第9話

どうして、気付かなかったのだろう。

巨大なほ乳類の死骸はこんなにも耐え難い悪臭とおぞましい存在感を発して目の前に存在しているのに。腐敗の具合を見て、死後正確な時間なんて俺には分かりようがないけれど、ついさっき置かれたという感じではない。

今日は土曜。日中は人でごった返してこんな巨大なものを起きようがない。そうなると、少なくとも今日一日はここに置かれていたという事になる。


「下ろすから受け止めて」


耳鳴りを切り裂いて明瞭に聞こえた声。

ヒュッという鋭い音がしたかと思うと、香炉の屋根に碧は軽やかに着地していた。肩にかかったままのギターケースに手を突っ込み、中から『FrancFranc』で売ってそうなピンク色のタンブラーを取り出し、蓋を開ける。

タンブラーからつまみ取った粉末を振りかける碧に、俺は顔をそらしつつ、何とか問いかける。


「なんすか? 塩? 」


俺の軽口に碧は応じることはなかった。何のためらいもなく布団でも持ち上げるように牛の死骸を抱え込み、香炉の下に下ろそうとする。俺は冗談だろと顔をしかめたけど、碧は早くしろとばかりに顎を上げる。

できるだけ呼吸をしないように気をつけ、腕を伸ばして巨大な肉の塊を受け取る。重量物を受け取ると言う感覚はあるがそれ以上に全身に強力なサポーターがつけられている感覚であり、苦もなく支えることができた。むしろ、持ち方を間違えればちぎれかねない生き物の死骸を骨を機転に押さえるのと、大きく裂かれた腹の傷口に触れないようにするのに難儀した。

それでも臓物と体液が落下は止められず、脂汗を垂らしながらゆっくり地面に下ろしたときには完全に息が上がっていた。


下を見下ろすと服の腹の部分からズボンにかけて体液が付着していた。

撥水性のあるマウンテンパーカーはいいが、グレーのスキニーは絶望的になっていた。


「お疲れさま。気分は平気?」


地面に降り立った碧がタオルを差しだしてきた。

俺は不機嫌な顔を作りながらそれを受け取り、気休めにしかならないが体を拭いていく。


「いや、最悪っすよ。この服どうしてくれるんすか」

「よごれてもいい服できてって言わなかったっけ? 」

「言ってないし、その場合でもこんなこんなクソまみれになる想定はしないでしょ」

「クソまみれ? どこが? 」


見ると、碧の着ているコートはどこにも牛の血の後が見あたらなかった。俺も体を見下ろすと服に付いた体液は固まって、塵のように消えていた。

驚く俺をよそに碧は淡々と続ける。



「耐性はしっかりあるみたいね。むしろ私より高いかも。普通の人だったら呪いに当てられて立っていられない状況よ」


呪い、また不穏な言葉が出てきた。でも確かに、おぼろげに感じている嫌な感じもそうだし、何より腹を裂いた牛の死骸をあんなところに放置するという行為には呪いという言葉に相応しい陰湿な感情が見て取れる。


「まあ普通の人は呪いだったり鬼だったりは脳が見るのを拒否しちゃうから、これが一日ここにあっても『なんか嫌な感じがするな』くらいにしか思わないだろうけどね」

「見えないって・・・・・・」


思い出したのは初めて碧を見た夜だ。周囲に何者かの気配を感じたが、実際に何かを視認できなかった。あれは、見えていたのに見えないと認識にしていたということか?

そう思った瞬間に、霧にの中の陰が像を結ぶみたいに、あの時いた存在の全貌が少しずつ思い出せてきたような気もしてくる。

しかし、俺は直近の疑問が口にする。


「でも、だれが、何のために・・・・・・」

「だれがっていうのはわかっているわ。『黄泉軍』の一組織、新興邪教『常世会』のイカれた信徒達。何でなのかは詳しくはわからないけど、霊地の一つの浅草寺を汚してなにかをしようとしているのね」


