第5話 何も変わらないさ

 肌を刺すような寒空の下、拓海はひとり公園のベンチに寝転がっていた。


 寝ているわけじゃない。


 ……かといって星を見ているわけでもない。


 そんな余裕はいまの拓海にはなかった。


「はぁ、はぁ、はぁ……」


 鼓動が痛いくらいに胸を打っていた。


 乳酸のたまった身体がレモンを欲するかのように悲鳴をあげている。


 もう一歩も動けそうにない。


 十二月の夜風よかぜがなければ、あつくほてった身体は太陽をさえ凌ぐほどの熱をたもち続けていたに違いなかった。


 むろん原因は自転車にある。正確に言えば、自転車に乗ってここまで来たことにあった。


 実際には緩やかな坂だったが、主観ではほとんど垂直かと思うほどの坂道を自転車——しかも二人乗り——で登るというのはほとんど自殺行為も同然だった。


 勢いよくペダルを漕いでいられたのは途中まで。


 半分も行かないうちに、なまりのように重くなったあしが何度も拓海に自転車から降りるように命令し、ハンドルを握る手が無理しなくて良いよと天使のような歌声で甘く囁いてきた。


 でも、拓海はその全てを拒絶した。歯を食いしばりながら、最後まで雪菜を荷台に乗せたまま地獄のような坂を登り続けたのだ。


 理由は単純。


 好きな女の子に情けない姿を見せたくない。カッコつけたい男のバカで不合理な行動だった。


 しかしその結果がこれでは本末転倒な気がする。


 みだれた息が蒸気のように空へと溶けていた。いまの拓海の姿をはたから見れば、はしゃぎ疲れた犬にしか見えないだろう。


 このままではいけない。


 拓海は重い身体を引きずるように上体を起こしてベンチに座り直す。それから深呼吸をして息を落ち着かせるように努めた。


 飲み物を買いに行ってくれた雪菜がそろそろ戻ってくる頃だ。これ以上情けない姿を晒すわけにいかない。


 二度三度と大きく呼吸を繰り返すうちにだいぶマシになってきた。これならもう大丈夫。


「あっ、よかった。復活してる」


 もう何度か深呼吸をして鼻を凍らせようとしていたところで、ちょうど雪菜が戻ってくる。拓海の姿を見て安心したように微笑みながら、雪菜は手に持った飲み物を差し出してきた。


「はい、これ。わたしの奢りだから」

「ふー、サンキュー。ってトマトジュースかよ」

「運動の後には酸っぱいものを取らないとね」

「その知識は何か間違ってるぞ」


 クスクスと笑いながら雪菜は拓海の隣に腰を下ろし、自分の分であるホットカフェオレのキャップを回す。


 拓海も仕方なくプルタブを引いた。トマトの酸味を感じながら渋い表情で飲む。しかし乾いた身体にはトマトジュースだろうがオアシスだったようで、ドロリと喉に絡みつく濃厚な口当たりを、そのままひと息に飲み干した。


 と、そんな拓海のことを雪菜が興味深そうに見ていることに気づく。


「……なんだよ?」

「ホントに飲むんだ」

「雪菜が買ってきたんじゃねえか」

「冗談だったんだけどなぁ。はい、これ」


 そう言って、雪菜は隠し持っていたスポーツドリンクを渡してくる。


「……わかりにくいボケかますなよな」

「いやぁホントはもっと早く渡すつもりだったんだけど、あまりにも良い飲みっぷりだったからついね。見惚みほれちゃった」


 微笑む雪菜からスポーツドリンクを受け取って飲むと、拓海はほっと息をつく。甘い液体が身体の隅々まで染み渡った気がした。


「でもまさか本当に一度も降りずに登り切るとは思わなかったよ」


 身体が冷え始め、肌寒さを感じていたところで雪菜が言った。


「意外か?」

「うん。だって昔はすぐに諦めて自転車を押してたじゃない? それなのに今ではわたしを後ろに乗せて登りきるんだもん。すごいよ」


 雪菜に言われて思い出すのは夏の午後。坂の上で待つ雪菜が大きく手を振って拓海を呼んでいる。入道雲がモクモクと伸び上がる空はひたすらに青くて、悩みなんかないみたいに晴れやかだ。


