秘密の万華鏡

きてらい

秘密の万華鏡

「ただいまー」

「おかえりー」

母の声は居間から聞こえた。そんなことはどうだっていい。


ここのところ毎日の楽しみは、ただこれだけなのだ。


駆けるように2階に上る。地を踏みしめるように自室へ。ガラッと勉強机の引き出しを開ける。そこには円筒形の、粗野なおもちゃのようなものが詰まっていた。僕はそれを、丁寧に取り出し、目に当て、のぞき込む。これは、万華鏡である。

この万華鏡は叔父さんからもらったものだ。普通の万華鏡なら、花のようなちかちかした模様が見えて、それで終わりだろう。しかしこの万華鏡は違う。

ゆっくり、ピントが合っていく。今日もあの風景が見れる。それに僕は心を弾ませる。

ぼやり。青と緑の風景。

ぼやり。雲漂う青空と草原の風景。

ぼやり。見たこともない動物が駆け回る、未知の草むらの風景。

ああ、今日も、この風景を見れるのだ。

今回真っ先に見えたのは、一つ目の牛のような動物の群れだ。10頭から15頭ほどいる。それなりに目にするのでこいつはサイクロギューと名付けた。我ながら安直なネエミングだ。

今日はもっと珍しいやつを見つけたい。僕は万華鏡のダイヤルに手を当て慎重に回す。すると、万華鏡の中のカメラ視点が動き始めた。

グリグリ。グリグリ。

今日はどの辺を旅しようか。

森の方は昨日見た。コウモリみたいなのとカンガルーみたいなのがいた。まだ良ーく観察したわけではないので今度じっくり見ながら描き写したいが、それはまた今度にしよう。今日は山の方面に行くことにした。

岩砂漠のような地帯がある。そこで僕は、ずんぐりむっくりとした中型の動物に出会った。顔つきはウォンバットに似ている……?しかしこの大きい尻尾はリスなどに近い。あっ、穴に隠れてしまった。

とりあえず覚えている内にノートを開いた。おおざっぱな特徴は掴めたはずだ。僕はざざっと今見た動物の外観と印象を描きとめた。次出会ったら分かるように。

今日はあの山のふもとまで行ってみたい。大分遠くからも見えるから印象的だが、登ったことはないのだ。

「ごはんできたわよー」

母親の声が聞こえる。それどころではない。

「ちょっと待ってー」

「またゲーム?」

「いや……勉強。きりのいいところまで」

「そう。先に食べてるから」

しかし行けども行けども辿り着かないので、今日はこの辺で切ってやめることにした。明日は何が見れるだろう。


――――


「おい。陸部の先輩怒ってたぞ」

「今日はちゃんと行けよ」

「わかってるって」

同輩に促される。行く意志が無いことはない。ただ、あの風景の魅力がそれを上回るだけの話だ。

「お前もう実質帰宅部だろ」

「ああーそうかも」

「認めるのかよ」

家。家に帰れば、僕だけに見れるもの、僕だけに出来ることがある。ならば、もう帰宅部を名乗ることにそう嫌悪感はなかった。

教室の隅に目をみやる。美術部の女子連中が小さい落書きを見せ合ってわちゃわちゃしていた。落書きと言っても、仮にも美術部だからか、素人よりは数段上だ。

彼女らの人間性に興味はないが、彼らの目指しているものには興味を持つようになった。

「俺、美術部とか入ろうかな」

「はあっ、お前が」

驚くのにも無理はない。君は僕の見ているものを見ていないのだから。半ば冗談と受け取ったらしいが、半分本気だった。

「部行けよ。言ったからな」

「あいあい」

僕は駆け足で家に帰った。


――――


自室の戸を閉める。僕だけの空間だ。今日はどこまで行けるだろう。

万華鏡を取り出し、目に当てた。昨日は山のふもとに辿り着けなかったが、大分近づけた筈だ。

今日も山に進み続ける。途中ヤシのような木が見える。植生が変わったようだ。これもメモして構わないだろう。

再び草原。いや、小さい花が一面に咲いている。お花畑と呼んだ方が良いのだろうか。樹木はやはりヤシのような形状である。近くに小川が流れていた。ここで水を飲んでいる生物もいるかもしれない。少しだけ小川を辿ってみることにした。

