Chapter2 "The green-eyed monster"

第8話 夢がいつまでも夢である世界

「拓海おそーい! 早くしないと見逃しちゃうでしょー!」


 紺青こんじょうに染まった夜のとばりひがしの山の稜線りょうせんにうっすらとり始めた夏の午後。


 雪菜にかされて、拓海はヘトヘトになって自転車を漕いでいる。


 公園に行くまでの坂道の上。先行く雪菜に追いつこうと必死でペダルを漕いでいるのに、いつまでも距離は縮まらない。


 回らない足。重たいペダルに息が入道雲のように乱れていく。


 こんな体力なかったっけ。


 そう一瞬思ったけれど、なんてことはない。すぐに事態に気がつく。


 ——ああ、これは夢だ。小学生の頃の夢。まだ拓海が雪菜に出会ったばかりの頃の夢。


 その証拠に、ハンドルを握る手は小さく、自転車は親に初めて買ってもらったマウンテンバイク。六段ギア搭載の優れもので、シフトレバーをかちゃかちゃと意味もなく回すのが好きだった。


 坂道も苦にならないという謳い文句に相応しく、初めは軽快に坂を登っていた拓海だったが、いかんせん体力が追いついていなかったらしい。


「はぁ、はぁ……ま、待てよー! 雪菜ー!」


 坂をどんどん進んでいく雪菜にむかって、拓海の口は勝手に言葉を発している。過去をなぞるように。幼さを残した声で。


「もー! 情けないぞー!」

「んなこと言われてもこんな坂無理だって!」

「無理じゃなーい! いいから漕げー!」

「とにかく! 俺は少し休むからな!」


 そう言って自転車から降りてしまった拓海に、雪菜は「はぁ、仕方ないなぁ」と呟きながらリュックから何かを取り出して渡してくる。


「はい、これあげるからもうちょっと頑張って」


 何か美味しいものでもくれるのかと少しだけ期待した拓海だったが、渡された物の正体に表情がかげる。


「なんでトマトジュースなんだよ、こんなので頑張れるわけないだろ」

「だって美味しいじゃん! 疲労も取れるし!」

「美味しいって、お前な……俺は吸血鬼じゃねえんだよ」

「何よ、わたしのトマトジュースが飲めないって言うの?」

「あーわかったわかった! 飲めばいいんだろ、飲めばッ!」

「よろしい」

「逆効果だと思うけどなぁ……」


 文句を言いながらも渋い顔で飲み干した。満足げな雪菜の表情が今でも目に焼き付いている。


 夏休みも終わりに差し掛かった八月の夜は静かで、海に沈んでしまった街のような青さで包まれていた。もうほとんど夜に染まった空を見上げると星たちが明るくまたたいていて、拓海たちを見守るように微笑んでいる。


 そんな夜空の姿を拓海が息を整えながらぼんやりと見ていると、雪菜が口を尖らせて言ってくる。


「ほら、もうちょっとなんだから頑張ってよね。今日は一年に一度の特別な日なんだから」

「特別な日? なに言ってんだよ、星なんていつでも見られるじゃねえか」

「違うよ! 今日は星を見に来た訳じゃないんだから!」

「え、そうなの?」


 てっきり星を見に行くものだとばかり思っていた拓海は首を傾げて雪菜を見る。


「じゃあ何を見るつもりなんだ?」

「ふふふ、それはね——」


 しかし雪菜が答える前に、音が弾けた。


 初めは空耳そらみみだと思った。夢想むそうしたシャボン玉が屋根の上で弾けたようなかわいた幻聴げんちょうだと。


 でも何度も聞こえてくる。


 バン、バン、ババンッと。


 静寂な空気を震わせる音が立て続けに辺りに響いた。


「ああ! 始まっちゃった!」

「始まった? なにが? というか、これ何の音だ?」


 慌てる雪菜に、拓海はきょとんとほうけた視線を向ける。


「いいから! 早く行くよ!」

「あっ雪菜!」


 自転車に飛び乗って再び坂を登り始める雪菜。慌てて追いかける拓海。


 断続だんぞくした音の羅列られつが響くなかを必死に坂を登っていく。


 そして。


 坂を登り切った先。


 拓海は見た。


「あっ……」


 夜の深い青を切り裂くように輝いている花の姿を。音と共に弾ける花びら。大輪の華を夜空に咲かせたあと、人々の視線を奪った余韻よいんを楽しむかのように光のシャワーがこぼれていく。


 花火だった。花火が夜空を月のように染めていた。


 その眼下。高台から見る街並みは遠く、星のように輝いている。色褪せることのない純粋さが拓海の目の前に広がっていた。


「……すげえ」


 感嘆の息をもらした拓海の耳に、誇らしげな雪菜の声が聞こえてくる。


「でしょ? ふふん、わたしに感謝しなさいよね。特別に教えてあげたんだから!」

「うん……ありがとう雪菜」


 だけど幼い拓海は気づかない。色とりどりの花びらと景色に目を奪われて、もっと大切な、目に焼き付けておかなければいけないものの存在に。


 それが何よりも得難えがたいものであるのか。


 泣き叫び出してしまいそうな光景を前に、夢を見ている拓海はひとり静かにほぞをむ。


 もう二度と戻れない時間。もう二度と訪れることのないであろう時間。


 噛み締めた唇がどうしようもない願いをとなえる代わりに、夢がいつまでも夢である世界を拓海は望んだ。


 そんな世界、あるわけもないのに。

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