第二章 みんなで玲菜の克服作戦。

 貫井ぬくいとの協力関係を結んだ翌日。俺は貫井ぬくいにぶっ叩かれた頬をさすりながら、次の授業のために科学室へと向かっていた。

 はぁ……あいつの裁縫スキルは本当にどうなってやがるんだ? 今度からは気をつけよう。昨日は被服室だったから良かったものの、場所によってはあんなん大事故だもんな。

 同じクラスの女子連中が楽しそうに前を歩く。後ろにもどうやら男子の群れがあるらしい、下品な笑い声が聞こえていた。ちなみに、一緒に行こうと瑞希みずきを誘ったのだが、先に行っててと断られた俺は一人で教室移動だ。

 窓から差す熱を持った光から顔を背けつつ、特殊教室棟への渡り廊下に差し掛かったところで、誰かと話す貫井ぬくいを発見した。彼女の方も俺の存在に気づいたのか、ぷいっとそっぽを向いた。いやなんでやねん。

 俺がそそくさ通り過ぎようとしたところで、なんか滅茶苦茶小さい声で呼ばれた気がして振り返ると貫井ぬくいがこちらを見ていた。

「……呼んだ?」

「よ、呼んだに決まってるでしょ。ちゃんと反応しなさいよ……」

 いや今のは聞こえないって……。一応、男である俺を呼び止めようという心意気はすごい……のか? いや今はそれよりも用事の確認だ。

「んで、何の用だ……って、あの、どうしたんです?」

 貫井ぬくいの隣にいた女の子に穴が開くほど見つめられていた。えなに? すげー寝癖でもついてますかね?

 流石に無視できんな……と我慢に耐え兼ねた俺は、先にそっちを片付けることに。俺に話しかけられてわぉ、とかわざとらしい様子で驚いて見せると、その女の子は明度の高い赤色の前髪を耳にかけ、

「君がもしかして、最近玲菜れなが話している朝凪あさなぎ那月なつきさんですか?」

「そうですが……?」

 リボンの色……俺とタメか。でも知らないなこんな女の子。他のクラスか? ただどっかで見た記憶が……。

 相変わらず俺を物珍しそうに見る彼女に対抗するわけではないが、俺もじっくりと観察。ショートヘアーで大人びた顔……ただ身長は高くなく、俺よりも頭一つ分小さい。どこで会ったんだ……?

「やん、そんなに熱い視線を注がれては困りますよ」

「あっああ悪い……あっ!?」

「どどどうしたのよ急に大声出して」

「驚かせて悪い……」

 貫井ぬくいに謝りつつも、驚かずにはいられない。そうだ思い出した。この女の子は、貫井ぬくいのいたメイド喫茶で働いていた子だ。あの露出の激しいメイド服を着ていた女の子!

 つまり、彼女が俺のことをまじまじと見つめているわけは……。

「ん~那月なつきさん、私とどこかで会いました?」

 やっぱりぃぃぃ!? まずい、下手なことを言えば即死する!

「キ、気のせいだと思います……。それよりあなたのお名前はなんなのでしょう?」

 誤魔化すように別の話題へ。とにかくこの話を続けるのは避けなくては。あらあら~と彼女はおっとりとした様子で口元に手を当てると、

「私としたことがご紹介が遅れましたね。私は安斎あんざい明理あかりと申します。よろしくです」

 これまた余裕のある所作でぺこりと頭を下げる安斎あんざい明理あかりと名乗る女の子。んっ? いや待て待て。明理あかりってつい最近どっかで聞いた気が……。

 俺が頭を悩ませていることに気が付いたのか、貫井ぬくいはため息をつきながら首を横に振り、

「前に言ったでしょう? 私の先輩で裁縫部の部長、明理あかり先輩よ」

 ま、マジか……。こんな形で裁縫部の部長と出くわすとは……。俺は軽い頭痛を感じ、思わず頭を抑えた。

「えーっと……そうだったんすね……よろしくでーす……」

 とりあえず女装のことがばれませんように……。すっかり意気消沈した俺を安斎あんざいは笑いつつ、

「ごめんなさい玲菜れなさん。彼に用事があったんですよね」

「い、いえお気になさらず。ちょっと、何頭を抱えているのよ」

「あ? ああすまんな……。それで、何の用事なんだ?」

「この前の話に決まってるでしょ。四階に空き教室があるのは知ってるわね? 放課後そこに来てちょうだい。詳しい話はまたそこでするわ」

「はいよ了解。部活はいいのか?」

「本日裁縫部の活動はありません。安心して玲菜れなさんとお付き合いください」

 指を立てふふんと安斎あんざい。なぜ得意げなんだ?

「つーか用事が済んだならもう行っていいか」

「え、ええ。もういいわよ。さっさと行きなさい」

「引き留めちゃってごめんなさいね那月なつきさん」

 用事が済んだのを確認し、二人に見送られ俺は再度科学室へと向かう。貫井ぬくいの方は見送りといより、厄介払いされた雰囲気だな。

「すみません那月なつきさん」

 渡り廊下の終わり頃、床を鳴らし駆け寄る足音とともに俺を呼ぶ声。振り返ると、控えめに手を振る安斎あんざいの姿が。

「いったい何の用だ?」

 近くに貫井ぬくいの姿はなく、安斎あんざいだけのようだ。さっき知り合ったばかりの人間がなぜ……と頭をひねっていると、安斎あんざいはなぜかクスりと笑みを浮かべた。

「一つお尋ねしたいのですが……夜長よなが晴花はるかという女性をご存じありませんか?」

「っ!? ……知ってはいるが、それがどうした?」

「いえいえ。それが確認したかっただけですから、お気になさらず。それではまた」

 おほほとどこか楽しげに笑う安斎あんざいは、これまた控えめに手を振り踵を返して去っていった。

「読めぬ女だ……」

 私は気づいていますよというアピールなのかそれとも……。今後、安斎あんざいには気をつけねば。




「ボクの知らない間にそんなことになってたんだね」

 俺の話を楽しそうに聞く瑞希みずき。本日の科学は宇宙の誕生をビデオで見るというものだった。ただ大半の生徒が興味なしなのか、そこかしこでひそひそ声が聞こえていた。それでいいのか受験生予備軍。いや俺もなんだが。

「ま、そんなこんなで貫井ぬくいの協力をすることになったんだよ。早速放課後に呼ばれたしな」

貫井ぬくいさんは男の子のことが嫌いなんじゃなかったんだね。でも、どっちにしても今まで大変だったんだろうなぁ……」

 自分のことのようにしゅんと物憂げな表情を浮かべる瑞希みずき。やーん睫毛なっがーい肌白ーい超可愛いー。薄幸の美少女って瑞希みずきのためにある言葉じゃないのこれ。

「でもわざわざ付き合ってあげるなんて、那月なつきはやっぱり優しいね」

「えっ? あー……別に、たまたまそういう流れになっちまっただけだよ」

 俺がふざけたことを考えていたとはつゆ知らず、瑞希みずきはわくわく全開な眼差しを向けて前のめりになっていた。

「流れ?」

「ぶっちゃけ最初に提案されたときは断ったしな」

「じゃあいったい何で?」

「なんつーかまぁ……ものすごく諭されたというか熱意に圧されたというか……そんな感じ」

 本当はまだ自分でもよくわかってないとは言えないな……。どのみちあんまり深入りすると俺の女装の話とかも入ってくるからできないが。

「そっか。それでもやっぱり那月なつきは優しいね」

「……そんなことねぇよ」

 瑞希みずきとは気の置けない仲であるつもりだが、そんな彼にこうも褒められると心の置き所に迷ってしまう。俺は映像に集中するふりをして頬杖をつき前を向く。すると瑞希みずきも俺の真似をするかのように頬杖をついた。瑞希みずきの長い髪がはらりと流れ、蜜のような甘い匂いが広がった気がする。えっ? 男からこんな匂いって出るもん? つまりやはりやっぱり瑞希みずきは……。

那月なつきはさ」

 唐突に名前を呼ばれて思わず頬杖から頭を落とした。そんな俺の姿に瑞希みずきはクスりと微笑むと、流し目で俺を見つめる。

「何か困っていることはないの?」

 囁くように問う。その囁きにどこかくすぐったくなったような気がして、左手首で首をかきながら瑞希みずきに向き直る。

「急にどうしたんだよ」

「どうもしてないよ。ただ那月なつきは、そういう悩みとか相談とか、ないのかなって思っただけ。那月なつきのそういう話、全然聞かないしさ」

 頬杖を崩し、さらに机に突っ伏した瑞希みずきは、俺を上目遣いに見つめる。あまりの色っぽさに戸惑ってしまう。

「別にないって。本当に急にどうしたんだよ」

「ボクじゃ頼りないってこと?」

 腕の中から見上げる瑞希みずきの濡れた瞳に射抜かれ、俺は慌てて、

「あー勘違いしないでくれ。瑞希みずきに頼りたくないって訳じゃない。必要があれば、ちゃんと頼るさ」

 俺の弁明を聞き、瑞希みずきは安心したのかふっと目を細めると、

「そっか。それならよし」

 そう言うとすっぽり腕の中に顔を埋めてしまった。いや可愛すぎ俺の人生のメインヒロインかよ。




「それで、どうするんだ?」

 貫井ぬくいに呼び出されていた俺は放課後になるとまっすぐ空き教室に向かっていた。四階は主に一年生の教室が並ぶエリアなので、ここに来るまでに一年生たちの視線が刺さりまくりだったぜ……。気にしすぎってもんだろうけど。

 今年は新入生が少なかったらしく、この空き教室は必要なくなってしまった一室らしい。全ての机が後ろへと追いやられ、分厚い雲の向こうから射す微かな日差しに照らされたこの教室は、どこか寂しさのようなものが満ちていた。

「ど、どうするって……あなた何も考えていないの?」

 机に乗せられた椅子を下ろしどっかり腰掛ける俺に対し、だいぶ離れた場所で防御するように腕を組む貫井ぬくい。こりゃ道のりは遠そうだな。

「いやそれ俺の仕事なのかよ」

「ああ当たり前じゃない。認めたくないけど、あなたの方が先輩なんだから、私にそれぐらい施すのは当然でしょ」

「どんな理屈じゃ。はぁ……ったく、じゃあまずは貫井ぬくいのことを教えてくれ」

「えっ口説くつもり? 私そんなに安い女じゃないわよ?」

「なんでそうなる……。そもそも安くないどころか店頭に並んですらねぇだろ。そうじゃなくて、貫井ぬくいがどれくらい男が苦手なのかってこと。普段どうしてんだ? 学校生活とかバイトとか」

「んっ……そういうことね」

 流石に立ちっぱなしじゃきついと思い、俺はもう一つ椅子を下ろして貫井ぬくいの方に滑ら……なかった。途中で思いっきり倒れた。これじゃただ押し出した感じだ。

 一応俺の意図は察してくれたのか、貫井ぬくいはツイっとそっぽ向いたまま、倒れた椅子を起こして腰を掛けた。

「授業の時ってどうしてんだ? こんなに距離取って出来るもんじゃないだろ?」

 現在の俺と貫井ぬくいの距離、およそ三歩分ってところだろうか。この調子じゃまともに授業受けられなさそうだが。

「それは一応大丈夫よ。私もうまく説明できないけれど……私に意識が向いていなければそこまで気にならないの。あと教室には女の子もいるし。だから今のこの状況とかの方が苦手ね」

「なるほど大人数で同じ空間にいるのは問題ないって事か。だからバイトも客と一対一にならない限り問題なし、と。ちなみに身近な男性はどうなんだ? 父親とか」

「流石にお父様は怖くないわよ。でも、言われてみればお父様以外の男性と深く接した記憶はないわね」

「マジか……結構重症だな。となると基本的にやっていくべきことは、男と一対一の状況に慣れるってところか?」

「そうね、まずはそこから始めるべきかもしれないわね」

 なんとなく方針が決まったところで、がらりと教室の扉が開けられた。唐突な来客に目を向けると、

「やっほーれっち。ついでに兄貴。てゆーか遠っ!?」

 教室に足を踏み入れるなり俺と貫井ぬくいの距離に驚愕する凛星りんせ。だが驚いたのは俺もだった。

凛星りんせ、もしかして貫井ぬくいの克服手伝いに来たのか?」

「当たり前っしょー? そもそも提案者アタシなんですけど」

「まぁそうなんだが……てっきりめんどいから帰りまーすって感じで帰ったかと」

「兄貴アタシを何だと思ってるわけ?」

「でも凛星りんせ、私がここに誘った時すごく嫌そうな顔してたわよね?」

「……。それで、今はどんな感じ?」

 虚無、からの流れるような話題転換。こいつぁ大物ですな。我が妹に感服していると、扉の前にもう一人いることに気が付いた。

「えっと……ボクも入っていいのかな?」

瑞希みずき!? いったいどうしてここに」

 長い髪をなびかせ、教室に頭をのぞかせたのは瑞希みずきだった。今の状況に困惑しているのか若干の愛想笑い。可愛い。

「あーそうそう、必要かなーと思って声かけてみたんよ。みーくんも協力したそうだったし。必要だった?」

「ナイス!」

 ぐぐいとサムズアップ。ナイスすぎるだろ凛星りんせ! 貫井ぬくいの克服とか関係なしに、いてくれるだけで俺のテンションが上がるぜ!

