第8話
アラームをセットしなくても習慣的に俺の体は6時には目がさめるようになっている。鈴鹿には『高校生にして早くも社畜じゃん』と揶揄されていたが、誰にも邪魔をされない朝の時間を勉強にあてられるからこの体質は気に入っていた。
だが今はこの体質が恨めしかった。本当ならもう3時間はなにも考えず泥のように寝ていたかったが、完全に目が冴えている。
布団をどかし、上体を起こす。
予想していたけだるさはいっさい襲ってこなかった。
昨日あれだけのことがあって、しかも正味2時間程度しか寝ていないというのに体は頭痛一つ無い。不調が予想される状況で快調なのはそれはそれで自分で自分の体をコントロールできてないようで不快だった。
違和感を感じながらも俺は半ばルーチン的に廊下を抜け、洗い場で洗顔をしてキッチンに入る。冷蔵庫を開けると中にはハムの一欠と卵と調味料、麦茶の容器が入っているだけだ。
一家で最も稼ぎ、一家全員の食を管理する母は、仕事が遅いときの為になにかしらの常備菜をストックしているのだが、今日は珍しく殺風景な冷蔵庫を見回す。
仕事が忙しいんだろうか?いや、そもそもここ数日携帯で連絡はとっているが顔を合わせていなかった。
また嫌な想像が頭をよぎった。
道を歩いている時に突然正体不明の化け物に襲われる母。周りに人はいるけど、誰も化け物の正体を見えない。
後ろから忍び寄られ、突然切りつけられ、訳も分からないままに不安と恐怖と苦痛の中で事切れる。
ボールの中に卵と水を入れ、かき混ぜる。目分量でさらにそば粉、片栗粉を入れてさらにかき混ぜる。ひたすらかき混ぜる。
ぽつぽつと浮いてくる粉のダマを、次々に浮かんでくる不安を潰すように、執拗にかき混ぜていった。
背後にのっそりとした足音。そのまま近づいてきて俺の隣に立ち、手元を覗きこんできた。
「おー、何つくてんだ? 」
「ガレット」
「ガレ・・・・・・なんだそりゃ? 」
「検索したら、照明にめちゃくちゃ気を使った、お姉さんたちが上げた写真が出てくるよ」
「はあん。俺の分もあるよな 」
「あるよ。ちょっと座ってろよ」
ろくに返事もせず、親父は居間の方に消えていった。
最近頭頂部の斑が見え始めてきた頭と丸まった背中を見送り、梨本さんのお父さんと同じ人間には思えないなあ、と少しゲンナリする。あの覇気というかオーラは多分社長とか役員とか責任ある立場の人特有のものだ。
けれどぞんざいながら意外と気が利いて一緒にいて人を安心させるような人である父を俺は嫌いじゃなかった。ただ、偉大ではないだけであり、それは他人の親と比べるものではない。
黄金色に焼き上がった焼き上がったガレットを持って居間に行く。
テレビで映画を見ている。気鋭の映画監督の作品で、悪魔の罠にはまった家族が崩壊し、最期は息子以外の全員が死に息子は悪魔の器にされるというひどい話だ。
親父はなぜかお気に入りで、たびたびこれを見ている。
無表情で画面を見ている親父の前に料理をおくと「さんきゅ」とだけ短く答えた。俺も対面に座り、画面を横目に見ながら料理を口に運んでいく。
「お前、なんかあった? 」
不意に顔を向けると親父と視線がかち合った。
「・・・・・・あ?なんで? 」
「お前が凝った料理作る時は大抵何か悩んでる時だからな」
そうだった。何だかんだこの人は人のそういう細かいところを気づくのがうまかった。白髪交じりの睫毛の奥の瞳がじっと俺を見ている。
まずった。うっかり同席してしまったことを後悔しつつ、返答まで変な間ができてしまった。
「・・・・・・ま、言いにくいことの一つや二つはあるわな。高校生なら」
ごまかす言葉を探していた俺は予想していた追求がこないことに毒気を抜かれてしまった。
「・・・・・・聞かないのかよ? 」
「しゃべりたかったらな」
「・・・・・・・・・」
手に滲んできていた汗が冷えていくのを感じる。
適当にごまかすことはできない、と思った。俺は極力言葉を選びながら口を開いた。
「・・・・・・ある人に力を貸してほしいって言われていてさ。それが結構リスクがある活動みたいなんだよね」
「リスクってなんだよ。」
