第三章 那月と玲菜の一つの答え。

「事態はかなり深刻だよ……。今まで以上に頑張る必要がある。わかっているねレーナ?」

「も、もちろんよ」

 安斎あんざいさんのクビ宣告から数日。私たちは真剣な表情で向き合っていた。メイド喫茶で。

「……ところで、なんでここで話し合ってるの?」

 そしてなんで晴花はるかになってるの? 私の疑問に、横にいた凛星りんせが解説してくれた。

「いやほら、レーナがお姉にも相談したいって言うから。どこかで待ち合わせするならメイド喫茶でいいかなーって」

「そうだったね……。えーっと、瑞希みずきくんもわざわざ来てもらってごめんなさいね」

「えっ? ううん全然だよ。用事があってこれない那月なつきの代わり、とはいかないかもだけど頑張るから」

 メイド喫茶という初めての空間に忙しなく視線を彷徨わせていた瑞希みずきくんだったけど、声をかけると那月なつきの前で見せるような表情に戻った。

 はぁ……晴花はるか瑞希みずきくんにも知られてしまうとは。いよいよとんでもないことになってきた気がする。まぁ一応、今のところはそんな深く疑われていないみたいだけど。

 メイド喫茶の一角で行われる、レーナのクビを回避するための男性克服作戦会議は続く。

「それで……アキャリ先輩の話では、私がクビを免れるには二週間後の開店一周年記念でちゃんと接客ができる事、だったわね」

「レーナの言う通りですよ」

 名前が呼ばれたことに気づいたのか、アキャリが作業の手を止めこちらにやってきた。そして布巾を畳み直しながら、

「パパの決定で急にそんなことになって……ごめんなさいね」

「えっ、もしかしてここの店長って、明理あかりさんのお父さんなの?」

 驚きの声を上げる瑞希みずきくん。うんうんそりゃ驚くよね。この間、那月なつきの時に玲菜れながクビになるいきさつを聞いた時に初めて知ったけど、しばらく理解できなかったし。

 アキャリがそのあたりの説明をし終えると納得! といった様子で瑞希みずきくんが手を打った。ほへーと感心する彼とは対照的に、アキャリはわかりやすく不機嫌に唇を尖らせた。

「全くパパったらひどいですよね。確かに接客が壊滅的なレーナを雇うよう、無理を言いましたが……急に手のひら返しなんて」

「ま、まぁアキャリ先輩……もとはといえば私のせいなのだし、そんなことを言わないで」

「パパはレーナが『ラブラ』のマスコットとして、メイドたちにどれほど人気かわかっていないです。今回のクビの件だって、パパ以外は反対なんですから」

 アキャリがそう言うと、周りのメイドさんが何やらうんうんと首を縦に振っていた。マジでマスコットなんだね……ここでも戦力外なんだね……。

 確かにいつもクールな感じのレーナだけど、メイド服みたいなふわふわした服を身に着けていると、なんかこう、愛でたくなるもんね。……私は何を言っているんだ?

 阿保みたいな考えを振り切るように軽く頭を振っていると、アキャリは両手を腰に当てた。

「とにかく、私たちとしてもレーナがここを去ってしまうのはとても心苦しいです。なので、ぜひとも頑張ってくださいね」

 では~、とおっとりした様子でほかの卓へと向かっていった。なんだろう……あの人あんまり深刻そうじゃないんだよね。いつもあんな様子だからそう見えるだけかな。

「んでどうするかだけどさー。一応兄貴に対しては接客は出来たわけだよね。だったらこれ以上やることなくない? つまり諦めるしかないみたいな」

「早い早い凛星りんせ。まぁ確かに那月なつきに慣れちゃったなら、これ以上那月なつきといてもしょうがないもんね。どうすればいいだろう」

「そうだレーナさん。せっかくここにきているんだし、今の接客状況を見せてもらうことって、できないかな」

 せっかくの瑞希みずきくんの提案だったけど、男からの提案なので即座に返せないレーナのために仕方なく中継をすると、

「そ、その……あんな醜態、できれば見せたくないのだけれど」

「レーナいつも諦めなければって言ってるくせに」

「で、でも晴花はるか様。気持ち的にはそうでも、ご主人様に迷惑はかけたくないというか……」

 すっかり弱気になってしまうレーナだったが、折り悪く新規のご主人様が。どうやら聞き耳を立てていたらしいアキャリがキラーパスを出す。

「レーナ、ご主人様をお願い」

「えっ、でも……」

 はわわと手をあたふたさせ、かなり混乱した様子だったがふとシュシュに目が留まり、落ち着きを取り戻す。胸に手を当て、いざ出陣するレーナ。

「おっ! おきゃえりなふぁい☆※%#&……」

 静寂の走る店内――。

「うっ……うう」

「ご、ごめんねレーナさん……」

 数分後。机に突っ伏すレーナに謝罪する瑞希みずきくんの姿があった。噛み倒した後もしばし努力はしたものの、結果はご覧の有様である。

「ま、次の課題は知らない男に対してできるかどうか、ってとこみたいねー」

 落ち込むレーナをよそに、冷静に現状の問題を整理する凛星りんせ。ほんとこの子は淡泊よね。

「うーん……いっそのこと路上ライブしてみちゃうとか?」

「そこまで行くと男女関係ないような……というかそれ、私でも出来ないよ」

「確かに夜長よながさんの言う通りだね……むむぅ」

「それか後はここでただひたすらに実践練習するかくらい?」

 真剣に頭を悩ませる瑞希みずきくんと、スマホを弄りながら凛星りんせ。落ち込むレーナの力になりたいと私も眉間にしわを寄せ頭をひねり倒す。うー……なんか煮詰まってきたなぁ。

「あっ」

 そんな時、一つの妙案が浮かんだ。だけど疲労した頭はその草案を一切修正することなく口に出してしまう。

那月なつきとデートしてみれば?」

「「「えっ?」」」

 全員が全員何言ってんだこいつとばかりに、接客中のアキャリまでもが私に視線を向けた。ただ凛星りんせだけは、おぉ兄ぃやるぅとか感心していた。なんでよ。

 一瞬でぶわっと汗が汗が噴き出るような感覚に襲われながら、必死にその草案の修正に取り掛かる。

「そ、そのほらあれだよ! デートじゃなくて、単純にお出かけしてみればって言いたかったんだよ! それでその、一緒に出かけていろんなお店を巡って、男性の店員さんと話してみればいいんじゃないかと思って。店員さんならこっちに食ってかかることもないと思うしさ!」

 しーん……。な、なんだこのいたたまれない空気。レーナもすっかり固い表情になってるし。私が言葉を失っていると、スマホから目を離した凛星りんせが深いため息をついた。

「ま、お姉の案は悪くないかもだけどさ、なんで兄貴と二人きり確定なの?」

「えーそ、それは……。いや二人きりの必要はないねこれ」

 私が冷静に見解を述べると、なぜか凛星りんせが小さな声で兄ぃのバーカ……と呟いていた。なんでやねん。

「でも確かに夜長よながさんの案は悪くないかもね。そうすれば知らない男性とも話せるだろうし」

「れ、レーナはその、どう思う?」

 冷静になるにつれ、とんでもないことを口走ったと後悔が押し寄せる。だってこれ状況的には、那月なつきがレーナとデートしたいからって私を利用した感じだものね……。そんな気持ちもあり、レーナが否定してくれることを信じて問うた。

「……そ、そうね、悪くはないんじゃないかしら」

 えっ? なんで……? 那月なつきにだいぶ気を許してくれてるみたいだけど、でもそこは拒否するところじゃないの? わからない……。

 私が思考の海に沈んでいるうちに、凛星りんせは話を進めていく。

「んじゃ、アタシもそれに付いてくよ。一応同性がいたほうがいい気するし。めんどいけど」

「ありがとう凛星りんせ。ああそういえばだけれど、また私から直接お願いするから、凛星りんせは何もしなくていいわよ」

「また? って言ってもまぁ、もう兄貴ならたぶんだいじょぶだもんね。がんば~」

 適当な応援を送ると凛星りんせは再びスマホに視線を戻してしまった。わからないことは考えても仕方がないと、私はホワイトブリムの位置を直すレーナへと視線を戻した。

晴花はるか様、私このお店に絶対に残れるように頑張るわ!」

「ええ、頑張ってね。応援しているから」

 私の応援ですっかり調子を取り戻した様子のレーナ。少しだけレーナのことが分からなくなった私は、胸に生まれた小さな穴を埋めるように水を一息にあおった。




 というわけで翌日。昼休みになると俺は空き教室へと向かっていた。昨日ついでに決めた那月なつきを呼び出す場所として挙がったのがそこだったのだ。

「……おっ、すでに来ていたんだな」

 空き教室の扉を開けつつ、俺はさっそく演技を開始した。男性に対して怯えているというよりも、普通に緊張して固くなっているように見える貫井ぬくい。彼女は息苦しいのか熱いのか、ブラウスの襟元をつまんでパタパタと仰いだ。

凛星りんせから聞いたけど……いったい何の用事なんだ?」

「そ、その……。実は協力してほしいことがあるのよ」

 言いつつ、珍しく貫井ぬくいの方から距離を詰めてきた。思わず距離を取ろうとすると、慌てて貫井ぬくいが制止する。

「に、逃げるんじゃないわよ」

「違う逃げたんじゃない。あんまり距離が近いと、貫井ぬくいが怯えると思ったんだよ」

「はぁ……あのお泊りであなたは克服したじゃない。そんな心配はいらないわよ」

 呆れたように首を振る貫井ぬくいに、なぜか俺の方がため息をついてしまった。とりあえず本題に戻すか。

「それで、協力してい欲しい事ってなんだよ」

「え……と、その、協力してくれる?」

「いや先に内容聞かせろって……」

 あんな意気揚々と頑張るとか言ってたくせに、変なところで緊張するなよ。内容を知っているだけに、こうも遠回りされるともどかしい。

「そっそうよねごめんなさい。へ、変な意味とかなしに、あくまで克服のために、私と、その……デ、デート……してほしくて」

「ああそういう。まぁ別にいいぜ」

「いっ、いいの? 本当に?」

「なんでそんな驚くんだよ。だって克服の一環なんだろ? だったら構わねぇよ」

晴花はるか様は……いいの?」

「えっ? なんで晴花はるかが出てくんの? ……って、そりゃ前も言っただろ。そういう関係はねぇって」

「そ、そう。ならよかったわ」

 全くまだ気にしていたのかよ。いやまぁ確かに、恋人持ちの異性と二人で出かけたくはないだろうけどさ。

 胸をなでおろす貫井ぬくいに、晴花はるか那月なつきで食い違いが起こらないよう内容を詳しく尋ねる。

「そうね……まだしっかりと決まっていないけれど、あなたと凛星りんせと私の三人で出かけて、なるべく男性の店員のいるお店をめぐる。という内容になるわ」

「なるほどな。了解。どこに行くかは俺も何となく考えてみるよ」

「あなたも考えるのは当然でしょ。しっかりしなさいよ」

「はいはい悪かったよ」

 悪態をつきつつ、腕を組んで薄暗い空き教室の埃っぽい床に視線を落とす。

 発案者ではあるけれど、正直気は進まないんだよな。自分が間接的に女の子を休日に誘った感じだし。まぁでも凛星りんせも来てくれるし、そもそもこれはデートじゃねぇんだ。頑張るとしますか。




凛星りんせ、まだ準備終わらないのか?」

「兄ぃ女の子の準備は時間かかるって知ってっしょ? もちょいかかりそうだから先行ってて」

 と、言うわけで。待ち合わせ場所であるハチ公像前に先に待機する那月なつきだった。

「あいつ待ってたせいで、だいぶギリギリになったな……」

 時計を見ると待ち合わせ時刻十四時の一分前。梅雨を抜けきっていないくせにうざったらしいくらい日差し強いな。俺と同じく待ち合わせの人々の喧騒にうんざりしながら、貫井ぬくいたちのの到着を待つ。