 でも、それはもうずっと昔の記憶。純情な子どもの日々をうつした泡沫うたかただ。


 だから拓海は暑い思い出を振り払い、現実の寒さと向き直る。


「男子三日会わざれば刮目かつもくして見よ、ってな。あれから何年経ったと思ってんだよ」


 見上げた空にまるい月が高く浮かんでいた。冬の澄んだ空気を通して見る満月は、まるで本物の神様のように神々こうごうしく微笑んでいる。しかし肝心の星たちは、強すぎる月明かりの影に弱々しく輝いていた。


「すごいね、拓海は」


 ぽつりと呟く雪菜の声が夜の寒さに混じって届く。拓海が疑問を投げかけるよりも先に、雪菜はまた小さく言葉を続けた。


「いつまでも、変わらないでいられたら良かったのになぁ……」

「え?」

「さて、と」


 雪菜は立ち上がると、ベンチのそばにただ一つ設置されていた遊具に向かって歩いていく。そうしてそれに腰掛けながら言った。


「ブランコに乗るのって久しぶりな気がする。小学校以来かも」


 雪菜は少し嬉しそうにブランコを漕ぎ始めた。ブランコが揺れるたびに、風を切る音と、金具が軋む音が辺りに響く。


「楓ちゃんには悪いことしちゃったなぁ。誘えばよかったよね」

「まぁ仕方ねえよ。まがりなりにも俺たちは受験生だからな。アイツも遠慮するさ。アレで結構気を配る方だからな」

「本当に良い子だよね、楓ちゃん」

「ああ、よく出来た後輩だよ」


 雑談を挟みながら、しばらく雪菜はそうやってブランコを漕ぎ続けていた。


 もちろん、拓海も雪菜の様子がいつもと違うのには気付いていた。


 どことなく地に足がついていないような。意識して子どものように振る舞っているような。そんな感じ。


 だけど拓海は気づかないふりをして過ごした。指摘したところで、一体なんの意味があるというのだろうか。拓海にはわからない。


 やがて雪菜がブランコを漕ぐのを止めると、沈黙が緩やかな雪のように舞い降りる。高台にある静かな公園。何もかも止まってしまったかのような時間の中で、二人の息遣いだけが秒針のように動いていた。


 拓海はベンチに座りながら雪菜の様子をうかがうように見ていた。手袋をしていてもかじかむのだろう、雪菜は両手を擦り合わせながらホっと息を吹きかけている。散っていく白が綺麗だと思った。


「——さてと、じゃあそろそろ見よっか」


 それから永遠にも似た数分が過ぎたあと、突然雪菜はブランコから立ち上がると、芝生が広がる場所へと歩いていった。背負っていたリュックを下ろし、取り出したのはブルーシートにブランケットなどなど。


