第5話

日に照らされた内堀通り沿いの歩道は相変わらず人通りがなかった。


男と遭遇してから数分だが未だに人が視界にすら入らないのは明らかにおかしかった。それは男が普通の人が忌避するような気配を発しているのだと俺には分かった。


今の俺は感覚が鋭敏になったように空気の流れや人の気配を直感的に感知することができた。

腕の中に抱かれた梨本さんは確かに胸の内に命の炎を燃やしていることも感じられて、俺はほっと胸を撫で下ろす。


同時に、背中にひりひりする炎のような気配を強く感じていた。

俺は梨本さんをそっと寝かし、後ろを振り返る。


夕日を背にし、半月のような笑みを浮かべる男から感じられる気配はまさに逆巻く炎の塊だった。人の姿はもはや見せかけだ。



「治癒の能力かよ!ゴミだな!」


男はあからさまな嘲弄の声を上げる。


「碧さんの践祚だったから期待したが、どうせ皇統からほど遠い、傍系の国津神だ。お前は“黄泉軍(よもついくさ)”と戦う戦力にならねえな。」


男が両手を開くと手のひらから火の玉が現れ、鬼火のように男の周りを浮遊し始めた。

殺意が物理的な刺激となって俺の肌を振るわせていた。

さっきとは比べものにならない熱量の炎だ。ふれただけでも大怪我ではすまないだろう。


俺はさっきまで、あの炎を見ただけでおびえて動けなくなっていた。

だけど今は恐怖はない。恐れるのだとすれば、それは梨本さんがもう一度傷つくのを見たときだ。


俺は目を見開き穴があくほど男を睨みつける。


平気で関係のない女の子を痛めつけるこいつを、梨本さんに手をあげたこいつを、俺はどうするべきなのか。

答えはもう決まっていた。


「てめえ!そこを動くなよぉ!ぶっ殺してやるっ!」



俺の口を、驚くほど強い言葉がついて出た。

俺は男めがけて突進を敢行。あまりにも無防備につっこんでくる俺に男は落胆した様子で冷笑する。



「死ね」


鬼火が高速で射出され、俺に殺到する。

普通の人間なら反応すらできずに丸焼けになっているところだ。

しかし火球が激突する前、俺の腕が振るわれる。

地獄の火球は急に軌道を変え、あらぬ方向に吹き飛んでいった。


男の顔に驚きが刻まれ、俺の右腕に持つモノを注視する。

それは梨本さんの身に付けていた、赤いマフラーだった。

俺自身何故それを手に取ったのかは分からないが、火球はまるでそのマフラーにふれるのを嫌がるように受け流されていた。


俺は踏み込む足に力を込める。そのスピードはもはや常人のそれを越え、一瞬で男との間合いを詰めた。



「っ!!くっっそっ」


男がたまらず後ずさりをし、間合いを取る。

そしてできた空間には瞬時に火の壁が出現し、俺の視界全体に広がった。

しかし俺は怯みはしなかった。さらに一歩踏み込み炎の壁に身を踊らせる。

肌が焼け、鋭い痛みが全身を焼いた。

しかし超高温の膜はほとんど俺の体表に弾かれ、身を焼かれた肌も瞬時に光を上げて修復する。

眼球が焼かれ、一瞬視界がブラックアウトするが、直後には男の青ざめた顔を至近にとらえていた。


「ぅぉああぁぁああああっ!!」


俺は拳を振り上げ、地平の彼方まで吹き飛ばすつもりで男の顔面をぶん殴った。

炸裂音と共に男の顎に拳が埋まり、首があらぬ方向に曲がる。

さらに俺は男の胸ぐらを掴み引き戻す。

男の背後に体を切り替え、首にマフラーを巻き付け、全力で締め上げた。


男はじたばたと手足を動かし抵抗するが、俺は決して力を緩めることはない。体格ならば俺の方が上だ。俺は男の首をねじ切るつもりで満身の力をそそぎ込む。


ーーーーーー瞬間、男の全身が発光し、業火が男の全身から噴出した。髪が逆立ち、全身が赤黒く発光する様は、もはや男自身が炎の塊になっているようだった。


爆炎を至近距離で受けた俺は一瞬意識が飛びかけるが、皮一枚でそれをつなぎ止めた。

全身が黒く炭化しかける。想像を絶する苦しみが全身を苛むがマフラーを握る力は絶対にゆるめない。

俺の体はさらにまばゆい光を放つ。徐々に体を修復する力が体を破壊する炎に勝り始める。


ーーーーーーーーこんな苦しみがなんだと言うんだ。

梨本さんは一生消えない傷を、顔につけられたんだぞ。



「うぉおおおおおおおおおおおおおおおおおーーーー!!」

「うぐぅううううううううううううううううぅぅうぅ!!」


