下にヒートテックを着ていようが関係ない。寒いものは寒いのだ。見た目だのオシャレだのどうだっていい。今は暖かさだけが重要である。冬本番となれば、ニット帽、マフラー、手袋、場合によっては腹巻だろうと出動させる。決して見くびったりしない。寒さとはそれほどの大敵なのだ。

 けれど、もし彼らに出動要請を掛けるとしても、まだ当分先のことだろう。何にせよ、外が寒いことには変わらない。早く学校へ向かおう。そう思う頃にはもう、目的地である学校に到着していた。

 外に比べれば幾分か寒さは和らぐが、校内も冷えた空気が漂っている。この季節になると、廊下でたむろする生徒が減る。廊下が冷えるのはどこも共通らしい。

 足早に教室へと向かい、扉に手をかける。開けた瞬間、暖かな空気が横を通り過ぎていく。極力暖かさを逃さぬよう扉を素早く閉め、遥は自分の席に着いた。

 感嘆のあまり溜息が漏れる。嗚呼やはり、暖房という文明ほど素晴らしいものは他にないだろう。暖房に関わる全ての人類に深く感謝する。静かに感銘を受けるさなか、遥は教室内が少しざわめいていることに気が付いた。

 なんとなく理由は分かっていた。自分の予想を確かめるように、聞き耳を立てる。すると見事に予想は的中した。話題の中心はブギーマンのことであった。

「また出たってよブギーマン」

「嘘ッ⁉ マジかよ?」

「やだこわーい」

「てか、まだ捕まってなかったんだ」

「どんなやつなのかな?」

「ホントに怪物なんじゃないの?」

「ま、俺なら余裕だけどね」

 教室、いや学校中がブギーマンの話題で持ちきりだろう。毎度毎度、よく飽きないものだ。そう呆れ始めたころ、一人の小柄な生徒が手を小さく振りながら遥の席に近付いて来た。

「おはよう、遥」

「おはよ、佳純」

 隣のクラスの七瀬佳純。付き合いと年齢がほぼ同じの、幼馴染で友人。遥よりも頭一個分ほど小さく、顔つきもやや幼いため子どもっぽく見えてしまう。そのため、並んで歩くとたまに親子と間違われることもある。本人は気にしているようだが、遥からすれば羨ましい限りである。

「相変わらず寒いの苦手そうだね」

「そういう佳純は朝から元気だね。良いことでもあったの?」

「何にもないよ。朝練終わりでもうクタクタ……」

 そう言いながら、遥の机の前にしゃがみ顎をちょこんと乗せる。佳純は背も小さいが顔も小さい。上目遣いでこちらを見つめる瞳は、まん丸と大きくて可愛らしい。遥が言うところの、可愛い系の権化である。

 昔はツインテールで更に可愛らしかったのだが、子どもっぽいからという理由で髪型を変え、今はポニーテールにしている。少し残念ではあったが、これはこれで活発的な女の子といった感じで、非常に可愛いからありだ。

「今日も朝練あったんだ」

「うん。遅くまで練習出来ないからって、朝練また早くなったの。……今日なんて五時起きだよぉ……」

 眠そうに瞼をこする仕草など、まさに小動物である。

 だが、こう見えても佳純は運動神経がとても良い。昔からスポーツに関しては何をやらせても人よりも上手く、上達も早かった。

 現在、佳純が所属しているテニス部は全国でも指折りの強豪であり、練習量が多いことでも有名である。そんなことなどつゆ知らず、気まぐれで体験入部をしたらコーチに目をつけられ「是非入部してくれ!」と懇願されてしまったそうだ。断ったのだが何度もアタックされ、結局入部する羽目になったとか。

 なし崩しで入部し最初は戸惑っていたようだったが、今では自主練をするほど打ち込んでいる。そのおかげもあってか、今年の春先にレギュラー入りを果たした。その話を聞いた時など、放送室を占拠して延々と自慢したいほどであった。根が真面目というか、基本的に頑張り屋なのだ。遥にとって佳純は、本当に誇らしい友人である。

