第一章 那月と玲菜は犬猿の仲?

那月なつき、今日は食堂に行こ」

 四限が終わるやいなや、授業で静まった活気を一斉に取り戻した教室。そんな中、斜め前の席。お尻あたりまで伸びた長い青髪を携えた中性的な男の子が声をかけた。

瑞希みずき、そんじゃあ行くか」

 樋口ひぐち瑞希みずきの誘いに応じると、彼は弾んだ声でうんっと両手を握り小さくガッツポーズ。かわいい。うん、とてもかわいい。

 と、俺のそんな思考が透けてしまったのか、瑞希みずきはむぅと少しむくれて、

「今変なこと考えてなかった?」

 と俺の目をのぞき込んできた。いやいや、と毅然とした態度で首を振った。

「全くです。女の子よりかわいいなんて微塵も思っておりませぬ」

「あーぜっっっったい思ったでしょ!」

「思ってないって」

 もーもーと憤慨する瑞希みずきをなだめつつ、俺たちは教室を出た。

 瑞希みずきとは高校一年からの付き合いになる。髪がとても長く、さらに中性的な彼の端正な顔立ちは、まるで女の子のようだと入学当初かなり話題になっていた。

 ただ本人がそこについて言及せず、次第に周りもどう扱ったらいいのか迷ってたこともあったが、今ではそんなことを気にする人はあまりいないようだ。

「そういえば那月なつき、昨日何かあった?」

「ん? どうしたんだ急に?」

「いつもより少し落ち込んでるように見えたからさ、なんかちょっと心配になっちゃって」

「あー気にすんな。お気に入りのものを失くしただけだから」

 昨日咄嗟にあの女の子に上げたちゃったけど、まぁまぁお気に入りだったんだよなぁ。生地が若干ふさふさしてて最高の手触りだったな。

「えっ、それって重大なことじゃない?」

「いやまぁ失くしたっつうか自業自得みたいなものだし」

「ダメだよっ! ボクも一緒に探すよ!」

「いや本当にいいんだよ……」

 どのみち本当に失くしてても、俺がシュシュを探しているなんて言えない。俺が女装していることは、家族しか知らないのだから。

 とそんな話をしていると、近くにいた男子生徒が地団駄を踏んで何やら悔し気な声を上げていた。

「くそーっ! 貫井ぬくいにふられた!」

「そりゃそうだろ。相手は氷の女王なんだから」

 氷の女王……かっこいい二つ名だな。なんて思っていると瑞希みずきが、

那月なつき、なんか不思議そうな顔してるけど、もしかして知らないの?」

「ん、まぁ知らんけど……そんなに有名なのか?」

「結構有名だよ。ボクでも知ってるくらいだし」

 すると瑞希みずきは後ろ手を組み、

「一年生に貫井ぬくい玲菜れなって女の子がいるみたいなんだけど、その子がとっても綺麗なんだって。だからさっきの男の子みたいに好意を寄せられることが多いんだけど……」

 組んだ後ろ手をほどき、今度は腕を組み少し険しい表情の瑞希みずき

「いざ告白しようと呼び出して想いを伝えると、無言のまま立ち去っちゃうんだって」

「そりゃひでぇな。あっ、じゃあもしかしてあの二つ名は……」

「二つ名って……ちょっと違くない? ともかく、那月なつきの考えている通りその冷たさから氷の女王って呼ばれてるんだ」

「なるほどね。とはいえ、なんでそんな仕打ちをするんだろうな」

「ボクもそこが引っかかってるんだよね。女の子との仲は良好みたいだから、ただの悪い人ってわけじゃないと思うんだけど」

 二人して頭を悩ませるが、もちろん答えは見つからない。こういうとき、女の子のことが理解できてれば、すぐにわかるものなのかな……って、

「あっ」

「どうしたの那月なつき?」

「そーいや担任に頼まれてたことあったわ」

 ったくもー、と頭を掻きながらため息。瑞希みずきがあはは……と乾いた笑いを浮かべる。

「まぁまぁ、先生のお願いなんだからそんな嫌そうな顔しちゃダメだよ。それで、何を頼まれてるの?」

「五限の授業で使うもんを持って来いってさ。というわけで悪いけど、先にそっち済ませてから食堂向かうわ。瑞希みずきは先に行っててくれ」

「任せてっ、しっかり席は取っておくからね!」

 やだもうっ! 柔っこいおててのガッツポーズめっちゃ可愛い! とか思ってるのが瑞希みずきにばれたら怒られるな。

 俺は平静を装いつつ瑞希みずきに手を振って特殊教室棟に向かった。




「人いねー」

 昼休みにわざわざ調理室や各授業の準備室(つーか倉庫)の集まる特殊教室棟にくる人はいないだろうけど……って部活動で使われる教室もあるみたいだし、用事のある人もいるか。

 ともかくさっさと用事済ませて瑞希みずきとのランチに……。

「んっ?」

 俺以外誰もいないと思ったが、前方に女子を発見した。後ろ襟からちらりと見えるリボンの色から察するに、妹の凛星りんせと同じく一年生らしい。

「……っておいおい」

 よく見るとその女の子のスカートから、解れた糸が床につくレベルで飛び出していた。いやあれを気にしないとかどんな神経してんだよ……。

「ちょっとー、糸解れてんぞー」

 俺は親切心から駆け寄り、その子の糸を拾い上げた。が、その瞬間。

「「えっ?」」

 ストーンっ、とその女の子のスカートが落ちた。

 はっ? 意味が分からんえどういう状況? 女の子のほうも顔からすっかり色が抜け落ちていた。唐突すぎる状況に縞々のオレンジパンツを隠すことすら忘れていらっしゃるご様子。

「……」

 えっ? パンツが見えてる? マジで? つーかこの状況って俺の立場まずいのでは……。

「きゃああああぁぁぁ!!」

 ですよね!

 女の子の叫びに体中から汗がナイアガラのごとく流れ落ちる。

 落ち着け俺! ちゃんと説明せねば!

「ままままま待ってくれとりあえず落ち着いてくれ! 俺は解れた糸を取っただけで! 脱がすつもりなんてこれっぽっちも……」

 弁明のために必死に言葉を紡ぐ最中、その女の子の顔を見た俺は言葉を失った。理由は明快。

 腰ほどまで伸びた長い金髪。整った美しく綺麗な顔立ち。見間違えるはずはない。

 那月なつきではなく、晴花はるかとしてつい昨日会った女の子だ。よくよく見れば、俺があげたシュシュを左腕につけてくれている。へー同じ学校だったんですねー……。

「……きゅ、急にだ、黙らないでよ」

 絞り出すかのようなか細い声に、俺はもう一つの事実を思い出す。あの女の子は男が怖いと言っていた。つまり俺は彼女にとって、恐怖の対処ということだ。

 俺は怖がらせないよう、ゆっくりとセルフホールドアップ。

「その、大変申し訳ないです。とりあえず、これでパンツを隠して下さい」

 無惨にも床に落ちたスカートを掴み、地面と向き合ったまますすーっと彼女の腰まで持って行き、とりあえず隠させた。

 周りに人が居なかったのが幸いだな。あの叫びはアウトでしょうけど。

 どうしたもんかな……と頭を悩ませていると、蛇に触れるみたいにちょんちょんと指でつつかれる感覚。立ち上がって女の子に向き直ると、その女の子がちょいちょいととある方向を指さした。

「被服室か。確かに裁縫道具さえあれば何とかなるな」

 俺は周囲を警戒しつつ被服室のドアを開けた。とはいえ、あんな叫び声が上がったんだ。人が居るならとっくに出てきているだろうが、用心に越したことはない。

「大丈夫みたいだ。とりあえず入ろうぜ」

 そう促すが、彼女は一歩たりとも動こうとしない。どういうことだ? なにか理由があるはず……つっても相手は女の子だしな。俺が理解できるとは到底思えん。とはいえ、今は諦めていい状況じゃないか。