 ……とおふざけはさておき、実際のところ気になるのは貫井ぬくいの反応だ。瑞希みずきは正直、はた目から見て一発で男だと見抜けないほど男の娘だ。そもそもしっかり確認してないから、俺でさえ男だと信じていない。果たして貫井ぬくいの目にはどう映るか……。

瑞希みずき、全然入っていいぞ。あーその代わりゆっくりな」

 わかったよ、と瑞希みずきが教室に足を一歩踏み入れると、貫井ぬくいも一歩下がった。おやおやこれは……。瑞希みずきがもう一歩進むと貫井ぬくいはさらに一歩下がった。マジか。

「み、瑞希みずき、いったんストップ」

「? うん、わかった」

 上げ始めていた片足を下ろして瑞希みずきは停止。そして俺は凛星りんせをちょいちょいと呼びつけた。そしてお互いに声のトーンを落とす。

凛星りんせ貫井ぬくい瑞希みずきの性別知ってるのか?」

「うんん、知らせてないし知らないと思う。だからアタシもびっくりしちゃった」

「じゃあ貫井ぬくい瑞希みずきが男だって看破したのか? いまだに男子生徒の間でも本当に男なのか疑われているんだぞ?」

「何で男子限定にしてんの。アタシだって思ってるし全員そう思ってるに決まってるでしょ」

「そうだよな……ってそれはさておき。じゃあ何で晴花はるかは気づかれなかったんだ?」

「アタシにだってわかんない。今のみーくんとお姉の違いなんて、服装くらいしかなさそうだし……」

 確かに今の瑞希みずきはズボンをはいている。そして晴花はるかの時はスカートだ。晴花はるかの可愛さは瑞希みずきに遠く及ばないし、今のところ判定材料は服装しか考えられない。

「二人ともどうしたの?」

「なんでもないよみーくん。兄貴がアタシの下着の色聞いてきただけ」

「聞いてねーわ。そもそも聞かずともわかるわ」

「えっ……」

 あのー貫井ぬくいさん? そんな汚物を見る目で見ないで? これ兄妹であれば割とあるあるだからね? ……あるあるだよね、ね?

「と、とりあえず、ボクはなるべく端にいればいいのかな?」

 貫井ぬくいの反応から自分への態度を察したのか、瑞希みずきが自ら提案してきた。申し訳なさそうにしている貫井ぬくいを一瞥しつつ、俺が代わりに答えておいた。そして貫井ぬくい瑞希みずきにそれぞれの素性を紹介し終えると、凛星りんせが声を上げた。

「で? さっきまでは何してたの?」

「男の意識が自分に向いている状態が嫌らしいから、まずは一対一の状態に慣れてみるかって話してたとこだ」

「あーそいえばれっち、前にそんなこと言ってたね」

「確かに凛星りんせには言ったことあったわね。とはいえ、どうしたらいいのかしらね。今後もこの人と一緒にここで過ごして慣れるしかないかしら」

「この人て。まぁ確かに出来そうな事ってそれくらいしかないよな」

「あれっ? じゃあボク達ってもしかして邪魔だった?」

「そんなことはない! 瑞希みずきが邪魔だなんてあり得ない」

「きゅ、急に積極的になったわね……」

 今日は大体貫井ぬくいに引かれている気がするな……。既に離れている距離が、さらに遠く感じるぜ。全員が離れた位置でわざわざ大きな声で喋るという特殊状況の中、凛星りんせは広げるように組んだ足をポリポかきながらとんでもない提案をぶち込んできた。

「てゆーかさー、もうれっちが兄貴と付き合っちゃえばいいじゃん」

「「はぁ!?」」

 驚くことに貫井ぬくいとリアクションが一致した。いや我が妹ながら何言ってんのか意味わからん。貫井ぬくいは勢い余ってそのまま立ち上がる。

「ちょ、何でそうなるのよ!?」

「いやだってほら、外国語をマスターしたいならその国の人と付き合うのが手っ取り早いって言うし、それとおんなじで男が苦手なら思い切って付き合っちゃえばいいじゃん的な?」

「それにしてもなんでこんな男と!」

 否定しにくいけど普通に傷つくぞそれ。というか仮にもあなたのお友達の兄ですからね? 貫井ぬくいもその事実に気づいたのか、申し訳なさそうにきゅっと手を握りシュンとしてしまった。もちろん凛星りんせの方は気にする様子もなく、むしろケタケタ笑ってる。許せん。

「……でも、意外とありかもよ?」

 と、ここで急に口を開くは瑞希みずき貫井ぬくいはその意図するところを聞こうとするも、やはり男が相手だからかそのまま口をつぐんでしまった。

「どういうことなんだ瑞希みずき?」

「ああその、凛星りんせちゃんみたいに付き合うまではいかなくとも、一緒にいる時間は長いほうがいいと思うし、ここでだけじゃなくて普段から一緒に行動してみるのは、ありなんじゃないかなって」

「なるほどな……貫井ぬくいはどう思うんだ?」

 俺が聞くと、貫井ぬくいはなぜか悔しそうに歯噛みしてツイっとそっぽを向いてしまう。

「……一理あるわね」

 貫井ぬくいの答えにやったっと小さくガッツポーズを決める瑞希みずきに眼福していると、その勢いのまま瑞希みずきがさらに提案してきた。

「あっ、じゃあじゃあ、貫井ぬくいさんが那月なつきの家にお泊りするのはどう?」

「「ぶふぅっ!」」

 またもや貫井ぬくいと一致した。みんななんでそんなにぶっこんでくるんだよ。

「そっ……そんなのお断りよ!」

 わいきゃい騒ぎつつも、なんとなくな克服計画を立ててその日は解散した。




 貫井ぬくいの男性克服作戦開始から翌日。俺は那月なつきとして初めて、メイド喫茶『ライトブライト』に来ていた。一応、なるべく一緒に行動してみるという意見は採用されたため、貫井ぬくいの放課後バイトについてきたのだ。

 ちなみに。道中では一切会話がなかったし、相変わらず三歩ほど距離を取られた。

「そ、それじゃあ、あなたは普通に正面から入店しなさい。私は裏口から入って、着替えとか準備があるから」

「わかったよ」

 どこか緊張した様子の貫井ぬくいを見送ってから正面口へ。俺がカランコローンと扉を開けると、メイドさんに出迎えられた。

「おかえりなさいませご主人様ぁ~。ラブラへようこそぉ~」

 ら、ラブラ? あっ、お店の名前そう略すのか……。

 どうでもいい知識を身に着けつつ、俺は通された席に着席した。そしてただの水(注文して頼むほうは三百円。メイド産のお水らしい。どこだそれ)をちびちび飲んでいると、背後から固い声で呼ばれた。

「ちゃ、ちゃんと待っていたようね」

「そりゃ待つだろ……」

 振り返るとメイド服に身を包んだ貫井ぬくいの姿。しかし本当によく似合ってんな。ほかのメイドさんも美人ぞろいだが、その中でもやはり貫井ぬくいは群を抜いていた。というか安斎あんざいはいないのな。ほっとしたわ。

「ちょっと……なにジロジロ見てるのよ」

 俺の不躾な視線が気にくわなかったのか、貫井ぬくいがジト目で睨んできた。場を和ませようと思った俺は、貫井ぬくいについて一言申し上げることに。

「メイド服すごく似合ってるな。このお店で一番素敵だと思う」

「面白くない冗談ね」

 なんでだよ。晴花はるかの時に褒めたら嬉しそうだったじゃねぇかよ。どうやら照れ隠しってわけじゃなさそうだ。俺はため息一つ、そして貫井ぬくいに提案した。

「せっかくだし、貫井ぬくいが接客してるところ見せてくれよ」

「えっ、ほ、本気? あなた本気で言ってるの?」

「本気に決まってるだろ」

「で、でもその……。まず、ご主人様と会話するのも困難なのよ?」

「えそんなレベル? 嘘だろ?」

 信じられないものを見たようなテンションの俺に、貫井ぬくいはスカートをキュッと握ってそっぽを向いてしまう。ま、マジか本当なのか……。

「でも、そこのところ大事な情報だし、一応チャレンジしてみて欲しいんだが……」

「そ、そうしたいけど……うー……」

 わかりやすく狼狽える貫井ぬくいを見ていると、罪悪感めいた物が芽生えてくる。思わずじゃあいいやとか言いそうになるのを抑えた。しきりに手の甲を撫でる彼女に何かエールを送れないかと悩んでいると、貫井ぬくいのあるものに目が留まった。

「あー貫井ぬくい。きっと晴花はるかも応援してるから。頑張ってくれよ」

 俺がそう声をかけると、貫井ぬくい晴花はるかのシュシュにそっと触れた。そして気持ちを落ち着けるように膨らみかけの胸を手のひらでトントン叩く。

「そうね。晴花はるか様も応援するって言ってくれたんだもの。頑張らなくっちゃいけないわよね」

「その意気だ。それじゃあ頼むぜ」

「ええ、見てなさい」

 そのセリフは出来る奴のセリフなのでは……。まぁ本人がやる気なら何も言うまい。

 堂々たる足取りで新規のご主人様を待つ貫井ぬくい。すると早速やってきたようだ。

「おっ、おきゃぷっ! まふぇごしゅしゅんしゃま!」

 ……。

 静まり返る店内。ま、マジかこれ……。あ、あの貫井ぬくいさーん? なんかもう泣きそうだし、帰ってきていいよ? ご主人様もきょとーんとしてるし。

 だがしかし、とんでもない重傷を負ったというのに、貫井ぬくいはまだ戦うつもりらしい。晴花はるかのシュシュをぎゅっと握りしめていた。

 ご主人様が入店しようと一歩踏み出すとビクッ! と貫井ぬくいは一歩下がる。

「そ、それ以上近づかないでっ!」

 どんな接客だよ!?

「あああしょこの空いてる席に勝手に座りなさい!」

 どこにそんなメイドがおるんじゃ!? ダメだこれ思った以上に壊滅的だ見てるほうも辛いなんだこれ!

 おいおいこれご主人様相当ご立腹なのでは……ってめっちゃ興奮してる!? いつの間にか冷静そうだった男性は頬を染め鼻息荒くしていた。そ、そういうお方なのか……。

 ご主人様が席に座ると、貫井ぬくいは離れた位置からメニューをポーンと投げた。

「さ、選びなさい。それじゃ」

 任務完了とばかりにすたすたと俺の方へと戻ってくる貫井ぬくい。背を向けた彼女には見えていないが、すぐさまほかのメイドさんがフォローしに行っていた。

「ど、どうかしら?」

「ゼロ点」

 筆舌に尽くしがたい愛想笑いを浮かべる貫井ぬくいをバッサリ切ると、彼女はそのまま机に伏せてしまった。そして息をするのを忘れていたかのように肩を上下させながら落ち込む。

「う……うう……やっぱり全然ダメなのね。ご主人様は喜んでいるように見えたのだけど」

「あれは参考にしちゃアカン。特殊な訓練を受けている方のようだからな。とにかく、どんだけ苦手なのかはなんとなくわかったよ」

 分かっちゃいたが相当重症なようだ。よくこんなんで雇ってもらえたな。なにかこのお店にコネでもあるのか?

「まーその、なんだ。一応会話は出来てたしよかったじゃんか」

 慰めを口にするも、しっとりと汗をかいた彼女は机に伏せたまま首を振った。

「……めよ」

 息も整わぬうちに貫井ぬくいがぽしょりと何かを呟く。聞き取れる位置まで近づきたいが、これ以上近づくのはまずい。どうしたものかと迷っていると貫井ぬくいは顔を上げ、先ほどよりも大きな声で呟いた。

「こんなんじゃ、ダメよ……」

 晴花はるかのシュシュを腕ごと握り、ぎゅっと目を閉じる貫井ぬくい。何て声をかけるべきだ?

「あー、別にそんなに焦らなくてもいいだろ?」

 迷いつつそんな言葉をかけるも、貫井ぬくいはかぶりを振って否定した。

「焦りもするわよ。私が苦手なばかりに、あなたにもあのご主人様にも、ラブラのみんなにも迷惑をかけているのだから」

「まぁ俺は構わんが、みんなに迷惑をかけるのはよくないな」

「そうよ、だから……はぁ。やっぱりやるしかないの……?」

「や、やるって何を?」

 聞き返したものの、俺はなんとなく答えを察してしまっていた。

「もちろん、あなたの家へのお泊りよ」




 正直採用されると思わなかったお泊りに、さっそく実行の兆しが現れるとは……。焦るなだなんだたしなめたものの、全く止まる気配がなかった。とはいえ流石に家となると親の許可が必要だ。というわけでこの話はとりあえずは終わったのだ。

 そして肩を落とす俺が向かっているのは被服室。今日は貫井ぬくいが部活らしいので、見学させてもらうことになったのだ。久しぶりに快晴な日差しを窓越しに浴びつつ、特殊教室棟を進んでいく。

 やがて被服室の前につくと俺はドアに手をかけ、貫井ぬくいがすでに来ていることを祈ってから開け放った。

「こんにちは那月なつきさん。裁縫部へようこそです」

 あっちゃー安斎あんざいと二人きりか……。部屋の奥でちくちくと何かの衣装を縫っている安斎あんざいがにこにこと出迎えた。

「ちょっと那月なつきさん。そんなにがっかりされたら、私も落ち込んでしまいますよ」

「あ、ああ悪い……いやでもほら、俺らって接点ゼロじゃんか。見知らぬ人と二人きりは気が重いだろ?」

「そうですか? 私はそうは思いませんね」

 あっけらかんとした安斎あんざいに、椅子に座るように促され、俺は近くの椅子に腰かけた。

「見知らぬ人は見知らぬ人というだけじゃないですか。何も気まずい事はないと思いますよ」

「いや間違っちゃいないと思うが……。それで、貫井ぬくいは?」

玲菜れなさんには買い出しを頼んでいるんです。もうしばらくかかると思いますよ」

 ……このタイミングで買い出し頼むか普通? なにか裏があるんじゃないか? そもそも安斎あんざい晴花はるかを知っている人物だ。油断はできない。

 お互い出方を窺うような沈黙が流れたのち、俺は先に口火を切った。

「そういえばこの部活って、貫井ぬくい安斎あんざい以外に誰かいるのか?」

「それが二人だけなんですよね。だから実際は部活ではなく、同好会なんですよ」

「へぇ、そうだったんか。ちなみにそれは何を縫ってんだ? 何かの衣装みたいだが」

 すると安斎あんざいはよくぞ聞いてくれました、とばかりに得意気に腕を組んだ。

「うちに演劇部があるのはご存知ですね? 実はそこで使われる衣装は、私が……私たちが作っているんですよ」

 ……今貫井ぬくいが戦力外通告されてなかったか? 俺の気のせいか? それはさておき、俺は立ち上がって周りに置いてある制作中の服に目を移す。その出来はどれも上等で、自分も裁縫の心得はあるつもりだが、これには到底追いつけそうにない。

「こりゃすげぇな……」

「あらあら、そう言ってもらえるのは嬉しいですね」

 どこか芝居がかったように見える彼女だが、今のは本音っぽかった。裁縫の手を止めほっぺをムニムニしている。

「あ、そうでした。私実は、那月なつきさんのことを結構気に入っているんですよ」

「急にどうした」

 パチンと手を叩き安斎あんざい。発言に脈絡がなさ過ぎてビクビクの俺に構わず、

「あなたの容姿なら私の作った服も着こなしてもらえると思いまして」

「はぁ……? そう言ってもらえるのはありがたいが」

 俺とて一介の男子高校生だ。容姿を褒められて悪い気はしない。むしろ安斎あんざいのような可愛い女の子に褒められれば、勘違いする男子も多数だろう。俺は違うぞ? 断じてだぞ?