 ちょうど予定時刻になった頃、人混みをかき分け足早にこちらに向かう人の姿が。

「ごめんなさい。遅くなったわ……って、なんであなただけなのよ」

 息を整えながら、右手を腰に当て不機嫌そうな貫井ぬくいだった。俺は悪ぅござんしたねぇと適当に頭を下げつつ、

凛星りんせはまだ準備に時間かかるってさ」

「そう……。それならもう少し待ちましょうか。ここだと日差しが強いし、あっちの日陰に移動しましょう?」

「えっ? でも……」

「律儀にこの日差しの中で待ってたら、干からびるわよ。少し離れるくらい問題ないんだから、さっさと行くわよ」

 なかば無理やり貫井ぬくいに先導され、近くのビルの日陰まで移動すると、いくらかマシな気温になった気がする。さすが真夏を控えた日本。日陰でもこのレベルか。

「つーか貫井ぬくい、こう言う人混みは平気なのか?」

 ふぅと息を吐き、持っていた扇子で涼をとる貫井ぬくいは、

「ええ、全然平気ってわけではないけれどね。周りにいるのが全く知らない人たちで、私に意識が向いてなければそこまで怖くないわ」

 なるほど……と呟きつつ、貫井ぬくいに視線を移す。夏だと言うのに、無地のロングスカートに長めのポンチョ。なるべくシルエットを隠して、目立ちたくないという表れなのだろうか。

「……なにジロジロ見てるのよ」

「いや、暑くないか? 大丈夫か?」

「あなたに心配されるいわれはないわよ」

 とは言うものの、急いできてくれたせいか汗もかいている。早いとこ凛星りんせと合流して涼みに行きたいが……。

「? 凛星りんせからだわ」

「えっ、なんて」

「……急にやる気失せたから、やっぱ今日やめるわ。二人で楽しんできてちょ」

 ……。二人の間に流れる沈黙。凛星りんせが来ない。つまり、これは結果的にデートみたいなことになるわけで……。なんか急激に喉乾いたな。

 つーかあいつ、初めからこうするつもりだったのでは? そんな疑問が頭をよぎったのを見計らったかのように、俺のスマホにも着信があった。

『お膳立てはしてやったぜ! あとは煮るなりヤるなり押し倒すなりご自由にどうぞ。PS ホテルは道玄坂の方にあります』

 やってくれたなあいつ……っ! 俺は頭を抱えつつ、いらねぇ情報をどうもと乱雑に送り返し目の前の現実に向き合う。

「あー……なんだ? まぁ出発するか?」

「え、ええそうね」

 どこかぎこちなくなってしまった空気を変えようと、早速出発の提案。ポケットに手を突っ込み歩き出すと、貫井ぬくいは俺のすぐ後ろについてきた。

「ねぇそういえば、結局今日の予定決まってなかった気がするのだけど」

「ん? ああそういやそうだったな。一応俺の方で考えてきてはあるぞ」

 人の合間を縫って目的地に向かいつつ、昨晩考え抜いた提案を披露する。

「やっぱり店員と関わるといえば人見知りの死地、アパレルショップだろ。そんでそのあと、男性店員の多そうな店で飯を食うって感じだ」

 ドヤーっと発表するも、貫井ぬくいはなぜか微妙な表情を浮かべていた。

「どうした? 不安なんか?」

「いや、そうじゃなくて……アパレルショップって、女性店員が多くないかしら?」

「……確かに」

 なんとなく店内を想像するも、女性店員の『いらっしゃいませー』の声しか再生されない。勝手なイメージではあるんだが。

「ちなみに私の服を見に行くつもりだったの?」

「そのつもりでした」

「女性ものを見に行くなら、その時点で女性が多いかもって気づきなさいよ」

 か、返す言葉もねぇ……。でもデートで服を見に行くといえば、やっぱり女の子の服を選びに行くイメージあるだろ!

 ……そもそもデートではないんだけど!

「服屋で男性店員と話すなら、メンズファッションのお店しかないんじゃない?」

「だがそれでは俺の服を選ぶ、詰まるところ俺が男性店員と会話するだけなのですが……」

 どうしたものか……と貫井ぬくいをまじまじと見つめる。すると貫井ぬくいはバツが悪そうに身を捩る。

貫井ぬくいって、メンズの服も似合いそうだよな」

「きゅ、急に何よ」

「いや純粋にそう思っただけだよ。とりあえず、メンズファッションの店に行ってみようぜ」

「……そうね、冷やかしに行きましょうか」

 服を見に行くというのに、いまいち乗り気じゃないな。まぁなにはともあれ、目的地も改めて決まったし早速出発だ。




「いらっしゃいませー!」

 すーずしぃー! キンッキンに冷えた最高の空間におもてなしされる。貫井ぬくいもぱたりと扇子を閉じてカバンに仕舞った。っと、本題の男性店員は……よしよしちゃんといるな。

「それじゃ早速、選ぶとしますか」

「……」

 意気込む俺の隣には、いつの間にか借りてきた猫がいた。くっついちゃいなくても、そんだけ近いと暑いんですけど……というか俺汗の匂い大丈夫これ?

「ほら貫井ぬくい、行ってこい。店員の近くでいかにも迷ってる風の雰囲気出せば、声かけられるぞ」

「で、でも……」

「おいおい、頑張らないとクビになっちまうんだろ? だったらやるしかねぇだろ」

 うう……とどんどん小さくなる貫井ぬくいに大きくため息。

「なんだ? そもそも服はそんなに好きじゃなかったか?」

「そ、そういうわけじゃないけれど……」

 どこか含みのある言い方に俺が聞き返すと、貫井ぬくいはスカートをつまみ、服を見せつけるように身を捩った。

「肌が露出するものとか、お洒落をするのは気が進まないのよ。なんとなく男の人の視線が強くなる気がして」

 言い切ってから慌てて自意識過剰なのはわかってるわよ? と顔を背けて付け足す貫井ぬくい

 いや、多分そんなことないぞ。貫井ぬくいほどの美貌を持ち合わせて、露出やお洒落してれば必ず見る。なんなら五度見はする。

 ただ、それでも本人が不愉快に思っているなら、それはただの迷惑なんだよな……。

「……貫井ぬくいは、男に見られるのも嫌か?」

「嫌というよりは、やっぱり怖いの方が近いかしら。なんて言えばいいのかしらね……男の人の目ってギラギラしてない?」

「な、なんじゃそら。え、つーかじゃあ俺の目もギラギラしてんの?」

「いやあなたはギラギラどころか生気が感じられないわ」

「誰が死んだ目じゃ!」

 ってこんな話がしたいんじゃなくて! お洒落が好きなら楽しんで欲しいと思うけど、余計なお世話だよなぁ。いやでもやはり、お洒落が好きなのにみすみす捨ててしまっている女の子は放っておけない!

 自分でもよくわからない使命に目覚めた俺は、熱を込めて拳を握る。

「よし貫井ぬくい。今日は目一杯お洒落しようぜ!」

「きゅ、急にどうしたのよ。というかそれじゃあ……」 

「安心しろ。周りの視線は俺がなんとかしてみせるからさ。よーしこうなったら男性克服とかどうでもいい。渋谷を巡って貫井ぬくいをお洒落にするぞ!」

「ちょっと、本題からそれてるじゃない! 私は今日男性を克服するために……」

「いいか貫井ぬくい。気持ちは服からだ。フォーマルに身を包めば背筋が伸びるし、ルームウェアを着りゃあ落ち着く。服の力を甘く見るなよ。貫井ぬくいは今の服で、気持ちは上がってるか?」

「な、なによそんなに熱く語っちゃって……わからなくもないけれど」

「気分が上がれば、苦手なものに挑もうって気概も生まれるとは思わねぇか?」

 相変わらず引き気味ではあるものの、俺の熱量に負けたのか貫井ぬくいは一度肩を落とすと、左手首のシュシュに指先で触れる。

「……はぁ、わかったわよ。その代わり、本当に視線を気にならなくすること、できるんでしょうね?」

「多分!」

 声高らかな適当宣言に、大仰なため息をつく貫井ぬくい。だがしかし、俺の提案自体は受けてくれるようで、

「ほら、早く行きましょう。その代わり、しっかり付き合ってもらうわよ?」

 呆れた笑みで手招きお誘いする貫井ぬくいに、もちろんと後に続いた。

 それから俺たちは、同じ建物内のレディスファッションやら様々な店を回った。トップスやボトムスを始め、シューズや小物までも揃えていく。時折俺がこっちの色の方が絶対に似合うと口出しすると、貫井ぬくいは鏡の前で自分に服を合わせ、なぜか一度悔しそうに俺を見つめてから俺チョイスのカラーを試着していた。

 その傍らふと貫井ぬくいが、

「……あなた、やけにファッションに詳しいわね」

「そ、そうか? これくらいは普通だと思うが」

「普通の男性って、メイクとの相性まで口出しするほどの知識があるのかしら」

「うぇえ? あ、あー……俺はほら! 妹がいるからさ! なんとなく知識があるってだけだろ。は、はは、あはは……」

 と、普段の行いについてボロを出しかけたりもした。確かに男にしては詳しくすぎるかもしれない……いや、確実にそうだな。何とか誤魔化せたみたいだが、ちゃんと気をつけよう。

「ちょっと? ちゃんと近くにいるんでしょうね?」

 フィッティングルームの前で待っていると、中からそんな不安そうな声が聞こえてきた。俺が外から控えめに返事をすると、

「着替え終わったから、出るわよ?」

 貫井ぬくいはそう前置きをしてカーテンをゆっくりと開き、伺うように上目遣いで、

「ど、どうなのかしら?」

 心配そうにもじもじと手の甲を撫でながら聞いたきた。俺はファッション界の重鎮のごとく頭から足先まで貫井ぬくいをじっくりと見とめる。

 ゆるりとレースのあしらわれたブラウスに黒の革ジャンを肩で羽織り、細目の七分丈ジーンズで足の細さを見せつつ、ちらりと覗く足首がまぶしい。初夏にふさわしい涼しげなサンダルに、金メッキのイヤリング……、

「美しい……」

「へっ?」

 あまりの出来上がりに、思わず心の内にわき上がる声がぽろぽろとこぼれていく。

「最高だよ貫井ぬくい! 俺はここまで綺麗な女の子を見たことがない! いやーやっぱり貫井ぬくいは可愛い系より綺麗系の方が似合うと思ったんだよなぁ! ありがとう……お洒落してくれてありがとう貫井ぬくい……」

「ちょ、ちょっとやめなさいよ恥ずかしいからっ!」

 べた褒めされた貫井ぬくいは頬を赤くするどころか、珍しく耳まで真っ赤にしてしまう。そして耐えきれなくなったのか、カーテンの奥に隠れてしまったのを見て俺は我に返り、

「す、すまん思わずテンションが上がりすぎた申し訳ない」

 って急に冷静になると俺めちゃめちゃ恥ずかしいな!? 俺もカーテンに隠れてぇわ! だが流石にそんなわけにもいかず、体温の上昇を感じつつも貫井ぬくいに呼びかける。

「ぬ、貫井ぬくいさーん? そろそろ出てきてー? 怒らせてしまったなら謝るので……」

 俺が優しく呼びかけると、カーテンの隙間から貫井ぬくいが顔を少しだけ覗かせた。

「べ、別に嫌な気持ちになったわけじゃないわよ……ただちょっと、どうしていいかわかんなくなったの……」

「そうか……どちらにしても取り乱して申し訳なかった。えーっと、それで貫井ぬくい自身はどうなんだ? 俺が結構口出しちまったけど」

「……ふん、そんなの言うまでもないでしょ?」

 やっと気持ちが落ち着いたのか、カーテンからゆっくりと出て来た貫井ぬくい。まだ少し赤いものの、どこかゆるんだその表情は気分が高揚しているように見えた。やはり服の力は侮れない。

「惜しむらくは、マニキュアペディキュアが塗れないことだな。これで差し色に赤でも塗れりゃあもっとよかったんだがなぁ。うちの学校の校則はどうなってんだか」

「あなたまだ言ってるの? やめてよ恥ずかしいから。それに、その校則は珍しくないと思うわよ」

「じゃあ日本の学校全体がおかしいんだな。せめて軽いメイクくらい許せってんだ。どうせ社会に出たら必要な知識なんだから」

「確かにそれは言えてるわよね……って、なによこの女の子同士みたいな会話」

 貫井ぬくいのツッコミに思わず目を丸くして心臓を飛び上がらせる。いや全く持ってその通りだわこれ。俺は慌てて話の軌道修正を図る。

「と、とにかく、気に入ってもらえたんなら買っていこうぜ。近くの店員さんは……」

 貫井ぬくいと二人ぐるりと見回すと、レディスの店舗ながら男性店員の姿が。俺はちらりと貫井ぬくいに視線を移し、

「どうだ? 一人で行けそうか?」

 今まで男性店員がいた時は、俺がちょこちょこアシストしつつ進めていた。最初こそ店員の周りをうろうろするやばい客だったが、やる度に成長していたし、そろそろ一人でいけるんじゃないかと思うんだけど。