「時間も・・・・・・体力も使うかもしれない。もしかしたら今の生活スタイルも維持できないかも」
「命の危険があるかもしれない」なんて口が裂けても言えない。できるだけ心配をかけないように努めた。
親父は腕組みをして顎を掻いた。
「『かもしれない』って実際何やるかはわかってんの? 」
「それは・・・・・・わからない」
「なんだよ、わかんねーのかよ。じゃ、」
「ーーーーわからないけども、」
病院のベッドに座る梨本さんの姿と、駅の入り口に立つあの碧という女子生徒の姿が思い浮かぶ。
また、一昨日、昨日確かに感じた恐怖と苦痛も。
冷静になった今だからこそ、悪寒で震えと汗が滲んでくる。
でも、だからこそ、あんなこと自分の知っている誰かに起こってはいけないと、思う。
「・・・・・・やらなきゃいけないと思っている。」
親父は何かを言い掛けた口を開いたまま、制止した。
そこからまるで撃たれてゆっくり吹っ飛ぶように背もたれに腰掛け、半分頭皮が見えている頭を掻くいて、嘆息する。
そして頭を上げて口を開く。
「いいんじゃねえの、お前がやりたいんだったら」
「・・・・・・・・まじか、いいのかよ。いや、いいのかよって言うか、今の説明で納得したのかよ」
「あー、因みに投げやりに言ってる訳じゃねえぞ。でも、お前がやりたいって言ってんだったら、もう言うことはねえよ」
そう言って、もう冷めてしまったパンに親父は手をつけ初めてしまった。
もう少し、追求されるかと思った。具体的に何をやるのかとか、成績の維持はできるのか、とか。
でも、思い返してみれば、父親から具体的にこれをこうしろ、と言われたことはほとんどなかった。
「一個助言しとくとだな」
親父は皿の上のパンを豪快にかっこんでからフォークを俺に向ける。
「お前今めっちゃ不安そうだけど、それはやりたいって気持ちがあるけど、自分が何するか、よくわかってねえからじゃねえのか? 」
俺ははっとした。
『やりたい』かなんてわからない。
昨日の夜は布団の中で死ぬほど考えた。これからどうすればいいのか。俺はどうなってしまうのか。
考えれば考えるほど不安が高まって、先のことを考えれば考えるほど思考は硬直していった。
でも、それって自分から何かをしていないから、主導権を握れていないから怖いんだ。
知らないなら、知りに行かなければ。
「そっか。よくわかんないから不安なんだ」
考えてみれば、当たり前のことだ。
「当たり前だろ。バーカ」
簡単な話だ。見て聞いて感じて動けばいいんだ。
「・・・・・・親父。ありがと」
俺の表情を見るなり親父は口の端を持ち上げて見せた。
「なんだよ。急にすっきりした顔して」
「情けねえ。ヒヨってたわ。『感即動』だよな」
俺はガレットにフォークを突き立てて口に運ぶ。乾燥したパンは喉に引っかかったが、水も飲まずに飲み下す。
「がっつり食らいついて。色々やってみてからでも遅くねーわ」
親父は既に肘つつきながら、テレビを眺めていて、気のない声でつぶやいた。
「まあ。お前はデキるやつだから、てめーの頭で動けば大丈夫だよ。ただ、最期は自分のケツは自分でふけよ」
「おう」
その言葉に、後に思えばあまりにも軽く、俺はうなずいていた。
***
昼間は一年中お祭りをやっているような喧騒に包まれている浅草、雷門の前は、ライトアップすら消されていた。
都内住みだけど浅草寺なんて小学生の頃以来来ていなかった。久しぶりにみる深紅の雷門は暗闇の中多い被さるような威圧感を放っていて不気味だ。
周囲は通行人はおろか、土曜の夜だというのにタクシーの一台すら通っていない。
というか、25時に集合というのはまあまあ無茶な時間だった。だいぶ早くきて、手持ち無沙汰。口が寂しくなっていた俺は、習慣的にポケットに手を伸ばし、煙草を咥え、火をつけていた。
「早いね」
不意に声をかけられ、半分も吸っていない煙草は俺の手を滑り落ち、地面に吸い込まれていった。
俺は反射的に、靴裏でそれを消火し、隠した。
つかつかと足音が近づいてきて、俺の目の前で停止した。
碧の長いまつげの房が見えるくらいの至近距離で、怜悧な瞳が俺を見上げていた。
