66

 しかし、部屋に戻ってみても、ユリィは俺のベッドを占領してすやすやと眠っているだけだった。


「……まあ、そうだよな」


 肩透かしを食らったような気もしたが、正直、ちょっとほっとした俺だった。ベッドのそばの椅子に腰掛け、なんとなくその寝顔を見つめた。目を閉じていても、とても整った、綺麗な顔立ちに見えた。


 そういや、さっきまでは、ユリィのほうが俺の寝顔をこうして見てたんだっけ……。


 どういう気持ちでいたんだろう。心配だった、と、言っていたが、俺が単に疲れて眠っているだけなのは明らかだったし。実際、サキやマオシュやザドリーは俺を放置して、飲んでたわけだし。こいつだけ、俺のそばに残る必要なんて、みじんもなかったんじゃないか。しかも、眠いのを我慢して……いや、我慢しきれてなかったけどさ。


 何か、俺に言いたいことでもあったのかな? 例えば、そうだな……ずっと胸に秘めていた俺への想い、とか――。


「って、んなわけあるかっ!」


 とたんに、顔が熱くなり、セルフツッコミを入れずにはいられなくなった。我ながら、なんて恥ずかしい妄想をしているんだろう。そ、そんな、ムーディーでロマンチックなイベントが、俺とこの美少女との間に発生するわけないじゃあないか、はは。なんせ俺は、恋愛経験ゼロのまま死んだ勇者様なんだぞ! 


 でも、じゃあ、なんでユリィは寝ている俺のそばに付きっきりだったんだろう? 考えるほどに、もやもやした気持ちになった。俺はよく考えたら、ユリィのことをあまり知らないのだ。そんなに付き合いが長いわけじゃないし。だから、その思考回路もよくわからなかったりするのだ。女心なんて、元々超苦手分野だしな……。


 と、そのとき、ベッドの上でユリィが寝返りをうった。俺は不意をつかれて、瞬間、びくっと体を震わせてしまった。ただ寝返りをうっただけなのに、アホか。


 だが、よく見ると、その寝顔は何か険しかった。さらに、目じりがうっすら濡れているように見えた。


 こいつ、眠りながら、泣いてるのか?


 なんだろう。怖い夢でも見ているのか。急に心配になった。悪夢にうなされているなら起こしたほうがいいんだろうか。椅子から立ち上がり、さらにユリィに近づいて、その顔を覗き込んだ。


 すると、


「……おかあさん」


 と、かすかにユリィがつぶやくのが聞こえた。


 なんだ? 母親の夢を見ているのか? でも、確か、ユリィは自分の母親のことをほとんど何も覚えていないはず――と、俺はそこではっとした。普段は忘れていることでも、夢の中ではそうじゃないのかもしれない。だったら、俺がやるべきことは、その記憶が鮮明なうちに……。


「おい! ユリィ! 起きろ!」


 俺はあわててその体をゆさぶった。


「……うぅーん?」


 ユリィはすぐに目を開けたが、いかにも寝ぼけ眼でぼんやりしていた。俺はさらにその体をゆさぶり、「お前、今、自分の母親の夢を見ていただろ!」と、大きな声で言った。


「おかあさんの……夢……あ」


 ユリィは瞬間、はっとしたようだった。寝ぼけ眼を大きく見開き、すぐに上体を起こした。


「なあ、どんな夢見てたんだよ? 今なら思い出せるだろ?」

「ええと、確か……わたしは、ベッドで寝ているおかあさんのすぐそばにいて……」


 ユリィは目を閉じ、眉間にしわを寄せて、必死に思い出しているようだった。


「おかあさんの手を握って、何か言っていたような?」

「何か?」

「はい、何か……」


 そこははっきりとは思い出せないようだ。


「それで、握っているおかあさんの手は、すごくやせ細っていて、骨ばっていて、カサカサしていました……。でも、すごくあたたかかった……」

「他には?」

「さ、さあ?」


 ユリィは目を開け、困ったように首をかしげた。その黒い長い髪がさらりと頬に流れた。


「それだけか。悪いな、もうちょっと起こすの後にしたほうがよかったみたいだな。それとも、起こさずにほっとけばよかったか――」

「いいえ、そんなことないです! 智樹様が今起こしてくれなかったら、わたし、たぶん何も覚えていられなかったはずです!」

「そうか?」

「そうです! わたし、自分が見た夢をさっぱり思い出せないほうなんです! だから、智樹様が起こしてくれて、すごく……よかったです……」


 と、そこでユリィは急に涙目になった。


「おいおい、どうしたんだよ。泣くほどのことか?」

「だ、だって、やっと少し思い出せたんです、おかあさんのこと。だから、うれしくて……」

「いや、あくまで夢だから、必ずしもお前の過去の情景だとはかぎらんだろ。それに、ただ母親の手を握っていただけの記憶って」

「いいんです。それでも。ちゃんとわたしの心の中からひっぱりだせた、おかあさんの手の感触なんですから」

「そうか……」


 こいつは今まで、母親の手の感触すら、記憶になかったんだな。そんなにも真っ白な状態だったんだ。なるほど、泣いて喜ぶわけだ。その顔を見ていると、俺もなんだか、うれしいような、あたたかい気持ちがこみあげてきた。


