8.


 思考の海から這い上がると、僕は家の前にいた。赤足の傘女と一緒に。

 傘の下で暗くなった顔は、乱れた髪の毛も相なってハッキリとは視認できないけれど、真っ黒な目がこちらを向いているということだけは分かる。


「こゴ?」


 ここが家か、と聞かれているのだろう。一寸の間を置いて僕は頷いた。


「そうだよ」


 ウワサ通りなら、これからねだられるはずだ。アレを。

 最初にウワサを聞いたときの嫌悪感を一気に思い出して、全身がぶるりと震えた。雨で冷えているはずの身体が芯の部分からじわじわと熱くなっているのを感じる。ここが勝負のときだ。勝手に荒くなる自分の呼吸音を聞きながら、僕は赤足の傘女の目を見て、尋ねた。


「キス、する?」


 気合を入れて発した渾身の一言は、震えていた。自分が想像していた理想のセリフにはならなかった。理想よりずっとずっと格好悪い。これが赤足の傘女じゃなくて、僕が本当に好きで好きでたまらない人に発したセリフだったら、これから長い人生の内に、何度も何度も思い出して、顔を覆い隠すものになっていただろう。

 赤足の傘女は、ただでさえ白目が少なくて大きく見える目を大きく開いて、泥で汚れた曲がった鼻からフガッフガッと音を鳴らした。

 それからまたゴキゴキツと首から嫌な音を出しながら、傘の下で元々近かった距離をペタリペタリと縮め、顔を僕に近づける。赤足の傘女の息が僕の顔に吹き付けられた。顔中に広がる臭気に耐えながら、僕も赤足の傘女の顔を、唇を目指して少し背伸びをする。

 いよいよ唇が触れ合う寸前という瞬間にも赤足の傘女は目を閉じることがなかった。僕を最後まで品定めしている気がして怖い。心臓がうるさい。けれど、やりきらなければ僕は殺される。きっと想像もできないような方法で。そして、命を失うと同時にトモくんに負けるのだ。

 僕はぎゅっと目を瞑った。氷のような冷たさが、粘り気のある感触と一緒に、僕に――伝わらなかった。


「え?」


 想像していたよりもずっと普通のキス、だった。柔らかい感触が柑橘系の爽やかで甘い香りと共にふわりと漂う。その香りは相合い傘という狭い二人きりの空間にだけ広がった。

 目を開くと、そこには僕より少し背の高い女の人が立っている。丁寧に時間を掛けて用意したであろう細かな三つ編み。襟元を控えめに彩る小さなフリルが可愛らしい白いワンピース。上品な印象を受ける留め具の赤い靴が、大事なお出かけの服装を連想させた。

 彼女の唇が離れていくとともに、コンクリートを打ち付ける雨の湿った匂いが濃くなる。


「ありがとう。またね」


 彼女は照れたように笑って、真ん中の色が不自然に薄い桃色の唇を動かして、そのまま、消えた。泡のように。

 泡になった彼女の行く先を追いかけて傘を下ろすと、先ほどまでの強い雨が嘘のように止んでいた。昼から止まなかった雨が。

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