「よかったら、早速着てみて欲しいんですよ」

「えっ? 今?」

 うきうき立ち上がり、布をかぶせてあったマネキンの前へと安斎あんざい。それに俺も続き同じくマネキンの前へ。そわそわと布に手をかけると安斎あんざいは、ニヤリと笑みを浮かべた。

「ふふ、それではご覧あれです」

 実に楽しそうな安斎あんざいの姿に、俺も心の奥底からわくわくが溢れてくる。いったいどんな服なのか……。

「オープンです!」

 バサッ! と勢いよく布が剥がされると、現れたるは宇宙。深い紺色の地色に煌々と輝く月や星、そして水色の渦上の靄。宇宙柄が全面に施された長袖のワンピースだった。

 そう、これはどう見たって!

「女物じゃねぇか!」

 俺のツッコミに安斎あんざいは、わかっていましたといった様子でクスりと小さく笑い、トンと俺との距離を詰めた。

「そうですよ、女物です。あなたに似合うと思って作ったんですよ。夜長よなが晴花はるかさん?」

「……っ、なんで今、晴花はるかのことを……」

 くっ……やはりこいつ、気づいていやがったのか。やっぱり貫井ぬくいを買い出しに行かせたのは意図的だったか。

 追い詰められる俺の姿をにやにやと眺める安斎あんざい。それを隠す様子もなく、上品な仕草で口に手を当てて、

「あらあら、てっきり私は那月なつきさんと晴花はるかさんは同一人物だと思っていたのですが、違いましたか?」

「ち、違ぇよ」

 俺の苦い言い訳に安斎あんざいは『そうですか』と、笑顔を引っ込めると困り顔でため息を一つ。

「それでは、あとで玲菜れなさんに謝らなくてはいけませんね」

「どういうことだ?」

「実は今日、玲菜れなさんに話しちゃったんです。那月なつきさんと晴花はるかさんが同一人物だって」

「っ!? なんでそんなことを!」

「あら、どうしてそんなに怒っているんですか? 事実無根なら、問題ないのではありませんか? あなたがそこまで取り乱すということは……」

 しまったこいつ……っ。さすがにここまで来て隠し通す事は出来ないか、と俺は脱力しイライラを誤魔化すように頭を掻く。

「そうだよ。晴花はるかは俺だよ」

 家族以外への人間への、初めての白状。安斎あんざいの手前、平静を保っているが誰にも伝えていない秘密の暴露は、足がすくむような恐怖があった。それに内容が内容なだけに、他の人間にばれればどんなことを思われるだろうかと気が気でなかった。

 貫井ぬくいは、このことを知ったらどう思うんだろうか……。

「認めるんですね。もう少し悪あがきが見れるかと思ったのですが」

「いい趣味してんな。で、俺をどうするつもりだ」

 意外そうに眼を丸める彼女を睨むが、安斎あんざいは素知らぬふりで手を合わせて、

「あなたにお願いがあるんですよ。聞いてもらえますよね?」

 お願い、なんて言っているが、それはどこからどう見ても脅迫だった。

 これから俺はどうなっちまうんだ……っ!




「はぁー思った通りです! 絶対那月なつきさんなら似合うと思ったんですよ!」

「……」

「ちょ、ちょっと回ってもらってもいいです!?」

 クルリ。

「あー……最高です、やば谷園……尊み……。ありがとうございます那月なつきさん」

「……はぁ」

 どうしてこうなった。え、なぜ? とりあえず状況を整理しよう。

 放課後の被服室。貫井ぬくいの見学に来た俺那月なつき。唐突に安斎あんざいさんの作った服を披露。その服を私晴花はるかが身にまとう。被服室に私とテンションがぶち上がった安斎あんざいさん。

 ……どういうことなの?

 ちなみにだけど、安斎あんざいさんの持っていたメイク道具でメイク、演劇部から借りたらしい私のいつものウィッグに近いものを被っているので、現在しっかりと晴花はるかをやらせてもらっている。

「どうしました? 私の作った服、お気に召しませんでしたか? ちゃんとあなたに合わせて作ったはずなんですけど……」

 いやそんなしゅんとしないでよ……私が悪い事してるみたいじゃない。私は困惑する頭を抱えつつも、

「そんなことない。着心地もいいし、こんなに可愛い服が着れるなんて喜ばない子はいないよ」

「そう言ってもらえて安心しました。私の腕も捨てたもんじゃないということですね」

 嬉しそうにぴょんぴょんと安斎あんざいさん。意外とそんな喜び方するのね。とか微笑ましく見つめている場合じゃなくて、

「あー安斎あんざいさん? 私のこの秘密はどうするつもり?」

「秘密? 那月なつきさんの女装癖ですか?」

「そう……じゃないとは言えないけれど、そのこと。出来れば誰にも言わないでもらえるとありがたいんだけど」

那月なつきさんが隠したいのであれば、別に言いふらしたりしませんよ」

「ありがとう……それと、悪いけどこの格好しているときは晴花はるかって呼んでほしいんだけど、いい? うまい例えが思いつかないけど、着ぐるみを着ている人に中の人の名前で呼ばないでしょ?」

「よくわからないですけど、わかりました」

 いい例えだと思ったんだけどなぁ。まぁそこは別にいいけれど。とにかく、思ったより大惨事にならなくてよかった。

「というか、なぜ私と那月なつきが同一人物だと?」

「何故って、顔を見ればわかりますよ。メイド喫茶に晴花はるかさんがいらしたとき『あ、この人学校で見かけたことある』って」

「それ探偵とか警察のスキルでは……」

 がっくり首を折る私。うーん……だいぶ那月なつき感消してるはずなんだけど……。と鏡を一瞥、にっこり。うん、めっちゃ可愛い。さすが私。でも瑞希みずきには勝てないね。

「ふふ、自分に見とれてしまうのもわかりますね」

 ばっちり見られてた。めっちゃ恥ずかしい。体温が熱くなった私がスカートで仰いでいると、

「ああ、あと体格でもわかりましたよ。伊達に裁縫やっていないので、なんとなく人を見れば採寸しなくても服を作れますし」

 なるほど。見て採寸できるから私にぴったり作られているのね。改めて安斎あんざいさんの裁縫技術に感動した。

「流石にそろそろ着替えさせてもらうね。玲菜れなが帰ってきたらまずいし」

「そうですね。ああ、メイク落としもちゃんと持ってますから貸しますね」

「ありがとう。それじゃ――」

 と、私がウィッグに手をかけた時だった。

明理あかり先輩、買い出し終わったわ」

 ガラリと開け放たれたドア。そう、いまここに訪れる人物は一人しかいない。

「ぬく……、玲菜れなっ!?」

 買い出しが終わって戻ってきた、貫井ぬくい玲菜れなだった。私は咄嗟にウィッグにかけていた手を離し、隠すものもないのに背中に手を回した。私の存在に玲菜れなは目を丸くする。

「えっ!? ど、どうして学校に晴花はるか様が……?」

 さ、最悪の状況だこれ……。だというのにも関わらず、あらあら~と緊張感なく笑みをたたえる安斎あんざいさん。他人事だと思って……。

「えーっと玲菜れな。これには訳があってね。そのーえとー……」

 ダメだうまい言い訳が何にも浮かばない。状況が悪すぎる。生徒でもない女子が被服室で安斎あんざいさんの作った服を着ているというこの状況。詰みでは?

 ぐるぐるぐるぐる無理だよでもどうにかしなきゃと、頭の中がごちゃごちゃで言葉に詰まっていると、

玲菜れなさん。実はですね、今日は晴花はるかさんにモデルになってもらいに来たんですよ」

 口を開いたのは安斎あんざいさんだった。予想だにしない出来事に、私も玲菜れなも勢いよく彼女に視線を集めた。安斎あんざいさんは笑顔を崩さぬまま腕を組むと、

玲菜れなさんから晴花はるかさんがすごい、って聞いていましたからね。気になって頑張って接触してみたんです。そしたらなんとまぁ美しい方でしたので、ちょっと無理を言って学校に来てもらったんですよ。ね、晴花はるかさん」

 パチリと安斎あんざいさんのウインクで私は落ち着きを取り戻し、慌てて彼女の後に続く。

「そ、そそうなの。どうしてもってお願いされちゃったからね」

 あは、あははは。今私うまく笑えてるのこれ。ちらりと安斎あんざいさんを一瞥すると珍しく苦い表情をしていた。ダメみたいですね。

「……そ」

 ぽそり、と貫井ぬくいの声。やはりこれでは通せなかったか……万事休す……、

「そうだったんですね! さすが晴花はるか様。お優しいのね!」

 いけたーーっ!? えっ? これは私たちがすごいの? 玲菜れなが鈍感なの? と再度安斎あんざいさんを一瞥すると、ポカ―んと口を開けていた。うん、後者ですね。安斎あんざいさんのレアな顔を胸に焼き付け、コホンと咳払い。

「そ、そんなわけで、今日はお邪魔しているんだ。久しぶりだね、玲菜れな

 ひらひらと軽く手を振って挨拶すると、玲菜れなは目を輝かせてお辞儀を返してくれた。いやー本当に懐かれてますね。それだけにこの罪悪感よ……。と心の涙を拭っていると、

晴花はるか様聞いてちょうだい! 私あの男にちゃんと話をすることが出来たのよ!」

 ウキウキでここ最近の報告をする玲菜れな。浮足立つとはまさにこのこと。ほんと、バレなくてよかった。

 私は知っている話をさも知らないふりでうんうんと、聞き上手のキャバ嬢のごとく聞いてあげた。そしてついこの間の話まで追いついたところで、玲菜れなはむふーとドヤ顔になった。

「あの男限定だけれど、一応、話は出来るようになったのよ」

「そうなんだ。頑張っているみたいでよかった」

「それだというのにあの男は……私と過ごして慣れる予定なのに、どこをほっつき歩いているのかしら」

「あ、あはは……さぁねぇ……」

 腕を組みプンスコご立腹の玲菜れなを、苦笑いでやり過ごす。ちなみに安斎あんざいさんは気を遣ってくれているのか、一人で作業に戻っていた。

「まぁ那月なつきだったら悪い事にはならないと思ってたけど」

「あの男のことをそんなに信頼しているの?」

 そりゃそうだよだって私だもの……。私は微妙な表情を浮かべながら、

「まぁ付き合いも長いからね。難しいとは思うけど、玲菜れなも信用してあげてくれると嬉しいな」

「それは……そうね。晴花はるか様の言う通り、ちょっとは信じてあげてもいいのかもしれないわ」

 うーん本当に女同士だと素直な子ねぇ。那月なつきの時とはえらい違いだ。那月なつき相手でもこれくらい素直だと嬉しいんだけど……。

「正直、第一印象は最悪だったわ」

 私が苦悩していると、玲菜れなはさらに話を続けていた。

「今まで生きてきて見ず知らずの人間にスカートを脱がされることなんてなかったもの」

 ちょ、ちょっと待ってそれって私が、那月なつきが聞いちゃいけない話なんじゃないの!? ああでも止める理由がぱっと思いつかない! というか脱がしてない!

「いえ不慮の事故だったのはわかっているわ。裁縫に失敗はつきものだものね」

 私の無罪主張が届いたのか、どうやらすでに許されているらしい。……だからなんで自分の裁縫レベルが低いことを認めないの?

 話の止めどころを失った私は、観念してこのまま聞き続けることにした。

「でも……不思議ね。今となっては、意外と話せているの。どうしてなのかしら」

「分からないけれど……単純に慣れたんじゃないの? それか那月なつきが女っぽいとか」

 我ながら何言ってんの私? 女っぽいがツボに入ったのか、貫井ぬくいは失笑するとそのままケタケタお腹を抱えて笑った。なんとなく不機嫌になった私は唇を尖らせる。

「女っぽいかはわからないけれど、慣れはあると思うわ。でも。たぶんそれだけじゃないの」

 すると貫井ぬくいは私のシュシュを見つめながら、どこか思案顔を浮かべる。

「なんでかしらね……この人なら大丈夫って思えるの。不思議よね。私もよくわからないわ」

 ……ただの、私の推測でしかないけど。もしかしたら玲菜れなは、無意識下では私と那月なつきが同一人物だと感じているのかしら。晴花はるかは大丈夫だから、那月なつきも大丈夫、みたいな。でもこれは、私の推測でしかないわけで。

「あーあと、意外と優しいところもあるみたいよ。男の子と話せない私のために、気を利かせてくれてるみたいだし」

「それはまぁ……どうかしらね」

 自分の行動が分析されているみたいで、どこか落ち着かない。

「ちゃんとお礼を言うべきだったけれど、ついつい言えなかったのよね。悪いことをしてしまったわ」

「……まぁきっと、那月なつきには伝わっていると思うよ」

「そうかしら。ありがとう、晴花はるか様」

 儚げに笑って見せる彼女。貫井ぬくい玲菜れなはやっぱり律義な女の子だ。このお礼を、いつか那月なつきの時に聞けるときが来るのだろうか?