「や、やってみるわ」

 手を震わせ緊張マックスな様子ながらも、しっかりと言い切る貫井ぬくい。そんな頼もしい様子に、思わずこぼれそうになる笑みを抑える。

「おう、頑張ってこい」

 そう送り出された貫井ぬくいは壊れかけのロボのごとくぎこちない足取りで、服を畳みなおしている店員の背後に立った。うーん……滅茶苦茶心配になってきた。

「す……すみま、せん……」

 声ちっちゃー!? 本当に喋ってる!? なにやら声をかけている様子だけど、たぶん全く聞こえていない。案の定店員は黙々と作業を続けていた。貫井ぬくいは自分でも声が出ていないのが分かっているのか、しきりに喉に手を触れ前のめりに声を上げるもまだまだ小さい。

 どうしよう……ここでまたアシストするか? でもそれだと今までと同じだし……。

「ここでお姉が応援すれば頑張れんじゃね?」

「そりゃあ貫井ぬくいの憧れである晴花はるかが背中を押せればいいけど、今は那月なつきだしな……って」

 突如としてフェードインしてきた声に目を向けると、けだるそうに欠伸をかます凛星りんせの姿があった。俺はジト目で凛星りんせを睨みながら頭を抱える。

「おい、来るのめんどくせぇとか言ってなかったか?」

「そりゃあめんどいけどさぁ、兄ぃがスマートにホテルに誘えるか心配じゃん?」

「誘わねぇわ! 用事がねぇなら帰っとけよ……」

「んー? 兄ぃに必要かもしれないもの持ってきてるけど?」

 ニマニマといやらしい笑みを浮かべつつ、凛星りんせはカバンの中身を俺に覗かせる。そこには俺の女装道具一式が入っていた。

凛星りんせ……最高の妹か?」

「知らなかったの?」

「知ってた。……って、これそもそもうまく行くか?」

「んー……れっちはまだかかりそうだし、兄ぃが高速でメイクしてその辺の服拝借すればいけんじゃない?」

 適当かよぉ! ……まぁでも、ここは貫井ぬくい一人で最初から最後まで頑張ってほしいよな。やってみる価値はあるか。シュシュであれほど勇気をもらえているんだ。本人からの応援程強いものはないんだろう。

凛星りんせは適当に服を見繕ってくれ」

 はいよーと間の抜けた返事を聞き、俺はフィッティングルームへ。本当は全くもってよろしい行為ではないが、ここで化粧を進めていく。本当はもうちょいこだわりたいところだが、そんなことは言ってられない。

「お待たー。こんなんでど?」

 これまた緊張感のない声で凛星りんせから服が届いた。高速で進めたから妥協しまくりだけれど、これぐらいなら那月なつきだとは思われないね。

 俺は凛星りんせがいるにも関わらず、その場で服を颯爽と着替える。そしてウィッグをかぶり転身完了、と自分の姿全体を確認。

「ま、こんなものね」

「わーお姉すげー。一分もかかってないんじゃない?」

 ぱちぱちーとやる気のない拍手でお祝いする凛星りんせ。だけど私は鏡にぐっと近づきうーんと唸り声をあげる。

「でも、右目のアイラインが若干ゆがんでるね」

「どうでもいいからさっさと行きなさいよ。アタシはここで荷物見てっから」

 ばちこーんとフィッティングルームから叩き出された。私としたことが。凛星りんせの言う通り今はそんなことを気にしている場合じゃない。

 玲菜れなは……っと、まだ声かけチャレンジしてるのね。流石に今の間に進んでいて欲しかったよ。気を取り直して私は玲菜れなから見える位置に回り込む。

 あとは気づいてもらえるかだけど……あっ、こっち見た。ふふっ、驚いてるね。

 はわわわ……と混乱している玲菜れなに、私は自分の左手首を握って見せる。玲菜れなも真似して握ると、はっとしたようにぴたりと制止した。そして私はぐっと両の手で握り拳を作りエールを送ると、玲菜れなも真似をして気合いを入れ直す。

「あっ、あの! すみません!」

 今度は私にもしっかりと聞こえるほどの声をかける玲菜れな。すると流石に男性店員さんも気づいたようだ。

「はい、どういたしました?」

 とても丁寧な様子でご用伺いするも、玲菜れなにはそれさえ恐ろしいらしく体が硬直してしまっていた。だが再び私にゆっくりと視線を移すと、深くうなずき再びシュシュに触れた。

「こっ、この服、を購入したいのだけれど、このまま着て行ってもいいかしら?」

 所々上擦っているものの、しっかりと言い切った玲菜れな。すると店員さんは紳士的に、

「かまいませんよ。それではレジまでどうぞ」

 道を促され、レジまで向かっていく玲菜れな。その最中、一度私の方に振り返り、何かを伝えるかのように口をパクパクとさせた。

 ありがとう……って言ったのかな。玲菜れなのそんな姿を見送り、店のエリア外に出ないように急いでフィッティングルームに戻る。

「おっつー」

 するとスマホに目を落としたまま、私には一瞥もくれずに労う凛星りんせ。全く私の妹は……。

 って今はかまっている場合じゃないね。私はメイク落としで顔をゴシゴシと雑に擦り、ウィッグをはずし着替えを終えてさっそうと那月なつきに戻った。

「ありがとうな凛星りんせ

「どいたま~。これは高い貸しにしとくね」

「マジかよ。いいけどさ……あーあと凛星りんせ。この服買っといてくれ」

「えっ? 本気?」

 俺はポケットから財布を取り出すと、スマホから目を離しきょとんとする凛星りんせに二万円を渡した。

「なんか普通に気に入っちまった。それと迷惑料? ここで化粧とかマナーよくないしな」

「兄ぃ変なとここだわるよねー。試着しただけなのに、さも買ったかのようにネットに上げる輩よりはマシだと思うけど。ま、じゃあ買っておくよしょーがない」

「いろいろ悪いな。ありがとう」

「はいよーさっさとれっちを迎えに行って。放っておくと変な虫つきそうだし」

 はいはい、と俺は急いでフィッティングルームを出てレジに向かうも、既に貫井ぬくいの姿はなかった。慌てて首をめぐらせ周囲を確認すると、少し離れたところから何やら声が聞こえてくる。

「一目惚れしましたっ! 付き合って下さい!」

 だぁー遅かったぁ! 凛星りんせの言う通りすでに変な虫がついてた。貫井ぬくいの前に跪いてラブコールを送る若めな男に、案の定怯えた様子でしきりに手の甲を撫でる貫井ぬくいの姿。

「あ、あのそのえっ……その、きゅ、急にこ、困るわ……」

 震える唇を制しつつ、なんとか否定を紡ぐ貫井ぬくい。おおー成長しているな……ってそんなこと言ってる場合じゃねぇ!

「わ、悪い! 待たせた!」

 自分の存在を示すかのようにわざと大声を上げ、何事かと集まった野次馬を抜け二人の間に割って入る。すると俺の存在に気づいた貫井ぬくいは颯爽と俺の背に隠れた。

「くっ……彼氏持ちだったのか。こんな冴えない男に負けるなんて……」

 くっそ失礼だなおい。いや別に自分でもイケてるとは思ってねぇけど。彼氏、ね……否定するべきか? いやでも今はそう思われたほうが都合いいか。

「いえ断じて違うわ」

 ああーそこまではっきり言われると傷つくなぁ! 勘違いされたままの方がいいとか考えてた自分がアホらしいわ。内心へこむ俺に対し玉砕した若い男がギリリと歯噛みしていた。

 これ以上面倒になる前に場を離れようと強引にそれじゃ、と歩き出そうとしたところで、

「きっ……気持ちはっ、嬉しかったわ!」

 珍しく貫井ぬくいが大声を上げた。俺を含め周りが驚き貫井ぬくいを見つめるも、一番驚いているのは貫井ぬくいのようだった。どうやら声のボリュームを間違えたらしい。慌てて口を押え咳払いをすると、俺の背からおっかなびっくり出てきた。

「でも、あなたとそういった関係にはなれないので……ごめんなさい」

 面と向かって頭を下げられ、男はバツが悪そうに視線を落とした。諦めたのかいたたまれなくなったのか、その場を離れようとするも、これまた驚くことに貫井ぬくいが引き止めた。

「ちょっと、あと一つ言っておくけれど」

 今度はなにやらと構えていると、貫井ぬくいは俺の服の裾をちょこんと摘まんだ。

「確かにこの男は冴えないかもしれないけれど、信頼のおける人よ」

 ……え、泣くんだけど。

 ダメだダメだ完全に泣くところだった。まさか貫井ぬくいからそんな言葉が聞けるなんて……。

 完膚なきまでに振られた男は、唇を強く噛みその場を後にした。ことが収まったのを見るや、周りの野次馬たちも霧散していく。そこでようやく俺も緊張を解いた。

「はぁ……。えーっとすまん。トイレ行ってた」

「本当よ。急にいなくならないでちょうだい。さっきみたいなのが現れたら困るじゃない」

 ぐいぐいっと俺の裾を引っ張りながらしおらしい様子で貫井ぬくい。なんかすっげーはっずいな……。俺は貫井ぬくいに顔を合わせられないままお礼を述べた。

「あー……その、ありがとうな」

「? 何のことよ」

 全然ピンと来ていない貫井ぬくいの様子に恥ずかしくなった俺は、なんでもねぇよとぶっきらぼうに誤魔化した。

 ……こんなに嬉しいものなんだな。誰かに信頼してもらえるってのは。

「それよりどうだ? 落ち着いたか?」

「え、ええ。もう大丈夫そうよ」

 俺の服の裾をつまんでいたことを思い出したのか、貫井ぬくいは少し上擦った声でそう言いさっと離れた。

「それで、この後はどうするのかしら」

 スマホで現在時刻を確認すると十八時を回っていた。

「ちょっと早いがどっかで飯でも……と思ってたけど、男相手にあれだけ言えりゃあ、成果としては上々だよな。今日はかなり頑張ったし、ここいらで解散するか?」

 ……まぁ本当のところは、さっき凛星りんせに多めに金を渡したせいで足りなくなりそうってだけなんだけど。

 俺の提案に貫井ぬくいはえっ、とどこか乾いた声を漏らす。そしてどこか儚げな思案顔で俯いてしまった。

「ええ、それじゃあ今日はもう帰りましょうか」

 顔を上げると薄く笑みを浮かべ、貫井ぬくいは同意を示す。そんな彼女の姿に、俺はどこか罪悪感を抱いていた。それがもどかしくて正体を探っていると、

「そういえばあなた。視線は俺に任せとけなんて言ってたけれど、いったいどうするつもりだったのかしら?」

 すっかりいつもの表情に戻った貫井ぬくいが、話題を変えるようにそんなことを言った。気づきかけた罪悪感の正体から目を背け、俺は貫井ぬくいの疑問にノリノリで答える。

「ふっふっふっ、よくぞ聞いてくれたな」

「な、なによ勿体ぶって」

貫井ぬくいに視線が集まらなけりゃあいいってことだろ? そこで俺が用意したのは……こいつだ!」

 俺は懐からとあるものを取り出し、颯爽と顔に装着した。そしてドヤァとばかりに貫井ぬくいに向き直る。

「……」

 しかし、当の貫井ぬくいからはすっかり表情が抜け落ちてしまった。

「あ、あのー貫井ぬくいさん?」

「とても素敵なサングラスね。でも、それをつけたまま私の隣は歩かないでちょうだいね」

「ひ、ひでぇな!?」

 完璧な作戦だろ!? 俺に視線が集まるように、右に東京タワー左にスカイツリーが乗ったパーリーピーポーサングラスをつけて歩くという、天才的な発想だろ!?