俺の雄叫びと男の悲鳴が唱和する。

男の首から軋むような嫌な音が上がる。

その時、空を切っていた男の手が急に俺の太股に回され、手の平がひたりと当てられる。


爆音。

俺の右足の太股より下が吹き飛ばされ、足が車道を越えて建物の壁にぶち当たった。

俺は大きくバランスを崩し男の拘束を緩めてしまう。

その隙を男は見逃さなかった。即座に体勢を立て直し反転する。


振り向いた男の顔は悪鬼の表情。続いて左腕が俺の頭めがけて回り込んできていた。

俺は冷たい死の気配を首筋に感じる。時間が薄く長く、引き延ばされたような感覚。恐怖に思わず身がすくみそうになる。


ーーーーーーーーーまだだ。


俺は失った右足に意識を集中する。全神経、全細胞、全気力を右足に集中させ、元の右足を想像する。


次の瞬間、俺は右足で転倒を防いでいた。消し飛んだズボンの端からきれいな地肌を覗かせる右足が、しっかりと生え、体重を支える。


俺は復元した右足に力を込め、身をかわす。再度男の首に引っかかっていたマフラーを締め直す。


男の左手が空を切り空中で爆発。凄まじい爆風を巻き起こす。それと同時に、俺は地面を思い切り蹴っていた。爆風の反動も後押しし、俺と男の体はおもしろいようにふわりと宙に浮き、手すりを越えた。


浮遊間はすぐに失われ、重力に引かれ急速に落下を開始。

男の視界には一瞬紫色に変色していく空が写り、直下に真っ黒な口を開く、皇居の周りを囲むお濠の水面が写ったことだろう。


大きな水柱を上げて俺と男は水面に叩きつけられた。

11月の水中は暗く冷たく、すぐに身体機能を奪うはずだが、俺には関係がなかった。

しかし、男の全身を覆っていた炎は明らかに勢いを弱められていた。

男の体事態が炎の塊になっていたから、水の中でその状態でいるのは命取りなのだ。

明らかに奴は弱っていた。

チャンスは今しかない。


俺はマフラーを手放し水をかき分け男の首に直接指を掛ける。

男はもはや抵抗する力すら見せず、水の中でたゆたうしかない。体を覆っていた炎は残り火しかない。


このまま指に力を込め、気道を潰して首の骨を折る。

俺は興奮すら覚えて男の死に様を想像していた。


迷いはなかった。生きていてもどうしようもない人間は一定数いる。平気で人を傷つけて、心すら痛まずにそれを正当化できる人間。この男がそういう人種だ。


俺は千代田線に乗っていた老人を思い出す。他人に迷惑しかかけず何の生産性もプライドも品性もない人間。そんな人間は生きている価値がないのだ。

しかし同時に、あの老人から助けてくれた梨本さんの顔が一瞬頭をよぎった。小さな手を震わせ、勇気を出して俺を助けてくれた彼女の横顔が。


俺の手に込める力が一瞬ゆるんだ。


ーーーーーーーー首筋に、今まで感じたことのない怖気を覚える。


無我夢中で気づかなかったが、男の体を覆っていた炎は実は消えておらず、奴の左手に集まっていた。

水中の暗黒の中で男の目が赤く光るのを見た。


力なく浮いていたはずの男の腕に力が宿り、水圧を押し上げる勢いで突き上がり、その拳が俺の腹に突き刺さった。


全身を貫く衝撃に血反吐の泡が俺の口から吐き出される。

男の拳が俺の背骨まで到達したんじゃないかとすら思う。


さらに男の拳に収斂されていた熱量が一気に解放された。

俺の周囲で空気の膜が出来上がる。俺の周囲の水が恐ろしい速さで気化し、膨張し、破壊的なエネルギーが炸裂した。



天を震わす程の轟音が東京のど真ん中に鳴り響いた。



衝撃波は旧江戸城の城壁を軋ませ、植木の枯れ葉を一気に巻き上げた。


先程とは比べ物にならない、噴水のような特大の水柱が吹き上がった。

水面には一瞬真っ黒な大穴が穿たれたようだった。その中心には、拳を突き上げ神のように悠然と空を見上げる男の姿があった。


その様を、俺は空中で浮遊しながら見ていた。


手足の感覚はすでに消失し、片目だけの視界が回転し、身体が風に巻かれた新聞紙のようにもみくちゃにされる。

湖面、ビル軍、森、夜空とメリーゴーラウンドのように風景が走り去って行った。


科学技術館の隣、鬱蒼と生茂る皇居の森の山の中に、俺は吸い込まれて行った。

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