第9話 嘘つき

 目覚めは最悪だった。


 小学生の頃、大嫌いだったマラソン大会を前にした朝よりも拓海の気分は落ち込んでいた。


 理由は言わずもがな。


『……協力、してほしいの』


 昨夜の出来事が脳裏に呼び起こされる。


『わたしと赤城くんが上手くいくように、拓海に協力して欲しいの』


 およそ現実とは思えないような雪菜からの提案に、夢でも見ていたのではないかと拓海は現実逃避をしたくなる。


 だけど枕元に置いておいたスマホを手に取り、トーク画面を見ると、帰ってから雪菜と交わしたやり取りがきちんと残っている。そこには誠司を観測会に誘うための作戦を練った跡が連綿れんめんと続いていた。


「はぁ……」


 夢ではなかった事実に落胆し、拓海は深いため息をつく。


 いったいどうして引き受けてしまったのだろうか。


 昨夜から何度も繰り返した自問自答が朝になっても拓海を苦しめる。でも、いくらその回数を重ねたところで、はじき出される結論はいつも同じなのだ。


 ——雪菜との関係を壊したくない。


 ただそれだけの理由で、でもそれだけの理由が、何よりも拓海の心を縛り付けていた。


「……情けねえよな」


 こぼれた言葉は決して拓海をなぐさめてはくれない。二月の雨のように嘲笑あざわらってくるだけだった。


 しかし落ち込んでばかりもいられない。拓海にはこれから重大な使命——誠司を観測会に誘うという使命が待っているのだから。


 拓海は頭を切り替えようと部屋の窓を開けた。冷たい冬の朝の風が拓海の心身を落ち着かせようと舞い込んでくる。けれど、そんな簡単に切り替えられる冷めてしまうほど拓海の想いはやはりぬるくなかったらしい。


「……はぁ」


 今朝けさだけで何度目か知らないため息をついてから、拓海は重たい身体を引きずるようにして学校へと向かった。



「——で。昨日はどうだったんですか、センパイ。ちゃんと雪菜さんに告白できましたか?」


 昼休み。教室から逃げるように部室へと足を向けた拓海に楓が訊ねてくる。


 いまだ整理し切れない感情をいだいたまま味のしない卵焼きを食べていた拓海は、視線だけを楓に向けて答えた。


「……無理に決まってんだろ」

「ふふ、だと思いました。昨日の今日でできるようなら、こんな時期になってませんからね」


 からからと笑いながらブロッコリーをつまんでいる楓。その何も知らない後輩の様子に、八つ当たりも同然の感情を覚えた拓海は低い声を出す。


「……そう言うなよな。俺だって告白しようとしたんだぜ。本当にあと一センチだったんだ。あと一センチだけ俺の世界が雪菜の世界よりも早く回っていたら、ちゃんと告白できていたんだよ」

「あは、知ってますかセンパイ? 結果のともなわなかった過程を説明することを、ひとは言い訳って言うんですよ?」


 相変わらず手厳しいやつだった。


 しかし拓海にだって言い分はある。


「だって仕方ねえだろ? 先に雪菜から告白されたんだから」

「え……」


 告げた言葉に、楓の目に驚きの色が浮かぶ。ぽかんといた口がしょくのように広がっていった。


 しかし認識が追いついたのだろう。やがて楓は勢いよく椅子から立ち上がって叫んだ。


「え、ええーっ!! 雪菜さんから告白された!?  それってほんとですか、センパイっ!?」

「……ああ、告白されたよ」


 楓が勘違いを深めるまえに拓海は肩をすくめて言葉を続けた。


「『わたし、好きな人がいるんだ』、ってな」

「……え」


 ぴたりと固まる楓。そんな漫画みたいなリアクション、本当に起こるんだな、と拓海は場違いに思った。


「……それは、センパイのことじゃ、なくて、ですか?」

「そうだったら良かったんだけどな」


 恐る恐る訊ねてくる楓に、拓海は乾いた笑みを漏らした。


「違ったよ」

「……」


 木枯こがらしのような沈黙が拓海たちのあいだに横たわった。暖房がきいているはずなのに、身を切るような寒さが部屋の中を駆け抜けていく。


「——そ、そんなはずないッ!」


 楓が首を小刻みに振りながら叫んだ。


「そんなの、絶対何かの間違いです!」

「雪菜が言ったんだ。これ以上ない事実だろ?」

「とにかく! 絶対そんなはずない! だって、だってそれじゃあ……!」


 楓は聞き分けのない子どもみたいに首を振り続ける。しかし突然身をひるがえすと、楓は部室の外に向かって駆け出した。


「お、おい! どこ行くんだよ!」


 扉の前で立ち止まった楓は、拓海に背を向けたまま告げてくる。


「……わたし、雪菜さんに話を聞いてきます。本当に雪菜さんがそんなこと言ったのか、確かめてきます」


 そのまま部室を飛び出して行こうとする少女を、拓海は鋭く呼び止めた。


「楓!」

「……っ」


 びくりと足を止める楓。その震える背中に向かって拓海は言った。


「……やめろよ。そんなことしてどうなる? 事実は事実なんだ。雪菜は別の奴が好きで、俺は雪菜がそいつと上手くいくよう手伝ってやることにした。それが全てなんだよ」


 重苦しい空気。扉にかけていた手を下ろして振り返った楓は、唇を噛み締めた表情で拓海のことを見つめて、消え入りそうな声で呟いた。


「……いいんですか、センパイはそれで」

「いいも何も、今さらだ。俺はもう承諾しちまったんだからな……」


 雪菜のほっとした声を思い出す。あのとき雪菜が浮かべていたであろう表情を曇らすことを想像すると、拓海にはもう撤回することなんてできそうになかった。


「でな、こんどの観測会、そいつも誘ってみようってことになったんだ。ほら、やっぱ仲を深めるにはちょうどいいイベントだからな」


 「まあ楓には悪いけどさ。俺たちの最後のワガママだと思って諦めてくれよな」と、つとめて明るい声を意識して笑う拓海のことを、楓は今にも泣きそうな表情で見つめていた。


「……本当に、センパイは……先輩はそれでいいんですか?」

「別に、俺はキューピッドにてっするだけだ。上手くいくかどうかは雪菜しだいさ」

「そんなこと訊いてるんじゃありません! わたしは……!」


 拓海は大きく息を吐く。それから冬のさびれた木の枝が映る窓の外へと目を向けながら、口元を皮肉げに曲げて笑った。


「……楓の言ったとおり、決意を固めるのが遅すぎた。ただそれだけのことだろ?」


 そして、ちょうど予鈴よれいが鳴ったのを皮切りに、拓海は部室を後にした。


「………………嘘、つき」


 ひとり残された楓の呟きは、誰に向けての言葉だったのだろうか。いずれにしても、その言葉はしばらくの間、軌道を周回するちりのように部室の中を漂っていた。

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