第6話 好きな人がいるの

 星を見ている時間は拓海にとって全てを忘れられる時間だった。


 明かりの少ない山や離島で見る星空は吸い込まれそうな感覚を味わえる。


 もちろん街中で見る星空はそれらには劣るけれど、それでも星たちの美しさは変わらない。


 中でも冬の夜空は特別で、人々を惹きつけてやまない星たちがその美しさを競うように輝いている。


 例えばすばる。


 オリオン座の真ん中に位置する三つ星を右に伸ばした先にあるのがすばる。おうし座を構成する一角であり、別名プレアデス星団せいだんと呼ばれるこの星々の集まりは、清少納言をして『星はすばる』と言わしめるほどの美しさを誇っている。


 例えばシリウス。


 全天のうちで最も明るく見えるこの星は、冬の夜空を象徴する星だ。おおいぬ座の鼻先に位置し、古くから季節を知る目印として利用されてきた。シリウスがよいのうちに輝き始める空は冬の始まりであり、澄んだ空気の中に多くの星たちが追従するように輝いていく。


 そんな星たちがまたたく冬の夜空を、拓海は今、雪菜とふたり並んで見上げる。


 月が綺麗な夜。凍えんでしまいそうな夜は寒いけれど、なんだかとても温かい。ブランケットのおかげだけじゃない温かさが拓海の心を包んでいた。


「いい感じだね。ちょっと月が明るすぎるけれど」

「……そうだな」


 雪菜の声が耳をくすぐるように届く。


「ねえ拓海は知ってる? サソリ座とオリオン座の関係」

「ああ、雪菜が教えてくれたからな」

「あれ? そうだっけ?」

「そうだよ。俺の持つほとんどの知識は、子どもの頃に雪菜から教えてもらったもんだからな」


 雪菜と出会ってから引っ越していくまでの三年間、毎日のように一緒に空を眺めた。もちろん全ての日が晴れだったわけじゃなくて、曇りや雨の日もあった。でも、そんな日はいつも雪菜に夜空について教えてもらった。懐かしくも昨日のように思い出すことのできる記憶。


 そんな日々が積み重なって出来た現在。すっかり星好きの人間になった拓海は、あるいは雪菜よりも豊富な知識を身につけていた。オリオンがサソリを恐れていることはもちろん知っているし、何千年か後には北極星がこぐま座α星ポラリスからケフェウス座γ星エライに変わることだって知っている。


 それはひとえに、星空をもっと楽しむために学んだ知識。


 だけど本当は——。


 星空を眺める上で、そんなことはどうだっていいのだ。


 何も知らなかった拓海がそのきらめきに魅了されたように。


『大丈夫! 天体観測に言葉はいらないんだよ!』


 そう言って幼い雪菜が拓海の手を引っ張ってくれたように。


 ただ見上げるだけで、星たちは優しく微笑んでくれるのだから……。


 静かな時間が透明な香りをまき散らしながら過ぎていく。何ものにも染まらない居心地の良い空間で、ぼんやりと星を見続けながら、しかし拓海は思う。


 何か、ひとつ。


 何かひとつキッカケが欲しかった。何でもいい。何かひとつでも後押ししてくれるようなものがあれば、拓海は自分の気持ちに素直になれる気がした。


 っと、そんなことを思った直後だった。

 

「――あっ、流れ星!」


 明るい光の軌跡が夜空をこぼれていった。雪菜が歓声を上げてその様子を指し示す。


「ねっ、見た?」


 嬉しそうに上体を起こし、拓海へと向けたその瞳が、月明かりの淡い光でもわかるくらいにキラキラと少女のように輝いている。その瞳が眩しくて、拓海は視線を空へとがしながら言った。


「ああ、随分と気の早いヤツだったな。願いをとなえる暇もなかったよ」

「えっ拓海ってまだそんなことしてるの?」

「バカやろう。流れ星を見たときにはな、いくつになっても願いを三回唱えるのが義務なんだよ」

「ふ~ん、じゃあ何を願うつもりだったの?」

「……それはまあ、色々だよ。受験のこととか、将来のこととか……」

「とか?」


 尻すぼみに消えていった拓海の言葉に、雪菜は不思議そうな声を出す。雪菜の方を見るまでもなく、きっと彼女は拓海のことを見つめているはずだ。その猫のような大きな瞳をいぶかしげに細めて、拓海に言葉の続きを促すために。


