メメントモリにさよならを

@human0831

第1話 プロローグ

 暗い夜道を一人歩く。

 聞こえる音は数少ない。自販機や街灯の唸り声。吹き抜ける風と、自分の足音だけが耳元まで響いてくる。そんな夜のしじま。

 辺りに人の気配はなく、明かりもそう多くはない。それでも、怖いとは思わなかった。不安や孤独感などもなく、波一つない水面に浮かぶように心はとても穏やかだった。それがむしろ怖かった。

 ふと、何かを求めるように空を見上げる。そうして見上げた夜空には、何もありはしなかった。星も見えない寂しい夜空。周囲の明かりが許してくれても、街全体の明かりが、星を見ることを許してはくれなかった。

 そんな中、許しを得ようともしない光を見つけた。嘲るように輝いて、見下すようにそこにいて、卑しく笑う――夜空の三日月を。

 どうしてお前はそこにいる。自分一人では輝けない石ころのくせに、どうしてお前は夜空に嗤う。

 あいつは嫌いだ。いっそのこと、欠片も残さず消えてしまえばいいのに。どうせ消えないと分かっていても、そう思わずにはいられない。何度も抱いたもどかしさを、聳え立つほど積み上げた。幾度も崩れ、また積み上げる。

 それが無意味なことなのだと、自分でも理解していた。それでも、思うことを止めてはならない。たとえ叶わないのだとしても、いつかは……と。そう信じたいのならば、願うことを諦めてはならない。

 そしてついに、そのいつかが訪れた。流れる雲が、あの卑しい顔を隠してくれた。ただの偶然、そんなことは分かっていた。それでも今は願いが叶ったのだと、思いが通じたのだと、そう信じることにした。

 驚きつつも嬉しくて、微笑みながら薄暗い道をまた歩き始める。穏やかだった心に、少しの期待と高揚感が湧き上がる。押し寄せる胸のざわめきは、くすぐったくて落ち着かなかった。けれど、それがとても心地良かった。

 柄にもなく、スキップでもしようかなと思ってしまった。そんな浮かれた気分のまま、すぐそこの角を曲がった。するとその先に、人影らしきものが見えた。柄にもないことをしなくて正解だった。恥をかかずに済んだのだから。

 くだらないことに安堵し、たいして気にも留めず歩を進める。そしてすぐに、自分が思い違いをしていることに気が付いた。明滅を繰り返す街灯の下、人影は二つあった。

 一つの人影は静かに地面に横たわり、微動だにしていなかった。ただの酔っ払いだろうか。それとも急病で倒れでもしたのだろうか。地面を染める異質な赤色を見なければ、きっとそう思っただろう。

 もう一つの人影は、横たわる者の傍にそっと佇み、それを見下ろしていた。よく見るとその手には鈍く光る何かが握られており、その何かもまた異質な赤色を滴らせていた。

 こちらに気付いたのか、佇む者がゆっくりと顔を上げた。その瞬間、自分が目にしているものが何なのか、考えるよりも先に理解することとなった。

 多分、このほんの数秒という時間が、後の全てを決定づけたのだろう。もしかしたら、本当はもっと別のことだったのかもしれない。どちらが正しいのかなんて知りはしない。今分かるのは、たった一つ。

 やっぱり、思いは通じていなかった。願いは叶ってなどいなかった。佇む者がそう教えてくれた。

 嗚呼、どうして。どうしてお前がそこにいる。弱々しい街灯に照らされ、嘲るように輝きながら、見下すようにそこにいて、卑しく笑う――地上の三日月よ。

 目にした光景を前に、あらゆる感情が溢れ出し渦を巻いた。激流と化した感情の中で、一心不乱でたった一つの思いにしがみついた。





 誰が理解できるだろうか。夢中でしがみついたその思いは、恐れでも、怒りでも、悲しみでも、苦しみでも、諦めでも、後悔でも、絶望でも、軽蔑でも、嫉妬でもない。




 それはただの――だった。

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