 玲菜れな那月なつきに対する思いをズルして聞いてしまった私はちょっぴりな罪悪感と、心地の良い高揚感に包まれていた。

「ああ、そうでした。玲菜れなさんにお渡しするものがあったんです」

 ぱちんと手を叩き、裁縫の手を止め立ち上がる安斎あんざいさん。貫井ぬくいも思い当たることが全くないようで、きょとんとした表情で安斎あんざいさんを見つめていた。そしてしばらく裏方に消えた安斎あんざいさんが持ってきたものは、

「め、メイド服?」

「そうなんですよ。これ、私が玲菜れなさんのために作ったものなんです」

 安斎あんざいさんが持ってきたものは、フリルなどメイド喫茶的なメイド要素は少ないが、シンプルで美しいメイド服だった。

玲菜れなさんが男性克服に頑張っていると聞いたので、ご用意させていただいたんですよ」

「えっと……これをどう使えと?」

「これで、那月なつきさんを相手にメイド喫茶練習をすればいいと思いまして」

「「ぶふぅ!」」

 頭の中で想像してしまった……っ! 玲菜れな那月なつきの前でただ一人のメイドになる姿を。いや男子ならば憧れるシチュかもしれないけど! 同じく想像してしまった玲菜れなも、その滑稽さに吹き出してしまったんだろう。

「あっ、明理あかり先輩。そ、それは、さすがに……」

「そうですか。メイド喫茶の接客練習も出来て一石二鳥かと思ったんですけど……。とりあえず私は着られないので、受け取るだけ受け取ってください」

「は、はい……」

 おずおずと安斎あんざいさんからメイド服を受け取る玲菜れな。人からメイド服をもらうって、あまりない経験だろうな……。

 玲菜れながメイド服を鞄に仕舞うと、閑話休題とばかりに声を上げた。

「あっ、そうだ。晴花はるか様は裁縫は出来るのかしら?」

「そうだね、ほどほどってところかな」

「じゃあせっかくなのだし、少しやってみたらどうかしら?」

「私はいいけど安斎あんざいさんは……」

「別に構いませんよ。むしろ人手が増えるのは歓迎です」

 安斎あんざいさんから許可は下りたものの、私のレベルで役に立つかしら……少なくとも玲菜れなよりは立つけれども。私の心配を察したのか、安斎あんざいさんは私にこっそりと耳打ち。

「あなたのレベルなら大丈夫ですよ。玲菜れなさんのスカートの補修、拝見しましたよ。私には遠く及びませんが、素晴らしいと思います」

 自己評価めっちゃ高いな……いやその通りなんだけどね。まぁそういうことなら、張り切って頑張るとしましょうか。




 とはいえ時刻はすでに五時過ぎ。もちろん学校には完全下校時刻があるので、そんなに作業は出来ない。そもそも私着替えなきゃいけないんだけども。

 そんな中始まった裁縫作業。だがしかし、開始から一分もたたないうちに、

明理あかり先輩。玉止めってこれであってるかしら?」

 玉止めはわかってよぉ。小学生だってできるでしょそれ。いままでよく裁縫部やってたね。

 安斎あんざいさんは嫌がる様子なく席を立ち、玲菜れなの玉止めを確認。あちゃーと肩をすくめ首を振り、自分の手持ちの糸で実演しつつ、

「玉止めはね、これをぴょーんとして指にゴロゴローでポロポロってやればできますよ」

 は? 日本語今の? 驚いて三度見するも、あの珍妙な擬音で出来たとは思えない玉止めが出来ていた。

「うーん……難しいわね……」

 頭にハテナを浮かべて糸と格闘する玲菜れな。そりゃあそうよ。私だって初見だったら、今ので玉止めを作れる自信はない。ちょっとこれってまさか……。

 玲菜れなの裁縫下手って、安斎あんざいの指導下手のせいなの!?

「あっ、ちなみにまつり縫いは?」

「それはまず布にじぐりしてみょーんしてドムドムーってやれば完成です」

 オノマトペのチョイス絶望的かよ!? これはやはりそういうことなのね……。

「あの、安斎あんざいさん? ちょっと。大至急」

「? どうかしましたか」

 ちょいちょいと手招きする私に警戒しつつ近くまで来た安斎あんざいさん。玲菜れなに聞こえないよう声を落として、

「あのですね安斎あんざいさん。一言よろしいでしょうか?」

「どうしたんです改まって。もちろんいいですよ」

 私の態度にきょとんと安斎あんざいさん。うーん何も知らない純真な眼差し……言うのが躊躇われるね。だけど真実を知らねばならぬ時もある。心を鬼にせねば。

 意を決して私は安斎あんざいさんに向き直り、

「ストレートに言わせてもらうけど、教えるの下手です」

「な、な、なんですとー?」

 体をのけぞり、小声でわかりやすく驚愕する安斎あんざいさん。目をぱちくりしてから体を戻すと、むぅとほっぺたを膨らます。

晴花はるかさん酷いじゃないですか。あんなに丁寧に教えているのに」

「目の前で実演しているし丁寧かもしれないけどさ……絶望的に下手です」

「ああ、また言いましたね。しかも絶望的だなんて……わかりました。そこまで言うならあなたが教えてみて下さいよ」

 腰に手を当てご立腹のご様子。まぁ確かに下手だ下手だって言ってるんだから、それ相応の実力は見せなきゃね。

「もちろん。やってみせるよ」

 私はすっくと席を立ち、まつり縫いに格闘する玲菜れなの隣に並び彼女を呼んだ。玲菜れなは接近する私に気づかないほど集中していたのか、肩をびくつかせ私を見ると眉間の皺を解放した。

玲菜れな、裁縫なんだけど、私にも教えさせてくれない?」

「もちろん、お願いするわ」

 快諾する玲菜れなの隣に椅子を並べ座る。お手並み拝見、といった様子の安斎あんざいさんの視線が気になるけどそれは無視してと。

「今回は裾上げのためのまつり縫いだから、ななめまつりって方法だね」

「そうなのね」

 感心して弾んだ声の玲菜れな。教えたことに対して関心を持ってもらえると、なんだか嬉しいね。先生、いつも授業中寝てごめんなさい。

「まずこの山から針を出して、布の裏側をちょっとだけすくって……」

 ~十分後~

「……」

「……」

 なぜだ! なぜできない!?

 実演も交えつつめちゃくちゃ懇切丁寧に一から説明しているはずだぞ!?

 思わず晴花はるかであることも忘れ心の中で雄叫ぶ私。気まずそうにしている玲菜れなを見やると、申し訳なさそうに口を開いた。

「ごめんなさい晴花はるか様。晴花はるか様の教え方、なんだかわかりにくくて……やっぱり明理あかり先輩の方が……」

「私のせいっ!?」

 ちっげーだろそれだけは!? はっ! 嫌な視線を感じる……。蛇に睨まれたカエルのごとく流れる冷や汗。ゆっくりと振り返ると、

「……くすくすっ」

 そこには勝ち誇りに勝ち誇った顔の安斎あんざいさん。絶対敗北した訳じゃないけど圧倒的な勝者感を携えた安斎あんざいさんに一歩引いてしまう。そして私の肩に手を置き、

「そんなに気を落とさないで下さい。私は……くくっ、絶望的に上手だと思いましたよ?」

 く……くそがぁっ!

 どう考えたって私の方がうまいでしょうがバカにしやがってっ!

 いくら自分が白を主張しても、周りの人間が黒と言えば黒になる。世界はそんな理不尽に満ちているんだ。悲しき現実を知った高二の一日であった。

 そして、結論として玲菜れなの裁縫下手は本人のスキルだ。修正不可。





 家の使用許可が下りてしまった……! 泊りの話が現実味を帯びたんで凛星りんせとともに話を通してみると、あっさりと両親の許可が下りてしまったのだ。おかしい、高校生の男女だぞ。凛星りんせいるけど。とりあえず……実行されることがないことを祈ろう。

 ちなみにそんな本日は、安斎あんざいの言っていた接客練習をやってみることになったのだ。場所は空き教室。まだ生徒たちの残る廊下を突っ切り到着した俺は颯爽と扉を開いた。

「……」

 教室内になぜか着替え中の貫井ぬくいがいた。扉が開けられたことに気づいた貫井ぬくいとバッチリ目が合った。健康的な肌に、しなやかに伸びた肢体。その体を飾る水色レースの下着たち。うん、やっぱり貫井ぬくいは美しいですね。俺はゆっくりと扉を閉めた。そして来た道をゆっくりと戻る。

 今日はもう帰ろう。

「ちょっとぉ……っ!? なに帰ろうとしてんのよ」

「ですよねー」

 とても低い貫井ぬくいの声に振り返ると、頭だけ廊下に出して鬼の形相で睨まれていた。恐らく逃げたらとんでもないことになる。そう悟った俺は観念して空き教室の前で待つことにした。

「……もういいわよ。入りなさい」

 しばらくして貫井ぬくいの許可をもらい、俺は重い足取りで入室した。そしてお説教の気配を感じた俺は、なぜか自発的に正座してしまった。正座で怒られたことないと思うんだが……。

「それで? いったいどういう了見なのか、伺おうかしら?」

 貫井ぬくいはたいそうご立腹だと思うが、既にメイド服に転身済みの格好でこの構図は、何か特殊なプレー味を感じる。そのせいで俺はつい軽い口調になってしまう。

「いやーその、練習するってんで空き教室に入ったら貫井ぬくいがいまして。それでなぜか着替え中でして。あーやっぱり綺麗な身体してるなー美しいなーと見とれてしまいまして。あっ、今のそのメイド姿もとても素敵だと思います。はい」

「……この状況でよくそんな口が利けるわね。というか私の体の感想は聞いてないわ。それともなに、おだてれば赦されるとでも考えているのかしら?」

「いやこれは本音なんだが……」

「うっ、うるさい。そんなこと聞いてないわよ黙りなさいっ!」

 えー理不尽……。また一段と貫井ぬくいの声が低くなってしまった。表情はいつものクールなままだけど、どこかその頬に紅がさしている気がした。ふと視線がぶつかると、何かを隠すようにツイっとそっぽを向かれてしまう。単純に恥ずかしかったんだな多分。

「いや、本当にすみませんでした。なんかこう、やばいって思ったんで無言で立ち去ればなかったことになるかなーって」

「ならないわよ! バカなの!?」

「本当に申し訳ない!」

 俺は拳を腿に突き首を下げて精一杯の謝罪。こんなところで何の注意もなく着替えている方も悪いとは思うが、今回はスカート脱がし事件(脱がしてない)の時以上に俺が悪いと思う。

「はぁ……先輩のくせにみっともない。もういいわよ。……よくはないけど。さっさと練習を始めるわよ」

 い、意外とあっさり許してもらえた……? 正直ぶん殴られることを覚悟していたから、なんというか肩透かしだ。別に殴られたくはないが。

「まぁその、なんというか本当に申し訳なかった。なるべく忘れるように善処す……うおっ!?」

 慣れない正座からの立ち上がりで、バランスを崩した俺は思わず前のめりに、貫井ぬくいに向かって倒れこんでしまう。なんとかかわそうとするも……、

「きゃあっ!」

 バタンっ! と貫井ぬくいもろとも勢いよく倒れこんでしまう。とっさに貫井ぬくいの頭は手のひらで庇ったおかげで床との衝突は避けられたが、この状況は……。

「えーっと……重ね重ね本当に申し訳ない。ケガはないか? というかその……大丈夫か?」

 見合わせた顔の距離は、今までで一番近い。貫井ぬくいは少し鋭い目を見たこともないほどまんまるに見開いていた。そして我に返ったのかはっと息を漏らす。

「……っ! 心配するならすぐに離れなさ」

「兄貴ーれっちー?」

 ガララと開け放たれた扉に肝が冷える二人。姿は見えないがこの声が誰かはすぐにわかる。

「アタシが今日も来てやっ……あー。ごめん、帰るね。みーくん帰ろ」

「えっ? あーうん?」

「「帰らないで!」」

 飛び起きた俺たちは慌てて二人を引き留めた。そして事情を説明すること数分。

「なーんだてっきりおっぱじめるつもりかと思ったのに」

「付き合ってもない男女がそんなことするわけないでしょ全く。こんな男とだなんてあり得ないわ」

「……まぁそれはさておき。というわけだから安心してくれ瑞希みずき

「えっ? なんでボクに念押しするの?」

「いやそりゃ……大事なことだから?」

「なにしてんの兄貴……。それで、今日は接客練習するんしょ? どー進めてくん?」

 わちゃついた空気から軌道修正を図ったのはまさかの凛星りんせだった。俺も貫井ぬくいもそうだったとばかりに顔を見合わせ咳払い。

「まぁ確かに、凛星りんせの言う通りそろそろちゃんとしよう」

「そ、そうね。せっかくメイド服まで着たんだから、きっちりやりましょう」

「いやそれ突っ込みたかったんだけどさ……なんで着てんの?」

 事情が飲み込めていない凛星りんせ瑞希みずきは顔を見合わせ、まじまじと貫井ぬくいのメイド姿を見つめた。すると貫井ぬくいは頬を赤らめながらも堂々と腕を組んだ。

「こっ、これはその、明理あかり先輩が作ってくれたのよ。それで、せっかく接客練習するなら形から入ろうと思ったのよ」

「なるほどねぇ……アタシこのメイド服のれっちの方が好きかも」

「そ、そう? お店にこっちでいいか聞いてみようかしら……」

 裾をつまみ自分の姿を確認する貫井ぬくい。やっぱり可愛い服はいいよね。

「っと、まぁぶっちゃけどんな風に練習するかはまださっぱり考えてなかったんだが……。貫井ぬくいは何かないか?」

 決めてなかったのかよダメ兄ぃ……と聞こえた気がしたが無視しつつ貫井ぬくいに向き直ると、驚いたように肩をすくめ小さくなる彼女。そして自分のカバンに向かうと、ごそごそと何かを取り出した。

「……これ」

 どうやらメイド喫茶のメニュー表を持ってきていたようだ。それを離れた場所から、体を精一杯伸ばし俺に渡した。

「そのページに載ってるメ……『メイドさんの愛がいっぱい! きゃるーんきゅぴきゅぴ、カフェオレのラブ割り』は持って行った後にご主人様と一緒にそのラ、ラブを、入れるから……初歩的なのだけど、個人的に難易度が高いメニューなの。だからこれが出来れば自信が持てるかもしれないわ」

 ……どっから突っ込みゃいい? メニュー名? それともラブを入れるって所? これ素人的には初歩的とは到底思えんのですが?