そして、見つけたものは、この世界で見たこともない、予想外のものだった。


人だ。

女の子だ。

女の子が倒れている。いや、寝ている。

近くにはやけに大きい犬も寝ていた。


女の子がむっくりと起き上がる。眠い目をこすって起き上がる。犬もそれに呼応して起き出した。

女の子はぺたぺたと歩いて小川の方へ。顔を洗って、水を飲みだした。犬も水を飲んでいる。両者ともに大きく伸びをして、何か話をしだした。動物と話せるのか。分からない。ただ話しかけて犬が反応しているだけかもしれない。音声は聞こえない。ものの試しに万華鏡を耳に当てるなどしてみたが、そういうものではないようだ。

涼しい部屋のクーラーの音。それとは関係なしに、女の子は笑っている。暖かい陽射しの中で、笑っている。何かを忘れていた気がする。そうだ、こんな屈託のない笑顔は、久しく見ていなかったのだ。

女の子は話をやめた。草の髪留めで、髪をまとめ始める。そして、後眉を吊り上げる。


ひらりと犬にまたがって、女の子は、ニカッと笑って駆けだした。


速いっ。カメラが置いてかれるっ。

そんなことは彼女には関係がない。露ほども意味がない。

彼女は野を越え山越え、どこまでも駆けていった。それに僕は必死の思いでダイヤルを回してようやく追いつけていた。

ようやく止まったときには、まったく僕の見たことも無いような場所へ辿り着いていた。

向こうの世界では日が暮れかけている。彼女たちはここらへんで食事をするようだった。

見たこともない高い木が生えている。女の子がそれに上ると、上の方で西瓜ほどもある木の実を持って降りてきた。それを割って、中身をくり出している。

あっという間に、鍋とその中身のスープにしてしまった。便利なことだ。

自身と犬だけでこれを分け合うのかと思われたが、戯れに寄ってきた小動物にもこれを与え始めた。やはり動物と話が出来るのかもしれない。しかし、それを確かめる術はない。

「夕飯出来てるわよー?」

「はいはーい」

くそっ。良いところだったのに。急に現実に引き戻された。

夕飯は鍋だった。出汁、鶏ガラ、化学調味料、人類の英知で作られたスープ。旨い。とても旨いが、それでも、あの子の作ったスープには及ぶべくもないんだろうなと、根拠のない直覚が頭を支配していた。


――――


朝。早起きして万華鏡を覗く。あの子はまだ同じ場所で寝ている。良かった。

いつも万華鏡は学校から帰ってから覗いていた。こんな時間に見るのは初めてだ。

「行ってきます」

今日はいつもと違い、いつも以上に、一分一秒でも早く帰ろうと思った。

学校に着く。同級生が話しかけてくる。

「おめー結局来なかったじゃねーか」

「うん」

「うんじゃねーよ」

まったくその通りだ。でもあの万華鏡が悪いのだ。

授業中。全く集中できない。昨日の映像のみが思い出される。

ノートの片隅にあの女の子の絵を描いた。全く似ていない。消しゴムで消した。絵を描ける人間が羨ましい。やはり美術部などに入ってみたほうが良いのだろうか。別に慣れ合いたいとは思わないが、絵について教えてもらえるならそれも……あ、いや、今日は一刻も早く家に帰りたい。帰ってあの続きを見たい。

永遠にも思える授業の時間を過ごし、放課後になった。

「なあ、コウジ」

「うん?」

「俺陸部やめるわ」

「マジかよ」

「そういうことだからよろしく」

「マジかよ」

僕は走って家に帰った。


万華鏡をのぞく。いない。どこにいる。いた。あの子たちは、やはり何かへ向かって、一心不乱に駆けていた。

これじゃあまるでストーカーだな。そう自嘲するが、やめることもない。彼女らといれば、どこまででも行ける。どこまででも導いてくれる。そんな風に思えた。

ノートの数は増えた。いくら書き溜めてもまだまだ書き留めることがあった。言葉で記録しにくいネタも多い。そうすると自然スケッチ能力も鍛えられる。初期に比べれば、大分精確にこの世界のことを写し取れるようになった。彼女らの旅にも、だいぶついていけるようになってきた。それでもまだまだ、十分とは思えなかった。僕は、彼女に一生ついていこうと思った。