「よかったな、ユリィ。この調子なら、きっとすぐに思い出せるぞ」

「そうでしょうか?」

「そうだよ。俺が寝ているお前の体を揺さぶっただけで、少し思い出せたんだぞ。簡単じゃねえか」


 俺は笑った。というか、自然と笑みがこぼれた。


「そうですね。智樹様がそうおっしゃるなら、きっとすごく簡単です」


 ユリィも目にうっすら涙を浮かべたまま、笑った。その黒い瞳がキラキラ光って見えた。


 あれ? こいつ、こんなにかわいかったっけ……。ふと、その顔に見とれた。


「あの、智樹様? 私の顔に何か……?」

「い、いや! 別に何でも!」


 やべえ、ついガン見しちまったぜ。あわてて目をそらした。


「ああ、そうだ。わたし、智樹様に伝えたいことがあったんです」


 と、そこで、ユリィは思い出したように手をぽんと叩きながら言った。


「つ、伝えたいこと?」


 俺はぎょっとした。すごく気になるけれど、同時に聞きたくもないような、変な気持ちだった。胸がどきどきしてくる。


「それって、今言う必要あることなのか? もう遅いし、後ででも――」

「いいえ! こういうことは、すぐに言わないとダメなんです!」


 そこでユリィは手を伸ばし、俺のアゴを両手でつかんで、強引に自分のほうに顔を向けさせた。ユリィの、黒い、綺麗な瞳が俺をじっと見ている……。目が合うと、また顔が熱くなった。


 だが、ユリィは、俺の期待?とは裏腹に、こう言っただけだった。


「智樹様、今日のこと、本当にありがとうございます」

「え」


 俺はきょとんとしてしまった。


「まさか、伝えたいことって、それ? ありがとうって?」

「はい。智樹様のおかげで、この街の人達は、みんな救われたんです。わたしだってそうです。智樹様がいなければ、いまごろ、わたしはこうして生きていられませんでした。だから、ちゃんとお礼を言いたくて……」

「それでお前は、寝ている俺のそばに張り付いていたのか」

「はい。智樹様が起きたら、一番に言おうと思って」

「そ、そうか……」


 体からどっと力が抜けた。クラゲにでもなったような気持ちだった。そりゃ、感謝されるのは悪い気はしないけどさ。むしろいい気分だけどさ。もっとこう、胸のときめくような、素敵な言葉が出てきてもいいじゃないの。


「そんなの、眠いのを我慢して無理にやることじゃないだろ。お前も変にまじめだな」


 なんだかおかしくなり、笑った。空回りしていた自分がバカみたいだ。


「別に、誰かに感謝されたくてやったわけじゃねえしな。自分に降りかかってくる火の粉を払っただけっていうか」

「それでも、智樹様がたくさんの人を救ったことには違いありません。それに、今だって、私を救ってくれました」

「今?」

「はい。おかあさんのこと、思い出させてくれました。本当に、ありがとうございます。智樹様は、魔物を倒してたくさんの人の命を救ってくれただけではなく、私の心も救ってくれた、本当にすばらしいお方です」


 ユリィは輝くような笑顔で言う。


「いや、だから、俺は別にたいしたことは……」


 こんなに直球で絶賛されると、また恥ずかしくなっちまうじゃねえか、バカ。


 それにこいつ、母親のこと、ほんの少ししか思い出せてないじゃねえか。それなのに、こんなに感謝されるってのも、筋違いって気がするぞ。


 そうだ、俺はこいつを救いきっていない。失った母親の記憶のことは、俺がなんとかしてやると約束したのに、まだそれは果たされていないじゃないか……。


「……ユリィ、さっき、サキにこれをもらったんだ」


 俺はそこで、そばの台の上に置いていた召喚の球を手にとって、ユリィに見せた。


「あ、球、直ったんですね……」


 ユリィは一瞬驚いたように目を見開くと、急に気まずそうにうつむいた。


「よ、よかったです。これで智樹様もご自分の世界に戻れるように――」

「いや、ユリィ。俺はこれをそういうふうには使わない」

「え?」

「今から俺がやることを、よく見てろ」


 俺はユリィの見ている前で、その球を床に落とした。そして――拳で粉々に砕いた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る