64
眠りに落ちる直前、俺はふと思った。このまままどろみの底に落ちて、次に目を開けたとき、自分は元の世界に戻っているのではと。そして、今までこのルーンブリーデルで体験したことの全てがただの夢に過ぎなかったと、思い知らされるのではないかと。
それは、俺の願望であり、同時に、そうあってほしくない未来の一つの形だった。矛盾しているが、そうとしか言えなかった。俺は元の世界に帰りたいと思いながらも、いつのまにか、この世界にとどまりたいとも思うようになっていたのだった。
まあ、実際、夢オチなんて、都合のいい話があるわけはなく。
次に俺が目を覚ましたのは、ルーンブリーデルに数多ある国の一つ、レイナート国の、王都レーナにある、ウーレの領主所有の屋敷の、自分の部屋のベッドの上だった。寝ている間に、ここに運ばれてきたようだった。相変わらず、部屋はゴージャスでベッドはふかふかだ。
もう日は落ちているようで、部屋はうす暗く、ベッドの脇のランプの光がか細く室内を照らしているだけだった。
また、ずいぶん寝ちまってたもんだな。もう夜かよ。俺は、とりあえずベッドの上で身を起こした。すると、そこでふと、隣に何かの気配を感じた。なんだろう。寝ぼけ眼でそっちに目をやると――ユリィが寝ていた。そう、俺の、すぐ隣で。同じベッドで。
「お、お前、なんで……」
俺はぎょっとして、一瞬頭が真っ白になった。ユリィは白いローブを着ていて、いつもはポニテにして結っている長い髪をほどいて、シーツに気ままに流した状態で、すやすや寝息を立てている。その寝顔は実に安らかで、赤ん坊のように無防備そのものだった。
「な、なんでここで寝て……」
俺はどぎまぎしつつ、顔をそっちに近づけて、それが幻ではないか確かめた。どう見ても、実体の、質量のある、本物のユリィのように見えた。ためしに指でそのほっぺをつつくと、ぷにっと、やわらかい感触がした。やべえ、女の子の肌って、こんなやわらかいのか。心臓がますます高鳴った。熟睡してるみたいだし、違うところも触っちゃおうかな……。
だが、そこで、俺がつついたせいだろう、ユリィは目を覚ましてしまった。
「あ、智樹様、おはようございます……」
むにゃむにゃ。寝起きのぼんやりした顔のまま、起き上がり、目をこすりながらユリィは言う。「お、おう、おはよう……」思わず反射的に答えてしまった。
「ところでお前、なんでこんなところで寝て――」
「あ、まだ外暗いじゃないですか。夜じゃないですか」
「え」
「なんで起こすんですか。もう」
と、ユリィは再びベッドにごろんと横になった。そして、そのまま目を閉じ、寝息を立て始める――って、そうじゃない! 俺のベッドで二度寝するんじゃあない! あわてて、その体を揺さぶり、もう一度起こした。
「だから! お前、なんで俺の部屋で、俺のベッドで寝てるんだよ!」
「なんでって……眠くなったからに決まってるじゃないですか……ふわああ」
ユリィはあくびをしながら言う。確かにすごく眠そうだが、違う、そうじゃない。
「いや、眠いなら、自分の部屋で寝ればいいだろ! なんで、わざわざ俺の隣で――」
「だって、智樹様、ずっと眠ってて、全然目を覚ましてくれないから」
「から?」
「わたし、なんだか心配で、ずっとそばで智樹様を見てたんです。そしたら、私もだんだん眠くなってしまって……」
「え、それだけ?」
「はい。智樹様のベッド、大きいから、少しくらい隣で寝てもいいかなって思って、それで……」
と、そこでまた、ユリィは糸が切れたように、こてんとベッドに寝転がった。そして、すぐに目を閉じ、眠ってしまった。よっぽど眠いのか。まあ、元から朝弱いみたいだし、眠気に弱い体質なんだろう。俺は笑った。ユリィが俺の隣で寝ていることに、深い意味がなくて、安心したような、がっかりしたような複雑な気持ちだったが。
まあ、しかし、ずっとここにいるのもな。
俺がここにいても、ただユリィの寝顔を見つめるしかできないし、それってなんか照れくさいというか、こそばゆいし。俺はとりあえず、ユリィはそのままにしてベッドから起き上がり、部屋の外に出た。空腹だったし、まずは何か食べようと思った。そのまま、屋敷のキッチンのほうに向かった。