思わず後ずさると、彼女は身を屈めて吸い殻を拾い、俺の目に前に突きつけてくる。
俺はばつが悪くなりながらも、それを受け取り携帯灰皿に納めた。
「別に吸うのはいいけど、吸い殻は捨てないの
あと、隠すの最高にダサいからやめた方いいよ」
瞬間的に、言い返す言葉が10個ぐらい思い浮かんだけどどれを選んでも余計に自分の立場を悪くするだけだと悟り、素直に謝罪の言葉を述べた。
俺が切り出す言葉を探していると碧は気にした様子も無く指を指す。
「その刀、持ってきたんだ。偉いね」
「・・・・・・そりゃそうでしょ。俺だって遊びに来た訳じゃなんすから」
「ふぅん。戦う準備もできているってわけね」
俺の顔が強ばるのを見てとったのか、彼女は口を開く。
「その刀は好きに使っていいよ。君程度の力だったら、どんなふうに扱っても壊れないだろうから」
俺は竹刀袋の中のこの刀の様子を思い出す。文化財として展示されているような古びた装飾。石突は丸くすり減っていたし、ひたすら使い込まれていたその様は錆びて抜けないんじゃないかと心配してしまうくらいだ。
俺がいぶかしんでいると、目の前から碧の姿は消えていた。
あたりを見回すと、雷門をくぐってすたすたと寺の方向に進んで行く背中が見えた。
俺は急いでその背を追いかける。
薄々気付いてはいたけれど、この碧という女はかなり苦手なタイプだ。相手を気遣わない直線的な物言いも、他人を気にも止めないような態度も。
今日は特にそれが顕著な気がする。始めて会ったときもそんな感じだから、それが彼女の素なのか。
気にしていないことをアピールするように、俺は碧の背中に声を張る。
「てゆーか、そんなずんずん進んでいいんですか?普通に不法侵入でしょ」
「大丈夫。許可は取ってるから」
「許可って、そんなんどうやったらとれんすか。『千曳の岩』ってのは、バックに強力な力が働いてるとか? 」
「まあ、国かな。正確には内閣府の管理下の宮内庁」
ほんとかよ。俺は碧の言葉の真偽を図りかねる。
当の碧の声色はふざけている様子は全くなかった。
俺の反応などお構いなしに、彼女は立ち止まる。
目の前には参拝客が線香を上げる香炉が道の真ん中に鎮座している。
パンッ、と柏手を打つ音が静寂を切り裂く。
微風が碧の髪をそよがせ、一瞬彼女の周囲が空間の移送がずれたかのように歪んだかに見えた。
今だからこそ、この所作によって彼女が今までとは全く違う存在に成ったというのが感覚的に分かった。
何の前触れもなく臨戦態勢をとる碧に、俺は思わず身構えた。碧は顔色一つ変えず、新卒に初歩的な業務を投げる上司のように俺に指示を出す。
「ちょっと力仕事になるからあなたも早く成って」
「力仕事って・・・・・・」
「いいから。成ったら見える」
いろいろと戸惑いはありつつ、俺は胸の前に手をかざす。
「・・・・・・・・・」
というか、この後どうすればいいんだ?
前にあの状態になった時は白石とか言う男に襲われて必死だったけど、それを再現できる気がしない。
「元々あなたのものだから、その力は。手あわせたら何とか成るよ」
んな適当な・・・・・・。
迷うのもばからしくなった俺は思いきり手のひらを打ち付けた。
瞬間、世界が切り替わった。
五感が広がっていき、見えている物の解像度が上がってくる。
体を覆っていた外皮が禿げて、本当の地肌が露わになり、頭は酩酊している時の感覚に似て高揚していた。
本当にあの状態に成ったようだった。
安心感を覚えて深呼吸をした俺はーーーーーー激しく嗚咽をした。
鼻孔の奥にそのまま針を突き刺されたような刺激臭。涙や鼻水は出てこないが苦しすぎてまともに目が開けられない。
軽くパニックになるが、かろうじて碧の声を聞き取る。
「上を見て。今なら見えるはずよ」
薄目を開けて、香炉の屋根を見上げる俺は、絶句した。
何か大きなものが香炉の屋根に引っかかっている、と思った。その全貌を理解したとき、俺はこの絶望的な腐臭の原因がこれだと確信した。
そこにあったのは、まるまる太った巨大な牛が、赤黒い内蔵を垂らして死んでいた。
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