第03話 おもいおこし

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【昨晩午後八時頃】



「中田さん、お仕事はどうですか。」


「ん、それなりに楽しいよー。」


 正面に座る後輩の問いかけに答えながら、視線をビールが半分ほど残ったジョッキに移す。飲み会が開始してから、一時間が経とうとしていた。尻を守る役目を果たしているのか分からないほど薄い差布団をずらしながら、木の長椅子に座り直す。木製なのに作り物感が強い机の上に並ぶ飲み物は、大半がビールである。食べ物は枝豆、から揚げ、チャンジャ、フライドポテトが並んでいる。対して美味しいとも思わないのにフライドポテトを頼むのは、大勢でつまめるからだろうか。それなら俺は軟骨のから揚げの方が好きだ。


 薄暗い、白熱灯のオレンジ色の光で満たされた部屋には、半袖短パンで笑う男子学生、ワイシャツを腕まくりしてビールを飲む社会人か学生か分からない人、夏も終わりに近づく頃なのに訳の分からないところに穴の開いた服を着る女子大学生と思わしき人などなど。大学が近い居酒屋だからこその風景が広がっていた。


「仕事が楽しいとか信じられない……。」


 右斜め前に座っていた山岡が顔を真っ赤にしながらぼやく。元々顔が赤くなりやすい奴である。持っているジョッキは恐らく一杯目のままだ。山岡は大学の同期で、今も個人的に会って飲むことがある。今日は仕事帰りのようで、白のワイシャツ、黒のスラックス、黒の革靴、といった一般的な社会人一年目の出で立ちだ。


「いやー、社会人になりたくねーっす! このまま遊んでたいっす!」


「そりゃ誰だってそう思うでしょー、何もしないでお金もらえればいいのにー。」


 隣でボサボサの天パ頭をかき乱しながら発言する後輩に、正面に座る後輩が同調する。天パの後輩――木下が豪快にビールを飲み干す。グレーに赤で英字が書いてある大きめのTシャツ、膝下まである緑の短パンに、ハワイで売っていそうな青のサンダルを履いている。見た目は楽な格好をした大学生といった感じだ。ウワバミという言葉はこいつのためにある、と言うほど酒に強い。そして、正面に座るポニーテールの後輩――佐竹も木下に負けず劣らず酒に強い。この席に座ってしまったことを後悔するくらいである。佐竹は、えんじ色のふわりとしたブラウスに紺のガウチョパンツと、見た目は今時の女子大生と言う感じだ。その見た目に合わせて猫を被っていて欲しいと思うくらいに、率直に毒を吐く女である。


「そういえば最近知ったんすけど、館山さんと相川さんって付き合ってたんすね。」


 木下がフライドポテトをつまみながら言う。俺は一瞬ヒヤリとする。


「そんなことも知らなかったのー? てか、もうその二人別れてるよ。」


 佐竹は興味が無さそうに答えた。


「まじかよ! あ、店員さんビール一つ! 中田さんは?」


 木下は俺のジョッキが残りわずかになったことに気付いて、店員さんを呼んだ。木下は半分ほど残っていた自分のビールを飲み干し、店員さんに渡した。後輩の気遣いを無下にはできなかった。


「じゃあ俺も。」


 頼んで、少し後悔する。飲むペースが通常よりも早い。そんなことを頭の片隅で考えながら、館山さんと相川さんのことを思い出していた。二人は大学の研究室の先輩である。そして、木下は二つ下、佐竹は一つ下の研究室の後輩だ。今日は一つ下の後輩達の就職祝いである。支払いはもちろん新社会人である俺らだ。後輩たちは就職活動が終わった解放感からか、各々楽しそうに飲んでいる。飲み放題にした甲斐はありそうだ。飲み会には十五人集まり、四つの卓に分かれて思い思いの昔話に花を咲かせている。


「館山さんと相川さんが付き合っていたの、初めて知ったわ。別れたのも。」


 俺は佐竹と視線を合わせないようにしながらつぶやく。山岡が席を立ってトイレに向かった。


「ですよね! いやー、俺全然気づかなかったっす。」


 木下が運ばれてきたビールを片手に騒ぐ中、なんとなく佐竹の視線を感じる。その視線に触れないようにしながら、机に置かれた次のビールのためにも、残りわずかになった手元のビールに向かい合う。館山さんと相川さんが付き合っていたのを知らない、というのは嘘である。むしろ、二人の先輩の恋愛のいざこざに、俺と山岡と佐竹は大いに巻き込まれた。何故巻き込まれたのが俺ら三人に限定されているかと言うと、館山さんと相川さんは自分たちが付き合っていることを公表しなかったからだ。偶然知ってしまった俺らは、時にフォローし、時に根回しし、時に冷や汗でびしょびしょになっていた。思い出しても、本当に色々あったなぁ。結局のところ二人は別れたのだけど。大学生ならではの複雑な恋愛事情を懐かしく感じながら、手元のビールを飲み干した。