「本当に、よく頑張ってるよね」

「どうしたの急に?」

「ううん、別に」

「ふーん、変なの。あっ、そうそう! 今日ね、五十嵐先輩が久しぶりに練習見に来てたんだよ!」

 五十嵐先輩というのは、この学校の三年で、テニス部の元部長。容姿端麗、成績優秀、スポーツ万能。天が何かの間違いで三物を与えたとしか思えない人物である。その上、気取ったところがなく人当たりもいいため、男女問わず人気がある。

 当然、告白する者が後を絶たず、五十嵐に告白するための行列が出来たなんて逸話があるほどだ。真偽の程は定かではないが、男子も混ざっていたとか……。

「えっ? でも確かあの人、もうとっくに部活引退したんじゃなかったっけ?」

「……うん。先輩、夏の大会で怪我して、実質引退になったんだ……。でも、怪我が治ったから、リハビリがてら身体動かしに来てるみたい」

「へえー、そうなんだ。だとしてもそう何度も来ないんじゃない? 三年なんだから受験とかあるだろうし」

「確かにそうだけど、大丈夫じゃない? 先輩なら、推薦とかで受かるだろうし」

 恐らくなどではなく、まず間違いなくそうなるだろう。逆に、あれだけのスペックを持ちながら、全ての受験に失敗する様を見てみたいものだ。だが、そうならないのが五十嵐という人間の凄さであり、つまらなさでもある。

「まあ、そうだよねえ。だとしたら、佳純は今以上に練習に精を出さないといけなくなるね」

「それどういうこと?」

「だって、愛しの先輩と少しでもお近付きになるチャンスじゃん」

「もう、またそれ……。前から言ってるけど、あたしそういうのじゃないからね!」

 他の女子に漏れることなく、佳純も五十嵐のことが好きなのである。遥はそう睨んでいる。しかし、当の本人がなかなか口を割ろうとしない。水臭いものだ。友人にくらい、本当のことを言ってくれてもいいのに。

 ちなみに遥はというと、全く興味が無い。五十嵐に対して容姿がカッコいいと思うことはあるが、根本的に好きにはなれない。理由は色々とあるが、とにかく興味が無いのである。

「別に隠さなくてもいいじゃん。恥ずかしいことってわけでもないんだし」

「だから、違うって何度言ったら分かるのよ。憧れてるし、好意的には思ってるけど、恋愛対象としては見てないから」

「そうか、七瀬にとって僕は恋愛対象じゃないのか」

「ずっとそう言ってるでしょ。だからもうこれ以上……ん? あれ?」

 不意に何者かが会話に割り込んできたが、佳純はまだその正体に気付いていない。しかし遥からは丸分かりであったため、指差ししながら教えることにした。

「佳純、後ろ後ろ」

「後ろ?」

「やあ、七瀬。朝練ぶりだね」

「……へ? はっ? え、ええぇっー⁉ せ、先輩! 何でここにいるんですか⁉」

 佳純の後ろにいたのは今まさに話題に上がっていた人物、五十嵐和哉その人だった。机に肘をつきながら、何とも爽やかに手を振っている。

 顔立ちが整っているのは当然だが、眩しすぎる笑顔が素敵だ。あの優しげな瞳を見ていると、温もりさえ感じてくる。常に笑みを絶やすことのないその姿は、雲に隠れぬ太陽のようで、まさに存在感の塊である。

 などと周りからは評価されているが、遥からすれば単なる優男に過ぎない。

 そんなことよりも、遥は別のことに注目していた。片方は肘をついており、もう片方は立ち上がっている。だと言うのに、両者の目線の高さは同じであった。その光景が、遥としては面白くて仕方が無かった。

「ああ、七瀬に用があってさ。それにしても残念だなあ。七瀬は僕のこと好きじゃなかったのか……」

「い、いやその、好きじゃないわけじゃなくて! でも、好きってわけでもなくて……。えっと、あの、その……」

 若干人見知りなところがあるとはいえ、ここまでしどろもどろしている佳純を見るのは珍しい。実際どういう形かは知らないが、五十嵐に対して好意を抱いているのは本当のことのようだ。