「よくわからないけど……大変そうだね」

「ラブ……なんのこと……?」

 瑞希みずき凛星りんせも俺と思うことは同じようだった。

「んじゃあ、とりあえずそれの注文を練習するって流れでいいのか?」

「ええ、とにかく『メラ割』をマスターできるように頑張るわ」

 メラ割って略すんだな……。

 凛星りんせ瑞希みずきも微かに頷いてるところを見ると、意識が通じ合った気がした。いや、そんなことはどうでもよくて。緊張気味でカチコチな貫井ぬくいになるだけ柔和な笑みで、

「そうだな。それが出来りゃあ上出来だろ」

「や、やってやるわ」

 気合いを入れるように少しだけ語気を荒らげるも、姿勢はふみゃふみゃと不安げだった。

 よし、やっとこさ練習開始だ。

 とりあえず瑞希みずき凛星りんせは見守るということに。入店から料理を運び終える流れまでやることになったので俺は一度廊下へ。一呼吸おいてから教室に入った。

「おっ、おかえり、おかえりなさ……」

 こちらに近づき、入店の一言とともにお辞儀しようとするも、うまく言葉も続かず、ぎくしゃくとしてしまう貫井ぬくい。まぁそりゃそうだよなってところだが……、

「これじゃダメだな」

 うう……と縮こまる貫井ぬくい。今の彼女を見ていた凛星りんせが組んだ足の上に頬杖をつき、んんーっと唸った。

「これは前途多難だねー。大変そ」

「いやいや感想述べるくらいならなんかアドバイスしてあげろよ」

「ごめんなさい。次はもっと、うまくやるから……」

 貫井ぬくいは丁寧に腰を折り、なぜか凛星りんせのみに頭を下げた。そもそも謝罪してほしいわけじゃないけどなんか複雑だぞ……。

玲菜れなは悪くないって。悪いのだいたい兄貴だし。気に入らないことがあれば全部兄貴のせいにすればいーよ」

「なんでだよ。ったく俺をなんだと思ってんだ……」

 くそう、俺はこんなにも凛星りんせのことを大事にしているのに。やはり想いというものは伝わらないものだなぁ。

「で凛星りんせ。なにかアドバイスとかないのか? 同じ女の子同士でなんかこう……ないのか?」

「ないよ」

 ねぇのかよ。だったらそのもったいぶったドヤ顔やめろ。貫井ぬくいも俺も呆れた表情を浮かべる中、こめかみを人差し指でこつこつと瑞希みずき

「ん~それなら、一回凛星りんせちゃんも一緒に入店してみたら?」

「というと?」

「隣にいる凛星りんせちゃんを接客するテイで那月なつきを接客するんだよ。それで流れを掴んでから、改めて那月なつき一人を接客できるようにするのはどうかな」

「なるほどな。どうだ貫井ぬくい? やってみる価値はありそうか?」

「えっ。そ、そう……ね。悪いけど凛星りんせ、頼めるかしら?」

「ふっふっふっ、しょうがないねぇ。ここはアタシが一肌脱ごうじゃないか」

 なんで得意顔なんだこいつ。そんなジト目で見ていると、なぜか舌打ちされた。舌打ちすんなよ。二人で廊下に出ると可愛げのない凛星りんせにんっ、と目で促されて再びドアを開け放った。

「おおっ、お。おかえりなさいませ。お嬢様、ご、ご主人……様」

 さっきよりマシになったな。まぁ実のところ俺は相手にされていないんだが。なんかちょっと寂しいもんだな。一切目が合わないし。

 晴花はるかの渡したシュシュをしきりに触れる貫井ぬくい。俺にはわからないが、晴花はるかはちゃんと彼女の力になれているのだろうか。もしそうなのだとしたら、なんか不思議な気持ちだ。

 貫井ぬくいにすぐそこの席に通され着席。凛星りんせには手渡し、俺には机経由でメニューを渡す。

 俺と貫井ぬくいの距離はいつも以上に近い。一歩ほどだった。接客するならこれくらいの距離もあり得ると思うが

「ごっ、ご注文はお決まりでしょうか?」

「私はこれで」

「かしこまりました。そ、それ、で……ご主人様は……」

 お腹のあたりで手の甲を撫でたりシュシュに触れたり忙しない貫井ぬくい。実際は男とこの距離で対面しているだけでも精一杯なのかもしれない。

「えーっと、じゃあ俺は……」

 と、チャレンジするメニューを頼もうと顔を上げたが、

「……いや、やっぱりこの練習はやめよう。挑戦するには早すぎる」

 俺は終了を宣言した。虚を突かれたような貫井ぬくいだったが、すぐに我に返ると、

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! まだ始めたばかり……じゃない」

 力なく抗議をする貫井ぬくい瑞希みずきは驚いているようだったが、貫井ぬくいの顔色を窺うとあっと声を漏らした。凛星りんせはさほど驚いておらず、俺の決定に同意しているようだった。

「だって貫井ぬくい……本当に辛そうだからさ」

「……えっ?」

 息が乱れ、額に汗を浮かべる貫井ぬくい。そしてその一滴が頬を伝って地面に落ちると、ようやく貫井ぬくいも自分の状態に気がついたようだった。

「流石に結果を急ぎすぎた。ごめん。もう少し男に慣れてから始めるべきだったよ」

「そんな……」

 落胆を呟く貫井ぬくいだったが、それが何に向けたものなのかはわからなかった。

「遠距離でなら一応会話できるから、大丈夫だって考えちまった。ま、さっき凛星りんせも言ってたけど、存分に俺のせいにしてくれ」

「……」

 口を真一文字に結び貫井ぬくいは三歩距離をとり、自分のつま先に視線を落として黙りこくってしまった。

 凛星りんせに声をかけようと振り向くも、彼女はすでに席を立ち、貫井ぬくいの額の汗をハンカチで拭ってあげていた。考えることは同じってか。

「とりあえず。やっぱりまずは男が一緒にいる空間に慣れないとな……」

 俺が問題を口にすると、瑞希みずきはうんうん唸り唇を尖らせていた。

「ここはやっぱりボクの『那月なつきの家にお泊り作戦』が火を噴くね!」

「いやちょ瑞希みずき、確かにその話はあるけどさ」

「……そうよ」

 俯いていた貫井ぬくいがぼそりとそんなことを呟いた。正直それ気が進まないんですけど! 俺が否定の言葉を紡ごうとするも、それより早く貫井ぬくいは顔を上げた。

「それをやるしかないわ……!」

 なんでかなー。今のも出来ないのに何で死地に飛び込むかなー。メイド喫茶で働いたり貫井ぬくいの思い切りの良さはどうなってんだよ。

「いっやあの貫井ぬくいさん? それはーちょっとー早いと思うっていうかー」

「そういえば、私が泊まっていいか聞いてくれたのかしら?」

「そ、それはーそのー……」

「いいって言ってたよ」

凛星りんせーっ!」

 余計なことを! ああ、貫井ぬくいさんの目がマジになってるよ……。

「よかったね貫井ぬくいさん!」

 手を合わせてなぜかご機嫌な瑞希みずき。いやなんで瑞希みずきがこんなに楽しそうなんだよ……瑞希みずきのせいでこんな提案が通っちまったって言うのに。まぁウキウキな姿が可愛いから許すけど。

「あ、えと……ありがとう樋口ひぐち先輩。私、頑張るわ!」

 これは腹を括るしかないな……。握りこぶしを掲げる貫井ぬくいの姿に、俺は眉間を押さえてため息をつくのだった。




「もう……那月なつきってばいつまでそうしてるの。そんなに貫井ぬくいさんがお家に来るのが嫌なの?」

 金曜日の昼食後。肩を落とす俺を見かねた瑞希みずきが、慰めているのか背中をさすりながらそんなことを言った。ついにこの日がやってきてしまったのだ。貫井ぬくいが我が家にお泊りする日が!

 予定としては今日の放課後、貫井ぬくいとともに俺と凛星りんせの家に帰り、そのまま翌日までお泊りというものだ。

「いやそういうわけじゃねぇんだ。だってこう……女の子が家に泊まるんだぜ?」

「それがどうしたの?」

 くっ、男だというのにこれが意味するところが通じないのか……。はっ、つまりやっぱり瑞希みずきは女の子なのでは!? ってこんな現実逃避してる場合じゃないな。

「まぁその、別に何もないんだが緊張するんだよ」

「んー……そうなんだ」

 わかったようなないような声を上げる瑞希みずき。そんなことを話しつつ教室に向かっていると、

「ありゃ、噂をすればなんとやらってやつかな」

 瑞希みずきの視線の先を辿ると件の人物、貫井ぬくいが職員室前で何やらうろうろしていた。怪しさ満点だけど、いったい何してんだ?

「それじゃあボクは先に戻ってるね。たぶん那月なつきの出番だと思うし」

 何かを察したように、瑞希みずきは軽く手を上げウインクで去っていく。……いい、とてもいい。と、それはさておき。瑞希みずきの言う通り何かお困りのようだし、あの不審者に声をかけるとしますか。

 俺は怖がらせないようにゆっくりと近づき(動物かよ)、小さな声で呼びかける。

貫井ぬくいさーん、貫井ぬくいさんなにしているんですか」

「きゃっ! ちょっとびっくりさせないでよ」

「えーこれでもだいぶ気を遣ったんだが」

「私に声かけるときはもっと前の時点で気配を出しなさいよ」

「んな無茶苦茶な」

 あれ? これ遠隔的に影が薄いってディスられてる?

「そ、それで、なにか用?」

「いや用事というか……つーかその前に、それ止めろよな。はたから見たら不審者だぞ」

「うっ、うるさいわね」

「もしかして、男の先生に用事があるのか?」

 そう聞くと貫井ぬくいは肩をビクつかせて、俺を鋭く睨んだ。

「……ストーカー?」

「ちげぇよ……。今の状態を見てなんとなくそう思ったんだよ。少しだけ、貫井ぬくいのことがわかってきた気がするし」

「そ、そうなのね……」

 問答無用でもっと責められるかと思ったが、意外と俺の言い分をすんなりと受け止めてもらえた。調子狂うな……と頭を乱雑にかき、

「んで、どの先生に用事があるんだ? 中継くらいすんぞ」

「えと……あの先生に」

 貫井ぬくいの伏し目がちな視線の先に、男性教員の姿が。確か一年の時に化学で世話んなった人だな多分。

 職員室も昼休みになれば、多少和やかな空気が流れるもんなんだな。俺は緊張することもなく、用事のある先生に声をかける。すると赤ペン片手に何やら採点をしているらしき手を止めこちらにやってきた。

「ほら来たぞ……って何してんだよ」

 気づけば先ほどまでの場所から移動していた貫井ぬくい。到着した先生から隠れるように俺の後ろへと下がっていた。まぁ俺との距離が近いわけではないのですが。

「おいおい貫井ぬくい……せめて用件くらい自分でなんとかしろよ」

「あーいいわかってる。未提出のノート持って来たんだろ?」

 どうやら先生の言う通りらしい。貫井ぬくいは持っていたノートをじっと見つめ、俺に渡そうと手を伸ばす。だが、伸ばした腕のシュシュが目に映ると、その手を一度止めた。

 そして一歩だけ先生に近づくと、体を精一杯ぐいっと伸ばして直接渡しにかかる。明らかにおかしい行動に先生は呆れつつもノートを受け取った。

 先生はそんな貫井ぬくいの姿に辟易しつつも、何も言わずにそのまま職員室に消えていった。

「おお……一応自分で渡せたじゃねぇか」

「え、ええ、そうね……そうね」

 自分でもできると思っていなかったのか、どこか放心したように貫井ぬくい。逆になんだか俺の方が嬉しくなってしまう。

「よかったな! ちょっとだけ進歩しているみたいで」

 ようやく状況を飲み込めてきたのか、貫井ぬくいはいつもみたいに腕を組みツイっとそっぽを向いてしまった。そして一つ咳払い。

「な、なんであなたが得意気なのよ。意味わかんない」

「えあ、あー……いや、なんでだろうな? たった数日ではあるけど、努力が実った感があるから?」

「なんで疑問形なのよ。それに勘違いしないでほしいのだけど、あなたのおかげじゃなくて、晴花はるか様のおかげなんだから。調子に乗らないでちょうだい」

 いやま確かに、どうやら晴花はるかのシュシュに励まされているようだし、実際その通りかもしれない。ただそれも俺が渡したものなわけで。

「な、何ニヤついているのよ気持ち悪い……」

 辛辣な貫井ぬくいはさておき、お守りだなんて渡して馬鹿らしいとは思ってたけど、意外と効果があったみたいだな。それだけ晴花はるかがかっこよく見えたと思うと、どうしてもニヤけてしまう。

 俺が相当気持ち悪かったのか、心なしかいつも以上に距離がとられたところで、

「用事はこれだけか?」

「ええそうよ。そ、それよりその、今日、本当にする……のよね?」

「あ、ああそうだが……。急にしおらしくなるなよ」

 貫井ぬくい、恥ずかしいのはわかるがはっきり泊りだと言ってくれ。変にぼかされるとなんか別の含みが生まれるから。

「う、うるさいわね! 仕方ないでしょ……」

「変に意識するからそういう態度やめてくれ。はっきり俺の家に泊りに来るだけって言ってくれマジで」

 無駄にちょっと恥ずかしそうにしないでよやるっていったのあんたでしょーが! くそっ、健全な男子高校生は大変だぜ……。

「べ、別にあなたの家に泊りに行くわけじゃないわよ。凛星りんせの家に泊りに行くのよ! 勘違いしないでちょうだい!」

「勘違いも何も、広義で俺の家でもあるだろうが。まったく……」

 とはいえ、それが彼女なりの妥協点なのかもしれない。貫井ぬくいは腕を組み俺に警戒の眼差しを向けるものの、ふっと緩めた。

「と、とにかく……今日はその、頼んだから」

 くるりと踵を返し、パタパタそのまま去ってしまった。にしても、本人が気づいていたのかはわからんが、俺との物理的な距離がちょっとだけ縮まってたな。二歩ってところか? 

