43.萩乃のためらい&正男の身体の秘密

 オニサピエンスというのは、学名が「霊長目ヒト科オニ属オニサピエンス」であり、萩乃たち「霊長目ヒト科ヒト属ホモサピエンス」とは、猿人アウストラロピテクスを共通の祖先に持つ、同じヒト科の生き物、つまり人間なのである。これは高校の生物で習うことだ。

 鬼を殺すのは、人間としてオニサピエンスを死なすのではなく、彼らに巣食った悪鬼の命を絶つことなのである。

 要するに、狂暴なオニサピエンスには去勢処置を施すこと。それが日本の平穏を維持するために必要だという解釈に基づき、大昔から今日までホモサピエンスは鬼を退治し続けている。


 これまで萩乃も鬼退治を当たり前のことだと思ってきた。

 だが実際にその役割を担うことになった今、ためらわずにいられない。林檎をあげたときの金太郎が見せてくれた、あの弾けるような笑顔が、どうしても脳裏をよぎってくる。つい先程、何気なく正男が発した「鬼が笑うって、マジであり得ないことなのか?」という問いかけが、萩乃の心に変化を生じさせてしまったのだ。

 いくら、この大日本帝国の方針「オニサピエンス同化政策」に則った正当な任務であろうとも、あの青年から、子を残す能力を奪い取ってしまってよいものだろうか――萩乃は考えてもみなかった素朴な疑問を胸に抱かざるを得ないのだった。

 これまで鬼退治の話を聞かされても、物語として読んでも、あるいは映像で見ても、そのような考えは一度も起こらなかった。まったくの他人事だった。自分が手をくだすことになって初めて、ためらいの気持ちが生じたのだ。


「ハギノちゃん、どうしたの?」

「あ、あの……いえ、なにも」

「もしかして、ためらってる?」

「は、はい。少しばかり……」

「気持ちはわからないでもないわ。でもねえ、心を鬼にして、やらないとね。そうしないと、ホモサピエンスとホモフローレシエンシスが、むざむざと彼らの餌食になってしまうのだから」


 ここで正男が堪えきれず、ついつい茶々を入れてしまう。


「心を鬼にして鬼を退治しろってか。なかなか言い得て妙だぜ。あはは」

「こら童貞マサオ!! あんたは黙ってなさい!」

「スマン……」


 正子先生から一喝を食らった正男は再び黙ることになった。あまり下手なことばかり言っていると、張り倒される危険性がある。超弩級のビンタは二度と食らいたくないだろう。


(確かに大森先生のおっしゃる通りですわ。現に二度も大森くんがわたくしの目の前で刺し殺されて……あっ!? でも、そんな……)


 萩乃は不意に、あることに気づいたのだ。

 システムエラーについて兄が推察した内容が正しいのなら、正男はこの世界にフルトランスファーしてきているはず。果物ナイフで左胸を刺されて物理的に死亡すれば、それ以上ゲームを続けることなどできない。

 一方、桜の推察ではソウルトランスファーしているとのこと。それなら物理的に死亡することはなく、何度でもゲームをやり直せる。単に兄の推察が間違っていただけなのだろうか。

 ほとんど無意識に、萩乃は正男の顔を見つめてしまっている。


「ん猪野、どうかしたか?」

「あの、あの……大森くんは」

「なんだ?」

「この世界へは、フルトランスファーで、こられていますの?」

「フルトランスファー? あ……ああ、そうそう、思いだした。吉兆寺さんから聞いたんだよ。なんかそうらしいんだとか。あはは、オレよくわかんねえけどな」


 最初はソウルトランスファーと言っていた桜なのだが、途中で兄の推察と同じ答えに辿り着いたということか。

 兄と桜の見解が一致しているのなら、そこに間違いなどないはず。


「大森くんは、ナイフで刺されて、どうして生き還れるの?」

「ああそれな。まあなんというか、とても信じられないことかもしんないんだけど、隠しとくのもなんだし、ちゃんと言っとくぜ。実はオレ幽霊みたいな存在で、しかも身体がサイボーグなんだよ。わかるか?」

「はい。わたくしの世界で『スカッシュの大森くんボーグ』という製品が大人気なのは、わたくしも知っておりますわ。大森くんの身体は、そのボーグなの?」

「いやあ、そこまでのことは知らねえ。けど、少なくとも身体がサイボーグだってのは100%マジだぜ。オレがナイフで刺されても、一滴も出血しなかったろ?」

「あ、はい。そうでしたわ!」


 言われてみるとその通りである。とても気が動転して直視できなかったものの、萩乃は刺された正男の胸を二度見ている。生身だったなら、血が流れ出てもおかしくない状況だった。

 あのとき電子スクリーンに浮き上がった、バッドエンドを伝える不快な濃い赤色が「出血」の代役を演じていたのだ。


「幻滅したか?」

「いいえ。幽霊でもサイボーグでも、そういうこと関係ありませんわ。わたくしのわたくしだけの、大森くんですもの!」

「そうか。ありがとな。あ、そうそう、あのときの礼、言ってなかったな」

「あのとき?」

「チョコブラウニーだよ。ちゃんと感謝の言葉を伝えてなかった。今さらだけど、あのチョコありがとな、猪野」

「はっ、はい! 大森くん!」


 甘くトロけそうに見つめ合う男子と女子。萌える若葉のように瑞々しい。

 ここへ、すっかり濃い緑色へと変容した、苦味のある葉っぱの如き二十八歳女が、やはりすかさず口を挟んでくる。


「いいわよ。そこでがっつりキス。さあ遠慮なくやっちゃって、キスキス♪」

「なっ!」

「まあ!」


 大人げのない大人の茶々入れで、若い二人の世界がぶっ壊されるのだった。

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