 だけど、教えられるわけがなかった。だって、その先に続く言葉は、それはもう……。


「そ、それよか雪菜こそどうなんだよ? あるのかよ、願い」

「わたし?」


 結局、強引に話題を逸らすことしかできなかった拓海は空を見続ける。雪菜は「んー」と唸るような声を出して、考えるそぶりを見せていた。


「……うん、あるよ」


 と、ややあって雪菜は言った。


「どうしても叶えたい願いが、ひとつだけ」

「それは、やっぱ受験のことか?」

「んー秘密」

「……なんだよ、結局雪菜も教えられないんじゃねえか」

「あは、そんなもんだよ。だからみんな欲しがるんだよね、きっと」


 雪菜はばたりと身体を倒した。そこで初めて拓海が視線を向けると、少女は儚げに口元をほころばせていた。


「……欲しがるって、秘密道具でも欲しがるってか?」

「そう。他人の頭の中がわかるような、ね」

「……」


 拓海も寝転がり、そして夜空を眺める。星たちが明るく微笑んでいる夜空。しかし彼らを覆い隠そうとするかのように月が煌々こうこうと輝いている夜空を、拓海はじっと見つめた。


「……ま、そうかもな」


 再び訪れた透明な時間。雰囲気は変わらない。


 ただ、さっきと違うところがあるとすれば。


 それは目に見えない部分に違いなく。


「……なぁ、雪菜」

「——ねぇ、拓海」


 今なら言える気がして、勇気を振り絞った拓海の声は、しかしほとんど同時に発せられた雪菜の声にかき消される。


「なんだよ」

「拓海こそ」


 お決まりのセリフを言い合って笑う二人の声が、夜のしじまに溶け合うように響いた。


「先言えよ。俺はあとでいいから」

「そう? じゃあお言葉に甘えて」


 雪菜の話を聞いてから言おう。そう決意した。


「……」


 しかし雪菜はなかなか告げようとはしなかった。冷たい空気を通して、逡巡するような気配が伝わってくる。


「あはは、ダメだわたし。言うつもりだったのに……いざ言おうってなったらすっごく緊張しちゃって」

「はは、雪菜でもそんなことってあるんだな」

「もーあたりまえでしょ~、わたしをどんな目で見てるのよ」

「仕方ねえだろ? 俺にとって雪菜は、ポラリスみたいなモンなんだからな」


 クサイ言葉が自然と喉を飛び出した。何をやっているんだと頬をつねりたくなるが、今更引っ込めることはできない。仕方なく、拓海は星空に向かって思いのたけを少しだけこぼすことにした。


「子どもの頃も、高校で再開してからも、いつも雪菜は俺のことを引っ張ってくれた。星を見ることの楽しさを教えてくれた。感謝してるんだ、本当に」


 雪菜がいなければ、きっと自分は星を見ることなんて一生なかった。


 それどころか、学校の勉強だってしようとは思わなかったかもしれない。


 なぜなら拓海が勉強する動機も、思いえがいている将来の夢も、星に関するものなのだから。


「だからかな。俺にとって雪菜は、眩しくて、ずっと憧れなんだ。いつも一歩前を進んでいて、迷わずに何でも実行できる。そんなふうに思ってしまうくらいに、な」

「………買いかぶりすぎだよ、まったく」


 囁くような言葉に揺れた空気が、まるで微風そよかぜのように拓海の耳を震わせた。


「……でも、ありがとう。拓海」


 グッと決意を固めたような雪菜の声が、闇の中に溶けていく。


 それからまた時間が流れていくなかを、拓海はただ静かに待った。


 何を言おうとしているのかはわからないけれど、それは雪菜にとって、とても大切なことだと拓海は確信していた。


 いま雪菜はどんな顔をしているんだろう。


 それが気になって、ふと横を見ると、恥ずかしさを隠すような笑みが月明かりに浮かんでいた。


「あのね、拓海……」


 そして雪菜は言った。


 十二月の星空の下。


 今までの関係ではいられなくなる、その決定的なセリフを。


「——わたしね、好きな人がいるの」

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