いきなり固有名詞の洪水に、俺は混乱する。

というか、そのように具体的な敵組織のようなものが存在していて、目星がついているのが意外だった。

聞いた文脈を読んで、考えを口にする。


「ええと、『黄泉軍』っていうのがあんた達の敵の総称で、『常世会』ってのは・・・・・・例の『鬼』って化け物の組織ってことですか? 」

「実働部隊は鬼だけど、操ってるのは多分人間。信徒を何人か拘束したけど、漏れなく自殺されたから教祖、拠点の位置はわかってない。わかっているのは虫の鬼を使役すること。虫を信仰のシンボルとしていることと名前だけ」


かなり具体的で物騒な話に、俺は唾を飲み込む。声がかすれそうになりながら、頭を動かし疑問を口にする。


「どうして人間が操ってると思うんですか?あの化け物達が集まって自分らで動いるって線はないんすか? 」


これは半分、俺の希望的観測が混じっていた。てっきり敵は化け物だけだと思っていた。あんなものに与みする人間がいて、それと戦わないといけないなんてぞっとしない。


「無いわね。鬼は基本的に群れる知性はない。それに、実際あいつらの教祖にはめられて私たちの仲間が一人殺されているのよ」


碧の発した声に、俺の気のせいかも知れないが普段の淡泊な声色の中にも隠しきれない情動を感じた。俺が碧の顔を見たときには、既にいつものような凪いだ湖面のような表情に戻っていた。


「まぁ、あなたにいきなり人とやり合えとは言わないから、安心して。そういうのは私が相手するから」


不安を言い当てられて、ばつの悪さから俺は反抗的な態度をとってしまう。


「何すか。俺だってそんくらいの覚悟は持ってきてますよ」

「そういう話じゃなくて、人を殺すのは色々と面倒なのよ・・・・・・。まぁ、そうじゃなくても人は守るモノだから」


そうだ。それがベースだ。

俺だってそのために来たんだ。あの怪物達が誰かを襲うのが、その脅威ががもしかしたら知っている人に向かうかもしれない、そう思ってここまで来たんだ。

それに、この人はそうやって人を守り続けてきたのだ。だからその判断にはある程度の妥当性はあるのだろう。


「・・・・・・わかりました。あんたの判断には従いますよ。俺は自分の意志でここに来たんで。足手まといになるつもりはないっすよ」

「ふふ。それは楽しみね」


彼女はからかうように口元だけで笑った。その声色は俺の胸の奥底の反骨心とやる気をくすぐった。

見てろよ、この女・・・・・・。

俺は肩に担ぐ刀を強く握った。その時だった。


「あのさー、君達ぃー!?なにやってんのこんなところでー!」


境内の脇から声がかかった。闇の中から、自転車を引いた初老の警官が大股で近づいてきていた。

やばい。端から見たら完全に補導案件だし、不法侵入だ。鬼と戦う以前に内申点に傷がついてしまう。


「君達さー。困るんだよねこんなとこでさー。家じゃだめだったらカラオケでもホテルでも行けばいいじゃん。なんでわざわざこんなところでやりたがるかなー。仕事増やさないで欲しいなー」


ぶつくさとつぶやき、不機嫌さを露わにして詰め寄って来る男に、俺は正直気圧されてしまう。鬼が出るか、蛇が出るかと思って来てみたが、こんなつまづきかたをするとは思わなかった。


おもむろに、碧が前に進み出た。

少しも気後れの無い歩調で、真っ直ぐに警官に向かっていく。おもむろに碧は腕を振るうと、大きな固まりが中を舞う。

放物線を描いて飛来する物体に、警官は思わず身を丸めてそれを受け止める。


「っ、おおっと・・・・・・」


男が胸で受け止めたそれは、先ほど俺と碧が協力して下ろした、牛の死体の大腿部だった。


「「あっ」」


俺と警官の声が唱和した。恐らくそれは、同じ事を思い出したからに違いない。

呪いを受けたモノは普通の人間には見えなくなるーーーーー


警官がアクションを起こす時には彼の体は脳天から股間に向けて両断されていた。

目前にはいつの間にか、体躯に不釣り合いな巨大な剣を抜いていた碧が居た。

気配すら感じさせない、早業であった。

しかしその表情は苦々しい。


「ーーーーーしまった」


あっけに取られていた俺は違和感に気付く。警官は体を両断されたにも関わらず重力に逆らって倒れず制止していた。そして切断面からは血液や臓物が勢いよく吹き出るものと思ったが、それも無い。