 ん~っ? と鑑定士のごとく彼女をじっくりと観察。これで虫眼鏡でも持てば結構サマになって……いや対象が女の子である以上ただの変態だな。彼女も全く同じことを思ったのか、不機嫌そうに身をよじった。そりゃあ苦手な男ですもんね俺……。ってもしかして、

「男の俺と部屋に二人きりになるのが嫌……とか?」

 聞くと彼女は弱々しく首を縦にコックン。なるほどそんなに男が苦手ですかー。

「そりゃあ申し訳なかった。じゃあ誰も来ないように外で見張ってるから、中で直してきちまえ。自分で直せるか?」

「も、もちろん!」

 うっお急にはきはきと!? びっくりしたわ……。そんな俺の様子が伝わったのか、彼女はしまったとばかりにさらに小さくなってしまった。

 なにはともあれ、裁縫スキルに相当自信があると見た。俺のせい(?)で迷惑かけたわけだし、とりあえず縫い終わるまで待ちますか。

 彼女は俺にいつ襲われるやらな警戒マックスの視線を向けつつ、被服室の中に消えた。俺は扉の横にしゃがみこんで待つことに。

 ……スカートが落ちるって相当な事故よな? そんなすぐ直せるか……? とそんな不安を抱いていたが2分ほど待つと、がらりと扉が開けられた。よっこら立ち上がり彼女の方に振り返ると、ふっふーんと聞こえてきそうなほど勝ち誇った笑みを浮かべている。

「すげーなスカート直せ……」

 賛辞を口にしかけて、止まる。それは彼女のスカートが、再び重力の法則にのっとって床へとスカイダイブしたからだ。

「……っぶなっ!」

 今回はすんでのところで後ろを向いて事なきを得た。男としては正しいが、KENZENな男子高校生としてはいかがなものだろうか?

「か、隠した? 隠したか!?」

「えっええも、もう大丈夫……っ!」

 彼女の許しを得て振り返るが、沈黙。スカートがこのままなのではという絶望がこの空間を支配していた。

「……あの」

 彼女が怯えないよう、ゆっくりと小さく挙手をしてから発言。その甲斐あってか、あまり驚かれずに先を促された。

「自分が直してはダメでしょうか……? これでも裁縫の心得はありますので……」

 俺のせいなのかは定かでないが、こんな状態の女の子を放置する事は出来まい。俺の進言に彼女はインチキマジシャンを見るような眼差しで、

「……あなたにそんなことが出来るのかしら?」

 急になんか強気だな……。あれか? 自信のある話題になると急に語りだすあれか? それ恥ずかしいやつぞ? 俺知ってるかんな?

 とはいえ信用してもらわにゃ話は進まない。あー……と声を漏らしつつ、自分の裁縫スキルをアピールすることに。

「俺には妹がいるんだが、そいつの丈直したり、ウエスト調節してやったりしてるんだ。だからそれくらいなら直せる、と思う。ご不満か?」

 あとは自分の女装服の細かな調整もやっているのだが……そこはノーコメンツ。しばらく俺のことを値踏みするように眺めていたが、俺の自信ありげなドヤ顔が功を奏したのか、

「……わかった。あなたに任せるわ」

 そっぽ向いてふんと渋々了承してくれた。

「ありがとな。それじゃあ俺も被服室に入るからな」

 俺が先に被服室に入ると、やや遅れて女の子も入室。だいぶ警戒されてますねー。そして彼女は後ろ手にガチャリと鍵をかけた。

「それじゃあ早速スカートを……」

 イスにどっかり座って作業……と思ったけど、その間彼女は下着を隠すものがないってことだよな。俺の懸念事項に気づいたのか、女の子はむっとした様子で、

「うう後ろ、向いててなさい、よ」

「そ、そりゃもちろんだが、やってる間モロ出しで居る気か?」

「ちょ……モロ出しとか言わないで! 仕方ないでしょう!?」

「確かに仕方ないが……。あーじゃあせめてこれで隠しとけ」

 俺はブレザーを脱いで、受け渡すつもりでペイッと投げると、彼女はビクビクッ! と飛び退いて避けてしまった。あのー俺のブレザー汚れるんですけど?

 彼女は床に叩きつけられたブレザーに恐る恐る近寄り、くんくん異臭確認。危険物じゃねぇよ。そして爆発物を取り扱う自衛隊のごとく慎重な様子で、目を細めちょんちょん触診。なんかそこまで汚物みたいな扱いされると、単純に傷つくわ……。

 ひとしきり確認が終わると安全だと判断されたのか、すすーっと持ち上げた。

「さ、さっさと後ろ向きなさいよ」

 猫のような威嚇の眼差しに、俺はネズミになって戦々恐々後ろを向いた。

 ごそごそ……と聞こえる衣擦れ音。すぐ後ろで女の子が服を脱いでいるなんて……なんかこう……欲望が……。なにせ彼女はとてつもない美人だ。これは俺だけではなく、きっとどの男子もそう思うはず。そんなレベルの女の子の生着替えとなれば、思わず生唾を飲み込んでしまうだろう。

 だがしかし、相手はそもそも男に対していい印象を持ってない。ここで俺が更に悪い印象を与えるわけにはいかぬ! と強い意志で理性を保つ。

「脱ぎ終わったわよ」

 はいっと顔の真横に差し出される女の子のスカート。その勢いによって翻った布から、お花っぽいいい香りが俺を包んだ。……冷静、冷静。

「ちょっと待ってろよ」

 と声をかけたものの、相手は無言だった。もしかしたら首を縦に振ってるのかもだけど、今振り返るわけにはいかない。とにかく作業を……、とスカートに目を落とす、が、

「……」

 ひ、ひでぇ! なんだこの縫い跡!? 玉止めめちゃくちゃしてあるし意味のないとこまで縫ってるし……裁縫未経験の人間でもここまではならねぇだろ!? 

 あの裁縫できるみたいな自信はどこからくるのやら……。ため息混じりに片っ端から彼女の縫い糸をバツバツ切り落とした。

 そしてしばしの作業時間。校庭の方から生徒たちのやかましい声。だがこの部屋を支配するのは沈黙。はっきり言って気まずい。沈黙に耐えきれず、俺は口を開いた。

「えーっと……、裁縫下手なのか?」

「なっ……下手ですって!? そんなわけないじゃない!」

 普通に反論された……。やっぱり自分のわかる話題なら意外と話せるのか? って今はそれよりも、

「どう見たって下手だろ……。こんな縫い方見たことねぇよ。俺の妹でももっとうまくやるわ」

「なっ……なんて失礼な! 私は裁縫部なのよ!? 下手なわけないじゃないこの節穴っ!」

「これで裁縫部だと……」

 この学校の裁縫部のレベルは大丈夫なのか? とそんな心配をしつつ縫っていると、

「そ、そう言うあなたはどうなのよ!」

 ずいっ。……近い近い、何で俺の顔の真横から覗き込むのよ。まったくどんなお小言を言われるのやら、と身構えるも、

「あら、以外と上手いじゃない」

 なんか誉められた。予想外の言葉にま、まぁな、とやっすい返事を返してしまう。

明理あかり先輩には及ばないけどね」

 ふふんと得意げな彼女だったが、俺の顔がすぐそばにあることに気づき、慌てて顔を引っ込めた。

明理あかり先輩? 誰だそれ?」

「我が裁縫部の部長よ。とってもすごいんんだから。自分でメイド服を作れるほどなのよ!」

「へーそうなん……」

 メイド服? なぜメイド服を作ってんだ? もしやコスプレ趣味のあるお方なのだろうか……。そんなことに思いを馳せつつ、着々と作業を進める。そして、

「ほい完成、穿いてみてくれ」

 縫い終わったものを後ろに渡すと、無言のまま衣擦れ音だけが聞こえてきた。

「問題ないか? 振り返っていいか?」

 聞くと小さくうんと返事があったので、立ち上がりゆっくりと振り返る。

 どこか恥ずかしそうにもじもじする女の子。重要項目であるスカートを確認する。うん、どうやら問題なさそうだ。

「えーっと……とにかく。時間とらせて悪かったな。でもスカートが落ちたのは俺のせいじゃないよな?」

「……」

 えーせめて何か言ってほしいんですけどー。

 だが彼女を見るとしきりに自分の手の甲をナデナデ、そして震える唇。どうやら何かは言いたいらしい。気長に待ちますか……と俺が咳払いをすると、彼女は催促と受け取ってしまったようで焦りながら、