 それにしても、はぁ……変にしおらしくされると、心の置き所に困るな。




「お、いたいた。兄貴こっち」

 放課後、下駄箱を抜けると俺を待つ凛星りんせ貫井ぬくいの姿が。凛星りんせに呼ばれ二人のもとに小走りで向かう。すると凛星りんせは腕を組みわかりやすくご立腹をみせて、

「女の子を待たせるとかモテないよ?」

「いやそもそも待ち合わせしてねぇだろ。普通に先行ってると思ってたわ」

「あのさぁ兄貴。一応男に慣れるっていう名目なんだから、一応兄貴もいたほうがいいでしょ?」

「まぁ……それは否定できんな」

 凛星りんせの言い分に納得しつつ、彼女の背に隠れる貫井ぬくいに目を向け、

「本当に大丈夫か? 男のいる家に一泊なんて。つーかそもそも、よく親御さんの許可もらえたな」

 俺に心配され、気合を見せるためか背中から離れて凛星りんせの隣に並び立つと、貫井ぬくいはシュシュに触れながら、

「大丈夫……私は、大丈夫よ。それに、ちゃんと許しはもらってるわ。そもそも凛星りんせの家に泊まるって話だし。確かに一個上の兄がいるって話したら否定的だったから困ったけれど……」

「それで実はアタシも一緒に説得しに行ったんだよね」

「えっ、そんなことしてたの?」

 というか凛星りんせが一緒に行ったとか全然いい予感しないんだけど。

「いやぁ大変だったんよこれ。今回この企画が実行できたのは、アタシの説得のおかげといっても過言じゃないね」

 意地の悪い笑みを浮かべる凛星りんせに何を言ったのか追及したいが、したらしたで俺が損する気がしたのでやめた。世の中には知らないほうがいいこともあるのだ。たぶん。

「ま、行くんならさっさと行こうぜ。こんなところにたむろってたら邪魔になるし」

「そねー。んじゃ、れっちチャリ取ってきなよ」

「ええ、校門前でちょっと待っててちょうだい」

 貫井ぬくいは小走りに駐輪場の方へと消えていく。さっさと校門に向かう凛星りんせの隣に並んで歩き、

「あいつチャリ通だったんだな」

「ん。家が特別遠いわけじゃないんだけど、歩きで行くと変な勧誘に遭いやすいんだって」

「ああ……」

 あれってあの日だけの話じゃなかったんだな。まぁ勧誘している奴らも、あれでいて狡猾だからな。ちゃんといけそうなやつを狙って声をかけている節あるし。流石に自転車で滑走している間は声をかけられることもないだろう。

 校門前に到着し、凛星りんせとともに壁によっかかり貫井ぬくいの到着をしばし待つ。退屈そうにスマホを弄る凛星りんせを眺めていると、

「待たせたわね。それじゃあ行くわよ」

 チャラララーと自転車を手で押しながら到着する貫井ぬくい。そんな彼女を見た凛星りんせは、自分のカバンを乱雑に貫井ぬくいの自転車のかごに突っ込み、

「さ、レッツラゴー」

 と颯爽勇者ポジションで歩き始めてしまった。貫井ぬくいのカバンの上をどっかり陣取る凛星りんせのカバンに目を落とし、

「あー……妹がすまんな。全くあいつは……」

「べっ、別にいいのよ。あれが凛星りんせだもの」

 貫井ぬくいは甘いなぁー! 俺にもその甘さを少しは分けてほしいなぁー! やはり同性という安心感は大きいのだろう。……凛星りんせにだけ甘いわけじゃないよね?

「……あなたも、乗せる?」

 ふと俺のカバンに目を向け、緊張の面持ちでそんなことを言う貫井ぬくい。あまりに予想外のことにうえぇ? とか変な声を漏らしつつ、

「い、いや急にどうした」

「うえってなによ……。別に、あなたが気持ち悪い目で見てきたから、聞いてみただけ」

「気持ち悪いっておい。まぁ確かにそんな風なことを思ったが、流石にそりゃあ遠慮しておくよ。それよりさっさと行こうぜ」

 そうして歩き出すと、貫井ぬくいはやや距離を取って歩き始めた。さて、この距離がさらに縮まることはあるのだろうか。

 なんにせよ、長い一日の幕開けだ。




 家に到着し、母親の『本当に那月なつきが女を連れてきた!?』とかいう本当にやめてくれ案件をかわしつつ、とりあえず凛星りんせ貫井ぬくいを自分の部屋へと連れて行った。つーか母親にも事情を説明していたはずなんだが……?

 俺ももっそりと部屋着に着替え、自分の部屋をぐるりと見回す。貫井ぬくいを俺の部屋に上げる予定はないが、一応ちゃんと掃除しておいた。何かの間違いで部屋を漁られ、女装道具を見つけられるなんてことの無いようにするためだ。……まぁ、部屋汚いと思われたくもないしな。

 今日の部屋着……おかしくないよな? ドレッサーの前で少し身だしなみをチェック。問題ないよな? ドレッサーが男の部屋にあるのもちょっと変かもしれんがまぁ多様性の時代だ。大丈夫だろ。

「……ってか何やってんだ俺」

 普段男の時にはほとんどやったことのないことをして、急に馬鹿らしくなってきた。さっさとリビング行こ。

 ソファにどっかり座り、目的無くテレビのチャンネルを回していると、ぎぎぃ……と控えめにドアの開かれる音が。俺は少し背筋を伸ばし、

「おう、遅かったな……って」

 ドアに向き直り、首をかしげる俺。そこにはなぜか貫井ぬくいの姿しかなかったからだ。白色のハーフパンツ。毛足の長い手触りのよさそうな薄紅色の上着に身を包んだ貫井ぬくいに、

凛星りんせはどうした?」

 俺が聞くと驚いたように肩をすくめ、身を小さくしたまま、

「そ、それがその……『せっかくの機会なんだからとりあえず兄貴と二人きりの時間を過ごしてみろ』って無理やり送り出されてしまって……」

凛星りんせのやつ……。今回の目的はそれだけど急すぎんだろ。悪いな。とりあえず凛星りんせも呼んで」

「い、いいのよ。このまま……続けさせて」

 体の震えを必死に抑えながら貫井ぬくい。一応いつもなら問題ない距離だが、二人きりの空間が恐怖心を生んでいるのかもしれない。

 ただそれでも気持ちはあるらしい。まぁ克服のために、メイド喫茶に乗り込むくらいだし根性はあるんだろう。

「わかったよ。とりあえず適当なところに座ってゆっくりしてくれ」

「え、ええ……それでは……」

 横長なソファのど真ん中から右にずれて貫井ぬくいに譲る。にもかかわらず貫井ぬくいは床にちょこんと座った。いやいやいや。

「それなら俺が床に座るから、そっちがソファ座れ」

「で、でもこれは私が」

「いいから」

 言いつつ行動したほうが早いと、俺は立ち上がり床に腰を掛けた。そんな俺を見た貫井ぬくいはむっと頬を膨らませ、気に食わない……と呟きつつもソファに座った。

 それきり流れる沈黙。えっ? なにか怒らせるようなことしたっけ? とかそんなレベルの沈黙。きっつー……テレビから流れるつまらないお笑い芸人のネタですら救いに思えた。いやつまらないんじゃなくて、笑えるような状態じゃないだけだこれ。

 どうしたものかと頭を悩ませていると、ぴこんとスマホに着信を確認。メッセを確認すると、どうやら凛星りんせからだ。

『何やってんの兄ぃ。床と友達んなってる場合じゃないでしょ。お母さんが買い物から戻ってくる前に、さっさと距離詰めろ』

 ってえっ? あいつどこから見てんだ? 慌てて周囲を見回す……っていた。姿こそ見えないものの、キッチンの方でアホ毛がぴょんすか踊っていた。するとすかさず連投。

『アタシのこと確認してる暇があったら、さっさとやることやれ』

 な、なぜわかったんだ!? あのアホ毛にも目がついてんのか!? と妹の体の神秘に驚きつつも、凛星りんせの言う通りだと気持ちを新たに。

「あー……貫井ぬくい。とりあえず俺もソファ座っていいか」

「! え、ええ。ゆっくり、驚かせないようにしなさい」

 小動物と同じ扱いやん。それでいいんか……と思いつつも、のっそりゆっくりと立ち上がり、貫井ぬくいの様子を確認しつつソファに腰を下ろす。貫井ぬくいはこちらの様子を一切見ようとしない。

 ボ……スゥ……と大仰な音とともに、とりあえず座ることには成功した。つっても、俺から距離を詰めていって練習になるんか?

貫井ぬくい。慣れる練習なんだし、とりあえずここから俺は動かないから、自分のペースでなるべく距離を詰めてみてくれ」

「えっ、あっ、あなたが詰めなさいよ!」

「誰のための練習だと思ってんだよ……。それとも出来ないか? 諦めてこれくらいにしておくか?」

「なっ……や、やる、わ。やるわよ……」

 どうやら貫井ぬくいは挑発されたほうが前に進めるタイプみたいだ。まぁ男の俺がやりすぎれば取り返しのつかないことになるかもしれないから、気をつけたほうがいいだろうな。

 貫井ぬくいにタイミングを任せたものの、やはり流れる長い沈黙。何か話して和ませるべきなのか、ただひたすらその時を待つべきか……。目を閉じてしばらく思案していると、うっつらうつら眠くなってきてしまう。ふっと目を開けると、しゅばっと何かが動いた気がした。貫井ぬくいに向き直るも、彼女は相変わらずそっぽを向いたままだった。

 まさかね……と俺は再び目を閉じ、しばらくしてから薄目を開けると、はっきりとは見えないものの、貫井ぬくいはこちらの様子をうかがっているみたいだ。

 もしかして俺が寝ていると思って近づいてきているのか? とりあえずぱっちり目を開けてみると、高速で貫井ぬくいがもとの位置に戻った。マジかよ。一応、男子の気が自分に向いているのが怖いって言ってたし、そういうことなのか……? まぁそれなら、狸寝入りをしてみるか。

 ゆっくりと目を閉じる。目を閉じたことでほかの感覚が研ぎ澄まされたのか、なんとなく貫井ぬくいが近づいてくる音が聞こえる。貫井ぬくいの呼吸、沈み込むソファ、床の軋む音。その一つ一つが、なぜか早鐘を打たせる。なんだ? 俺は緊張しているのか?

 寝ているテイで深呼吸し、心を落ち着ける。そして薄目の視界に貫井ぬくいの姿がはっきり捕らえられる距離になったところで、再びしっかりと目を閉じた。

 うっ……なんかいい匂いする……。どうして女の子からはこう、男を惑わすようないい匂いがするんだ? あまり体内に取り込んではならぬとアラートを検知した俺は息を止める。

「……!」

 だがしかし、身体密着の追い打ちを食らった。なんで? どういうつもり?

 思わず乱れる呼吸を誤魔化し、薄目を開けて確認。うん、体くっついてるわこれ。害がないとくればこんな積極的に来るんか。このまま狸寝入り続けて大丈夫だろうか。

 ぺたん。

 うん。まずいかもしれない。俺は頬に触れた柔らかな感触に、危機を察した。多分顔触られてるわこれ。

「意外と男の人も肌綺麗なのね……」

 それはたぶん女装のために、そこいらの男よりも気を使っているからですねー。全員が全員だと思わないほうがいいぞー?

 つーかどうしよう、このタイミングで起きて大丈夫なのか俺? いやまずい予感しかない。た、助けてくれ凛星りんせ~! 念を送るも当然通じず、貫井ぬくいの研究はさらに進む。

 鼻をぐにぐに前髪をかき上げ、耳たぶふにふに手をにぎにぎ。不用意に手を握らないでおくれ……。あなたの匂いと時折触れる髪のサラサラ具合ですでにダメになりそうなんですよ? 何がだめになるのかは俺にもわからんが。

 とにかく誰でもいいから助けてくれ……。

「ただいま。凛星りんせ那月なつき、どっちでもいいから袋持ってって!」

「はーい母さんおかえり今行くー」

 ガチャリと玄関が開け放たれる音とともに、救いの時は訪れた。貫井ぬくいは一瞬で俺から距離を取る。そして俺はゆっくりと、その音で起きたかのようにぼんやり目を開け伸びをする。

「あっ、悪い。寝ちまってたか?」

「い、いえ気にしないでちょうだい。ちゃんと慣れる努力はしていたわ」

「そうか? ならいいんだが」

 あっつー………手で顔を仰ぎ俺がとぼけていると、買い物袋をよっこい抱えた凛星りんせが、

「二人とも調子はどう? 順調そう?」

 これまたとぼけた様子で聞いたきやがった。見ていたくせに……という俺の抗議の視線に軽くスルーを決めつつ、凛星りんせ貫井ぬくいに向き直る。

「え、ええそれなりに。ありがとう凛星りんせ

「べーつにアタシは何もしてないし。それに玲菜れなの特訓はまだ始まったばかりだし。夜にはスペシャルなメニューが控えてるんだから」

 にしし、と文字通り悪魔的な笑みを浮かべる凛星りんせ。いやこれ嫌な予感しかしねぇな……。




「ふぅ……とんでもねぇ目に遭ったな」

 風呂から上がった俺は、ふと貫井ぬくいに触れられた手を眺めた。そして胸の高鳴りを振り払うように髪をバスタオルで拭く。ため息を漏らしてソファに沈み込む。あーなんかどっと疲れたわ……。

 貫井ぬくいはといえば、一応夜食づくりや食事も通して、泊り当初ほどの距離はなくなったと思う。克服作戦の経過は良好といえるのかもしれない。

 しかし……わからんな。貫井ぬくいの方はどう思っているのだろうか? つーかそもそも俺をぺたぺた触ってたのは何なのか気になる。

「兄ぃなにか悩み事?」

凛星りんせ? お前貫井ぬくいと風呂入ってたはずじゃ……ってお前な」

 どうやら先に上がったらしい凛星りんせに振り返ると、風呂上りパンイチ姿だった。一応、バスタオルでふくよかな胸は隠れているが。俺の言わんとするところを察したのか、凛星りんせはうざったそうに顔を背ける。

「わかってるわかってる。れっちが出るまでにはちゃんと着るし。んで、どしたん?」

「いや、個人的にはこの泊りがいい効果になってると思ってんだが、肝心の貫井ぬくいはどう思ってるのかなって」

「んーそね。狸寝入りの兄ぃに近づけたことで自信につながったっぽくも見えるんけど」

貫井ぬくいから何か聞いてないか?」

「別に特にって感じ? 本人も大丈夫いい感じよくらいしか言ってないし。てゆーかアタシ的にも、兄ぃべたべた触ってたけどどう? なんて聞きづらいしれっちも答えづらいっしょ」