「そういえば中田さんはどうなんですかー、彼女できましたかー?」


 抜けるような軽やかな声で、ニヤニヤしながら佐竹が聞いてくる。我関せず、の姿勢を取っていた俺に話題を振りやがって。こうやって俺の痛いところを突いてくるのが、佐竹の昔からのやり口である。木下が先輩方の恋愛事情について聞きたがっていそうだが、確かにあの話に触れられても、俺と佐竹がこの場で話すことは何も無い。話題を切り替えようとする可愛い後輩にのってやることにした。だがそのニヤニヤをやめろ。先輩を敬え。


「いやー、言い寄ってくる女の子はいっぱいいるんだけどねー。」


「はい嘘。」


「嘘っすね。」


 バッサリと俺の冗談は切り捨てられた。先輩の威厳はどこに。


「本当に良い人いないんですかー? もう社会人になって半年くらいですよね? 合コンの一つや二つは行きましたよね?」


 わざとらしく驚いた顔をつくり、取ってつけたような声色で聞いてくる佐竹。社会人になってから合コンには行っていない。学生時代も二度しか合コンには行ったことは無い。合コンの話を出してくるあたり、俺には良い人がいないことを決めつけているのではないだろうか。事実だが。


「社会人が当たり前のように合コンしていると思ったら大間違いだ。そういう話は山岡とか長谷川に聞け。」


「二人とも彼女いるじゃないすか。」


 木下が真顔で答える。これでいて木下は真面目な男である。彼女がいるのに合コンに行くのはおかしいという硬派な男だ。同期の長谷川は割と彼女に内緒で合コンに行くタイプである。山岡はどうしても仕方がない時は彼女の許可を取って合コンに行くらしい。佐竹は、自分は合コンに行かないが、彼氏が合コンに行っても怒らないのではないだろうか。そういった男女間の不文律は十人十色である。良く考えると、この卓は俺だけ合コンに関する制約が無いはずだ。虚しさを感じ、深く自分のことを考えるのはやめた。


 興味があるのかないのか分からない、なんとなくの話で盛り上がる。肩肘張らない飲み会は楽しいし、ついついお酒が進んでしまう。木下がここぞとばかりにビールを頼むので、既に酔っぱらっている。もう少しペースを落としたい気分だ。そういえば山岡がトイレに行ったきり戻ってこない。あいつめ、逃げやがったか。


「いや、俺にだって好きな子いるよ。」


 酔った勢いに任せて俺が答えると、木下と佐竹の目が輝いた。火に油を全力でぶちまけた気分だった。


「まじすか中田さん! 乾杯!」


 俺の発言を遮り、木下がジョッキを掲げ、置いてある俺のジョッキにぶつける。中身の入ったジョッキ特有の鈍いガラス音が響く。木下は先ほど来たばかりのビールに口をつけ、一気に傾ける。喉の動きに合わせて、黄色い液体が波打ちながら消えていく。いつみても清々しいほどの飲みっぷりである。


「ちょっと待て! 何で乾杯するんだよ!」


 俺は僅かに抵抗を試みる。木下が目を大きく見開き、魚みたいに口をパクパクさせる。空のグラスを指さし、俺のグラスを何度も指さす。飲まないんですか、と言いたげに。悪寒が走る。こんな飲みっぷりを見せられて、このままでいいのか? くらいの気持ちになっている。それはおかしい、落ち着け、という考えが脳裏をよぎるが、アルコール漬けになった頭に正しい判断力は無かった。


「中田さんかんぱーい!」


 ここが勝負と思ったのか、佐竹が乗ってくる。実は佐竹が乾杯してくるのは珍しい。酒は飲んでも飲まれるな、がモットーであると同時に、飲みたければ飲めを信条としている。どっちなんだと言いたいが、本人は飲んで人に迷惑をかけなければ何でも良いらしい。その佐竹が乾杯してくるということは、そういう気分なんだろう。絶句しながらもジョッキを合わせる。完全に後輩たちのペースである。


 この一時間後、俺は記憶を失うことになる。






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 ぼんやりと昨晩の記憶を整理し、繋ぎ合わせながら思い出してみる。


 時刻は午前八時。記憶違いでなければ、電車は先ほどまでと逆方向に進んでいる。次の停車駅は、有名な映画の舞台になったところだったっけ、と思いながらため息をつく。端的に言って寝過ごしたのだろう。目的地である駅を通り過ぎ、終点に到着。逆方面行きになった電車にそのまま乗っている、ということか。


 再びため息をつき、次の駅で乗り換える算段を立てる。だが、疲労からか思考は続かず、意識が薄れていった。逆らう手段を持たない俺は、そのまま夢の中に落ちていった。




時刻:午前八時

所持品:交通系ICカード、目薬、傘

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