「なな、名前……」

「えっ? 俺の?」

 聞くと彼女はこくこくと頷いた。何で今? と思いつつも、

「俺は朝凪あさなぎ那月なつきだけど。急にどうした」

「ふーん……」

 なにに納得したのか、ふむふむうなずきながら俺の顔をまじまじと見とめる彼女。すると、

「ね、ねぇ、ああなた、どこかで会ったこと……ない?」

 その一言に、俺の心臓は一気に凍結。すっかり忘れてた晴花はるかの時に会ってること……。だがまだ疑っているだけの様子。押し切って参る!

「さ、さぁね……なんのことやら。これが初対面に決まってるだろ」

 うっ……冷静を装いきれぬ……。内心焦ったものの、どうやら納得いただけたようだ。彼女は警戒の視線を解くと、

「そうよね……あなたみたいな低俗なのが、晴花はるか様なはずないわよね……」

 あのーすみません聞こえてますけど? ちょっと失礼じゃないですかね? 曲がりなりにもスカート直してあげた人に向ける言葉じゃなくない?

 と脳内で猛烈に抗議するも、もちろん彼女に伝わるはずもなく。踵を返してスタスタと扉の鍵を開けて廊下へ。

「ちょ、おい?」

「わ私、は、貫井ぬくい玲菜れな、よ」

「お、おう……えっ?」

 それだけ言うと、貫井ぬくい玲菜れなと名乗った女の子はそそくさ走って行ってしまった。

「え……貫井ぬくいってあの……?」

 ついさっき瑞希みずきが言っていた、噂の女の子? 氷の女王? それがあの子なの? グチャグチャとかき回された頭を抱え、一度深呼吸。

「……とりあえず、女装はバレなかったみたいだな。つーか後で俺のせいだとか言われないだろうな……あっ」

 ブレザー持ってかれたじゃん。




 食堂に向かった頃にはすでにお昼休みは終わり直前で、先に待たせてた瑞希みずきはとっくに昼食を終えていた。そんな中、文句も言わず俺の心配、さらには軽く食えるものを買ってくれてた瑞希みずきは彼女にしたい男ナンバーワンだった。今度告白してみようかな……。

「兄ぃなにニヤケてんの? キモいから隣歩かないで」

「あのな……兄も言葉によっては傷つくぞ? つーか俺にくっついているのはそっちだろ?」

 歩きスマホな凛星りんせはぶつからないようにするため、俺のすぐ後ろにぺったりくっついていた。まったくちゃんと歩きなさいっての。

「あっ、そいえば兄ぃ。なんかクラスの女の子からこんなの預かったんだけど」

「わぷっ!?」

 言いつつ凛星りんせは俺の顔面に何かの布をお見舞いしてきた。こんな酷い物の渡し方教えた覚えないよお兄ちゃん……ってこれ、

「俺のブレザー?」

「そ、なんか間違えて持ってきちゃったから返しといてって」

「……その女の子ってもしかしなくとも」

「そ、貫井ぬくい玲菜れな。アタシのマブダチ」

「へっ、へぇーそれは知らなかっ……」

 すると凛星りんせは大きく一歩、俺の目の前に仁王立ち。えっ、なにこれ怖いんですけど。種類のわからない悪寒に襲われる。

「にしても兄ぃもやるよねー。会って間もない女の子の、それも妹の友達のスカートを脱がすなんて」

「ちち違うんだ凛星りんせ聞いてくれよ」

 やっぱりその話か……。あれはどう考えても俺に落ち度はないはず。不機嫌につり目な凛星りんせに俺は必死に弁明する。言い訳を聞き終えた凛星りんせはふむと納得の息を漏らした。

「あのー……ご理解いただけましたかね」

 俺が顔色を窺うように戦々恐々聞くも、凛星りんせはなにやら思案顔で興味なさそうだった。なんでだよ。そしてふと思い出したかのように、

「ん? ああ、まぁそんなことだろうと思ったよ」

「えあっさりしすぎでは?」

「だってれっちの裁縫下手は一年生で知らない人はいないし」

 おーい裁縫部ー。悪名が一年の間で滅茶苦茶広まってんぞー? 裁縫部の今後は大丈夫なのだろうか……などと憂いていると、凛星りんせがぴょんとまた俺の後ろにぴったりくっついた。歩けって事なんだろうな。

「まぁ理解してくれたなら何よりだ。いやぁにしても焦ったぜ、凛星りんせめっちゃ怒ってる風に見えたし」

「え怒ってなくはないけど」

「どっちだよ」

 凛星りんせは取り出しかけたスマホを仕舞い、俺から一歩離れてポケットに手を突っ込んだ。

「経緯はわかったけど、アタシのれっちを恥ずかしい目に遭わせたのはいくら兄ぃでもやっぱり許せないかなって」

「アタシのって……凛星りんせにそこまで言わせる友達が出来てたなんて」

「兄ぃ本当に怒るよ?」

 ぎろりとドスの効いた睨みをちょうだいし、俺は速攻で謝罪した。あれはマジでやばい時の目だ……。

「いや確かにスカートを結果的に脱がせたことは悪いと思ってるけどさ、別にパンツを見たわけじゃないし」

「……本当に?」

 うっ……何という鋭い視線だ。なんかまずそうな予感がしてパンツを見たくだりはなかったことにしたけど……悪手だったか?