「はははっ! ごめんごめん。からかって悪かったね。面白かったからつい。それで、はいコレ」

「あっ、それ! あたしのラケット」

「コートに忘れてあったよ。って言っても、僕も忘れ物を取りに戻った時に、たまたま見つけただけなんだけどね」

「あ、あの、わざわざ届けてくれてありがとうございます!」

「いいよ気にしなくて。それじゃまた」

 そのまま立ち去ると思ったが、すれ違いざまに遥の耳元でこう囁いた。

「春日野さんも、また今度ね」

 そうして五十嵐は去っていった。位置的に、佳純はきっと気付かなかっただろう。去り際の五十嵐が嗤っていたことに。

 背筋が凍った。悪寒にも似た気持ち悪さが這い上がってくる感覚がして、鳥肌がおさまらない。今もまだ囁かれているようで吐き気さえした。

 やはりダメだ。どうしようもないくらい遥は五十嵐のことが苦手、と言うよりは嫌いなのだ。はっきりとは分からないが、どこか不自然で、不気味で、気持ちが悪い。

 五十嵐を見ていると、胸の奥底から何かが湧き上がって来そうになる。もちろん、恋心なんて綺麗なものではない。もっと重くて、もっと暗くて、ずっと薄汚い何か。その何かに塗り潰されないように、極力遥は、五十嵐に対して無関心でいるようにしているのだ。

 だが、時々思う。いっそのこと、その何かに塗り潰されてしまった方が楽になれるのではないのかと。込み上げてくる何かをせき止めずに、溢れ出させてしまった方がずっと自由でいられるのではないかと。

 もしそうなったら。正体も分からない何かに塗り潰されてしまったら、自分はどうなるのだろうか。今のままでいられるだろうか。変わらずにいられるだろうか。笑ったり、泣いたり、怒ったり、喜んだり、そんな当たり前が出来るのだろうか。

 塗り潰された自分は、春日野遥はどうなるのだろうか。そうなった春日野遥は、誰なのだろう。何なのだろう。春日野遥は、私は――

……るか。ねえ、遥。

「遥ってば!」

「――っ⁉ あっ、何?」

「何? じゃないわよ! それはこっちのセリフ。どうしちゃったの? ぼーっとして」

 どうやら佳純に心配されてしまうほど、考えに耽っていたらしい。やっぱり、あの人に関わるのは良くない。遥は改めてそう思った。

「いや、その……五十嵐先輩が突然現れたから、ちょっとびっくりしちゃってたのかも」

「そう? そんな風には見えなかったけど。むしろ、びっくりしたのはあたしの方だよ! 心臓飛び出して来るかと思ったもん」

「あはは、佳純すっごい慌ててたもんね。言ってることわちゃわちゃしまくってたよ」

「うるさいっ! もとはと言えば遥のせいなんだからね! あー、もう! 先輩の前で恥かいちゃった……」

「ごめん。次からは気を付けるから」

「知らないっ!」

 嫌なことや面倒なことは後で考えよう。とりあえず今は、目の前で拗ねているこの可愛い友人のご機嫌取りをしながら、ホームルームまでの時間を過ごすとしよう。そうして遥は、佳純に許しを請うことにした。