「はぁ……あなた、その作戦本当にいいと思ってたの?」

「い、いやだって……」

凛星りんせに胸を張って提案できる?」

「無理だな」

 うん、無理無理。たぶん絶縁される。絶対やりたくない。俺の即答に貫井ぬくいは長いため息をついた。

「気づくの遅いわよシスコン。凛星りんせに出来ないことを私にやろうとしないで」

「ししシスコンちゃうわ。まぁでもなんつーか……すまん」

「そこまで落ち込まないでちょうだいよ。一応、私のためを思ってやってくれたんでしょ」

 そう言われるとどこか照れくさい気持ちになっちまう。俺がポケットに手を突っ込むと、貫井ぬくいはなぜだかおかしそうにくすくすと笑っていた。

「心配しなくても大丈夫よ。あなたの言う通り、さっきのでなんだか自信ついた気がするし。それに」

 貫井ぬくいは腰に手を当て、殊勝な笑みで俺を上目遣いに見とめた。急な接近に思わずうぐと喉を詰まらせ、思わず一歩引いてしまう。

「私は最高に綺麗なんでしょ? それならあなたも変な格好しないで、堂々と私の隣を歩きなさいよ」

 パチリとウインクをかますと、貫井ぬくいは踵を返して出口へと向かい始めていた。

「……全く急になんなんだよ。調子狂うな……」

 貫井ぬくいに聞こえない呟きを吐き捨てて、俺は先を行く貫井ぬくいの隣に並んだ。




「ねぇねぇ聞いた那月なつき?」

「何をだ?」

 瑞希みずきと楽しいランチタイム。俺がもっしゃもっしゃと凛星りんせ特性のハンバーグを頬張っていると、目を輝かせながら瑞希みずきが前のめりになった。

貫井ぬくいさん最近男の子と喋ってるらしいんだよっ!」

「ああ……そうらしいな」

 おにぎりをハムスターみたくちょびちょび食べる瑞希みずき。自分のことのようにポカポカ上機嫌な様子。そんな笑顔が見れるなら、貫井ぬくいにはもっと頑張っていただきたいね!

那月なつきのおかげなんじゃない?」

「力になれてりゃ嬉しいんだがな」

「あらあら、そんなに謙遜しなくてもいいと思いますけど」

「……ずっと思ってたけど、なんで安斎あんざいがいるんだよ」

 瑞希みずきとのランチタイムのはずだったのだが、なぜかぬるっと安斎あんざいが参加していたのだ。ちろりと安斎あんざいの弁当箱を覗くと、大体冷凍食品で見たことあるものが詰まっていた。

「いいじゃないですか。楽しそうだったので混ぜてもらおうかと思いまして」

「俺は構わんが……。つーかそういや、瑞希みずき安斎あんざいって接点あったっけ?」

「実は選択科目の席が隣なんだ。そこでたまに話したりしてるんだよ」

「そうだったのか」

「はい、でもまさか那月なつきさんとご友人だとは思わなかったです。これで瑞希みずきくんともっとお近づきになれますね……」

 小声でニヤリ悪代官な笑みを浮かべる安斎あんざい。そういえば作った服を俺に着せてテンション爆上がりしてたがまさか……。俺しか聞こえてなかったみたいだし、ここはスルーしておこう。

「ところで話を戻しますけど、最近の玲菜れなさんの成長は目覚ましいですよ。私はそもそも積極的に治すつもりはなかったですけど。那月なつきさんと関わるようになってから彼女はだいぶ変わったと思います」

「ほらほら、那月なつきのおかげだってさ!」

 褒められている? 状況にどこか歯がゆさを感じ、凛星りんせのハンバーグをかきこむ。

「この分なら来週までに接客ができるようになるのも、夢じゃないかもしれないですよ」

 ぽむと手のひらを合わせて柔和な笑みを浮かべる安斎あんざい。そっか、もう一週間切ったのか。本番は今週金曜日放課後のシフトだったっけ。あの時は絶望的だと思ったけど、やればできるもんだな……。改めて貫井ぬくいの成長ぶりに感心していると、自分を呼ぶ声が聞こえてきた。

「あっいたいた。兄貴ちょっといい?」

 廊下に立つ凛星りんせからのようで、珍しく深刻そうな表情でちょいちょいと手招きしていた。俺は二人に断ってから、足早に凛星りんせのもとに。

「どうしたんだ?」

「それがさ、久しぶりにれっちが男子に呼び出されたんだよ」

「ほお、そりゃなんとも……。で、大丈夫なのか?」

「だいじょぶならわざわざ兄ぃ呼ばないよ。アタシも行くって言ったんだけどね……最近は少しずつだけど慣れてきたから、私に任せてって大見得切っちゃってね。で、さすがに心配だから、これかられっちを見に行くつもり」

「場所はどこなんだ?」

「それがね、本人が言わなかったし見失ったんよね」

「で、人手を増やそうと俺のもとってわけか」

「そそ。じゃ、それっぽい場所探してね。アタシは屋上を見てくるから、兄ぃはそれ以外の場所探しといて」

「分担おかしすぎるだろ……」

 そんな文句を口にするも、凛星りんせに言ったってしょうがない。それに今は時間が惜しいんだ。

 凛星りんせと別れ、俺は告白に使われそうな場所を探して走り回る。空き教室、校舎裏体育館裏と探し回るも、一向に貫井ぬくいの姿は見えない。あと人が集まらない場所といえば……、

「部活棟か」

 昼休みの部活棟は閑散としているんだよな。俺が那月なつきとして貫井ぬくいに出会ったのも、そこが初めてだったよな。

 思いつくや否や俺は走り出す。こっから先が部活棟だが……っとと、話声が聞こえるな。

貫井ぬくい、お前のことが好きだ。俺の女になれよ」

 うんビンゴだな。つーかなんだこの最低な告白。それが許されるのはドSの似合うイケメンだけだぞ。顔は……ダメだ。背を向けているせいで見えないが、どうせお察しだろう。

 角からのっそりと様子をうかがう。貫井ぬくいも……いるな。前ほど震えちゃいないが、それでもあの場にいるのがやっとっぽいな。

「……そ、その、わた、私をよく思ってくれるのはう、嬉しいのだけど」

「それなら」

「で、でもごめんなさい!」

 びしっと頭を下げる貫井ぬくい。男の方は驚いたように口をポカンと開けていた。すると今度は苛立たし気に爪を噛む。

「あの男か」

「えっ?」

 急な発言に、俺も貫井ぬくいと同じく疑問の声を漏らしそうになった。どういうことかと頭をめぐらせていると、男子生徒がさらに続ける。

「最近あの二年の男と仲良さそうにしているもんな」

 ってこりゃ俺のことか。まぁ流石にあそこまで一緒にいりゃ、噂になっちまうか。貫井ぬくいも俺のことに思い至ったのか慌てて首を振る。

「ち、違う! あいつはそんなんじゃないわ!」

「そんなこと言って、休日に一緒に出歩いていたらしいじゃねぇか」

 まっじかそんなことまで割れてんのかよ。やっぱりこのご時世人の目はどこにあるかわかんねぇな。

「そ、それは……ただ……」

 うう、と喉を詰まらせ、どんどんと言葉が停滞してしまう。まずい……これ以上ただ見守るわけにはいかないか?

「ふん、やっぱりな。そういうことなんだろ」

「あいつとは、そんなんじゃ……」

「お前が男を避けてるのも、あの男がいるからなんだろ? あいつ以外どうでもいいって思ってるから、他の男を見下してんだろ?」

「そ、そん……な……こと……」

 ……。

「いいよなぁお前は。ちょっと顔がいいからって調子に乗りやがって。別に俺を振ってもあの男を振っても、そのあとも男なんて選び放題だもんな」

「……ぅ……ぁ……っ!?」

 貫井ぬくいが俺の存在に驚いていた。そりゃそうだ。いつの間にか男子生徒の後ろに俺がいりゃ、普通驚く。そして俺は男子生徒の肩を掴み、無理やり振り返らせた。

「なっ!? お、お前……」

「お前さ。自分でそんなこと言ってて恥ずかしくねぇのか? 貫井ぬくいに謝れよ。早く謝れよ!」

 俺の怒鳴り声に二人とも肩を跳ね上げ、男子生徒はそのまま情けない声を上げて走り去ってしまった。ちっと心の中で舌打ちし、俺は貫井ぬくいに向き直った。

「あー……貫井ぬくい、大丈夫だったか? 貫井ぬくい?」

 俺の呼びかけに一切反応がなく、貫井ぬくいは魂が抜けたかのように放心していた。心配になって俺が手を伸ばすと、

「触らないでっ!」

 バチンっ! と俺の手が貫井ぬくいの平手打ちによって弾かれた。突然の出来事に理解が追い付かず、ただただ目を見開いていると、貫井ぬくいは不安そうな表情を浮かべ、バツが悪そうに唇を強く噛んでそのまま走り去ってしまった。

 人気のない部活棟に、一人取り残されていた。貫井ぬくいに弾かれた手をしばらく見つめてポッケに突っ込み、もう片方の手で頭を強くかいた。




「兄ぃ、このトマトどっちがおいしい?」

「ああ……」

「ああじゃなくて、ちゃんと答えなって。好きな子に拒絶されて落ち込むのはわかるけどさぁ」

 やれやれ、と凛星りんせは首を振りつつ右手に持っていたトマトを袋に入れ買い物かごへと突っ込んだ。そしてカートを押して歩き出す凛星りんせの隣を、俺がぼんやりとついていく。

「……いや別に貫井ぬくいのことが好きというわけではないんだが」

「そこはもうどうでもいいわ。頼むからしっかりしてよー。今日は母さんが帰り遅いって言うから夜食買いに来てんのに」

「わかってるわかってる」

 俺の気のない返事に、凛星りんせはさらに呆れてため息をついた。付近に大型のスーパーがここ以外にないため、いつもやや混雑している店内。カゴが人に当たらないように気をつけながら凛星りんせの後ろをゆっくりついていく。

「多分拒絶された……んだよな」

「さぁねわかんない。兄ぃから詳しい話を聞くまで、れっちが何も話してくれないからわからなかったし」

「それだけ落ち込んでるってことか……」

 昨日の事件の後、凛星りんせ曰くずっと落ち込んでいたらしい。まるで俺と克服作戦を始める前に戻ったみたいとのことだ。事情を話した安斎あんざいにも話を聞いてもらったが、凛星りんせの話と大差のないものだった。

「あっ、兄ぃ。ニンジンはどれがいい?」

「多分これ」

「ふーん了解。兄ぃってさ、なんで料理壊滅的なのに素材の良し悪しは見極められんの」

「俺が知るかよ……」

 凛星りんせは俺の選んだニンジンをカゴに入れ、今度は精肉コーナーに向かっていく。

「……このままじゃ、貫井ぬくいはクビになっちまうよな」

「あー、んなこと言ってたねー。ましょうがないんじゃない?」

「そんなあっさりな」

「前も言ったかもだけどさー。アタシはそもそも、絶対治さなきゃいけないもんでもないと思ってるし。確かに何かと面倒かもだけど、そういう生き方だってあるっしょ」

「いやそれは全くもってそうなんだが……。でもなぁ」

「どうにかしたいんだったら兄ぃが頑張るしかないでしょ」

「そうしたいのは山々だが、これからどうすりゃいいんだか……」

 今日貫井ぬくいに会おうとしたものの、どうやら思いっきり避けられているようで、俺を見つけるや否や逃げ出してしまったのだ。正直普通にショックだったな……。俺が途方に暮れていると、凛星りんせがだらしないなぁーとか文句を言いつつ腕を組んだ。