「ホントウデス。お兄ちゃんを信じてくれ」

「ふーん……まぁそれならいいけど。れっちも勝負の紫パンティはどうでもいい男なんかに見せたくなかっただろうし」

「ああそれなら心配いらねぇぞ。今日はオレンジだったか……ら」

 あっ、しまった。そう思ったときにはいつも遅いのである。凛星りんせの呆れたため息。

「兄ぃほんとにチョロ過ぎ。そんなんでよくアタシをやり過ごそうとしたね」

「すまん……この世に迷彩柄パンツ以外が存在するのが衝撃的だったかっ痛っぁ!?」

 足の親指がなくなったかと思いきや、凛星りんせに思いっきり踏まれただけだった。なぜ踏まれたのか解せぬ。凛星りんせはジトっとした目で俺を蔑むと、

「兄ぃ最低」

「ああ……パンツを見てしまったことは本当に悪いと思ってる」

「そっちじゃねぇーし。もういいや」

 凛星りんせはがっかりした様子で大仰なため息をつくと、スマホを取り出し俺にぴったりとくっついた。

「あー信頼する兄ぃに裏切られたしアタシのパンティ馬鹿にされたー超ショック。この気持ちをどうしてくれようかなー」

 大根もびっくりな棒読みでおよよ言い出す凛星りんせ。残念ながらお決まりの流れになったな。

「わかった。お詫びに何でもするから許してくれ」

「わーいお兄ちゃん大しゅき」

「わーい世界一嬉しくねぇ」

 兄に対して現金な生き物。それが妹である。久しぶりに猫撫で声聞いたな。さて、今回は何を頼まれるやら……と身構えるも、凛星りんせは関係なさそうな話を始めた。

「アタシさー、マジびっくりしたんよ。れっちが男に対してプラスなこと言ってんの。まぁそれ以外マイナスなことしか言ってなかったけど」

「だろうな……って、一応プラスなこと言われてたんだな」

「あー確か、裁縫の腕は素人にしては上出来と言えるわねって」

 あの程度でよく上から来れるなあいつ。

「それとさ、一個聞くけど兄ぃ。晴花はるかの時に助けた女の子って、れっちっしょ?」

「な、なんでそのこと……」

「だって兄ぃのシュシュ持ってんだもん。サルでもわかるじゃん」

 言い方……はさておき、確かに凛星りんせの言う通りだ。俺が内心で納得していると、凛星りんせはスマホが忙しくなったのかしばし沈黙してから、

「つまるところ、れっちは知らず知らずのうちに男と話せてたってわけですよ」

「まぁそういうことになるな。……それで、結局俺に何を頼みたいんだ?」

 聞くと凛星りんせは満足そうに頷きスマホをしまうと、急に俺の腕に絡まってきた。そして上目遣いにゴロゴロ。

「ねぇ兄ぃ。今度の休日、アタシ行きたいところがあんだけど」

「うーん……お兄ちゃん今度の休日は用事が……」

「お願~いお兄ちゃ~ん。さっき何でもするって言ったじゃん。アタシの一生のお願い、ね?」

「よし行こう」

 兄とは時に、いいように使われているとわかってても可愛い妹のお願いを聞かねばならぬ時があるのだ。

 一生のお願い、確か十六回目だったかな。




「め、メイド喫茶……っ!?」

 目的地も教えてくれない凛星りんせが先導し数分歩き続けると、最寄り駅を超えた住宅街まで来ていた。そしてその中に佇む、見た目は普通の喫茶店。ただ店先の看板はがちがちにメイド喫茶であることを主張していた。

 その名も『メイド喫茶 ライトブライト』! ものすごく光りそうとかそんな感想しか浮かばなかった。

「着いたー。あー疲れた。歩くのだるい何で人間に足生えてんの……」

 ぶっ飛んだ疑問を提示しながらぶーたれる凛星りんせに目的を問うた。

「それで凛星りんせ、私をここに連れてきてどうするつもりなの?」

 ちなみにだけど、なぜか凛星りんせに女装を強制されたので現在は晴花はるかになっている。

「お姉とメイド喫茶でデートしようと思って」

「いやいやいや……まともに答えてよ」

 ちらりと建物の様子をうかがうも、窓があまりなく中の様子は全然わからない。本当にメイド喫茶なのこれ? 不安な私を凛星りんせは気に留める様子もなく、気だるげに大あくび。

「まー入ったほうが早いし、とにかく行くよ」

 凛星りんせは躊躇いもなくドアに手をかけ、そして開け放つ。するとそこにはーー

「あっ、お、お帰りなさいませ、お嬢様方っ!」

 じっ、実際に言ってるの初めて見たっ! なんかテンション上がる!

 と小さな感動も束の間。

「……えっ? り、凛星りんせ? それに、晴花はるか様……?」

 よくよく見れば、私たちに挨拶してくれたその女の子は。

「やっ、れっち。来ちゃった」

 ひきつった笑顔のレーナこと、メイド服を身に纏った貫井ぬくい玲菜れなだった。えっ、なにこれどういう状況? 男が苦手な貫井ぬくいさんがメイド喫茶でバイト?

 貫井ぬくいさんはしきりに手の甲を撫でて、どうやら大変混乱しているようだった。だが凛星りんせは何の構いもなくふんぞり返る。

「ちょっとちょっと、お嬢様が帰って来たんだから、早く席に案内してちょ。アタシはもう疲れた」

「えっ、あ、ああそうね。それではこちらにどうぞ」

 凛星りんせの言葉に我を取り戻した貫井ぬくいさんに通され、空いている席に着席。するとようやく落ち着いてきたのか、貫井ぬくいさんはムッとした様子でメニューを渡しつつ、

「もう……凛星りんせったら。めんどいから絶対行かないって言ってたじゃない」

 ご機嫌斜めに口を尖らせる彼女に、めんごーと流す凛星りんせ

 ……どうやら、今日の用事は貫井ぬくいさんのことみたいね。それはさておき、とりあえず何か頼まないと。メニューを開くと、ユニークな名前の料理たちに圧倒された。『二人で混ぜ混ぜっ☆ ご主人様とメイドのラブラブミルクティ 千五百円』だと……? 名前がやたらめったら長いけど、短縮したらただのミルクティよね? 千五百円も取るの?

「気が変わった。れっちの可愛いメイド姿を見とこー思ってね」

「べ、別に可愛くなんか……」

「可愛いよねお姉ぇ?」

「えっ?」

 凛星りんせに問われて、メニューに落としていた目を貫井ぬくいさんへ。露出は低めだが、ふんだんにフリルのあしらわれた可愛らしいメイド服に身を包む彼女は確かに凛星りんせの言う通り、

「ええ、私も可愛いと思うわ。貫井ぬくいさん、とても似合ってる」

 私がそう伝えると、貫井ぬくいさんは心の置き所をなくしたように頬を染め、前髪をいじって視線を隠した。だが何かを思い出したみたいにはっと驚き、なぜか一度深呼吸をして私たちに向き直ると、

「あ、ありがとうございますお嬢様」

「「……」」

 笑顔……ものすごく引きつってる……。

「あっはは、れっちってば笑顔下手くそ過ぎっ!」

「ああこら凛星りんせ貫井ぬくいさんになんてことを」

「い、いいのよ……わかっていることだから」

 そうは言ってもあなたとても悲しそうな顔しているよ……。貫井ぬくいさんは営業スマイルが苦手なのね。それにしても、その前に見せた照れ隠し、ちょっとドキドキしたな……。

「普段笑ってるときはすっごく可愛いのに。もったいないなぁ」

「もっもう凛星りんせっ! からかわないで!」

 彼女が今度は怒りで頬を染めて声を荒げると、近くにいたメイドさんが、

「レーナ。お友達が来て嬉しいのはわかるけど、他のご主人様たちも居るんだから、気を抜き過ぎちゃ駄目ですよ」

「ご、ごめんなさいアキャリ先輩……」

 先輩メイドさんなのかしら。彼女のメイド服は貫井ぬくいさんと違って露出が激しいね。貫井ぬくいさんがチラ見せガーターベルトなのに対して、アキャリさんはガンガン見えてる。

 しかもわき腹部分が紐のノースリーブで、袖も紐で繋がってるだけで脇も普通に見えるし。

 あまり広くない店内をぐるりと見回しほかの店員さんも確認。統一性がなく、どうやら固定のメイド服はないみたいだった。にしてもこれを選ぶあたりがすごいね……。

「くすくすっ、お嬢様。そんな熱い視線を注がれては、私も恥ずかしいですよ」

「あっ、ご、ごめんなさい。そんなつもりじゃなかったのだけど」

「ふふっ、お気になさらず」

 柔らかな笑みを浮かべたまま、テーブルの片づけが終わった彼女は裏へと入っていった。

 女装してて良かった……素のままだったら白い目で見られて終わりだったね。あれだけの露出をしておいて恥ずかしがられてもって感じだけど。

「お姉ってほんっとーにしょうがないよね」

 あっ、アウトでしたっ☆ 呆れ腐った凛星りんせからの視線を全力で無視していると、貫井ぬくいさんが腰に手を当てて、私の顔を覗き込んできた。

「そういえば晴花はるか様、私のことは下の名前でいいわ。ああでも、今はお仕事中だからレーナって呼んでちょうだい。凛星りんせもよ」

 胸につけられたハート型の名札を、やや腰を折りながら見せつける貫井ぬくいさん。すると襟元が少しだけたわみ、覗けば胸が見えそうな感じだった。いや……いやいや、妹の友達に何を考えているの私は。

 というかそんなことよりも!