「ねえ、許してよぉ……。あ、そうだ! 今度なにか奢るから! だから、ね! ね!」

「……じゃあ、駅前のジェラートで」

「おっけー、三つまでなら許容範囲だから」

「そんなにいらない。はぁ……もういいや。それにしても、異常よね」

「佳純が?」

「……ひっぱたくわよ?」

「ごめんなさい。それで何が?」

「このクラスのことよ。見て分かるでしょ?」

 そう言われて周りを見渡してみたが、誰も彼もがただ話に夢中になっているだけで、これといって何も……なるほどそういうことか。

「……ああ、誰も先輩に見向きもしなかったってこと?」

「そう。あの先輩が急に現れたのに、あたしたち以外誰も気が付かなかった」

「それを異常って言うこと自体、なんか変だけどね」

 歩いているだけで注目を集めるあの五十嵐を、誰も気に留めないというのは確かに異常と言える。そんな存在である五十嵐自体が、ある意味異常でもあるが。

「実際そうなんだから仕方ないでしょ。まあそれだけ、今はブギーマンが注目されてるってことよね」

「……ブギーマン、か。皆にとってブギーマンは、そんなに特別なものなのかな?」

「特別って言うか、やっぱり皆怖いんだよ。今回なんて隣町だったし。あたしだって、怖いって思うよ……」

「怖いって何が? 殺人鬼が人を殺すのは、当たり前のことだよ」

「……えっ、当たり前って。ちょっと、遥……?」

「人が死ぬのは、当たり前のことだよ」

 目の前で困惑する佳純と同様に、遥自身も困惑していた。自分の発言に違和感を覚えていたからだ。これは自分の言葉ではない。これは自分の思いではない。分かっている。分かっているが止められない。ニュースキャスターが渡された原稿をそのまま読み上げるように、遥は言葉を続けた。

「人が死ぬのは特別なことじゃないよ。毎日毎日、何百、何千って人が、世界のどこかで死んでいる。だけど、誰もそんなことをわざわざ口にしたりしない。哀れんだり、嘆いたりしない。だってそれは当たり前のことだから」

 戦争、紛争、災害、飢餓、病気。それこそ、あらゆる理由で毎日のように人は死んでいく。それがニュースになることもあるだろう。新聞の記事として載せられることもあるだろう。けれどやはり、それを特別のように扱う者はいない。

 それは何故か? 知っているからだ。たとえどんな理由であろうと、人が死ぬのは当たり前のことだと、子どもでさえも知っているからだ。

「死ぬことも生きることも特別じゃない。生きていても死んでいても、その存在は同じ価値を持っている。命は、そういうものでなくちゃいけない」

 そう、命とは平等なものだ。生と死は、平等なものなのだ。けれど人は、生というものを喜び慈しむが、死というものを嘆き悲しむ。そんなことがあってはならない。生と死はともに価値があり、ともに無価値なものなのだから。

「生きてる限り人は死ぬ。誰だって、自分だって、そんなの分かり切ったことなのにさ。だから私は思うんだ。死ぬことと殺されることは、そんなに違うことなのかな……?」

 人は死に抗えない。人は死から逃れられない。故に、命とは美しいのだ。だからこそ、私はその命を――たくないんだ。

 不意に遥は、世界が消えるような感覚に陥った。色が消え、音が消え、形あるもの全てが崩れていく。全てが無くなった世界では、自分が落ちているのか浮いているのかも分からない。最後に残ったそんな自分さえ、溶けて消えていこうとする。

 そうして、本当に何もかもが消えてしまいそうな時、誰かが自分を呼び止める。何もないはずの世界に光が差し、声が聞こえる。その声に導かれながら、世界は再構築されていく。どこまでもありふれていて、とても歪な元の世界へと。

 ハッと我に返るが、もう遅い。目の前にいるのは、自分の言い放った言葉に微かに怯えながら、どこか悲しげな顔をした一人の友人だけである。

「……遥」

「あっ! いや、違……い、今のは……え、えっと……」

 必死に誤魔化そうとすればするほどに、何も出て来ない。形にしようとしても、すぐに壊れて消えてしまう。これ以上がどこにもない。

「……また、遠くへ行こうとしてたの?」

「……えっ?」

「先輩が帰った後も、本当はそうだったんでしょ? 遥は、あたしの手の届かない遠くへ行こうとしてた」

「それ……どういうこと?」

 俯いたまま、佳純は何も答えない。だから遥も、何も言えない。互いに沈黙の中、どうしようもない気まずさだけを置き去りにして、時間ばかりが過ぎていく。そんな空気を打ち壊すように、クラス担任の声が響いた。

「おーい、そろそろ席着け」

 思いがけない打開であったが、それは二人にとって決して嬉しいものではなかった。

「……ホームルーム、始まっちゃうね。それじゃ、また……」

 苦々しく微笑みながら、佳純は自分の教室へと戻っていく。呼び止めたい。引き留めたい。けれど何もしない。そうすることの無意味さを、誰よりも知っているから。伸ばそうとした手を引っ込め、強く強く握りしめた。