――――


時々疑問に思うことがある。この万華鏡は、どういう仕組みになっているのだろうか。

こちらの世界とは別の場所に異世界があって、この万華鏡はその世界を覗き見るためのデバイスなのだろうか。

それとも、この小さい万華鏡の中にあの世界が丸ごと詰まっていて、それを見ているようなものなのだろうか。


――――


「お前最近生き生きしてるよな、陸部やめたのに」

「彼女でも出来たか」

「は、ちげーし」

「ふーん」

僕は美術部に入った。なんとなく入るだけで画力が上がるように思っていたフシがあったが、まったくそんなことは無かった。皆ほぼ自主的に描いたり描かなかったりしている。幽霊部員も多い。しかし、顧問の先生と懇意になれるのは特権だ。時々顔を出して、万華鏡のことは上手く隠しながら、描き方で悩んだ部分を相談したりした。

おたくっぽい女子部員は意外と可愛い女の子などを描いている。男おたくが萌えキャラにハマるなら、女おたくはイケメンなどにハマるものかと思っていた。意外とそう単純なものでもないらしい。

僕はそれらを横目で見ていた。上手いやつは、自分より間違いなく上手い。確実に。それでも、きっと不十分だ。あの子の姿を描くには。

「エイダくんていつもなんか変な生き物描いてるよね」

「……うん。空想だよ」

「ふーん」

あの世界で見た生きものを描くこともあった。しかしあの子だけは、まだ、描ける気にならなかった。


――――


僕は来る日も来る日も万華鏡であの世界を観察した。

この子たちとの旅は、今までの人生で他の何よりも価値があると思った。

今日は巨大な葉を持ったツタの繁茂する入り江を歩いた。雨が降ってきたと思ったら、女の子はその葉をちぎって傘にした。撥水作用もあるらしい。大きい犬はどうも傘へのおさまりが悪いようで2枚被せてもらっていた。

この世界には、まだまだ知らないことがいくらでもある。

僕の仕事は、それを記録すること。そして、この子たちの旅を記憶すること。

ノートの数は20冊を超え、この世界の観察はもはや僕の生きがいになっていた。


――――


クラスの中には、僕が美術部の誰かと付き合ってるだとか、片思いしてるだとかのうわさが立ち始めた。まあ、確かに証拠としては割と十分かもしれない。

しかしそんな噂話があるなんてことは、僕には全く関係がない。露ほども意味がない。僕はあの世界のことを、ひたすらに描き続けた。


――――


そして終わりの時は、割とあっけなく訪れた。

その日の僕は、イヤホンで音楽をかけながら現国のレポートをやっていた。

明日までの提出だから何としても仕上げなくてはならないが、終わればすぐにでも万華鏡を見たい。今日もあの子たちを見ていたい。終わればすぐにでも見始めるため万華鏡は机の上に出しておく。レポートはどうせ出せればそれでいい、手早く仕上げようと急いでいた。

文字を書き損じたので手探りで消しゴムを探す。ふらふらと手が宙をさまよう。あっと、何かが手に当たった感触があった。何だと思って見たときにはもう遅かった。

万華鏡が机から落ちる。落ちる?落ちている。落ちたらどうなる。平気かも、いや壊れるかも。頭がまっしろになった。受け止める手はもうまにあわなかった。


パキッ、と、乾いた音がした。

万華鏡が、地面に転がった。


恐る恐る手で持ち上げる。見た目にはどこにも傷はない。しかしそれを覗いてみても、壊れたテレビのようなノイズが映るだけで、あの子の姿を映すことは、二度となかった。


――――


常々疑問に思うことがある。


あの万華鏡で見ていた世界は、こちらから見れなくなっただけで、今もあの子たちはあの世界で、元気に過ごしているのだろうか。


それとも――僕はあの子たちを――――


―――殺してしまったのだろうか。



まだ答えは出ていない。

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