「い、いきなり下でって……?」

 女の子を名前で呼ぶ……ハードル高っ!? しかもお店とはいえあだ名(?)も結構レベル高いよ!? ってここでたじろぐあたり、自分の女性経験の低さに泣けてくる……。

 そんなことをしているうちに、凛星りんせはいともたやすく「はいはいレーナ」と言ってのける。友達だし女同士なんだから当たり前だけど……って、今の自分は晴花はるかなんだから。何を緊張することがあろうか!

 私に名前を呼ばれるのを待っている貫井ぬくいさんにゆっくりと向き直り、

「レっ……ーナ……」

「ありがとう晴花はるか様。これからもよろしくお願いするわ」

 くっ……緊張した……。横で必死に笑いをこらえている妹に畜生めと吐き捨てた。

「え、ええよろしくね。ところでその、私のこと……普通に晴花はるかって呼んで欲しいん」

「それは駄目よ」

 なんでぇ!?

「ところで凛星りんせ。気になってたんだけど、二人はどういう関係なの?」

 流れるような話題転換。えっ表情すら変わらないんですけど? そんなに崇め奉りたいの私を?

 まぁそれはともかく……レーナの当然の疑問に私は思わず緊張し、静かに喉を鳴らす。り、凛星りんせ? 上手く答えてね?

「あー……実はついさっきそこで知り合っ」

「レーナあのね、私は朝凪あさなぎ那月なつきとお友達なのよ。彼の妹の凛星りんせとはそれ繋がりで仲がいいの」

 凛星りんせの下手くそぉぉぉっ! 流石にさっき知り合った人と来る場所じゃないでしょここ! わざとか? わざとやっているのか?

 私の急な割込みに変な空気になりつつも、レーナは納得した様子で、

「そ、そうなのね。凛星りんせにそんな繋がりがあるなんて意外だわ」

「まねー。あ、そいえば注文まだだったね。ここに来るまでに体力使い果たしたからしっかり回復しなきゃ」

「貧弱かっ……。っと、そうね、私も注文しようかしら」

「ええ、承るわ」

 私と凛星りんせは長い名前の割高メニューをそれぞれ注文。凛星りんせはレーナが裏へと消えたのを確認すると、

「……れっちはさ、どうしてここで働いてると思う?」

 頬杖をつき、私の顔をのぞき込むように凛星りんせ。少し真剣な顔をする彼女に、私はすっと居住まいを正した。

「普通に考えれば、男性が苦手な女の子の働く場所ではないよね。ということはつまり……」

 とんでもない荒療治だとは思うけど、答えはそれなのだろう。男性が苦手だからこそ多く関わる場所で慣れてしまおう、ということだ。

「そ。お姉は理解が早くて助かるね」

「なんで上から……まぁいいや。で、玲菜れなの働いているメイド喫茶にわざわざ連れてきた理由は何なの?」

 聞くと凛星りんせはグイっと水を一口。再び頬杖をついて、私の目をしっかりととらえた。

「れっちの苦手……もしかしたら直せるんじゃないかと思ってさ」

「……私に言ってるの?」

「んー……両方、かな」

 凛星りんせの提案を聞き、私は腕を組んで目を伏せた。

「確かに那月なつきとして少し話せたのはアドバンテージというか……そういう風に考えられるかもだけど、だからって私たちでどうこうできる問題じゃないと思うよ」

「やってみなけりゃわかんないじゃん」

「そうは言うけどね……」

「少なくとも、アタシは兄ぃに可能性を感じたよ。れっちも変わろうと頑張ってるんだから、手伝ってあげてよ」

「私にそこまでする義理はないでしょ」

「あーそういうこと言っちゃうんだ?」

 まるで悪いことをする生徒を発見して先生に言いつけるのが楽しみな子供のように、無邪気っぽく目を歪める凛星りんせ。何を言われるかと身構えたけど、

「……いやま、それもそうね」

 帰ってきた答えは意外とあっさり。本当に適当なのよね、凛星りんせって。よく言えば他人を尊重、悪く言えば他人に興味ないというか。

「まーでも、そんな簡単に断らないでさー、もうちょい考えてみてよ。アタシは兄ぃとお姉ならなんとかできるに賭けとくから」

「その賭けに何の見返りがあるのよ」

「アタシがお姉をもっと好きになる」

「それは魅力的だね……。でも、そんなので受ける訳ないでしょ」

 私が断ると凛星りんせは小さくちっ、と舌打ち。こらこらそういうことしないのっていつも言ってるのに……。

「でも珍しいね。凛星りんせが誰かのために頑張ろうなんて」

「どゆ意味よ。アタシだってねぇ、数少ない友人のために一肌脱ごうってこともあるし」

 と、ご立腹な妹君をなだめていると、すたすたとレーナがこちらに戻ってきた。

「ごめんなさい。もう少しかかってしまうみたい」

 丁寧に頭を下げるレーナ。そしてへそを曲げている凛星りんせを見つけて、不思議そうに首を傾げた。

「何の話をしていたのかしら?」

「別に大したことじゃないよ」

「お姉がなんでレーナがここで働いているのか気になってんだってさ。それでアタシが克服のために働いてるんだって教えてあげたとこ」

「ちょっと凛星りんせ……っ」

 全部そっちがふってきた話でしょうが。どうやら意地でも私に協力させたいみたいね……。レーナはなんでそんな話に? と訝しげな表情だけど、答えてくれるようだ。

「そう……気にしてくれてありがとう。確かに私がこんなところで働いているなんて、変だものね」

「でも理由を聞いたら納得したよ。それにしても、克服するためにこんなところに飛び込むなんて、すごいね」

「あっ……実はそれだけじゃないのよね」

「えっ? そうなん?」

 驚きの声を上げたのは凛星りんせ。それ以外にここでバイトする理由があるのか……いったい何だろうとは思うものの、本人が話しづらそうにもじもじしていた。

「べつにレーナが言いたくないんならいいよ。アタシは深入りしないから」

「そんな気遣ってくれなくても大丈夫よ。確かにちょっと恥ずかしいけれど……」

 気持ちを落ち着かせるように手をキュッと握ると、レーナは震える唇を開いた。

「じじ実は私、メイドさんになりたかったの」

「め、メイドさんに?」

 あまり聞いたことがない夢に驚きを見せると、レーナは口をとがらせ、

「や、やっぱり変かしら?」

「いえ、確かに珍しいとは思ったけど、変だなんて思わないよ」

「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわね」

「なるほどなるほど……レーナは意外と奉仕がしたいタイプ……っと」

「ちょっと凛星りんせ、そうとは言ってないでしょう」

 変なメモを取る凛星りんせにムッとお叱りする姿は、メイド服も相まってご主人にめっする感じでなんかいいね。

「それで、どうしてメイドさんになりたいの?」

「私ね、メイドさん自体に憧れがあるの」

 レーナは頬に手を当てると、しみじみと語り出した。

「あれは確か小学生の頃だったかしら……。親に内緒で夜更かしして、テレビを見ていたの。そんな時、たまたまアニメがやっていてね。学校の生徒会長が、家計の為にメイド喫茶で働くお話だったんだけど……」

 レーナは身を包むメイド服を微笑ましく眺めると、

「可愛い洋服に身を包んで働くその姿に、ものすごく惹かれてね。気づけばメイドさんの虜になっていたわ」

 メイドになりたいなんて突飛な夢かと思ったけど、ふたを開けてみれば可愛いお洋服を着て働きたいという、実に女の子らしい夢だった。うきうきで語るレーナだったが、急にがっくりと肩を落とし落胆の声で、