俺は目を疑った。恐ろしい、目をそらしたくなるような男の体の切断面から顔を覗かせたものがあった。

それは肥大した頭に大量に眼球を生やした、羽虫であった。カブト虫よりも一回りほど大きいそれは、1匹や2匹ではなかった。


警官の体からは考えられないほど大量の羽虫が、男の体を食い破って這いだしてくる。


「ーーーーーー斬るんじゃなくて、すりつぶすべきだった」


碧の独白の後半はけたたましい羽音にかき消された。俺の視界はおぞましい虫の大群により完全にふさがれた。

思わず身構え、腕で顔を覆うしかない俺に対して、不気味な羽音の向こうから碧の声はどうしてか明瞭に聞こえた。


「ーーーーーー身を護れ!」


浮遊感。ぐいっと強い力で引っ張られ、俺の足は地面を離れていた。

状況を理解できず、俺は軽くパニックになる。

さらに折れ曲がったパイプのような不気味に歪んだ腕が俺の腰に回って拘束していた。生物的な粘性、所々に棘のようなものがついた腕は固定され、少し身じろぎしたくらいではびくともしない。

そうしていく間にどんどん高度は上がっていく。虫達の大群の隙間から見える地面の明かりが小さくなってくる。


背中に硬い感触。碧から貸りている刀を背負っていることを思い出す。

俺は冷静さを取り戻す。すぐに腹部を固定している触腕に手をかける。

ーーーーーー蟹の手足と一緒だ。間接は硬度が柔らかいはず。

一気に力を込めると、触腕は簡単にねじ切れた。

背後からは恐ろしい絶叫。と同時に高速が緩み、俺の体は中空に放り出される。


ゾッとする浮遊感。視界とともに、夜空と固い地面が交互に回転していく。

時間がゆっくり引き延ばされる感覚。

自由落下のもっとも多い死因は頭部損傷によるものと聞いたことがある。

俺は足からの落下を強く念じる。

すると、体が勝手に動き、体が反転。

両足が地面に激突する。その衝撃が体を破壊する間もなく俺の体はすばらしいタイミングで屈伸をし、勢いを殺していた。

体感としては、子供の頃高所から砂場に飛び込んだ時の様な感覚だ。特に痛みは無い。

どれくらいの高さから落ちたのかは分からないが、明らかに、体の強度が普段のそれと違っている。また、体そのものが勝手に防衛姿勢をとったようだった。

とにかく。俺の体は何かの意志で守られているようだった。


周囲を確認すると、まだここは浅草寺の敷地内のようだった。商店が並んだ区画の、石畳の歩道に落とされたらしい。

参道からは離れてしまっていた。俺は碧のところに向かおうとすると、背後で落下音。


異形の怪物が地面に降りたっていた。

体躯はかなり大きい。赤錆色の体表、カラーコーンのような尖った頭に大量の目玉。ぱっと見は巨大なザリガニだが、腹の部分は縦に大きく割れていて中からは包丁の先端を並べたような牙がぎっしり詰まり、不気味に開閉している。成人男性を、まる飲みできそうな凶悪で貪食な見た目だった。

そしてその敵意は真っ直ぐに俺に向けられているようだった。


俺は身構える。肩に掛けていた竹刀袋を下ろし、中から刀を引き抜く。

これだ。想定していた危機。不思議と焦りは無かった。

これがデビュー戦だ。この戦いを征して、俺は使えるということを碧に証明するのだ。

高揚感すら感じて、剣の柄に俺は手をかけた。


「ーーーーーーーー」


あれ、おかしい。

剣がーーーーー抜けない。

俺は焦り、今度は満身の力を込めて剣を引き抜こうとするが、剣は微動だにしない。

ーーーーー何だこれ錆びてんのか?

がちゃがちゃとウンともスンとも言わない武器と俺は無様に格闘しているさ中、

怪物は地を這うような動きで、俺に向かって接近していた。

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