第4話 光栄だなってね

「ふ〜結構遅くなっちゃったね」


 まるい月がカゲロウのように輝く夜。すっかりと群青に染まった空に雪菜のこぼした吐息がしろく龍のように昇っていく。


 結局、拓海の心配は杞憂きゆうに過ぎなかったみたいで、あれからすぐに雪菜は部室にやってきた。


 先の会話によって微妙な空気を醸し出していた拓海たちの様子を見て、雪菜はクスクスと笑いながら、


『相変わらず仲良いね』

『……何処どこをどう見たらそんな感想が出てくるんだよ』

『え〜だって昔からよく言うでしょ? ケンカするほど仲が良いってね』

『残念ながら大事な視点が欠けてますよ、雪菜さん。ケンカをするのは対等な相手とだけです。私とセンパイの関係じゃケンカになんてなるわけないじゃないですか』

『あっ確かに! それじゃあ今の状態は『悪戯イタズラおこる女の子と飼い犬』という構図なのかな?』

『ええ、おおむねその通りです』

『……お前らなぁ』


 久しぶりの三人での部活は思ったよりも会話がはずみ、気がつけば完全下校時間である午後七時になっていた。


 電車通学である楓を駅まで送った後、拓海と雪菜はふたり家までの帰り道を歩いていた。


 自転車を押している拓海に対し、雪菜は徒歩。


 去年までは雪菜も自転車で通学していたのだが、通学時間を勉強に利用したいと三年になる少し前からバス通学に切り替えたのだ。


『たかが十分、されど十分だからね。積み重ねたときだけがわたしを高みへと導くんだよ』


 そんなふうに冗談めかしてうそぶいた雪菜の決断を、拓海は残念に思ったことを覚えている。もちろんその理由は明白で。


 車輪の回る音だけが冬の夜の静かなひとときをめていた。マフラーに顔をうずめながら歩くふたりの足元を街灯がほのかに照らしている。


「なんか懐かしいね。ちょっと前までは、これが当たり前だったのにさ」

「そうだな」


 少しだけ寂しげに言う雪菜に、拓海は静かに応える。部活終わりの帰り道。夜が微笑ほほえむ空の下を、拓海と雪菜はいつも二人で帰路についた。自転車を走らせながら語った言葉の数々は遠く潮風のような匂いとともに拓海の心に仕舞い込まれている。


 おなじ気持ちを雪菜も感じてくれているのだとしたら、それはとても嬉しいことのように思えた。


「ふふ、でもやっぱり楓ちゃんと話すのは楽しいなァ」

「だったらもっと部室へ行けばいいじゃねえか。そのほうが楓も喜ぶぜ」

「う〜ん、まぁ、そういうわけにもいかないんだよ。いまは受験に手一杯。予備校だってあるしね」


 苦笑いを浮かべる雪菜。


 雪菜がそう言うのも無理はない。なにしろこれからの日々は受験生にとって追い込みをかける大切な時期。どちらかと言うと、この時期になっても毎日部活に顔を出している拓海の方がイレギュラーだ。


 我が儘は言えない。たった一年にも満たない時間が、その後の一生を大きく左右するのだから。


 だけど偶には、と拓海はどうしても思ってしまう。偶には息抜きがてらに部室に来てくれても良いのではないだろうか。楓や自分と一緒に大好きな星や天体についての話をしたりしてもいいのではないのだろうか、と。


 でもやっぱり、そんな身勝手な想いを口に出すわけにはいかないから、拓海は凍りつくような空気と一緒にそれを飲み込んで、別の言葉を口にする。


「調子はどうなんだ?」

「うん、おかげさまで悪くはないよ。この前の模試もB判定だったし。……ま、拓海ほどじゃないけどね」


 雪菜は笑いかけてくる。


「まったく驚いたよ。拓海ったら、しばらく会わない間にガリ勉キャラになってるんだもんなぁ」

「負の遺産だよ。暗黒時代のな」

「それって中学の頃のこと?」

「ああ、忘れがたき日々さ。悪い意味でな」


 クラスにも馴染めず、居場所はたったひとつ。その居場所があったからこそ、辛い生活を乗り切れたということもできるが、それでも目を覆いたくなる時代だったことには違いない。