「日本では、実際にメイドを雇っているところなんてほぼないから、将来の夢とは言えないけれどね……」

 まあ確かにメイドなんてそもそも海外の文化だった気がするし、日本でせいぜい聞くのはお手伝いさんとか家政婦だ。それに恐らく、こんな格好で働いていないだろう。

「だから私のこれは、自己満足みたいなものになってしまうわね」

「なるほどね……。よかったじゃない。夢が叶って」

 凛星りんせとともにおめでとうするも、レーナはどこか浮かない顔。バツが悪そうに自分の肘を撫でる。それの意図するところを察したのか凛星りんせがズバリと言い当てる。

「ま、満足に接客も出来なきゃ、やってる意味ないもんね」

「なるほどね……って、もうちょっとオブラートに包みなよ」

「い、いいのよ……晴花はるか様……本当のことだもの」

 そうは言っても思いっきりテンション落ちているじゃない……。凛星りんせのこういうところは昔からだし、多分もう治らないね。私がフォローしないと。

「まぁでも、これからできるようになればいいんだから。きっとそのうちできるようになるよ」

「……ええ、晴花はるか様の言うとおりね。諦めちゃダメよね。頑張っていればきっと、男性のことを理解できるようになるもの。きっとそうすれば、怖くなくなるんだから……」

 そう闘志を燃やすレーナの姿に、私は思わず胸が痛んだ。だって異性を理解するのはきっと無理なんだから。女装なんて続けているけれど、結局見えてくるのは表面的なものだけ。だから今私が続けているのは惰性というか、せっかく生み出した晴花はるかという存在を消したくないから、そんな理由だけでやっていることだ。

 いやま、単純になんか楽しいってのもあるけど。

 どこかバツの悪くなった私は、置いてあったグラスの水を一気に煽った。体が冷えていくのを感じる。

「……ねぇ、一つ聞いてもいい?」

「いいわよ」

 私の声のトーンに、少し身構えてレーナ。どこか張りつめてしまった空気を和ます為に、私は大きく伸びをしてから、

「どうして、そこまでして男性恐怖症を克服したいの?」

 聞くとレーナは照れたように髪を撫でる。

「自分で言うのもなんだけど実は私、結構男の子に告白されるのよ」

 それは確かに自分で言うのもってとこではあるけど……。そういえば瑞希みずきもそんなこと言っていたね。

 そもそも初めて見たときから思っていたけど、貫井ぬくい玲菜れなは高一とは思えないほど整った目鼻立ちをしていて、彼女を一目見れば誰もが綺麗と言うほどの美しさだ。男であれば彼女の隣に立つことを羨むだろう。

「それでいつもちゃんとお断りしなきゃと思っているんだけど……どうしても直接二人きりで会ってしまうと、どうしていいかわからなくなって返事もせずに逃げ出しちゃうのよ」

「ああ……それは傷つくね」

「だからアタシも一緒に行くって言ってんのに」

「だって私だけが呼び出されてるのよ? それなのに凛星りんせについてきてもらったら、相手の人がびっくりしちゃうじゃない」

 うーん……ちょっと難しいところだね。ちゃんと一人で来て無言で立ち去られるか、それとももう一人ついてきて断られるか。……どっちもどっちな感じがするな。結局断られてるし。

 まぁでも相手の言うことを守ろうとしているあたり、貫井ぬくい玲菜れなという人間は律義な人間なんだろう。

「とにかく。だから私はちゃんと克服して、ちゃんとお断りしたいのよ」

 やっぱり断るのは前提なのね……そもそも男が嫌いなんだから、好きな人もいる訳ないか。

「そういえば、男性に対して苦手意識を持ったのっていつからなの?」

「明確に意識し始めたのは小学生の頃だったわね」

 レーナは腕を組み、深く思い出すように目を閉じると、

「ただきっかけはもっと前だったと思うわ……。確か幼稚園のころ、男の子たちにいじめられたのよ。それ以降私が男の子と一緒にいるのをものすごく嫌がったみたいで、それを見かねた両親が卒園後に女子小学校に入れてくれたんだけど……」

「もしかしてそれで、女の子だけの空間に慣れちゃったってこと?」

晴花はるか様の言うとおり、おおむねそんな感じよ。高学年になる頃に、男性担任のクラスになって、久しぶりにお父様以外の男性と接する機会ができたのだけど、いつの間にか男性が得体の知れない存在になっていたの」

 レーナは思い出すだけで恐怖を感じているようで、組んだ腕によりいっそう力がこもった。今にも震えだしてしまいそうな様子だった。

「……ね、れっち」

 いつの間にかスマホを取り出し遊んでいた凛星りんせが、不意に声を上げた。

「れっちの苦手克服、アタシも手伝うよ」

 画面に目を落としたままだったが、そう言うとスマホを仕舞い頭を掻いた。

「えっ、でも前にお願いした時、凛星りんせはめんどいからパスって……」

「気が変わったの、それとも嫌?」

「ううん、そんなことないけど……」

「いい作戦が思いついたから、ちょっとやってみようかなって思っただけ」

 そう言うと凛星りんせは私の方をちらりと見る。凛星りんせの考えていることが透けて見えた。私が首を振っているのを明らかに確認しているのに、止まる様子を一切見せない。

「うちの兄貴を使いなよ」

 あーやっぱり……。手伝う気はないって言ったのに。私がポカーンとバカみたいに口を開けていると、レーナがめちゃくちゃ嫌そうな顔を浮かべ、

「アレと関わるの? 正直に嫌なのだけど……」

「れっちの場合は誰でも嫌でしょ。贅沢言うなし」

「襲われたらどうするのよ」

「あーだいじょぶだいじょぶ。兄貴にそんな度胸ないし甲斐性なしだし。それに、もしアタシのれっちに変なことしたら兄貴と絶縁するし」

「で、でも……」

「あと童貞だし」

「あら、それなら大丈夫ね」

 ……えっ? 二人とも那月なつきのこと嫌いなの? なんなのアレだの度胸なしだの童貞だのさぁ? えっ、それより凛星りんせいま私と絶縁的なこと言ってなかった? 嘘でしょ……私はこんなに凛星りんせを愛しているのに……。

 つーかレーナの童貞に対する安心感はなんなん?