「兄ぃ馬鹿なの? 兄ぃにはれっちと話す方法があるじゃん」

 凛星りんせの提案に全くピンと来ない俺がしかめっ面をすると、凛星りんせはたいそう呆れた表情を浮かべた。

「お姉で会いに行けばいいでしょ。そんなこともわからないわけ」

「なっ……なるほど! その手があったか! 凛星りんせは頭がいいな」

「いやこれで褒められても……別にいいけど」

 呆れついでにんっ、とどの牛肉がいいのか視線で尋ねる凛星りんせに、俺はこれだと思うものを買い物カゴに突っ込んだ。

「そうだな。早速明日晴花はるかで会いに行ってみるか」

「そんなうまく会えるの? そいえば兄ぃ、れっちの連絡先知ってるの?」

「……知らん」

「そりゃそっか。兄ぃが女の子に連絡先聞けるわけないもんね。そもそもれっちは交換したがらないだろうし」

「おい、兄を勝手に女の子の連絡先聞けないキャラにすんなよ。瑞希みずきの連絡先は俺から聞いたんだぞ」

「あの子は男の娘でしょうが……ってもー兄ぃ、変な話で脱線させないでよ。そんなんで大丈夫なわけ?」

「だ、大丈夫さたぶん」

 最悪安斎あんざいに協力を取り付けよう。そうすりゃなんとか会えはするはずだ。後は落ち込む貫井ぬくいを励ませればいいんだが……きっと晴花はるかが応援してあげりゃあ、大丈夫だよな。




 翌日安斎あんざいに話を聞くと、今日はメイド喫茶のバイトで貫井ぬくいも自分もシフトが入っているとのことだった。というわけで、バイトが終わるころに晴花はるかとして待ち伏せることに。

 帰宅して適当に時間を潰してから颯爽と晴花はるかに転身。そしてメイド喫茶にほど近い、普通の喫茶店で玲菜れなが出てくるのを待っていた。カフェモカをずずぅ……とちびちび啜りつつ、窓の外を退屈に眺め続ける。

「……来た」

 玲菜れなの姿を確認した私はグイっと一気に煽り、慌てて店を後にした。そして足早に玲菜れなのもとに駆け寄り、驚かせないよう一呼吸を置いてから、

玲菜れな、こんなところで奇遇だね」

 私の呼びかけに玲菜れなは一瞬硬直。そしてゆっくりと振り返った。

「は、晴花はるか様……」

 私の名を呼ぶその声は憧れのこもった弾んだものではなく、とてもか弱く沈んだようなものだった。この姿を見られたくなかったかのように玲菜れなは私に背を向けて、

「今日はどうしたのかしら」

「実はその……玲菜れなに会いに来たんだ。一昨日のことで落ち込んでて心配って那月なつきたちが言ってたからさ」

「そう……なのね」

 私の言葉に、玲菜れなは選択肢を探すようにゆっくりと頭を振り、そして私に向き直った。玲菜れなの表情はひどく疲れた様子で、いつもの凛とした綺麗さは見る影もなかった。

「それは……ありがとう。でも、もう必要ないのよ」

「どうして?」

「私はもう諦めたから。だから、もうどうでもいいの」

「なっ……なんでそんなこと言うの。せっかく今まで頑張ってきたのに」

「……確かに、これまで協力してくれたみんなには申し訳ないわよね。でももう無理なんだってわかってしまったから。だから、もういいの。メイド喫茶も辞める予定だし」

 あっさりと語られたその言葉に、私は口を開くことも忘れて、ただただショックを受けていた。今までちゃんと接客するために頑張ってきたのに、メイド喫茶を自分から辞めるって……。

「ど、どうしてそんなこと……男子に相当酷いことを言われたって聞いたけど、そこまで思いつめてたの?」

 私の問いかけに、玲菜れなは小さく首を振った。否定……ってこと? それじゃあ一体なんでなの? 言わずとも私の疑問が伝わっているのか、玲菜れなは何かに迷っているようにしきりにスカートを摘まんでは離していた。そしてゆっくりと唇を開くと、

「……怖いの。わからないことが怖いのよ」

「そ、それは……玲菜れなが言っていた、男性が苦手な理由……だよね」

「ええ、私にとってわからないは怖いの。だから……」

 玲菜れなはぎゅっと瞼を閉じて、自分が提示する事実から逃げるかのように、顔を背けながら言い放った。

「私は今、朝凪あさなぎ那月なつきが一番怖いの」

「……えっ?」

 急に飛び出した那月なつきの、自分の名前に頭が真っ白になった。なぜ、どこで、そんなことになったの?

「ど、どうして急に那月なつきが……怖くなったの?」

 黙っていても話が進まない。真っ白な頭ながら、必死に言葉を探して玲菜れなにぶつけた。

「だって……おかしいじゃない。あいつは私の男性克服に真摯になってくれる。でも、私はあいつに何かしてあげたことがあったかしら? いいえ、そんなことはなかった、むしろきつく当たることの方が多かったと思うわ」

 確かに、はたから見れば那月なつきは見返りと呼べるものをもらっていたかと言われれば、そうではないかもしれない。でも、でも……、

「こんな私に、なんであいつがそこまでしてくれるのかわからない……。この前あいつが私のために怒ってくれた時、そのことに気づいてしまったの。それからは……私はもう、自分の気持ちさえよくわからなくなったのよ」

玲菜れな……その……」

「だから、晴花はるか様も今までありがとう。沢山勇気をもらったのにごめんなさい。それじゃあ」

「まっ、待って!」

 踵を返して立ち去ろうとする玲菜れなの手を取り引き止める。嫌だ、せっかくここまで来たのにこれで終わりなんて。だって、

玲菜れなが言ったんじゃん! 諦めちゃダメだって! ちゃんと那月なつきと話せば理解し合えるよ!」

 私の必死の呼びかけにもかかわらず、玲菜れなは振り返ることもなくしばらく口をつぐんでいた。

すっかり冷たくなった手と手。彼女の手が震えているのはその冷たさからなのか、私にはわからなかった。

「……じゃあ、晴花はるか様はなんであいつが私にここまでしてくれるのか、わかるの?」

 玲菜れなはゆっくり振り返ると、今にも泣きだしそうな顔で答えを求めた。

「そ、それは……」

 那月なつきが、私がなぜここまでするのか、だなんて……。

「ね、分かりっこないのよ。だから、もう終わり」

 私の手をするりと抜けて歩き出そうとする玲菜れなを、もう一度掴もうと手を伸ばす。

「お願いだからこれ以上、は……?」

 私の伸ばした手が玲菜れなに触れた途端、私の手を無理やり解こうと振り返りざまに手を上げると、バランスを崩してしまう。そして、運の悪いことにその先には階段があった。

「危ないっ!」

 私は咄嗟に玲菜れなの手を掴み直し、抱きかかえる形でともに階段から転げ落ちた。

「い……つつぅ……! だ、大丈夫だった玲菜れな!?」

「え、ええ……って、あ、あなたは……っ」

 どうしたことか、玲菜れなの目から急速に光が失われているのがわかった。その理由はわからなかったが、痛む頭を抑えたところで、自分の違和感に気づいた。

「い、いや……これは、その……」

 慌てて落ちた階段に視線を移すと、自分のウィッグが階段に置き去りにされていた。それが意味することはつまり、

「……ごめん」

 晴花はるかの魔法が解けて、俺が那月なつきに戻ったということだ。俺がひた隠しにしてきた事実、それが一番知られたくなかった人物に知られたのだ。

 恐る恐る貫井ぬくいに向き直る。その表情は、眉は下がり、唇の震えを抑えるように歯を食いしばり、様々な感情がないまぜになったものだった。

 全ての言葉を失い、なにも出来なくなった俺はただ俯くことしかできなかった。もはや貫井ぬくいの顔すら見れない。

「あなたは……いったい何なのよ」

 風の流れる音だけが響く中、貫井ぬくいが震える声でそんなことを言った。

「女装をしてまで私に近づいて……、私の男性恐怖症を克服するのを手伝ったり……」

 そこまで言って、貫井ぬくいは再び黙ってしまった。今貫井ぬくいがどんな表情をしているのか知る由もないが、ぽたりと水滴がこぼれるのが見えた。そして、 

「あなたは私をどうしたいの?」

 その言葉に俺は目を閉じ、ただ歯を食いしばって聞いていることしかできなかった。

 貫井ぬくいは左手首のシュシュを乱暴に外すと俺に投げつけた。そして落としたカバンをを手早く拾うと立ち上がり、走り去って行く。残されたのは、中途半端な女装姿の朝凪あさなぎ那月なつきただ一人。

 俺は投げつけられて腿の上に転がったシュシュを睨みつけた。

「どうしたいのってそんなの……」

 胸の内で貫井ぬくいの言葉が繰り返され続ける。俺と同じく異性への理解に苦しんでいる貫井ぬくいを助けたいに決まってるだろ。なんでそこまでするのかだって、そんなの……。

 俺はやり場のない怒りやもどかしさをぶつけるように、標識の鉄棒を殴りつけていた。




「……でさ。って、那月なつき聞いてる?」

「えっ? あ、ああ聞いてるよ」

 放課後の教室。なんとなくすぐに帰る気が起きず、俺と瑞希みずきは適当に駄弁っていた。瑞希みずきはといえば、貫井ぬくいと決別したあの日以降、彼女の話題は出さずにいてくれた。多分、凛星りんせが話をしてくれたんだと思う。まったくよくできた妹だ。

 俺と貫井ぬくいはといえば、当然のごとく絶縁状態だった。ここ最近思い返せば姿すら見てない気がする。

「本当に聞いてたの? 那月なつきってば最近ずっと元気ないから、ボクすっごく心配してるんだよ?」

 ぷんぷんと可愛くご立腹な瑞希みずきの姿に、憂鬱な思いを忘れる安らぎを享受。俺はいつもの調子を思い出しながら、

瑞希みずきに心配してもらえるなんて、ありがたい話だな」

「またそうやって茶化すんだから……」

 むぅとご機嫌斜めな瑞希みずきに平謝りしつつ、俺は伸びをして鞄を持ち立ち上がる。

「そろそろ帰るか?」

「だね。そろそろ帰ろっか」

 そう言うと瑞希みずきは鞄を取りに自分の机にパタパタ向かう。俺は先に廊下に出て瑞希みずきを待っていた。

「……あっ。な、那月なつきさんっ!」

 突然呼ばれてあたりをきょろきょろ見回すと、珍しく慌てた様子の安斎あんざいの姿が。あまりいい予感のしなかった俺は、安斎あんざいが近くに来るまで気づかぬふりをしていた。

「な、那月なつきさん……っ。玲菜れなさんを見ませんでした?」

「俺が知ってるわけないだろ」

「やはり……そうですか」

 相当駆けまわっていたのか、肩で息をする安斎あんざいの姿に協力したい気持ちが湧いてしまうが、探しているのが貫井ぬくいじゃ俺が役に立てるわけもない。

「じゃあ私はこれで……」

 と立ち去ろうと安斎あんざいが駆け出したところで、

「どうしたの明理あかりさん? 貫井ぬくいさんに何かあったの?」

 鞄を取り終えた瑞希みずきに呼び止められ、きゅきゅーと踵を返すと安斎あんざいのスカートがふわっと舞う。太ももの上のほうまで見えたところで急いで視線を外した。

瑞希みずきくん。玲菜れなさんを知りませんか?」

「うーん……ボクも知らないや。貫井ぬくいさんがどうしたの?」

「実は今日がメイド喫茶の開店一周年お祝いデーなのですが……放課後になって玲菜れなさんの姿が見えなくなってしまったんですよ」

 言いつつスマホを確認する安斎あんざい。ちらっと見えたがおびただしい数の履歴が残っていそうだった。そんな……と瑞希みずきは深刻な表情で胸に手を当てる。

「それにタイミングの悪いことに、今日は二人も体調不良で来れなくなってしまいまして。記念日でご主人様が多くなりますから、さすがに三人の欠員を補うのは難しい状況なんです」

「ぼ、ボクも一緒に探そうか?」

 あわわ……と口を押える瑞希みずき安斎あんざいは苦笑いをすると、

「いえいえ、さすがにお店の関係者ではない方に手伝いを頼むのは心苦しいですから。それにまだ開店まで時間がありますので、もう少し探してみます。それでは」

 安斎あんざいは今度こそバタバタ駆け出して行った。そうして二人きりになると、瑞希みずきはぴょんと一歩踏み出す。

「それじゃあ帰ろうか」

「……ああ、そうだな」

 その後無言のまま二人で下駄箱まで向かい、校外へと繰り出す。今日はやけにうるさく感じる日差しに目を背け手で庇を作る。

「いやー日差し強いね。夏が近づいてきたって感じだね」

「そうだな……」

 どこか空虚な会話。お互いにそれを感じ取っているのか、その後またしばらく無言が続いた。道行く人々の声が煩わしい。どこか鬱屈とした気持ちから目を背けようとしていると、