「それは確かに……、まぁ確認する方法はねぇか」

「いやいや兄ぃ寝ぼけてるの? 兄ぃなら聞く方法あるっしょ」

「えっ? 俺そんな裏技持ってたっけ?」

 心底がっかりしたように額を押さえる凛星りんせに、なぜか悔しさを感じた俺はジト目で早く教えろと催促。

「お姉がいるじゃん。アタシ的にお姉ってそこまで憧れる? って感じだけどれっちはご執心みたいだし、アタシが聞くより色々教えてくれんじゃん?」

「いやいやいや。確かに晴花はるかの方が貫井ぬくいも話しやすいかもしれんが、どうやってここに晴花はるかを連れてくんだよ」

「発想が貧困。別に連れてこなくても電話すればいーじゃん」

「えっ晴花はるかは電話なんて持ってないんだが?」

「兄ぃの電話があるっしょ。アタシから兄ぃに電話かけるから、それで途中でれっちに代わる、これなら問題ないじゃん」

「い、いや確かにそうだが……」

 そうこうしているうちに、お風呂場の方から扉の開く音が。どうやら貫井ぬくいが上がったらしい。これ以上の相談は難しいだろう。

「んじゃ。兄ぃはさっさと自分の部屋にでもこもってな。兄ぃが部屋に行ってから五分後くらいに電話すっからさ」

 本気でやるのか……? 有効な手段だけどそもそもうまくいくのか? まだまだ抗議したいところだったが、珍しくやる気満々な凛星りんせの姿に、背中を押されてソファから立ち上がってしまう。

「ふぅ……お風呂頂いたわ」

 そこで風呂上がりでホクホクした貫井ぬくいと鉢合わせた。濡れた長い金髪がどこか色っぽくて、思わず顔を背けてしまう。

「ちょっと、なんで目を逸らすのよ」

「べ、別になんでもねぇよ」

「濡れたれっちの姿がエロくて見てられなかったんだって」

「そこまでは思ってねぇ!」

「おやおや兄貴、そこまでってことは、近い事は考えてたって事じゃん。どうなん? ん?」

 こっ、こいつ……っ! 思わず出かける舌打ちを飲み込み貫井ぬくいに向き直ると、若干のぼせたのか頬を紅潮させた彼女の姿。俺と視線がぶつかると、バスタオルで口元を覆いジト目で睨まれた。

「……あんまり変な目で見ないでちょうだい」

「っ!」

 風呂から上がってしばらくたつというのに、温度の急上昇を感じた俺はなにも言わずに自分の部屋へと向かった。

「ったく凛星りんせのやつ……楽しみやがって」

 調子を狂わせる凛星りんせに腹を立てつつも、晴花はるかの準備を思い出しゆっくり深呼吸した。

 いやでも、この格好じゃやっぱり晴花はるかになりきれないな。女装道具の隠し場所を見つめる事数秒。ぱぱっと転身することにした。

 ――。

 さて、これで準備はいいね。スカートを腿裏に押さえながらベッドに座り込む。後は凛星りんせからの電話に備えるだけだね。

「来た来た」

 震える那月なつきのスマホを確認し、慌てて通話を開始する。

『もしもしお姉? ちゃんと繋がってる?』

「繋がってるよ。久しぶり凛星りんせ

 しばらくそれっぽいやり取りをしてから、いよいよ本題へ。

『そうそう。で今れっちがうちにいるんだけど、話したいみたいだから代わってもいい?』

「そうなんだ。もちろんいいよ」

 通話口からわちゃわちゃした声がしばらく聞こえると、声の主が変わった。

『も、もしもし晴花はるか様? 貫井ぬくい玲菜れなです』

玲菜れな? こんばんは。克服作戦は順調?」

 私の声を聴くと玲菜れなは相当うれしいのかきゃーきゃー騒いでいるようだった。凛星りんせも言ってたけど、私ってそれほどの存在なのかな……。もちろん悪い気はしないけど。

『ええ。順調……だと思うわ。挫けそうなときは、晴花はるか様のシュシュを見て元気をもらっているのよ』

 なんとなく感じていたけど、やっぱり力になってるんだ。それほど大切にしてくれているなら、お気に入りのだったけどあげちゃって正解だったね。

「そう、役に立ててるならよかった。ところで今日はどんなことがあったのか、聞かせてもらってもいい?」

 もちろんよ、と元気に返してくれた玲菜れなは今日の出来事を詳細に話してくれる。ありがたいことに、私が聞きたかった寝ている那月なつきに触れた事も教えてくれた。

「沢山頑張ってるみたいだね。ところでさっき言ってた、寝ている那月なつきに触れたのは何か意味があるの?」

『その……私は男性の意識が自分に向いている状態が苦手だから、意識の向いていないときになら近づけるかなって思ったのよ。それでその間に思いっきり近づけば、いつも大丈夫になるかなって』

 やっぱりそういう意図だったのか……。相変わらず玲菜れなは大胆ね。少しは那月なつきの気持ちも考えてほしいよ。

「それで、結果はどうだったの?」

『そうね……当たり前ながら同じ人間なのだし、身体は私と変わらないわね。でもやっぱり、私より大きくて、固くて……男の子なんだなって思ったわ』

「ごめん玲菜れなそういうこと聞いてるんじゃない」

 やめろやめろ那月なつき出てくるな……っ! もっとちゃんと聞くべきだったね。玲菜れなの触診の感想ではなく、自分の心境変化はどうだったのかを問いただした。

『一応、前ほどの恐怖心はなくなった、と思うわ。あの男は個人的に気に入らないけど。そもそも最近は少し気を許してしまっている気はするし……』

 あっそうだったんですね。態度的にはいつもと変わらない気がしたけど、玲菜れなから見れば気を許してくれたんだ。……っていうか今さらながら、こんな風に玲菜れなの本心引き出して、また私悪いことをしているのでは。

『もしかしたらだけれど、今回のお泊りで男性自体は難しいけれど、あの男だけはある程度慣れることが出来るかもしれないわね。凛星りんせにまだなにか考えがあるみたいだし』

「あー……それね……」

『あら? 晴花はるか様、凛星りんせに何か聞いてるのかしら?』

「えっ、いやいや知らない知らない! ただ凛星りんせなら何か企んでいてもおかしくないかなって思っただけ!」

 しまったつい凛星りんせへの不安から晴花はるかの知りえない情報を漏らすところだった。気をつけないと。私は仕切り直して、

「何はともあれ、今回のお泊りが玲菜れなにとって有意義なものになりそうでよかった。私が直接力になれることはあまりなさそうだけど、応援してるからね」

『ええ、ありがとう晴花はるか様! 私やってみせるわ!』

 決意を新たにする玲菜れなの言葉を最後に電話を切った。ふう。やればできるものね。でも……やっぱり罪悪感は残るね。こんな方法で人の本音を聞いちゃうなんて。と、それより早く着替えちゃわないと。

 私が那月なつきに戻ろうとウィッグに手をかけた瞬間。

凛星りんせー? 電話終わったわ……よ」

 なぜか那月なつきの部屋に玲菜れなが入ってきた。えどゆこと?

「あ……ここ、あの男の部屋だったわね。で、でもなんで晴花はるか様がここに……?」

 ま、間違えたのか……っ! 凛星りんせ自分の部屋に戻ってたの!? とか今そんなこと考えている場合じゃない。

 那月なつきの部屋に、なぜか晴花はるかがいるこの状況。どうする? パニックになりかけていた頭を急速冷凍でまだマシな言い訳を必死に探す。

「ん、んー……そのえとっ! じ、実は那月なつきの部屋に忘れ物しちゃってね! それを取りに来ただけ!」

「えっ? 晴花はるか様とあの男ってどういう関係……」

 あー仕方がないけど一番面倒な疑惑が持ち上がったーっ!?

「おおお落ち着いて玲菜れな私と那月なつきはただの幼馴染ってだけでそんな感じじゃ一切ないから! と、とにかく、私この後用事があるからお暇しちゃうねそれじゃ!」

晴花はるか様っ!?」

 玲菜れなの真横を通り抜け玄関に一直線。何も考えずに外へと飛び出した。くそう……面倒なことになった!

 今日は快晴だったらしく、雲一つない空には月が煌々と輝いていたが、今の私には眺めているような余裕はない。その後携帯で凛星りんせに連絡を取り、玲菜れなにばれないように部屋に帰って那月なつきに戻るのだった。




「……で、なんでこんなことに?」

 どっと疲れて泥のように眠った翌日。いつも通り自分の部屋で目を覚まし、まだ起ききっていない頭をフル回転で状況を把握しようとしていた。

 俺の部屋、俺のベッド、俺、そして隣で寝ている貫井ぬくい。いやどうして? 昨日貫井ぬくい凛星りんせの部屋に消えていったはずだ。俺指一本触れてないよな!? な!?

 とにかく貫井ぬくいはまだ寝ている様子。ここはこっそり布団から脱出して、無かったことにしておこう。

 とはいえ残念なことに、俺は出口とは反対の壁際側に寝ている。詰まるところ、貫井ぬくいをまたいで出る必要があるのだ。これは高難易度ミッション……いけるか?

 貫井ぬくいと向き合う形で寝ていた俺は、のそーっと布団を脱ぐところから始める。季節柄幸いなことに、薄手の布団で難なく事を成し遂げた。

「んっ……」

 だが貫井ぬくいの呼吸が乱れる。やっちまったか?

 ……いや、大丈夫そうだな。つーかなんか今の、ちょっと色っぽかったな。って今はそれどころじゃねぇ!

 何の不安もなく穏やかな表情でぐっすり眠る貫井ぬくいに、なんとなく悪戯心のようなものが目覚めるが、必死に抑える。くっそ、手前の嫌いな男がいるのにまぁーぐっすり眠りやがって!

 貫井ぬくいを起こさぬようゆっくりとまたぎ、とりあえず右足の着地に成功した。あとはこのまま左足を……。

「兄ぃ起きたー?」

「わぴゃあ!?」

 突然の凛星りんせの訪問。予兆もなく突如として訪れたそれに、俺は意味不明な叫びを上げてしまう。それが意味するところはつまり、

「あ、あ……あなた……」

 唇をわなわなと震わせ、恐怖とも驚嘆ともつかない表情で目を覚ます貫井ぬくい。そりゃあ起きるよね……。つーかはたから見たら、俺が貫井ぬくいにまたがって襲おうとしているように……。

「おおー。兄貴ついにその気になったんね。こいつぁ失敬。お邪魔しました~」

「待ってくれ凛星りんせ……ぐばっはぁ!」

 廊下に消えていく凛星りんせを追いかけようとするも、寝起きで言うことを聞かない体が盛大に床に伸びましたとさ。




「ったく。寝起きの体にとんでもないダメージだ」

 慌ただしい起床が終わり、俺たちはリビングへとやって来ていた。俺はわざとらしく負傷した場所をさする。

 とりあえず状況確認のために事情聴取しなければ。起床直後は若干震えていたものの、ようやく落ち着いてきた様子の貫井ぬくいにまず確認。

「で、貫井ぬくいさん? あなたはなぜ私の布団にいたんでしょうか?」

「それはその……」

 言いづらそうに言葉がよどむ。彼女は凛星りんせの背中に隠れながら、なにやらチラチラと凛星りんせの様子を伺っていた。それに気づいた凛星りんせは欠伸まじりに頷くと、貫井ぬくいは口を開いた。

「実は、凛星りんせに言われた克服ミッションでああいうことになったのよ」

「犯人はお前か」

「そだよ」

 あっさりと白状する凛星りんせに辟易しつつ、

「んで、なんであれが克服になるんだよ」

「いやほら、れっちって兄貴が寝てる時はわりと近づけるみたいだったからさ、夜這いすればいんじゃね? って思ったん」

「「ぶふぅっ!?」」

 斜め上の発言に思わず貫井ぬくいとともに吹き出してしまう。えっ、なんで貫井ぬくいも? と疑問を浮かべていると息を整えた彼女は凛星りんせの肩をつかんだ。

「ちょちょっと凛星りんせっ!? あなた夜這いなんて言ってなかったわよね!?」

「アレーそーだっけ? 言われてみれば寝ている兄貴に体を密着させてとしか言わなかった気がするなー」

「ほ、ほら。やっぱりそうじゃない」

「でもさー。寝ている異性に体を密着なんてもうそれ実質夜這いじゃね?」

「うっ……うぅ……っ」

 納得するしかなかったのか、貫井ぬくい凛星りんせの肩から力なく手を下ろした。

「……で凛星りんせ? お前はどういうつもりでこのミッションを?」

 聞くと凛星りんせは崩れ落ちる貫井ぬくいをニコニコ眺めながらあっけらかんと答えた。

「いやほら、イくとこまでイっちゃえば、苦手意識もなくなるんじゃねみたいな。あとこれで兄貴が卒業出来れば万々歳みたいな?」

 嬉々として語る凛星りんせに最大級のため息が漏れる。すると凛星りんせもひとしきりからかって飽きたのか、

「まーでもさすがにそうはなんねーってわかってて送り出したしオッケーでしょ」

「よかねぇよ。つーか貫井ぬくいも、むやみやたらに男の布団に入ってくんなよ。朝起きて隣に女の子は、男の心臓が飛び出る瞬間第二位なんだからよ」

「そのランキングはよくわからないけれど……そ、そうね。確かに良くないわよね」

 納得してもらえたようで何より。さて、と俺は立ち上がり、

「つーかまだ朝飯食ってねぇ。腹減ったわ。凛星りんせ、朝飯頼む。俺は母さん起こしとくから」

「えー面倒い……」

「じゃあ俺が飯作るか?」

「今すぐ始める!」

 しゅばっと立ち上がり颯爽と台所に立つ凛星りんせを満足げに見つめていると、貫井ぬくいにジト目で見上げられていた。

「あなたの料理って、一体なんなの……」

「おっ? 貫井ぬくい食べてみたいか?」

 俺がニッコリ微笑みつつ問うと、なにを感じ取ったのか鬼でも見たように小刻みに首を振られた。

 まぁもう少し出来てから起こしに行きますか。それまで座ってよ。

「あっ、凛星りんせ。私も手伝うわ」

「いいいい。これくらいは朝飯前だし。れっちも座って待ってて」

「そ、そう? じゃあそうさせてもらうわ」

 すとーん。

 凛星りんせに待機を言い渡された貫井ぬくいが俺の真横に座った。

 ……えっ? どこに座った貫井ぬくい? え俺の隣にいるのが貫井ぬくい? 体触れるぐらい近いですけど?

 当の貫井ぬくいを見るも何食わぬ顔。手櫛で髪を整えていた。えーこれツッコミ待ち? それとも昨日晴花はるかに言ってたみたいに、ついに俺に慣れたん? 変に指摘しない方がいいのか?