「ぷっ……くく……どっ、どしたのお姉?」

 くっそ凛星りんせのやつ、わかっててやってやがるな……っ! 那月なつきの前で見せたことないであろう超絶笑顔に内心唾を吐きつつ、とりあえずこの流れを崩すのは諦めた。

「どうもしません。それで、どうするのレーナは?」

「そ、そうね……晴花はるか様は、うまくいくと思う?」

「私にそんなこと聞いても無駄でしょ。やってみなくちゃわからないんだから」

 まぁ現状、断るつもりしかないけど。レーナには悪いけど、私にも那月なつきにも、力になれることは何もないんだから。

晴花はるか様の仰る通りだけれど……」

 どんどん力を失う声。縋るようにつかむ左手首のシュシュ。しおれた花のような彼女の姿に私は一つため息をつき、

「あなたがいいと思うのなら、やってみる価値はあると思うよ?」

 瞬間、レーナの表情に光が咲く。全く、こんなので元気取り戻しちゃって……。

晴花はるか様、私頑張るわ! ああでも、まずは凛星りんせのお兄さんに協力を仰がないといけないわね。大丈夫かしら……」

「いいよいいよーアタシから話しとく」

 と、私にアイコンタクトを送る。私が不機嫌の視線を返すも、相変わらず気にする様子はなさそうだった。

「ま、待って」

 そこで口を挟むはレーナ。いったいどうしたのかと見やると、少し迷いのある強ばった表情をしていた。

「私が……私が直接、お願いする……だから、凛星りんせはなにもしなくていいわ」

 揺れる瞳。それは明らかに不安を訴えていた。そんな彼女に、那月なつきに協力を仰ぎに行くことが出来るかと問われれば、

「いやいやーどー考えても無理っしょ。アタシに任せなさいって」

 私も凛星りんせと同意見だった。今の様子を見る限り、彼女が一人で男である那月なつきに頼みに行くなんて無理だろう。

「で、でも……それまでも頼んでしまったら、この先ずっと変われないと思うの。だから、頑張りたい」

 レーナはなおも引き下がらない。相変わらず瞳は揺れたままだが、その奥には確かな意志のようなものを感じた。

 彼女のこういうところは本当に強いな。素直に尊敬してしまった。

「ま、れっちがそう言うなら、頑張ってみりゃいいんでない?」

 凛星りんせも彼女が折れないと踏んだのか、口をとがらせ匙を投げた。でろーん背もたれにもたれかかった。

「応援してるよレーナ。あなたならきっと大丈夫」

 そんな心にもない言葉だったのにも関わらず、レーナはやる気に満ちある触れた瞳で、

晴花はるか様……ええっ! ありがとうございます」

 元気いっぱいの返事。そしてメイドらしくスカートをつまんで軽く持ち上げお辞儀。フィクションでしか見なかったその所作に、私は思わず胸が高鳴っていた。

「あっ、準備ができたみたい。行ってくるわね」

 レーナはパタパタと軽い足取りで厨房の方に消えていった。彼女が離れたのを見届けた私は凛星りんせに向き直る。

凛星りんせ……」

「わかってるよ。これ以上は何もしない」

 凛星りんせは相変わらず背もたれに全体重を預けたまま、気だるそうに続けた。

「ただ、れっちの呼び出しだけは答えてあげてよ。それでどうするかはお姉に、兄ぃに任せるからさ」

「……わかった」

 気は進まないながらも、ここまで来たらそれだけはしようか、と心に決めて仕返しとばかりに凛星りんせの足を軽く蹴った。

 思いっきり蹴り返されました。




 思わず寝かけた本日ラストの授業をなんとかやり過ごし、俺は被服室へと向かっていた。これから部活動にと賑わう生徒で騒がしい廊下を抜け、驚かせないようにドアをノック。入るぞーと声をかけながらドアを引く。

「っ……きっ、来た、のね」

 西日に照らされた被服室に、緊張に体を強張らせきった貫井ぬくい。俺の姿を見とめると、ゴクリと喉を鳴らした。

 つい昨日晴花はるかとして会ったときとは別人、とまではいかなくとも、纏う雰囲気は全くの別物に思えた。

「そりゃあお呼ばれしたからな。さすがに来るだろ」

 俺が一歩近づくと、彼女の警戒がまた一段強まった気がした。とりあえず、これ以上近づかないほうが得策っぽいな。

「それで、話ってなんだ?」

 なんて言いつつ、何の話か分かってんだけどな……。凛星りんせにも頼まれちゃいるが、俺の答えは依然として変わっていない。

 貫井ぬくいは相変わらずカチコチに固まったままだったが、それでも喉に引っかかった言葉を声にしようと努めていた。

「そのっ! ……あ、なたに……お願い、あるんだけど」

貫井ぬくいが俺に? そいつは興味深いな」

 我ながらなんて白々しい……。凛星りんせだったら三秒で裏があることを見抜いているな。だがしかし、当の貫井ぬくいは今、自分のことで精いっぱいだ。俺のことなんて気にしている余裕はない。というか、見ようによっては今にも泣きだしそうな雰囲気なんだが。人が入ってきたら確実にあらぬ誤解をされると思うのだが?

 焦る気持ちはあるものの、今は彼女の言葉を待つしかない。ふと貫井ぬくいと視線が合うと、彼女は開きかけていた口を閉じぎゅっと唇をかんでしまった。慌てて俺は目をそらす。

 視界の端で彼女を捉え続けるも、彼女が動く様子はない。痺れを切らした俺はため息を一つついて貫井ぬくいと目を合わせた。

「なぁ、無理なら無理でいいんじゃねぇか? 噂を聞いたけどさ、男が嫌いなんだろ? それなのにわざわざ無理してまで俺に頼み事なんて、する必要ないだろ?」

「違うっ!」

 うおっ急にでかい声!? 貫井ぬくいから聞いたことのない声量の言葉に、俺は思わず肩を飛び上がらせてしまった。本人も意図していなかったのか、俺より戸惑っているみたいだ。

「違う……違うのよ、嫌いなんじゃないわよ……。ただ、怖いのよ……」

 ……そういえば、貫井ぬくい自身は男が嫌いなんて一言も言ってなかったな。嫌いと苦手は同じ意味じゃないもんな。

「今のは俺が悪かった。ごめん。噂では男嫌いで有名だったから、ついそんな言い方しちまった。許してくれ」

「べ、別に構わないわよ……それで有名になってるの、知ってるし……」

 めっちゃくちゃ不服そうだな……。まぁ悪目立ちというかただの悪評だもんな。だが今ので緊張が少しほぐれたのか、先ほどよりは口が柔らかくなったようだ。

「とととにかく……不本意ながら、あなたにお願いがあるの。ま、まさか断ったり……しないわよね?」

「断るもなにも、まず内容を教えてくれよ。話はそれからだろ?」

「……っ!? そ、そうね。私としたことが失念していたわ」

 表情こそあまり変わらないものの、どうやら内心相当テンパっているご様子。何というか新鮮な感じだ。なんかこう……綺麗でしっかりしてそうな人が焦る姿って、いいよね!

「別にそんなに慌てなくていいから、話すんだったら話してくれよ」

「さっきは急かしたくせに……」

 いやまぁ確かに……。図星を突かれてバツの悪くなった俺は、小声だったし聞こえないふりをすることにした。

「わ、私、男性恐怖症を克服したいの。それでその……あなたにも、協力を、して、ほしいんだけど……」

 やっとの思いで放たれた貫井ぬくいのお願い。正直無理だと思ってた。俺は腕を組み、用意していた答えを返す。

「協力は出来ない」

 貫井ぬくいは何か言い返そうと口を開くが、何も発せられることはなく、ただ悔しそうに歯を食いしばった。

「さっきも言ったけどさ、別に無理をする必要はないだろ? 確かに貫井ぬくいのレベルは将来困るほどかもしれないけど……うまく折り合いつけて生きてる人だっているだろうしさ。えーっとその……男性を理解すれば怖くなくなるって考えているのかもしれないけど、所詮それだって無理なんだから、潔く諦めたほうがいいと思うぜ」

 ここまで言えば貫井ぬくいも納得してくれんだろ……。

「……こ……ない……」

 えっ?

「そんなこと……ない……っ!」

 驚き見開く目。そんな俺の目を、貫井ぬくいは一切逸らすことなく見つめていた。ちょっとつけば泣き出してしまいそうな、だのに力を感じさせるその瞳に思わず気圧されるが、俺はかぶりを振った。

「無理だって。そんなの理想論だ。俺たちは理解し合えないんだよ」 

「出来るわ! 諦めなければきっと……!」

「どうやってだよ。方法なんてなんもないだろ……っ」

「きっと何かあるはずよ! やってみなければわからないじゃない!」

「ないんだよ! どうやったって理解することなんてできない高い壁があるんだ! 何をやっても無駄なんだよ!」

 ……ああ、この言葉は違う。これじゃあまるで。

「あなたも、なの?」

 白状しているようなものじゃないか。

「あなたも私と同じで、異性を理解しようとしていたの?」

 しくじった俺には、これ以上紡ぐ言葉が見つからなかった。俺の沈黙を肯定と受け取った貫井ぬくいは一歩だけ、俺に近づくと優しく語りかけた。

「よかったら……あなたのこと、教えてくれない?」

 なんでそんなことを貫井ぬくいに、とは思うものの、沈黙が自分を責め立てているような気がして、俺はぽつぽつと一つ昔話を聞かせていた。

「……小学校入りたてのころだったか……それぐらいん時に、入学前から仲良くしていた女の子の幼馴染がいたんだ。その子がクラスで一番足が速い男の子に告白したんだが、見事に玉砕してな。んで、わんわん泣く幼馴染をなんとか慰めようと色々励ましちゃいたんだが……」