 およそ日常生活には用のないものばかりだが、天体観測には必須のものばかり。


 急遽決まったにしては随分ずいぶんと用意がいい。


 というかあり得ない。


「雪菜、絶対最初からここに来るつもりだったろ」

「あはは、バレたか」


 拓海はガックリとうなだれる。


「……あのなぁ、だったら自転車で来てくれよ……本当にしんどかったんだぜ」


 恨みぶしをこぼす拓海に、ばさばさとブルーシートを広げながら雪菜がそっと呟いた。


「ワザとだよ」

「あん?」

「拓海と二人乗りがしたかったからワザと自転車では来なかったの」

「……」


 暗い夜空の下。拓海の脳はいま高速で動いていた。


 街灯の明かりが届かない闇の中では雪菜の顔はぼんやりとしか見えない。


 どうしてそんなことをいうのだろう。


 どういう気持ちでその言葉を発したのだろう。


 さまざまな可能性が頭に浮かんでは消え、また浮かんでいく。


 拓海が口を開きかけたところで、雪菜が笑った。


「って言ったらどうする?」

「……あのなぁ」

「あはは、ごめん。ホントはね、今朝けさ乗ろうとしたらパンクしてたってだけ」

「……なら別に今日じゃなくてもよかったんじゃねえのか?」


 拓海の言葉に、雪菜は何故かびっくりしたような声を出す。


「確かに、その考えもあるね」

「普通はそう思うんじゃねえか?」

「そうかもね。——でも来たかったから。拓海と一緒に、今日」


 言って、雪菜はシートの上に寝転がる。


 拓海はため息をひとつ吐いてから雪菜の側まで歩いていき、隣に腰を下ろす。雪菜はじっと空を見続けていた。


「——ベテルギウス」


 ふいに聞こえてきた声に雪菜の方に目を向けると、雪菜は寝転んだまま空に手を伸ばしていた。


「見れなくなるかもしれないんだってね。不思議。あんなに赤く輝いてるのに今はもうないかもしれないなんて」

「そうだな」


 拓海も夜空を見上げる。見上げた先にはベテルギウスが月明かりに負けないくらい赤く輝いていた。

 

「どうなるんだろうね。ベテルギウスが消えちゃったら」

「……何も変わらないさ。星がひとつ消えたところで、俺たちの生活には何も影響しねえよ」

「でもさ……少なくとも、オリオン座はなくなっちゃうよね。嫌だな、わたし」


 悲しげに呟く雪菜の言葉に、きっと多くの人も共感するのだろう。


 オリオン座は冬の夜空に浮かぶつづみ型の星座だ。明るい星で構成されているから街中でも見つけやすく、人気が高い。ベテルギウスはその左上に位置する星だった。


 だからベテルギウスが消えた空には、オリオン座はもう見られない。


 それは確かに嫌なことだと拓海は思った。


「だけど裏からまた星が現れるかもしれないぜ?」


 おどけるように言った拓海に、雪菜が笑う。


「だったらいいね」

「それに最近の研究じゃベテルギウスが消えるのはもっとずっと後の話ってことじゃねえか。俺たちが生きている間には消えそうもない。そんな話を今から心配しても仕方ないさ」

「予測は予測でしょ? 絶対じゃない。だから明日にでも、なくなるかもしれない」


 天文学者たちは優秀だ。彼らが言うのであれば、ベテルギウスが消えるのはもっと先の話なのは間違いない。


 でも、雪菜はそんな彼らの予言を切り捨てる。じっと空を見つめながら、距離を測るかのようにその手を伸ばして。


 拓海もまた空を見続けた。


 真っ赤に燃えたベテルギウスが、オリオンの右肩でその存在をあつく主張していた。拓海はあの星の消えた姿を想像する。拓海自身、今まで何度もそうしたように。


「たとえ……」


 そうして、こぼれた吐息に乗せるように拓海は言った。


「たとえ変わってしまっても、同じように好きになるかもしれない。結局、変わってみなければ、変わった後のことなんてわかんねえよ」


 告白を躊躇している男の言うセリフじゃないな、と拓海は内心で笑う。どの口がそんなことを言っているのか。楓に聞かれたらさんざんののしられそうだった。


 しかし雪菜には響いたようで、


「そっか……うん、そうだよね。拓海、いま良いこと言ったよ」


 雪菜はぼうっとした声で言う。


「変わってみなければ、変わった後のことはわからない、か……」

「……ああ、何も」


 でも、だからこそ怖いと拓海はまた思う。


 変わってしまった先に光があるのならいい。


 だけど、変わった先にあるものが闇だったとき。


 戻れない選択に後悔してしまうんじゃないだろうか。


 その可能性が怖いから、拓海は踏み出せない。


 出来ることなら、何も変わってほしくなんてないのだ。

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