 ……まぁ別にいいか。わざわざ言うほどのことでもないしな。

「と、ところでその、一つ聞きたいのだけれど」

 俺がうとうとしていると、急に貫井ぬくいの方から話しかけてきた。何の用事か頭をひねりつつ聞き返す。

「その……あなたと晴花はるか様って、どういう関係なのかしら?」

「……。幼馴染です。お互いに部屋に出入りするぐらいな関係の、恋愛感情とか特に一切ないただの幼馴染です」

 バタついててその件忘れてた……。寝ぼけ眼をこすりつつ、昨日用意しておいたその回答を反芻した。すると貫井ぬくいは若干不満顔を浮かべたものの、これ以上聞いても無駄と判断したのかふーんとつまらなそうに息を漏らした。

「あっそう。変なこと聞いて悪かったわね」

「気にすんな。その、なんだ、心配すんなよ。別に晴花はるかを取るつもりはねぇから」

 取るとか以前に無理なんだけどな。これで貫井ぬくいの、晴花はるかを心配する気持ちが多少晴れればいいんだけど。ふと貫井ぬくいの顔を窺うも、どこか浮かない表情をしていた。

晴花はるか様程の人に心配なんて不要でしょう。何を言っているのよ」

 ? どういうことだ? ぼそりと呟いたその言葉の意味を考えようとしていると、

「兄貴たち……いつの間にそんなに仲良くなったん?」

 俺の気が遠くを彷徨ってる間に、いつの間にか凛星りんせが目の前に。含みのある視線で俺と貫井ぬくいを交互に見ていた。

「これだけで仲良くなったって言えんのか……? つーかそもそも、この距離に座ったの、貫井ぬくいの方だぞ」

「えっ? そ、そうだったかしら……」

 驚きつつも、俺から離れる様子のない貫井ぬくい。それを見た凛星りんせはなぜか急に、この世の終わりを見たかのような表情を浮かべた。

「も、もしかして二人とも……本当はヤッたの?」

「「ヤッてない!」」

 二人の声がきれいに揃った。そんな状況に凛星りんせがおーと感嘆のため息を漏らし、俺と貫井ぬくいはどこか気恥ずかしくなって目を合わせ、逸らした。

 そんな俺たちの様子を凛星りんせはニヨニヨ眺めつつ、思い出したように手を打った。

「そいえばれっちはこの後どうするの?」

「今日はバイトがあるから、ご飯を頂いたらとりあえず一度帰ろうかしら」

「バイトあったのか。忙しくしちまって悪いな」

「いいんだよ兄貴、これはれっちのためのお泊り会なんだから。むしろれっちにはアタシに感謝してもらいたいね」

 えっへんとふくよかな胸を張る凛星りんせに苦笑しつつも、貫井ぬくいは改まった様子で、

「ええ、ありがとう。凛星りんせ

 感謝を伝えた。こんなにわかりやすく照れる凛星りんせを見たのは初めてかもな……と感動していると、貫井ぬくいがゆっくりとこちらに向き直った。

「あ、あなたも、その……あ、あり」

「いいいい。兄貴に感謝なんてする必要ないよ。兄貴がアタシのために汗水流すのは、当たり前なんだから」

 おいいぃなに遮っとんじゃ! せっかく貫井ぬくいが頑張ろうとしていたのに!

「そ、それもそうね。別に必要なことじゃなかったわ」

 おいいぃなに納得しとんじゃ! 全くこいつらは俺を何だと思ってるんだよ……。俺は大仰なため息をついて諦め、気を取り直して一つ提案。

「なぁ貫井ぬくい。飯食べ終わってから、少し時間あるか?」

「え? ええ問題ないわ。何をするつもりなの?」

「バイト行く前に、もう一度俺で接客練習しないか? 今回の克服作戦の集大成としてさ」

「そ、そんなこと急に言われても……」

 困惑したようにおろおろし始める貫井ぬくいに、俺は追い打ちするように、

「まぁ急に言われても無理か……そもそもそんな一朝一夕で治るもんじゃないしな。諦めてまた今度練習しようぜ」

 挑発をかますと、貫井ぬくいは一転ムッとした様子で唇を噛んだ。

「いいわよ。今日やってやろうじゃない。煽られたみたいで腹立たしいけれど」

 俺の提案に乗ってくれた貫井ぬくいだったが、俺に焚きつけられたのが相当屈辱だったのかコツンと俺の肩を軽く小突いた。

 怒られているのだが、貫井ぬくいの見たことない反応が返ってきたことに、俺はどこか嬉しくなってしまっていた。




「よし、さっそく練習だ」

 朝食を終えた俺たちは、リビングにて練習の準備を整えていた。ここで俺への接客がうまくいけば、この後のバイトでも貫井ぬくいが活躍できるようになるかもしれない。そう思うと、どこか俺は浮足立っていた。だが凛星りんせは相変わらずマイペースで、ソファに寝転がり二時間サスペンスにご執心だった。

凛星りんせ、お前も少し手伝えよ」

「や」

 一文字で済ませんな! ったくお前が協力するよう打診したくせに。

貫井ぬくいの方は準備大丈夫か?」

「……えっ? あ、ええ問題ないわ」

 だいじょばないなこれ。緊張した貫井ぬくいをなんとか解そうと、練習前に雑談でもしてみるか。

「あー、やっぱりメイド服がないと気合入らないか?」

 さすがにメイド服は持ってきていないため、本日の練習は私服のままである。だが貫井ぬくいはいやいやと首を振り、

「そっ、んなことないわ。私は大丈夫、大丈夫よ」

 まだどこか緊張した様子の貫井ぬくい。どうしたもんかな……。

「れっちーそんな気にしなくていいよ。練習相手は所詮兄貴だし」

「どういう意味だよ」

 ったく手伝わないくせに口挟みやがって。とは思ったものの、思わずふふっと吹き出す貫井ぬくい。どうやら少しリラックスできたみたいだ。まったく凛星りんせにはかなわないな。

「まぁでもそういうこった。昨日今日で俺を通してなんとなく男ってもんがどんなのか、なんとなくわかったろ? たとえ少しだとしても、この前までの貫井ぬくいとは違うんだよ。ましてや相手は俺なんだ。ここで緊張していたら実践で生かせないぞ」

 俺たちの言葉を深く噛み締めるように、貫井ぬくいは一つ深呼吸。そして目を開けた彼女に、先ほどまでの緊張は無くなっていた。

「それじゃ、始めましょう」

「ああ、よろしく頼むぜ」

 そして俺は一度リビングから出て、入店のためにドアノブに触れる。そこで俺は自分の手が強張っていることに気づいた。なんで俺まで緊張してんだか……。かぶりを振っていざ入店。

「お、お帰りなさいませ、ご主人様」

 固さは残るものの、俺を迎え入れてみせた貫井ぬくい。私服で出迎えるその姿は、どこか滑稽にも思えるが思わず見とれてしまった。って今はそんなこと考えている場合じゃない。

「こちらへどうぞ」

 貫井ぬくいに案内されリビングの席へと腰かける俺。その最中に凛星りんせを見やるが、どうやらあまりテレビに集中できていない様子だった。そんな素直じゃない妹に苦笑していると、

「え、えと……ご注文は、その、いかがされますか?」

 なんとか聞くことが出来たものの、徐々に気がそがれてしまったのか、緊張した様子に逆戻りしてしまう貫井ぬくい。そんな状態の営業スマイルは相変わらず酷いが、今の本題はそこではない。

「えっとじゃあ……『メイドさんの愛がいっぱい! きゃるーんきゅぴきゅぴ、カフェオレのラブ割り』をお願いします」

 今まで生きてきた中で一番頭の悪い発言をした気がする。が、そんなことは言ってられない。これさえ攻略できれば、貫井ぬくいが大きく前進できるんだから。

「かっ、かしこまりました。少々お待ちください」

 逃げるように小走りでキッチンに向かう貫井ぬくい。シンクに手をつき呼吸を整えているようだ。ここいらでやめておいたほうが……とも思ったが、他ならぬ貫井ぬくいの目からはまだ光が失われていない。ふとその視線の先を追うと、どうやらシュシュを見つめているようだ。

 なら、まだ諦める時間ではないな。深呼吸を繰り返し落ち着きを取り戻したのか、貫井ぬくいはお盆に空のコップを乗せ、俺の前へとサーブした。

「そ、それではご、ご主人様も、一緒に……」

 えっ? お、俺も? ってそういえばご主人様と一緒にラブを入れるとか言ってたな。……俺は何を言ってるんだ? 唐突に訪れた疑問を無視するように咳ばらいを一つし、

「どうすればいいんだ?」

「わ、私が、ラブラブと言ったら、ご主人様も後に続いてください。それを五回繰り返したら、最後に私が魔法をかけて完成……です」

 ……五回? マジで? 説明した貫井ぬくいは恥ずかしそうに手でハートを作り、左右に揺らしていた。えっ、特に言われなかったけど、そのハート俺もやる流れなの? くっ……やるしか、ないのか? 観念して手でハートを作りスタンバると、貫井ぬくいは唇を震わせながら詠唱を始めた。

「ら、ラブラブ」

「ラ……ブラブ」

 いったい何なんだこの時間……。考えたら負けだと無心で詠唱を続ける。そんな地獄を耐え抜きつつ、最後の一回を終えた。すると貫井ぬくいはカップの真上にハートを差し出し、

「きゅんきゅんきゅーん。こ、これで私とご主人様のラブが混ざり合ったカフェオレの完成です。ど、どうぞ召し上がれ……」

 バターンッ!

 何の音でしょうか? そうです、私が倒れた音です。

「ちょ、ちょっと!?」

「すまん、すまん貫井ぬくい……俺の方が耐えられなかったよ……」

 俺は机に突っ伏したまま、若干涙目で謝罪を繰り返した。ダメだ。俺の羞恥心が耐えられない……俺がこれを受けるには、訓練が足りなかったようだ……。

「い、いいから顔を上げなさいよ……」

 貫井ぬくいに諭され、ゆっくりと顔を上げる。うう、恥ずかしくて貫井ぬくいの顔をまともに見れん……。だがそれは貫井ぬくいも同じようで、俺とは目を合わせようとしていなかった。

「すまなかったな。でも何はともあれ、ちゃんと接客できたな!」

「ま、まだまだよ……。まだぎこちなかったし、これじゃあちゃんとできるか不安よ」

 とは言うものの、どことなく貫井ぬくいも嬉しそうで、内から溢れる笑みを隠せていなかった。そんな彼女の姿に、自分も少しは役に立てたんじゃないかとついニヤけてしまう。

「でも、今日のことは自信を持っていいと思うぜ」

「……そう、ね。あなたの言う通りだわ。あとで晴花はるか様にもお礼を言っておかなきゃ」

 左腕のシュシュを愛しそうに見つめ、そんなことを口にする貫井ぬくい。本当はもう伝わってるんだけどな。なんて考えていると、貫井ぬくいがこちらに向き直った。先ほどのことを思い出したのか赤面しつつも、俺の目を真正面に捕らえたまま、

「そ、その……あなたも、かなり、いやちょっとだけだけれど、役に立ったわ。だから、その……ありがとう」

 ぎゅーっとシュシュを握りながら貫井ぬくい。やっと聞くことのできたその言葉に俺はつい斜に構えてしまう。

「これくらい気にすんなよ。大したことじゃない」

 なんて言いつつも、めちゃくちゃに喜んでいる自分がいた。絶対に表には出さないけど。

「いやーよかったねー前進出来て。おめでとー」

 うっすい拍手とともにお祝いを述べる凛星りんせに、俺はやれやれと首を振りつつ、

「全く……大したことしてないくせに」

「いやいやーちょー大事な仕事したよ今」

 今? 俺も貫井ぬくいもなんのことやらさっぱりで、先を促すように凛星りんせに視線を向けると、手に持っていたスマホをすっと持ち上げた。

 そして凛星りんせが画面に表示されたボタンをピコンと押すと、

『ら、ラブラブ。ラ……ブラブ。らラブラブ。ラブ……ラブ……』

「「うわあああぁぁぁぁ!?」」

 俺と貫井ぬくいの絶叫がこだました。俺たちのリアクションをケタケタ笑いつつ、

「これは大事なところだーと思って、ちゃんと録音しておいたんよ。アタシはやればできる女だからね」

 よく見れば先ほどまで見ていたはずのサスペンスドラマは暗転。雑音の全くない俺たちの声だけがスマホから再生されていた。

「二人ともこの録音データ、いる?」

「いらねぇ!」

「今すぐ消しなさいっ!」

 此度のお泊りで男性克服作戦は、とてつもない喧騒とともに幕を閉じたのだった。




 憂鬱な月曜日の放課後のこと。貫井ぬくいとともに空き教室集まった俺は、

「まぁその……なんだ、元気出せよ貫井ぬくい

 なぜか貫井ぬくいを慰めていた。

「だ、だって……もっとできると思ったんだもの……」

 机に突っ伏してすっかり鼻声の貫井ぬくい。なんというか美人の弱っている姿は男的に何か感じるものがあるが、んなこと言ってる場合じゃないほど本当に落ち込んでいるようだ。

 どうやら俺との接客練習を終えた後のバイトで、せっかくの練習をなにも生かせないレベルでダメだったらしい。で、本日この有様である。

「一朝一夕で直せるもんじゃないってわかってんだろ? それに言ってたじゃねぇか。あきらめなければって」

「わかってる……わかってるわよ。でも落ち込まないなんて言ってないもの」

 あうあうと机に沈み込む貫井ぬくい。こりゃしばらくダメそうだな……。

「あっ、玲菜れなさん。探しましたよ」

 ガララ―とドアを開けて入ってきたのは安斎あんざいだった。相変わらずめっちゃ短いスカートを翻しながら玲菜れなのもとへとやってくると、

「あら、那月なつきさんも一緒だったんですね。ところでこの状況は……」

「あー気にすんな。落ち込んでるだけだから。それで、いったい何の用事なんだ?」

玲菜れなさんに少々大事なお話がありまして」

「ふぇ?」

 力なく顔を上げる貫井ぬくいが不思議そうな顔を浮かべる。って俺は邪魔者って事か。

「あーストップです那月なつきさん。あなたも聞いておいたほうがいい話かもしれないので」

「えっ? いったいどういう……」

 貫井ぬくいと俺の視線を集めた安斎あんざいは、もったいぶるように咳払いすると、

「このままだと、玲菜れなさんがメイド喫茶をクビになります」

 深刻さを一切感じさせない、朗らかな笑みで彼女は言い放った。

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