那月なつきはさ、探しに行かなくていいの?」

 急に瑞希みずきが口を開いた。上の空だった俺は一瞬何の話か逡巡してしまう。

「いや、俺が探すのはおかしいだろ。貫井ぬくいとあんなことがあったんだから」

「そっか……」

 瑞希みずきは寂しそうに呟くと、俯き歩幅が小さくなってしまった。俺はなぜだか申し訳ない気持ちになり、何か言わなければと焦る。

「み、瑞希みずきは、相手のことが分からなくなって怖くなること、あるか?」

 ってなんだこの話……意味わからなすぎるだろこの質問が怖えわ。さっそく自己嫌悪に陥る俺だったが、瑞希みずきは笑うことも困ることもなく首に手を当てかしげ、真剣な表情で答えた。

「うーん……それはやっぱり、ある、かな」

 そして口に手を当て俺のことをじっと見つめだした。見つめられる気恥ずかしさに耐えられなくなりかけたところで、瑞希みずきはパッともとの体勢に戻る。

「実のところ、ボクは那月なつきのこともよくわからなくなって怖くなる時もあるよ」

「えっ?」

 唐突なその言葉に完全に虚を突かれて思考停止してしまう。すると瑞希みずきが慌てて両手をブンブン振って否定した。

「だ、だから嫌いだとかそういうことじゃないよ? 那月なつきのことは大好きだもん。そこは勘違いしないでよね?」

 急な告白にお、おうぅ……とか自分でも気持ちの悪い声が漏れていた。えっ、めっちゃ嬉しいんだけど。

「あっ、それそれその顔。ボクにはなんで今那月なつきがそんなニヤけているのかわからないし」

 ぴしっと俺の顔を指さし瑞希みずき。やばっ、顔にまで出てたのか俺……。慌てて謝ろうとすると、瑞希みずきは柔和な笑みを俺に向けていた。

「でも、那月なつきのことは怖くないよ。だって、信じているから」

 その時、風が強く吹いた。ざわざわと木々を奏でるその風は、瑞希みずきの長い髪を弄ぶ。瑞希みずきは苦笑いしながら髪を手で押さえ、やがて風がやむと手櫛で整えた。

 信じる、か……。親友から寄せられる強い信頼に、俺はひとつの答えをもらったような気がした。

「ありがとうな、瑞希みずき。俺も瑞希みずきのこと、信じてるぜ」

「う、うん。あはは……なんか恥ずかしいね」

 二人顔を見合わせ赤面するどこか甘酸っぱい空間。やっぱり瑞希みずきは俺の人生のヒロインポジションだな。

「って、あーごめん。那月なつきの求めている話からそれちゃったかな?」

「いいやそんなことないさ。やっぱり持つべきものは瑞希みずきだと改めて思ったよ」

「どういう意味なのそれ」

 また茶化すんだから……と少し不機嫌になってしまう瑞希みずきにまた平謝り。そして俺は一つ深呼吸をして、

瑞希みずき、俺ちょっとやることが出来たから急いで帰るな」

「うんわかったよ。ボクも用事を思い出したから、ここでお別れだね」

「また学校でな」

 じゃ、と俺は家に向かって走り出す。瑞希みずきと途中まで一緒に帰っていたのもあり、大した距離じゃないはずなのに、普段の運動不足が祟り息はすっかり上がっていた。扉にもたれるようにカギを開け家へ。

 ただいまと声を上げながら自分の部屋に入り颯爽と女装の準備を始めた。

「兄ぃ? 慌ててどうしたのって……」

 バタバタする俺を不思議に思ったのか、先に帰っていた凛星りんせが俺の部屋までやってきた。そして化粧を始める俺を見て訝しげな表情を浮かべると、

「なにしてんの?」

晴花はるかの出番だ」

「お姉の? だってもうれっちにはバレちゃったんでしょ?」

「それでもだ」

「ふーん……」

 意味深に頷いている凛星りんせを化粧しながら見つめていると、不意にニヤリと笑みを浮かべた。

「やっと立ち直ったか」

「な、なんだよその上から来る感じは」

「そりゃそうなるっしょ。兄ぃのせいでアタシとれっちの関係も微妙になってんだから」

「うっ……そりゃあ……」

 直接聞いてはいなかったが、やっぱりそうなのか。那月なつきである俺が、晴花はるかとしてふるまって貫井ぬくいを騙していたんだ。晴花はるかと一緒にいた凛星りんせと関係がこじれるのは当然だろう。

「も、申し訳ない……」

「いーからさっさと手ぇ動かしてー」

「へいっ!」

 おててがお留守なのを咎められ、慌てて化粧を再開。すると凛星りんせは鬼監督のごとくむんっと腕を組んだ。

「で実際、なんでここでお姉?」

「ちゃんと貫井ぬくいに話すべきだと思ったんだよ。俺がこういう格好をする理由を。あとはまぁ……晴花はるかになるのは、今日で最後にしようかと思ってさ」

「えっ、お姉いなくなるの? どうしてそこまで?」

「もともと、心のどこかでこんなことをしても無駄なんだってわかっていたんだ。それについさっき、瑞希みずきに考えさせられることを言われてな。晴花はるかに頼る必要なんてなかったんだよ、きっと」

「……あっそ」

 凛星りんせ組んでいた腕をほどき、どこか寂しそうに目を伏せた。

 よしこれで完了……。ふとドレッサーに放っておいた、貫井ぬくいに投げ返されたシュシュが目に留まった。……いや、つけていこう。そう決めた私は久しぶりにウィッグの長髪をシュシュでまとめた。

 私が転身し終えると凛星りんせは気だるげに頭を掻きながら、部屋から出る私を見送ってくれる。

「まぁその……頼んだよ、兄ぃ」

「……もちろんだ。任せておけ」

 一生のお願いじゃなかろうと、可愛い妹のお願いだ。聞き届けなければお兄ちゃん失格だ。

 玲菜れな……絶対に見つけてみせるからね。




「とは言ったものの……」

 とりあえずメイド喫茶周辺までやってきたけど、闇雲に探して見つかるものでもないよね。どうしたものかしら……。念のため安斎あんざいさんに連絡を入れるも、まだ見つかっていないらしい。

 安斎あんざいさんが言うにはイベントの開始は十七時から。玲菜れなの準備も考えると十六時半までには見つけたいけれど……。

玲菜れなの行きそうな場所ねぇ」

 シフトをさぼるにしても、そこまで遠くは行かないはずだよね。となると意外と学校の近くとか自分の家とかかなぁ。

「……玲菜れながさぼる……?」

 なんだかんだでものすごく律義な玲菜れなが無断欠勤……する度胸があるかな。もしかして、意外とメイド喫茶周辺にいるのかも?

 そう目星をつけた私は、メイド喫茶の方へと向かい、周辺をぐるりと回ってみることに。

「とりあえずメイド喫茶に到着っと」

 さて、とりあえず周辺を一周してみようかな。そうして駆け出そうとした時だった。

「お姉ちゃん! きれいなドレスが着れる仕事があるんだけどどうかな!?」

「い、いえ……あの……こ、困り、ます……」

 ……。

 目の前の光景を疑いたくなり、私は一度目を逸らした。そして一度深呼吸。もう一回目の前を向く。

「うん、やっぱり見間違いじゃないね」

 そこにはまたも変な勧誘を受ける玲菜れなの姿があった。ラフな格好の男で、ポケットティッシュをぐいぐい押し付けている様子。キャバクラの勧誘かなんかなのかな。ってまぁそこはどうでもいいとして……。

 例え喧嘩したとしても、やっぱり放っておけるものじゃないよね。私は意を決して玲菜れなのもとへと駆け寄ると、

「し、しつこいわよ! いい加減にしなさい!」

 玲菜れなは急に叫び出すや否や、全力で走り出してしまった。ポカーンと取り残される勧誘男と私。い、いやいや呆けてる場合じゃない! ここで見失ったらまずいって!

 玲菜れなが走り去った方向目掛け、私も全力疾走を始める。くっ! スカートがっ! ズボンで来ればよかった!

 玲菜れなの姿は……いた! ってまだ走ってるし! 私は辟易しながらも見失わないように後を追い続ける。普段から運動しておけばよかったっ! なんて後悔をしながらも走る。

「れ、玲菜れな!」

「まだ追ってきているの!? だから素敵なドレスは間に合ってるって!」

「違う違う! 落ち着いてよ玲菜れな!」

 完全に勘違いされてるよこれ! と、とにかく追いつかねば……。しばらくチェイスを続けていると、さすがに玲菜れなもばてたのか段々失速し始めた。まぁそれは私も同じなんだけどね。ただそこは男の子。ここで頑張らなくてどうする。

 膝に手をつきやっと止まった玲菜れなに、誤解を解くためにゆっくり近づきつつ、

「れ、玲菜れな? 大丈夫? えっと……一応晴花はるか、なんだけど……」

 私の名を聞いた途端、肩で大きく息をしていたというのに、ぴたりと動きが止まってしまった。そして私に背を向けたまま、

「……何しに来たのよ」

 全くもってごもっともだ。すでに私の正体がばれているというのにも関わらず、こんな格好で現れるなんて。だけど私はお構いなしで逆に問い返した。

「だったら玲菜れなは、なんでメイド喫茶の近くにいたの?」

「そ、それは……」

 肩を震わせ言いよどむ玲菜れな。だが不安そうに手の甲を撫でていたけど、はっとしたようにかぶりを振った。

「あなたには関係ないでしょ。私のことはもう放っておきなさいよ」

「確かに関係ないかもしれない。でも、放ってはおけない」

「なによそれ……。私はもう行くわよ」

「私も!」

 立ち去ろうとする玲菜れなを引き留めるように、私は一際大きな声を上げた。だがしかし、玲菜れなの足は止まらない。それでも私は続けた。

「私も、玲菜れなが何を考えているのかわからないよ」

 すると、玲菜れなの歩みがぴたりと止まった。とりあえず話だけは聞いてもらえそうだ。ただ、私の頭の中にはまとまった考えがなかった。さっきのだって咄嗟に出たものだった。

 かなり走ってきたせいかメイド喫茶からは離れてしまい、すっかり人気のない道路。車の走る音は聞こえるが、どこか不気味な沈黙のようなものを感じ私は焦りを覚えた。

「えっとその……だ、だって酷いじゃん。確かに私は玲菜れなを騙していたけど、今まで玲菜れなと一緒に頑張ってきたのに私のことを、那月なつきのことを怖いだなんて」

「……そんなこと言われたって、しょうがないじゃない」

 ゆっくりと振り返る玲菜れな。ぱっと見いつものクールな表情に見えるけど、どこか怯えを必死に隠しているようだ。

「どんなに考えたって、あなたが私にここまでしてくれる理由なんて、わからないの。そんなのおかしい……。怖いに決まってるじゃない」

 腕を組みどんどんと小さくなる玲菜れな。そんな彼女に私は一歩踏み出し、

「ねぇ玲菜れな玲菜れなは前に、きっと男性のことを理解できるって言っていたけれど、でもそれはたぶん無理だよ」

「……」

 肯定も否定もせず、ただただ俯く玲菜れな

「だって散々一緒に過ごしてきた実の妹でさえ、まだまだ分からないことがあるんだよ? それが無理なら、昨日今日知り合った人間を理解するなんて無理に決まってる。それにさ、そもそも男性女性なんてひとくくりに理解しようとしていたのが間違いなんだよ」

 今までの自分すら否定する言葉。でもそれは、自分でも驚くほどするすると紡がれていた。

「そんなの……気づいていたわよ。だって私は今、自分が本当はどう思っているのかすら、わからないのだから……」

 わなわなと震える自分の両手を見つめ、玲菜れなが涙を浮かべていた。そんな彼女に私はさらに歩み寄り、

玲菜れな、相手のこと、自分のことを理解するよりも、信じてみない?」

「えっ?」

「親友の受け売りでちょっとかっこつかないけど、相手を理解することは出来なくても信じる事は出来ると思うんだ。そうすれば、相手がなんでこんなことをするのかわからなくても、この人だから意味のあることをしているんだって、相手を認めることが出来る。そうすればきっと、もう怖いなんて思わなくなるんじゃないかな」