「だけど楓ちゃんがいたでしょ?」

「まあな。でも、……」


 言いかけた口を閉ざす。恥ずかしい言葉を口にしようとした自分に気がついたのだ。


 しかし少女は見逃してくれない。


「でも、なに? わたしがいなかった?」


 意地悪げに覗き込んでくる雪菜の瞳から拓海は目を逸らして、


「……ま、正直に言うと、それも理由のひとつだな」

「ふーん、そっかそっか。じゃあ嬉しかったんだ? 高校でわたしと再会できて」

「そうだな」

「あっ意外。素直に認めるんだ?」

「嬉しかったのは事実だからな」

「ふむふむ、それはそれは」


 言いながら、雪菜は少し前を歩き出す。月明かりが少女の背中を粉雪のように照らしていた。


「……なんだよ」

「いやいや——光栄だなってね」


 雪菜はくるっと振り返ると拓海に笑いかけてくる。無邪気な笑顔。まるで七夕たなばたの夜に現れた天の川のような笑顔に、やっぱり自分は雪菜のことが好きなのだと拓海は思う。


 ——しないんですか、告白。


 楓の言葉が脳裏に蘇る。苦い痺れが身体を駆け巡った。


 告白。たった二文字の言葉が、まるで落ちた隕石いんせきのように拓海の心に重くのしかかってくる。


 いつかはしようと思っている。それは嘘じゃない。受験が終わって、心配事が全てなくなったタイミングで、自分の気持ちを伝える気でいた。


 でも。


 ——そんなことじゃ誰かに獲られちゃいますよ。


 思いもよらなかった言葉に、焦燥にも似た感情が湧き出していたのもまた事実だった。


 ぐちゃぐちゃになった心が夜の闇を彷徨さまよう。月の明るさがなければ、世界がこんなにも暗いものなんだということを拓海は思い出す。


 ——意気地なし。


 沈んだ目に映る暗闇が山彦やまびこのように拓海を責め立てていた。


「あ、そうだ」


 と、何も知らない雪菜が明るく微笑みかけてきた。


「ね、久しぶりにあそこ、よっていかない?」

「……ああ、いいな、それ」


 雪菜の提案にうなずくと、拓海は空を見上げる。ほとんど満月も同然の月齢ではあったが、雲ひとつない澄んだ夜空に、星たちがうっすらとまたたき始めていた。


「ふふ、決まりだね。それじゃ行こっか」


 そう言うや否や、雪菜は拓海の押す自転車の荷台に跨ってくる。そして何かを期待するように瞳を輝かせて拓海のことを見つめてきた。


「……知ってるか? 二人乗りは交通違反なんだぜ?」

「うん、知ってるよ」


 ため息を吐きながら告げる拓海の言葉にも、雪菜はニコニコと笑うだけで荷台から降りようともしない。


「……もうひとつ知ってるか? あそこに行くまでは、ずっと坂道が続くんだぜ?」

「うん、頑張って。拓海なら行けるよ、ファイト」


 拓海は呆れて首を振る。


 小学校三年からと高校、合わせて六年の歳月を振り回されてきたのだ。一度決めたら聞く耳を持たない雪菜の性格は十二分に理解していた。


「……はぁ、たくっしょうがねえな。しっかり掴まっとけよ」

「うん!」


 観念した拓海はもう一度大きなため息をつくと、サドルにまたがり、ペダルをゆっくりと漕ぎ出す。はじめは重心が安定せずよろめくが、走り出すにつれて次第に持ち直していき、スピードに乗っていく。


 息を吹きかけられたような風を浴びながら、荷台の前後を持ってバランスをとっている雪菜は無邪気に笑う。横座りでも拓海の腰を掴むのでもないのが雪菜らしい。


 なによりも、それを少し残念に思う自分が憎らしかった。


「さあ、目的地は星海台ほしみだい公園! 一度でも降りたら罰金だからね!」

「ばっ、無茶言うなって!」


 前方には傾斜は比較的緩やかだが約一キロメートル続く坂道。


 背後には推定五十キログラムの大荷物。


 これから訪れるであろう地獄を想像し、拓海は泣きたくなるのであった。

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