 ここまでするすると言葉が出てきたが、急に肺がつぶされたみたいに息が詰まった。ああ、そーいやこれ思い出すの結構久々だもんな……。

「えっと、その……」

 俺の様子を心配した貫井ぬくいが、慌てたようにもう一歩距離を詰めた。『大丈夫?』の一言を言うのにも、貫井ぬくいには大きな壁らしい。俺大きく息を吸い、無理やり肺を膨らませる。

「言われちまったんだよ。『男のあんたに私の気持ちの何がわかんの!?』ってさ」

 なんとか言葉にはできたものの、自分の体温がみるみる下がっていくのが分かった。それなのにどうしてか汗が流れ落ちる。それを悟られぬよう、前髪を直すふりをして額の汗を拭った。

「そう……だったのね」

 今の話に貫井ぬくいも何か感じるものがあったのか、陰鬱な表情を浮かべていた。

「それ以来、女の子とどんな風に接すればいいのかわからなくなって、貫井ぬくいほどじゃないが女の子を避けるようになったよ。今思えば、小学生のくせにませた悩みだよな」

 そうだ。思い返してしまえば些細なことなんだ。あの子だってそんなつもりはなかったと思う。でも、あの時の俺にとっては、確かに大きなものだったんだ。

「ねぇ、だったら取引しましょうよ」

「えっ?」

「あなたは私のために男性克服の手伝いをする、私は……具体的に思いつかないけれど、あなたが女の子のことを理解できずに困っているのなら助ける。これなら、あなたにもメリットはあるんじゃないかしら」

 腕を組みどこか殊勝な笑みを浮かべる貫井ぬくい。あまりに突飛、というかよくわからない取引内容に俺は眉間にしわを寄せた。

「なんじゃそら……。本気で言ってんのか」

「本気に決まっているでしょ? だからあなたも諦めるのはやめなさい。あなたみたいに男女の相互理解を諦める人がいるから、男女の諍いがなくならないのよ」

「なに俺男の代表として怒られてんの?」

「ええそうよ」

 冗談のつもりで言ったんですけど……。愕然とする俺に貫井ぬくいはさらに言い放つ。

「男女の相互理解はあなたの言う通り、到底無理な難しい事だと思うわ。でも、それでも理解しようと努力し続けなきゃいけないのよ。きっと」

 毅然とした態度で言い放つ貫井ぬくい。そこには確かな説得力があって、きっと彼女の言う通りなんだと思えるような力があった。だが、相手が男だということを思い出したのか少しずつ委縮してしまう。ほんと、よくわからん女の子だな。

 俺がいまだに答えに迷い沈黙を流していると、野球部だろうか。校庭の方からカキーンと君のよい音を響かせる。それと同時に窓から吹き込んだ風は、カーテンと半端に留められた掲示の紙、そして俺と貫井ぬくいの髪を弄んだ。

「……わかったよ」

 はぁー……っ! と俺はわざとらしく大仰なため息をついてから、再び前を向く。

貫井ぬくいに協力してやるよ」

 俺の答えに貫井ぬくいの頬が一瞬緩みかけるも、即座にいつもの表情に戻し腰に手を当てた。

「ふん、最初からそう言っていればいいのよ」

 ったくなんで上からなんだよ……。もう一度ため息をつきそうになった。こんなつもりじゃなかったんだけどな……。なんつーか、年下の女の子に諦めるなだなんだの言われてるのが、ひどく格好悪いって思ったのが敗因だな。

 ……いや、諦めずに努力しようとする貫井ぬくいの姿が、眩しかったからかもな。自分の中でそんな答えを出すも、どこかこっ恥ずかしい気がして深く考えるのはやめた。

「あんまり期待すんなよ?」

「大丈夫よ、最初からしていないわ」

「さっきまでの弱々しさはどこに行ったんだよ……」

「う、うるさいわね。私だって男の子であるあなたとどう接すればいいのか模索中なのよ」

「……そうかよ」

 なんだそれ。口を尖らせ不満をあらわにする姿は、不覚にも可愛いとか思ってしまった。心の置き所をなくした俺は、あーとか変な声を上げてから、

「じゃあ、取引成立って感じか? とりあえずよろしくな」

 ついフレンドリーな流れで手を差し出してしまった。おかしいな、俺にシェイクハンドする文化はないはずなのだが?

 当然、男が苦手な彼女が手を握るはずもなく、空を彷徨う俺の手。貫井ぬくいは肩をびくつかせて後退、迷子な俺の手を固唾を飲んで見つめていた。

「わ、悪い。なんかついやっちまった」

 あはあはは、と気持ち悪い笑みで誤魔化しつつ手を引こうとすると、

「ちょっと! なんで戻すのよ」

 何故か語気を荒げた貫井ぬくいに止められた。さらに迷子になる俺の手。果たしてどこに行けばいいんだ?

「ま、曲がりなりにもここに協力関係が生まれたのよ? その相手の手を握らないのは……筋が通らないのではなくて?」

「そう……だろうか……?」

 頭を悩ませつつ、言われた通り手を差し出し続ける。やっぱり貫井ぬくいは変なところで律義な人間なんだな。

 それはさておき、俺の手をおっかなびっくり見つめ続ける女の子という、目の前に広がる不思議な光景をいつまで見続ければいいのだろうか……。

 そそーっと手を伸ばしては引っ込めるその姿は、まさしく『箱の中身はなんじゃろな?』に挑戦しているようだった。箱も何も正解見えているけど。

「別に今そんなに無理しなくてもいいだろ。これから慣れていけばいいんだから」

「う、うう……でも……」

 今度は貫井ぬくいのおててが迷子になっていた。指揮でもしてんのかってくらい迷った挙句、すすーっと自分の膝に帰っていく。

「で、できなかった……」

 そのまま膝に手を当てがっくり項垂れる貫井ぬくいの姿は、なんとも哀愁に満ちたものだった。かける言葉が見つからなかった俺は、とりあえず話を進めることに。

「とりあえず、取引は成立でいいんだな?」

「え、ええ……構わないわ。でもまさか、私のスカートを脱がせた人と、こんな関係になるとは思いもしなかったわ」

「いやだからあれは不可抗力っしょー……」

 まだ根に持ってたんか。このネタで一生ゆすられそうだな。

「例えそうだとしても、私の……見た事実は変わらないはずよ。それは女の子にとっては一大事なんだから。覚えておきなさい」

 早速貫井ぬくい様より女の子についてご助言をいただいた。いや流石にそれはなんとなくわかってたけども。

「それじゃあ用事も済んだし、私は帰るわ」

 よいしょと置いてあった鞄を右肩にかけると、俺の横を通り過ぎていく貫井ぬくい……って。

貫井ぬくい、ちょっと待ってくれ」

「どうしたのよ?」

 俺からやや離れた位置で停止する貫井ぬくい。そんな彼女をよくよく見ると……、

「あーやっぱり。ここ、髪の毛に糸くずがついてんぞ」

 ぴぴっと俺が自分の右首のあたりを指で示しながら指摘。すると貫井ぬくいは不思議そうな顔で自分の金髪を点検。そして糸くずを発見すると、少し恥ずかしそうに俺から顔を逸らした。

「本当ね。私ったら……」

 ……ってちょっと待てよ?

 貫井ぬくいが糸くずを取ろうとしたところで、俺の脳裏にあのトラウマがよみがえっていた。あの糸は……引っ張ってはいけない!?

「ぬっ、貫井ぬくい! ちょっとストッ……」

 止めに入るも時すでに遅し。するすると伸びていくその糸は、貫井ぬくいのブレザーをほどいていき……。

「「……」」

 はらり、と彼女のブレザー、そしてなぜかワイシャツまでもが地面に落ちていた。当然彼女の上半身は今……、

「なっ……! なにすんのよこの変態ぃっ!」

 バチィッ! っと被服室に響き渡る快活な音。

 なんで俺がぶっ叩かれてんの?

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