「信じる……」

 噛み締めるよに手のひらを見つめる彼女の視線の先に、私は手を差し出した。

晴花はるかに尊敬を、那月なつきに信頼を寄せてくれたあなたを裏切ったことは、本当にごめんなさい。でも、だからこそ那月なつき晴花はるかであなたを支える、変えることが出来ると信じてる。……だから頼む。俺にもう一度、チャンスをくれないか?」

 差し出すその手は那月なつきとしてだ。貫井ぬくいの男性克服に協力すると約束したあの日は、握手をすることは叶わなかった。だからこそ今、握手を交わすことで改めて協力させてほしいという、俺の願いだった。

 貫井ぬくいはしばらく俺の手を見つめ何かを考えているようだった。しきりに手の甲を撫でると、ふと自分の左手首に触れた。きゅっと握るもそこにシュシュは当然ない。お守りを失った事実に俯いてしまうものの、貫井ぬくいはかぶりを振っておずおずと手を伸ばした。

「そう……ね。あなたの言う通り自分の気持ちを信じることも、大事なのかもしれないわね」

 貫井ぬくいの伸ばした手が俺の指先に触れる。そして俺の手を撫でるように進むと、きゅっと俺の手を確かに握った。思わず安堵やらなにやらで顔が崩れそうになるのを必死に抑えていると、そんな俺を見て貫井ぬくいは訝し気な目で、

「勘違いしないでちょうだい。あなたに騙されたことはまだ怒っているのよ。でもあなたは悪い人ではない……そんな、根拠のない気持ちを信じただけなのだから」

「もちろんそれでいいさ。ありがとう貫井ぬくい!」

 そう謝辞を伝えるも、貫井ぬくいは相も変わらず不機嫌そうな表情を浮かべていた。いったい何が気にくわないんだ? 貫井ぬくいは我慢ならないといった様子でぷるぷる震えていたが、急にだんっと地団駄を一つ踏むと、

「あなた! その格好で男性としてのふるまいをしないでちょうだい! なんだか調子が狂っうのよ!」

「あっ、そ、そういう……そいつぁ悪ぃ……じゃない。ごめんなさいね、玲菜れな

 言われてみれば確かに今の状況は、女性キャラクターに男性の声を当ててるぐらいの違和感があったのかもしれない。……うん、声音次第ではあるけどきついな。

「そもそも、なんで晴花はるか様の格好で来ているのよ。その必要はあったのかしら?」

「あー……それなんだけど、ちゃんとこの格好をしてた理由は伝えておこうと思ってね。もともとは、こうすれば女性の気持ちが理解できるんじゃないかって、中学に入学したころから始めてたんだ」

「じゃあ始めて結構長い事経つのね」

「本格的に始めたのは高校に入ってからだけどね。前にも少し話したけど、小学校の頃は女の子を避けててさ。でもあからさまに避けてちゃ嫌な思いさせるよね」

「は……晴花はるか様も、私と同じことを思ったのね」

「ええそうね。でも、私は玲菜れなとは違う選択を取った。上辺だけで関わろうって」

「どいうこと?」

「否定も肯定もしない。相手を理解することを諦めて、適当にあしらったって言い方が近いのかな。それのおかげで、私が女の子を避けてるとか、変な噂は立たなかった。でも、さぁ」

 話していると、当時の気持ちがよみがえるように息苦しくなる。溺れているわけでもないのに、足元さえ不安定に感じる。私はわざとらしく息を吐きだした。

「正直苦しかったんだ」

 私の様子を、胸をきゅっと押さえながら見つめる玲菜れな。かっこ悪い姿を見せたくない気持ちから、半ば無理やり笑顔を取り繕った。

「なんかさ、わからない問題が、わからないままどんどん先に進んでいってるみたいな。自分だけが授業に置いてかれてるみたいな焦りがさ。気づけばすごく大きくなってた。中学に入れば環境が変わってうまくいくかもなんて思ったけど、全然そんなことなくて。それで、縋りつくような思いで、これを始めたの」

「そうだったのね……」

「最初は相当ひどかったけどね。今の私の可愛さが百だとしたら三ぐらい。しかも秒で母親にバレたし。そのあと親にノリノリで化粧を教えられるなんて、想像もしてなかったし……」

「そ、そんなことがあったのね」

 本人曰く、私が化粧品に興味を持ったのが嬉しかったんだっけ。化粧品会社に勤めてるからってそんなものなのかな……。まぁどちらにしても、すんなり受け入れてくれたことには感謝しかないけど。

「とにかく、それで晴花はるかが生まれたってわけ。あの時はこれで女心が理解できたなんて夢見てたけど、今思えばおめでたいね」

「でも、それで救われたんでしょう?」

 真剣な眼差しで私に問いかける玲菜れな。彼女の言う通りだ。確かにあの時、那月なつき晴花はるかに救われた。たとえ一時の勘違いでも、それだけは間違いじゃない。

 私が玲菜れなに同意すると、今度は優しくクスりと微笑んだ。

「つまり、あなたも私も晴花はるか様に救われたってことなのね」

「変な話だけどね」

 私がそう言うと玲菜れなは破顔一笑。私もなんだか可笑しくなって、二人して笑い声をあげる。道行く人に変な目で見られても気にならなかった。ひとしきり笑うと、玲菜れなは大きく息を吐きだし呼吸を整えた。

「やっぱり晴花はるか様はすごいのね。改めて、ありがと晴花はるか様」

「お礼を言うのはまだ早いよ。これからなんだから。あ、それと実はなんだけど」

「どうしたの?」

「今日で晴花はるかとはお別れしようと思ってるの」

「えっ?」

「私のせいで玲菜れなを傷つけてしまったし……なにより、那月なつき自身が異性を理解をする必要はないんだって気づいたから、もう晴花はるかは要らないと思ってね」

「それは、そうかもしれないけれど……」

 晴花はるかとの別れは自分でも寂しいけど、玲菜れなにそんな顔をされると少し離れ難くなっちゃうな。

「って、今は私のことよりも、メイド喫茶に行かなくちゃでしょ」

「えっそんな急に……」

「急にって、そもそも行くつもりあったんでしょ? じゃなきゃ、あんなところにいるはずないし。さぼって終わりにしようと思ったけど、結局できなかったんでしょ」

「……もう、何でもお見通しなのね。理解されるのも、ちょっと気持ち悪いかもしれないわ」

「そんなこと言わないでよ……」

 肩を落とす私に玲菜れなは優しく笑いかける。……ん? 何か忘れているような。

「あっ、そうだった玲菜れな。これ、渡しておくわね」

 そう言って私は髪を留めていたシュシュを玲菜れなに改めて渡した。

「これ……。あの時は本当に」

「いいよ別に。私が悪かったんだし。ほら、それよりもまだやるべきことがあるでしょ」

「……ええ、そうね」

 玲菜れなは私の呼びかけに答えると、シュシュを左腕につけて駆け出した。

「ほら、早く行くわよ」

「もちろん。それより接客は大丈夫なの?」

「ええ、今ならなんだかいけそうな気がするわ。晴花はるか様も、私を信じてちょうだいね」

 そうしてメイド喫茶に向かう。そうだ。まだ終わりじゃない。これからメイド喫茶に戻って、玲菜れながしっかりと接客する姿を見届けなくちゃ。

 さっき走ったばかりだというのに、その足取りは軽やかだった。




「まさかこんなことになるとは……」

 そんな愚痴をこぼしつつ、私はお客さんの帰ったテーブルを拭き掃除していた。

 メイド喫茶に到着後、安斎あんざいさんにあれよあれよという間に手伝われる流れにされたのだ。もちろんメイド服姿で。台拭きとか雑用ならメイド服着る必要なくないですかね……。

「まぁまぁ晴花はるかさん、そんなこと言わないでくださいよ。とても似合っていますよ。今じゃなければ写真を撮ってるほどです」

「なんだか複雑な気分だね」

 いつもの超露出メイド服に身を包んだ安斎あんざいさん改めアキャリがニマニマと賛辞をくれるけど、なんだか素直に喜べない。まぁでも良しとしよう。そうなぜならば!

「でも、晴花はるかさんよりもお似合いな方がいらっしゃいますけどね」

「ええ全くもって同意だね」

 私たちは示し合わせたかのように、料理を運ぶメイドに視線を寄せた。

「ん? 二人ともどうしたの?」

 メイド服に身を包んだ瑞希みずきくん! いやー素晴らしい。瑞希みずきくんの前では私の戦闘力なんて五以下ね。

「ちょっと、ボクを見てニヤついて……趣味が悪いよ」

「ごめんなさい瑞希みずきくん。つい魔がさしてしまいまして」

「もぉアキャリさんは……。それに夜長よながさんまで」

「あ、ご、ごめんね瑞希みずきくん」

「……なんかそのにやにや顔、ボクの知ってる人によく似てるなぁ」

 私は真顔になった。うん、どんな時も油断はダメだよね。私はごほんとわざとらしく咳払い。

「それにしても、瑞希みずきくんは優しいね。人手が足りないからって手伝いに来るなんて」

「いやいや、そんなことないよ。ボクに役立てることがあるかわからなかったし。さすがにこんな風に役に立つとは思わなかったけどね……」

 瑞希みずきくんは自分のメイド服を見下ろし苦言。黒ストでベリーショートなスカートのメイド服に身を包んでいた。女装経験ゼロでよくそこまで踏み切ったね……と内心関心な私である。

「とても助かっていますよ瑞希みずきさん」

「なんか複雑だなぁ……。それにしても、那月なつきも来ればよかったのに」

「なっ、那月なつきはしょうがないよ用事みたいだったしさ! あはは……」

「そうですよ瑞希みずきくん。それに、彼ならきっと陰ながら見守っているに決まっています」

 やめてーアキャリさんこっち見ないでー。露骨に視線を逸らすと、アキャリは仕切りなおすようにパチンと手を打った。

「それよりも、そろそろレーナが出ますよ」

 彼女の視線をたどると、緊張の面持ちで立つレーナの姿が。すでに着替えやら準備は完了していけど、気持ちの準備中だった。でももう気持ちも整ったようで、その瞳に揺らめきはない。

「レーナさん……うまくいくといいね」

「そうですね……でも、きっと大丈夫ですよ。那月なつきさんと晴花はるかさんにたくさん力をもらったはずですから」

 私を一瞥しちろりと笑顔を見せる安斎あんざいさん。不意にくれた嬉しい言葉に思わず足がそわそわしてしまった。

「それでは私はレーナに指示をしてきますね」

 と言い残し、アキャリは軽い足取りでレーナのもとへ。こそこそとお仕事内容を伝えているようだ。しばらくするとレーナが一つ頷く。するとアキャリが私の方に向き直り、ちょいちょい手招き。

「どうしたの?」

「いえいえ、せっかくなので晴花はるかさんたちに背中を押してもらおうと思ったんですよ。それでは行きますよ瑞希みずきくん。あちらのご主人様がご指名でメラ割をご所望です」

「メラ割? なにそれ」

「私もお手伝いしますからご心配なく……ふふふ」

 め、メラ割だと!? ドンマイ瑞希みずきくん……生きて帰ってきてね。……それはそうと、私も後で瑞希みずきくん指名で注文しようかしら。ってそんなこと言ってる場合じゃないね。

 では、と営業スマイルを披露したのち、瑞希みずきくんを連れ立ってアキャリたちは奥へと消えていった。沈黙するレーナと二人。相変わらず緊張しているようだけど、いつものようながちがちな緊張ではなく、適度な柔らかさを持ったものだった。

「どうやら大丈夫そうだね」

 声をかけるも、返事はない。それほどまでに集中しているのかと思いきや、レーナはまっすぐ前を見つめたまま、

「……ありがとう」

 とお礼を述べた。なんのことか戸惑っていると、レーナはふっと緊張の面持ちを崩すと、左手首のシュシュにそっと触れた。

「少しだけ、世界の見え方が変わった気がするわ。全く知らない人を信じるというのは、私にはまだ難しい。でも、私を信じてくれたあなたを信じて頑張ってみせるわ」

「ええ、レーナならきっと大丈夫よ」

 私の言葉に彼女は殊勝な笑みを浮かべる。すると、店の戸が開く音が鳴り響いた。その音に一瞬肩をびくつかせるも、すぐに落ち着きを取り戻す。そして、レーナは決意を固めるように私のシュシュで髪をまとめた。