すると、途中、食堂に明かりがついてるのに気づいた。さっき、時計を見たら、ずいぶんな深夜になっていたが、こんな時間に誰だろう。そっちに行ってみた。
「あら、勇者様。こんな夜更けにどうしたの」
そこにいたのはサキだった。食堂の大きなテーブルの一角に、一人、腰を落とし、ワインを飲んでいるようだった。
「別に。目が覚めたから、何か食おうかなって」
俺はなんとなくサキに近づきながら答えた。
「ユリィをほうっておいていいの? せっかくの夜なんだから、朝までかわいがってあげたら?」
「へ、変な言い方するなよ! あいつ、ただ寝てるだけだぞ!」
まったく、この変態女ときたら。いちいち顔が熱くなっちまうじゃねえか。
「ほんと? てっきり私は、今頃お楽しみの最中だと思っていたのだけれど」
「勝手に思ってろ」
憤然と答えると、ワインの瓶のそばにおいてあったチーズをわしづかみにし、口に入れた。もぐもぐ。おいしいぞ。
「正直、私は勇者様なら、ユリィを託してもいいと思っているのよ。なんなら、一緒にあっちの世界に連れて帰ってもらっても」
「いや、そんなネコの子みたいに、本人がいないところで託されても……って、一緒にあっちの世界に帰る? 俺とあいつが?」
「ええ。勇者様はこれからすぐに自分の世界に帰るつもりなのでしょう?」
と、ふいにサキの鎖が俺の目の前ににゅっと伸びてきて、小さな輪を作った。そして、手品のように、そこから一つの球が出てきて、テーブルの上に転がった。綺麗な、傷一つない球だった。
「これはもしや……」
「そう。勇者様をこっちの世界に召喚した球よ。ちゃんと、約束どおり直しておいたわ」
「え――」
直したの? このクソ変態女が? 俺のために?
「な、なんでだよ! 俺、あんたとの約束、別に守ってねえぞ!」
「守ったわよ。勇者様はちゃんと自分の仕事を果たして、多くの人の命を救ったわ」
「い、いや、違うだろ! あんたとの約束は確か、武芸大会を無事に終了させるってことだっただろ! それが、あんな怪物が出てきて、武芸大会どころじゃなくなったんだ。どう考えも、無事に終わったと言えねえじゃねえか!」
「あんなモンスターが現れて、一人の死者も出なかったのよ。無事に終わったと言えるんじゃないかしら」
「い、言えない! 絶対に、言えないぞ!」
俺はむきになって声を荒げた。荒げずにはいられなかった。
「どうしたの、勇者様? ちゃんと勇者様の望みどおり、召喚の球を直したのに?」
「う、うるさいな! 俺は曲がったことは嫌いなんだよ!」
「そう? 本当は、この世界にまだとどまりたいだけじゃなくて?」
「う……」
違う、と、答えたかったが、とっさに声が出なかった。サキはそんな俺を見て、くすりと笑った。
「まあいいわ。すぐに答えを出す必要はないのだし。この球は勇者様にあげるから、いつでも好きなときに使うといいわ」
「ああ……」
俺はとりあえず、それを受け取った。あくまで、とりあえず。
「でも、なんであんたは、俺を素直に帰してくれる気になったんだよ? あの竜が目覚めて、世界が大変なことになってるから、俺が呼ばれたんじゃないのかよ」
「そうね。その件については、非常に頭の痛い問題ね。でも、まだあの竜は完全に力を取り戻した状態ではないし、世界レベルの話なだけに、世界レベルで対策が進んでいるところなのよ。だから、勇者様がいなくても、たぶんなんとかなるんじゃないかしら」
「たぶんって」
なんかテキトーだな。世界の命運がかかってるんだぞ。
「それに、なんといっても、勇者様自身がこの世界をどうこうする意志がないのだから、いつまでもこの世界に縛っておくのも、無意味でしょう」
「ま、まあな……」
反論の余地はなかった。実に正しい理屈だった。そして、その正しさで、俺は今まさに、念願の「自分の世界に帰る権利」を獲得したはずだった。
だが、俺は自分でも不思議なくらい、これっぽっちもうれしくなかった。戸惑いしか感じなかった。
「じゃあ、俺はもう寝るから」
球を持って、逃げるように食堂を出た。いったい、この先どうしたらいいのか、自分でもよくわからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます