39
「ユ、ユリィ……なんだよ、急に……」
体がかっと熱くなり、心臓がドキドキするのを感じた。胸に伝わってくる、ユリィの体の感触は、やわらかく、あったかく、髪の毛からはいいにおいがした。
「そ、そうか! 何かの罰ゲームか! お前誰かに俺に抱きついて来いって言われたんだろ! そ、それか、ドッキリか! カメラどこだよ?」
「いえ……そういうんじゃありません」
ユリィは俺の胸に額を押し当て、くぐもった声で言う。
「え、じゃあ、なんで……」
「智樹様が、前におっしゃってたから」
「お、俺が? 何を?」
「自分に抱きついて欲しい、と」
「え、そんなこと俺言って――あ」
言ったよ、そういえば! 昨日、王様に突然抱きつかれたとき、気持ちが悪すぎて、とっさに近くのユリィにハグを求めたっけ、確か。その後、違うオーダーのハグが飛んできたけど……。
「お前、何で今頃……」
「あのとき、反射的に断ってしまって、すごく悪いなと、思って、その……」
ユリィはそれだけ言うと、ゆっくりと俺から離れた。うつむいていて、わかりづらいが、耳まで真っ赤になっているようだった。そういう様子を見ると、俺までまた恥ずかしくなってきた。なんだこの、甘酸っぱい雰囲気?
「い、いやあ、今日は参ったぜ! どいつもこいつも、勇者様勇者様ってうるせーの!」
とりあえず、平常運転のトークで、変な空気を霧払いだ。
「当然です。智樹様は、とても強くて、とてもご立派な方なんですから」
ユリィは顔を上げたが、俺とはやはり目を合わせることはなく、遠くの夜景をぼんやり見つめながら言った。その横顔はなんだかちょっとさみしげに見えた。
「いや、俺のこと立派だとか、誰も考えてないだろ。勇者アルドレイの肩書きに群がってるだけだぜ、あいつら」
「そうでしょうか。みなさん、智樹様が勇ましく戦うところ見て、心を動かされたのではないでしょうか」
「勇ましく戦うって、昨日のアレかあ?」
ただのザコ狩りだったわけなんだが。別に、俺じゃなくてもなんとかなりそうだったんだが。鎖の変態魔女とかなあ。
「結局俺、お前のお師匠さんにいいように使われて、勇者パフォーマンスさせられてただけだぞ。なんなんだよ、あの女。俺の気持ちとかなんも考えてないよな?」
「智樹様の、お気持ち?」
「そうそう。俺はもう、勇者やりたくないの! 早くもとの世界に帰って、積んでるゲーム消化したいの。で、チェックしてるアニメをツイで実況しながらリアタイ視聴するの! それが俺の本来の日常なの!」
「……すみません、智樹様」
と、ユリィはふとこちらに向き直り、深く頭を下げた。
「そういう生活を智樹様から奪ったのは、他ならぬわたしです。本当に、ごめんなさい」
「い、いや! お前はただのお使いだろ! あの女に言われてやったことなんだろ! だから、別に……」
面と向かって謝罪されると、困惑するしかない俺だった。
「それに、武芸大会が終わったら、帰れるって話だしな! 細かいことは、いいんだよ、もう」
「え、そうなんですか?」
「お師匠さんから何も聞いてないのか、お前?」
「はい……初耳です」
ユリィは驚いたように目をぱちぱちさせている。本当に、何も聞かされてなかったようだ。
「あの、今のお話、もう少し詳しく聞かせてくれませんか? 智樹様は、お師匠様とどういう約束をされたんです?」
「詳しくも何も、武芸大会が無事に終わったら、俺をちゃんと元の世界に帰すって、それだけだぞ」
「武芸大会が、無事に……ですか」
ユリィはそこで訝しげに顔をしかめた。
「なんだよ。別に問題ないだろ。王様はやる気マンマンだぞ」
「いえ、わたしが気になるのはそういうことではなくて……。お師匠様は本当にその約束を守る気があるのかってことです」
「なにそれ?」
「昔から、お師匠様はずる賢いんです。何か約束事に、決まって、そういう余計な一言を付け加えたりして、結局自分の思い通りにしてしまうんです。たとえば、あれは、一年位前のことでした。一緒にカードのゲームをやっていて、たまたまわたしが勝ったんです。いつもはお師匠様に勝てないのに、その日は本当に運よく。それで、勝負をする前に『勝ったほうは負けたほうの望みをなんでも聞く』という約束をしていたので、わたしはさっそく、次の日の家事を全部お師匠様に押し付けることにしました。けれど、お師匠様は、次の日、何もしてくれなくて。話を聞くと、約束は『望みを聞くこと』だけだったんだって言うんです。その望みをかなえることとはまた別だって言うんです。ひどい話です。お師匠様は、わたしをだましたんです。せっかく、ゲームに勝ったのに……」
「お前ら、小学生かよ」
くだらなすぎる。それで言いくるめられるユリィも大概だが、サキも、屁理屈で逃げないで家事ぐらいしてやれよ。
「じゃあ、武芸大会が無事に終わる見込みがないから、あえて俺とそういう約束をしたってことか?」
「きっとそうです。お師匠様はそういう人です!」
きっぱりと言い切るユリィだった。どんだけ弟子に信頼されてないんだ、あの女。笑ってしまう。
「わかったよ。じゃあ、あまり期待はしないことにするよ。ちゃんと帰れたらラッキーぐらいの感覚で」
「ラッキー、ですか……」
ふと、ユリィは俺をじっと見つめた。なんだろう、思わず見返し、目が合った。すると、ユリィは恥ずかしそうに顔を赤くして、ぷいっとそっぽむいてしまった。
「な、なんだよ? 言いたいことがあるなら言えよ」
「……だって、智樹様があっちの世界に帰ったら、もう二度とこんなふうにお話できない……」
「え?」
「いえ、いいんです。わたしなんかが、どう思ってようと、たいしたことじゃないんですから」
ユリィはぎゅっと目をつむり、早口でそう言った。そして、急に気まずくなったように「じゃあ、わたしはもう行きます」と言って、パーティー会場に戻っていってしまった。
「だから……なんなんだよ、お前は……」
一人取り残された俺は、また恥ずかしさで体が熱くなってきた。あいつはつまり、俺に帰って欲しくないのか? 自分のそばにいて欲しいのか? そ、それは、どういう……。やはり、ドキドキせずにはいられない。
と、そのとき、
「あらあら。いい雰囲気だったのに、キスもせずに帰しちゃっていいの?」
サキの声がした。はっとして、周りを見ると、すぐ近くの手すりに腰をかけていた。相変わらず、全裸に鎖を巻いただけの痴女スタイルだ。
「てめえ、いつのまに……」
「魔法で少し気配を消してただけよ。魔法耐性の高い勇者様には、そのうち気づかれるんじゃないかってひやひやものだったけれどね」
サキはくすりと笑い、手すりの上で脚を組みなおした。
「いつから俺たちのことをのぞいてたんだよ?」
「ほぼ最初からかしら」
「はは、じゃあ、ユリィの話も聞いてたんだな。弟子に全然信用されてないって、どんな気持ち?」
「そうね。ユリィったら、ひどいわよね。あとでお仕置きしておかないと」
「お仕置き? おい、あまり物騒なことは……」
「あの子のこと、心配?」
「い、いや、俺は別に、全然!」
べ、別にあいつのことなんて、なんとも思ってないんだからねっ!
「冗談よ。あの子には何もしないわ。むしろ、私のことをよく理解してるって褒めてあげたいくらい」
「ふうん。じゃあ、あいつの言うとおり、あんたは約束を守る気のないクソ女だってことか」
「勇者様との約束はちゃんと守るわよ。……果たせればの話だけど」
「果たせれば、か。ようするに、このままだと武芸大会は無事に終わらないって、そういう考えなんだな? あんたとしては」
「そうね。だからこそ、勇者様を無理やり大会に巻き込んだわけだし」
「てめえ……」
最初から、俺のこと利用する気マンマンなのかよ。
「で、なんで大会が無事に終わりそうにないんだ? 開催中に何か起こるのか?」
「すごくざっくり言うと、王弟のスーハ公が動いているのよ。魔物たちと手を組んで、大会をぶち壊してやろうって魂胆で」
「魔物と手を組む? 人間の貴族が? いや、それはいくらなんでも……」
「それがありえるのが、汚い政治の世界よ。あなたも昨日見たでしょう。アルドレイの名前に釣られて、集まってきた魔物たちを。王弟は、ああいう連中を焚き付けているの。今度の大会は、明らかにあの銀髪の彼を玉座に座らせるためのものだから、政敵としては断固阻止したいところなのね」
「だからって、やり方が売国奴すぎるだろ、王弟……」
敵国と手を組んで、ライバルを失脚させる政治家の話は聞いたこともあるが、敵国どころか、魔物を利用するなんて。人類共通の敵だぞ、おい。
「じゃあ、あの黒ローブの魔術師ギルドの連中が、ザドリーを誘拐しようとしてたのは、魔物連中をこれ以上刺激しないためか?」
「そうよ。彼が行方不明になれば、魔物たちも都にホイホイ集まってくることはないと考えたんでしょうね」
「ホ、ホイホイ……」
またその単語かよ! っていうか、この大会、それぞれがそれぞれ、俺の名前で何かをホイホイ釣ろうと考えすぎじゃない? 王様は、俺の名前で民衆の人気をホイホイ集めようって考えだし、ザドリーは俺自身をホイホイ一本釣りやがったし、王弟は俺の名前で王都に魔物をホイホイ呼んでるし。まさに、三つ巴のオペレーション・アルドレイホイホイだ。やだ、俺の名前、利用されすぎぃ……。思わず口元を手で押さえちゃう俺だった。
「でも、昨日都に来た魔物は、ザコばっかりだったぞ。王弟が手を組んでるのがあんな連中なら、何も心配いらないんじゃないか?」
「それがね。思わぬ大物も釣れちゃってるみたいなのよ」
「え」
「勇者様、魔物たちにも大人気だから」
サキは意味深に、にっこり笑う。
「おい、大物ってどういう――」
「ま、勇者様ならどんな強敵だろうと、倒してくれるわよね。信じてるわ」
それだけ言うと、サキは魔法でふわりと飛びあがり、夜の闇に溶けるように、俺の視界から消えた。
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