……また、やってしまった。

 遥には、昔からの悩みがあった。一つは、普通の女子に比べ背が高く、中性的な顔立ちをしているため少し男っぽく見えること。

 もう一つは、自分が分からないこと。春日野遥という存在が何なのか理解出来ないことである。アイデンティティがまだ確立されていないのだから、そういった悩みを持つのも無理はない。それ自体は決して珍しいものではない。だが、遥の場合は少し違ったのだ。

 何気ない日常を過ごす中で、得体の知れない何かが、不意に自分の中に入ろうとしてくる。固く閉めた扉を、無理矢理こじ開けようとしてくる。そして気付けば、誰でもない存在とすり替わっている。いつもは浮かびもしないことを考え、思いもしないことを口にする。

 故に遥は、不安定な自分という存在が怖かった。誰にも話せず、どうしていいのかも分からないまま、自分一人で抱え込んでいた。ただそうならないよう、常日頃から気を付けることしか出来なかった。

でも、今回はダメだった。きっと、五十嵐との余韻が残っていたせいだろう。人のせいにするのはどうかと思うが、今はそうさせてもらう。

 それにしても、また佳純にあんな顔をさせてしまった。遥が自分を見失う度、佳純は悲しげで、寂しげで、辛そうな顔をする。そしていつも、何か言いたげなのに、決して何も言わなかった。だからこそ気になった。

 ――また、遠くへ行こうとしてたの?

 その言葉には、一体どんな意味があるのだろうか。〝また〟ということは、いつもそうだったのだろうか。いくら考えたところで、遥には何も分からない。ただ、佳純にあんな顔をさせるくらいなら、怒鳴り散らされて絶交を言い渡される方がずっと良かった。

 とにかく今は、気持ちの整理をしよう。そして早く佳純に謝ろう。さっきのことも、今までのことも、改めてちゃんと謝ろう。それでもし許してもらえたら、あの言葉の意味を聞いてみよう。出来ることならそうしよう。遥は静かに決意した。あまりにか細く弱々しい、希望的な決意を。

 そして放課後、遥は一人家路についていた。学校にいる間は、結局佳純とは話せなかった。それどころか、顔を合わせることさえも出来なかった。

 別に避けられていたわけではない。むしろ、遥の方が無意識に佳純を避けていたのだ。会ってもう一度話そう。ちゃんと謝ろう。そう思い、何度も自分を奮い立たせた。それでも、いざ佳純のもとへ向かおうとすると、身体が動かなくなった。

 謝ると一言で片付けているが、自分は何と言って謝ればいいのだろう。何を言えばいいのだろう。考えを巡らせるほどに、分からなくなってしまった。そうして時間だけが過ぎて行き、今に至るというわけだ。

 みっともない。情けない。どうしようもない。友人に謝ることさえ出来ない自分の弱さに、挫けそうになった。でも明日こそはと心を立て直して、気合いを入れた。今出来るのはこの程度のことだけだ。

 そんな家路の途中、いつもは素通りする公園の前で、不思議と足が止まった。誰もいない静かな公園。いつもであれば、近所に住む子どもたちが賑やかに遊んでいるはずだが、今日に限っては人っ子一人いなかった。

 公園だけでなく、周囲にも人の姿はなかった。時刻は五時を過ぎたくらいだが、辺りはすでに薄暗い。加えて事件のこともあってなのか、人通りもほとんどなかった。

 遥もすぐに帰ろうかと思ったが、耳に届いた一つの音がやたらと気にかかった。公園内を見渡すと、風に吹かれ一人でに揺れ動くブランコがあった。風が吹く度に、キコキコと音を立てるそのブランコが、遥にはすすり泣く子どものように思えたのだ。