「それじゃあ行ってくるわね」

 よし、と気合を入れ直して金色のポニーテールを揺らし、レーナはご主人様のもとへと向かう。堂々としたその背中を見て、彼女ならもう大丈夫だって確信していた。


「お……おかえりなさいませ! ご主人様っ!」




「「「お疲れ様ぁっ!」」」

 イベント終了後、お店のメンバーで盛大にお祝いをしていた。中心に立つ安斎あんざいさんが、

「そして玲菜れなさん! まだぎこちなさはありますが、接客出来てました! おめでとうございます!」

 安斎あんざいさんのお祝いにみんなが拍手や賛辞を続けていく。慣れない環境に玲菜れなはどこか困惑したような苦笑い。ひとしきりその声が飛び交うと、やがて玲菜れなの言葉を待つような静寂が訪れた。あわあわと歯を震わせるも、玲菜れなは一歩前に出ると、

「えっとその……今まで迷惑をかけてごめんなさい。みんなのおかげで少しだけ、接客をすることが出来たわ。でも、これからは私もみんなと同じくらい、ご主人様の応対ができるよう精進していくから、見ていてちょうだい。……明理あかり先輩、私はここで働き続けても、いいのよね? クビはなかったことにしてもらえるのよね?」

「えっクビ? あーそういえばそんな話しましたね」

 ちょ、ちょっとなにそのうっかりしてた感? 重要な話のはずなのに、安斎あんざいさんに深刻さは微塵もない。

「ま、まさか安斎あんざいさん……」

「クビの話は嘘なんですよね」

「なっ、なんですってぇ!?」

「えーっと明理あかりさん、どういうことなの? 貫井ぬくいさんのクビの話は最初からなかったってこと?」

「その通りです瑞希みずきくん。玲菜れなさんが最近頑張っているようだったのでここはひとつ、試練を与えてみようかと。ちなみにこれはうちの従業員全員知ってます。私が箝口令を敷きました」

 とんでもないネタばらしにすっかり気の抜けてしまった玲菜れな。結果オーライだけどこれはまぁ……きついわね。まさか私だけじゃなく安斎あんざいさんも嘘ついてたなんてね。

 そんな玲菜れなに同情していると、ちょこちょこと安斎あんざいさんがやってきた。

「ふぅ……晴花はるかさん、那月なつきさん。今回は本当にありがとうございました」

玲菜れなを探したのは自分のためみたいなものだし、お礼を言われるようなことじゃないよ」

「いえいえ、私のお礼はそれだけではないですよ。私は正直、玲菜れなさんの男性克服は無理だと思って諦めていましたからね」

「そう……じゃあそのお礼はありがたく受け取っておくね」

「ぜひそうしてください。それに瑞希みずきくんも……あれ? 瑞希みずきくんはどちらに?」

「ボクならここだよ」

 二人できょろきょろあたりを見回していると、スタッフルームから出てくる瑞希みずきくんの姿。だが残念なことに、学制服姿に戻ってしまっていた。ジーザス。

「なんで二人とも残念そうにしてるの……」

 呆れたようにため息をつく瑞希みずきくん。先ほどの会話が聞こえていたのか、

「お礼なんていらないよ。役に立てたなら光栄だしさ」

「ええ、とても助かりましたよ。せっかくですし、この場を楽しんでいってください」

「そうさせてもらうね」

 嬉しそうにはしゃぐ瑞希みずきくんは、らんらんとケーキやらなにやらを漁りに行った。それじゃあ私はお暇しようかな……。

「スタッフルームに誰も入らないよう、見張っておきますよ」

 私の様子を察知したのか、安斎あんざいさんが気を利かせてくれた。私はお礼を言ってから、スタッフルームに入る。

「……むむぅ。メイクしっかりできなかったせいで、ちょっと崩れてきてるね」

 鏡とにらめっこして、今の自分に不満の声を上げる。今日で最後のつもりだし直したいけど……ここで那月なつきに戻ってしまおうか。

 そのままクレンジングオイルでメイクを落とし、持ってきていた那月なつきの服に着替える。

「よし、っと」

 って普通に着替えちゃったけど、急に俺が現れたらおかしくないか? ……いや、なんとかなるだろ。すぐに帰るし。

 なんか最近この辺の扱い雑になった気がするなーと思いつつも、今日で晴花はるかとはお別れなんだ。こんな悩みももうなくなる。

 ガチャリとドアを開けスタッフルームから出ると、すぐそばに貫井ぬくいが立っていた。俺の姿を驚いたように見つめて、

「あら、戻ってしまったのね」

「ま、まぁ……メイクも少し崩れてたしな。やるなら完璧な姿でありたい」

 俺のプロフェッショナルな心意気だったのだが、貫井ぬくいはなによそれと吐き捨てるように失笑した。相変わらず手厳しいな……。

「で、何か用か?」

「最後にお礼をって思ってたのよ。ただ遅かったみたいだけれどね」

「そりゃ悪かった。でもきっと伝わってるさ」

「そうね……」

 少しばかり寂しそうな貫井ぬくいの姿に、俺も漠然と空虚な気持ちになった。用事は済んだかと踵を返すと、

「ちょっと、まだ終わってないわよ」

 貫井ぬくいに袖を引かれ留まった。急な貫井ぬくいの積極的な行動に驚いてしまう。

「どうしたんだよ」

 どこかバツの悪くなった俺は、少し不機嫌そうに返事をするも反応がない。貫井ぬくいはもじもじと身をよじるばかりだった。しばらくしてやっと準備が整ったのか、震える唇を開いた。

「その……那月なつき先輩も、ありがとう」

「……おっ、おう。気にすんなよ」

 なんだこれ!? 急激に気恥ずかしくなってきたぞ!? 初めて名前を呼ばれ、熱を帯びる頬。いやいやこの程度で俺はどうした!? 貫井ぬくいを見てみろ! いたって冷静……。

「……っ!」

 と、思いきや、貫井ぬくいも頬を染め、吐息はどこか熱を帯びていた。いや、そんな、まさか……。そう勘違いしかけていると、

「えっ!?」

 ホールの方から安斎あんざいさんの驚く声が聞こえた。いったいどうしたのかと思っていると、

「「えっ!?」」

 今度は貫井ぬくいと俺の番だった。ホールの方からこちらにやってくる人影。それはあり得ないはずの人物だった。

玲菜れなお疲れ様。ついでに那月なつきもね」

 夜長よなが晴花はるかがそこにいたのだ。しかもついこの間、貫井ぬくいと出かけたときに、俺が凛星りんせに買わせた服を身にまとっている。どういうこと!? と貫井ぬくいが俺に視線を向けるも、当の本人ですら意味が分からない。頭真っ白でパニくっていると、晴花はるか(?)は俺のカバンに目を移し、

「あー那月なつきもしかしてまた私の格好してたの? 本当に飽きないんだから」

 俺に近づきべしべしと肩を叩く晴花はるか(?)だが、ここで俺はようやく彼女の正体に思い当たった。いやそもそも落ち着いて考えれば一人しかいない。だけどいったいどういうつもりなんだ? 逡巡していると、晴花はるか玲菜れなに視線を移した。

「ごめんね玲菜れな。ちょっとややこしくなっちゃって」

「えっと、まず何がややこしくなったのかすらわからないのだけれど……」

 那月なつき晴花はるかは同一人物である、という前提が覆ったのだ。今何が問題なのかすらよくわからないだろう。というか俺もわからん。とりあえず晴花はるかの出方を待つしかない。

「えーっとね、玲菜れなに出会った時と凛星りんせと一緒に初めてここに来たのは本当に私。で、それ以降が大体那月なつきだったんだよ」

「うん……うん?」

「ほら玲菜れなって私のこと結構尊敬してくれたじゃない? だから那月なつきがどうしても私の力も借りたいって言うんだけど、私ここのところ忙しかったからさぁ。そ・こ・で。割と私に似てる那月なつきが、私の振りをしていいかって提案してきたんだよねぇ」

 晴花はるかの言うことを懸命に理解しようと頭をひねる貫井ぬくい。まぁ俺も今懸命に頭をフル回転させているところなんですけどね。

 ……つーか晴花はるかって、ここまでフランクというかギャルっぽくないんですけど。

「で、協力したかった私もそれなら……と思って許可したんだよね。でも、知らない間にばれちゃってるしなぜか私亡き者にされようとしてるし……那月なつきの暴走には困っちゃうよ」

「あー……いや、うんうん、晴花はるかの言う通りだよな。ごめんな変な暴走して」

 なんとなく晴花はるかの思惑が見えてきた俺は、恐る恐る晴花はるかの話に乗っかる。正直泥船に乗ったような感じで、あんまり生きた心地がしないな。

「えーっとつまり……どういうことなのよ?」

「だからまー確かに那月なつき玲菜れなのこと騙したけど、私も加担してたから那月なつきと同罪みたいなとこあんじゃん? つまり私が言いたいのは、私たちを許してくれーって感じ?」

 だから晴花はるかはこんな感じじゃなかっただろって! 一番近くで見てたはずだろ!? 貫井ぬくいからもなんか言ってやってくれ! と言いたいところだが当の本人はまだ迷走中のようだった。

「許す許さないはもういいのよ。そこはすでに解決してるから。じゃ、じゃあちゃんとこの世に那月なつき先輩もいて、晴花はるか様もいる、ということでいいのかしら?」

「そーそー。私って神出鬼没だからさ。今日もそこの誤解だけは晴らしたかったから来たんだよね。あと玲菜れなへの謝罪。というわけで用も済んだし、私はこれでお暇するね。またどっかであったらシクヨロ。んで、那月なつきもそろそろ帰んの?」

「あ、ああ、帰る帰る。貫井ぬくい、色々混乱させてスマン。また学校でな」

「えっ? ええ……あっ! ちょっと待ちなさい!」

 店を出ようと歩き出したところで、貫井ぬくいに止められた。晴花はるかと二人振り返ると、貫井ぬくいはぎゅっとスカートをつかみ、

「ふっ、二人とも、本当にありがとうございました!」

 きちっと頭を下げて丁寧なお礼、そして顔を上げると今度は裾を軽くつまんで膝でお辞儀。

「ま、またいらっしゃってください。ご主人様お嬢様」

 幾分かマシになった営業スマイルで見送ってくれた。




「で、どういうつもりなんだよ。凛星りんせ

 帰り道、メイド喫茶が見えなくなるや、俺は偽晴花はるかである凛星りんせを問いただした。すると凛星りんせは跳ねるように歩きながら、

「べっつに~、深い意味はないよ。ただ何となく、このままお姉がいなくなるのはやだなぁって思っただけ」

「なんだそりゃ……」

「兄ぃはさ、お姉のこともう必要ないって思ってるみたいだけど、アタシはそうは思わないんだよね」

 どういうことだよと視線で先を促すと、凛星りんせはんーっと伸びをした。

「というか必要かどうかみたいな考え方が、どうかと思うっていうかさぁ。お姉だってもう一人の人間として存在しちゃってるんだし、いなくなる必要なんてなくない?」

「まぁ、そりゃそうかもしれんが……」

「それに玲菜れなにとってもさぁ、憧れの存在はちゃんと生き続けていた方が、いいと思わない?」

 確かに憧れの存在が与える力は絶大みたいだし、そのほうがいいのかもしれない。ただ凛星りんせだから裏がありそうなんだよな……。

「とかなんとか言いつつ、俺にメイクをやらせるために続けさせたいだけじゃないよな? 俺のメイク技術が落ちるのが嫌なだけみたいな」

「あっはは、や、やだなー兄ぃは変なこと言っちゃって」

 ド下手くそな笑いで誤魔化すと、歩調を速めて俺から距離を取ってしまう。

「図星かよ……いや、まぁでもありがとうな」

「そうそう、兄ぃはそうやって何も考えずアタシに感謝していればいいんだよ」

「なんだそりゃ。全くとんでもねぇ妹だよな。ほんとに」

「兄ぃも大概だと思うけどね」

 なんて。しょうもないやり取りに、二人してクスクスと笑い合う。

 にしても貫井ぬくい……この短期間にあそこまで成長できるなんてな。俺が必要なくなっちまうのは、案外遠くないのかもしれないな。どこか寂しさを感じた俺がため息をつくと、生ぬるい夜風がそれをさらい、夜闇に消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る