 だからか遥は、ブランコのもとまで歩み寄り、まるで慰めるようにそっと腰掛けた。漕いだりすることもなく、ただじっと座っていた。

 遥はそこで、昔の自分を思い出した。小さい頃、公園にいる時はいつも一人で泣いていた気がする。あやふやな記憶であるため、本当は泣いてなどいなかったのかもしれない。だが、悲しい思いをしていたことだけは、はっきりと覚えていた。

 そして、もう一つ思い出したことがある。昨日出会った一人の少女との約束。遥は、昨夜の出来事を思い返しながら、ゆっくり眼を閉じ時間を戻した。


 地上の三日月を見据えながら、遥は状況を整理していた。湧き上がる感情に邪魔されながらも、懸命に頭をクリアにした。

 まず、地面に横たわっている人影、あれは恐らく死体だ。ドラマか何かの撮影かとも思ったが、鼻につく鉄臭さと周囲を包むただならぬ空気がそうではないと教えてくれた。これは現実だと。目の前にあるのは本物の死体で、殺したのはあの少女なのだと。

 そして直感的に理解した。この少女こそが、世間を騒がす謎の殺人鬼――ブギーマンであると。

 明滅する街灯に照らされて、輝きを放つプラチナブロンドの髪。暗がりでも分かるくらい透き通った白い肌。一見作り物かと思うほどの端正な顔立ち。しかし、あどけなさが残り子どもっぽくも見える。小柄なことや、髪を下ろさずツインテールにしていることが、そう見える要因なのだろう。

 体格や髪型のせいか、昔の佳純に似ている気がした。だがすぐに、それが自分の思い違いであると気付いた。

 血染めのナイフを、おもちゃのように握り締める小さな手。子どものような無邪気さを宿す、狂気を帯びた瞳。そして何より、あの三日月が張り付いたような卑しい笑み。可愛らしいなどとは程遠い。ただただ不気味な存在であった。

 少女は恐らく、遥に気付いていた。だが少女は逃げようとも、こちらに向かって来ようともしない。様子を窺っているのか、離れた距離で互いに見つめ合う形となっていた。その状況は遥にとって恐怖でしかなかった。

 理由は言うまでもない。ブギーマンと思われる少女が、自分の目の前にいるのだから。確証はないが、人を殺していることだけは間違いなかった。それを目撃した遥を殺そうとしたっておかしくはない。だからこそ、いち早くこの場から逃げ出さなくてはならなかった。

 そんなことは分かっている。分かっているはずなのに、身体が言うことを聞かない。呼吸すら出来なくなりそうな圧迫感の中、はっきりとした恐怖が足を重くし、身体をこの場に縛り付けた。しかし、遥をこの場に留まらせているのは恐怖だけではなかった。もっと別の情動が遥の中にはあった。

 それは恐怖と同じくらい、いやむしろ、恐怖よりもずっと大きく、ずっと強いもの。一つの思い。一つの感情。一つの欲求。それらは際限なく膨張し続け、恐怖を掻き消していった。

 そして突き動かされるかのように、遥は一歩を踏み出した。一歩、また一歩と力強く地面を踏みしめ、ついに少女に手が届くところまで近付いた。

 遥が近付いて来ても少女は何もしてこない。三日月の笑みを浮かべたまま、遥を見つめているだけだった。いざこうして近くで見ると、本当はただの人形なのではと思ってしまった。相変わらず不気味に微笑んでいるが、それ以上に美しいと感じたからだ。

 けれど、そんなことを考えている場合ではない。少女の顔をまじまじと見たくてここまで来たのではない。早くこの少女に、この少女に……何をすればいいのだろう。

 衝動に突き動かされここまで来たが、明確な目的などはなかった。何をすればいいのかも、何を言えばいいのかも分からずに、遥は硬直してしまった。物理的な距離は縮まったが、これでは振り出しと何ら変わらない。

 そんな異色のにらめっこがどのくらい続いただろうか。数分か、それとも十数秒か。もっと長かった気もするし、短かった気もする。時間感覚さえあやふやになろうとした時、目の前の少女が先に動いた。

 つま先をくるりと反転させ、ゆっくりと遥に背を向けた。そう、少女はこの場から去ろうとしているのだ。

 硬直したままの身体で遥は悟った。このまま見送ってしまったら、この少女とはもう二度と会えなくなる。根拠などはなかったが確信した。それは嫌だ。そんなのはダメだ。だから遥は、再び一歩を踏み出した。今度はれっきとした自分の意思で地面を蹴った。

「待って‼」

 ようやく出た言葉と同時に、少女の手首をギュッと掴んだ。思っていたよりも細く壊れてしまいそうだったが、少女の手を離しはしなかった。捕まった少女は足を止め、遥へと顔を向けた。

「……アタシに、何か用なの?」

 驚いた。こちらを向いた少女の表情が、いや、存在が明らかに変わっていたのだから。先程までの狂気や不気味さに溢れた地上の三日月は姿を消し、可憐で儚げな美しい少女がそこにはいた。

 どう見ても別人としか思えない。あまりの豹変ぶりに遥は言葉を失くした。だが、これではまた繰り返しになってしまう。無茶苦茶でも何でもいいからと、遥は必死に言葉を探し、そして答えた。

「……私に、私にあなたのことを教えて。私は、あなたのことが知りたいの!」

 その言葉に、少女はキョトンとしていた。多分、遥も同じくらいキョトンとしていた。確かに、無茶苦茶でもいいと思ったがこれはない。いくら咄嗟に出た言葉とはいえ、あって間もない人間に言うことではない。

 気まずいというより、単純に恥ずかしかった。取り繕おうにも、ぐちゃぐちゃな頭ではまともな思考が出来ず、またにらめっこが始まってしまった。今回も長期戦になるかと思ったが、意外にあっさりと決着がついた。

 ナイフを持ったままの手で、お腹を抱えながら少女が笑い出したのだ。坂を転がり落ちていくような笑い声が、闇夜にこだまし続けた。ひとしきり笑って落ち着いたのか、少女はナイフをしまい、笑い過ぎて出た涙を拭った。

「……うん、イイよ。アタシのこと、教えてあげる」

 柔らかな微笑みにあてられてか、少女の手を掴んでいた力が抜けていく。少女はそのまま遥の手を取り、互いの小指を絡めていった。見た限り指切りげんまんのようだが、それが何を意図するものなのかは分からなかった。

「……これは?」

「約束、しよっ?」

 どうやら見たままだったらしい。唐突な申し出に困惑する遥をよそに、少女は話を続ける。

「この近くに、小さな公園があるんだ。明日、そこでまた会おうよ!」

 いまいち状況が理解出来ずにいたが、一つだけ理解した。この瞬間、絡み合った小さな指と指が、自分と少女との繋がりを作り出してくれたのだと。

「……うん、分かった」

 不愛想な返事であったにも関わらず、少女は満面の笑みで喜んでくれた。その姿を見た遥も不思議と嬉しくなり、一緒に笑い合った。絡み合った指は、役目を終えたようにそっと解けて離れていった。

「じゃあ、バイバーイ!」

 そう言い残し、大きく手を振りながら、少女は闇へと消えた。

 少女が去った後、遥はその場で立ち尽くしていた。今起きた出来事があまりにも現実味がなさ過ぎて、白昼夢でも見たのかと思っていたのだ。白昼夢と言うよりは、時間的に黒夜夢とでも言った方が正しいのだろうか。

 そんなくだらないことも考えていたが、すぐそばで横たわる死体と、まだ手に残っている確かな温もり。そして、少女と交わした不確かな約束が、現実だと教えてくれた。

 そうして、冷え切った身体をさすりながら遥は帰路につくことにした。ふと空を見上げると、隠れていたはずの三日月が顔を出していた。

……ああそっか。お前は、空へ帰っていたんだな。

 そう納得しながら歩き出す。月明かりが照らす薄暗い寒空の下、遥はポツリと呟いた。

「ありがとう」

 誰に対してなのか、どんな意味が込められているのか。誰一人、遥自身さえ知りはしない。もし知っている者がいるとすれば、それはきっと、あの夜空に浮かぶ三日月だけなのかもしれない。

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