第3話 好きじゃないんですか?

 芳醇ほうじゅんな香りが部室の中を泡のように満たしていた。熱いカップを手に取ってひと口飲むと、なめらかな舌触したざわりが鼻腔びこうを抜けるように流れていく。


 かえでが淹れてくれたコーヒーはインスタントのはずなのに今まで飲んだどのコーヒーよりも美味おいしかった。


美味うまいな、これ」

「えへへ、ありがとうございます!」

「なんか前飲んだときとは味が違う気がするけど、何か変えたのか?」

「いいえ、何も。しいて言えば隠し味を多めに入れてみたくらいですかね♪」

「へぇ、チョコでも入れたのか?」

「なに言ってるんですか。愛情に決まってるでしょ♪」


 拓海は思わず笑う。


「あー馬鹿にして! 私の愛はハニーシロップよりも甘いんですからねっ!」

「ははっ、そうか。なら気をつけろよ。入れすぎて胸焼けさせないようにな」


 笑いを噛み殺しながらコーヒーを仰ぐ拓海。苦味にがみの中に感じるほのかな甘さが美味しかった。


 コーヒーを飲んでいるうちに雪菜が来るかと思ったけれど、半分ほど飲み終わった頃になってもまだやって来なかった。本当に来るのだろうかと心配になると同時に、そう言えばまだこのことを楓に伝えていなかったことを思い出す。


「そういや今日、掃除が終わったら雪菜も来るってさ」

「えっ、ほんとですか!」


 ムッとほおふくれさせていた楓の表情がパッと弾ける。


「楽しみです!」


 それからあずけられた家に突然飼い主が現れた犬のような表情のままに楓は言葉を続けた。


「でもホント久しぶりですね、雪菜さんが来てくれるの。一ヶ月ぶりくらい?」

「いくら誘っても来ないんだよアイツ。予備校があるとかいってな」

「まあ仕方ないですよ。雪菜さんは受験生なんだから」

「俺だって受験生なんだけどな」

「ああ、センパイはほら、現役よりも浪人ろうにん志向だから?」

「あのなぁ、言っとくけど模試の結果で言えば俺の方が合格に近いんだからな?」

「模試は模試でしょ? 模試の結果で一喜一憂してるだなんて、あーあ、センパイも案外子どもなんですね。あ、でも全国一位なんだったら褒めてあげますよ? どうなんですか?」

「……違うけど」


 にやけている楓。可愛い後輩の言動にムカついた拓海は、コーヒで口を湿らせてから告げる。


「よし、なら賭けようぜ。俺が現役で受かるかどうか。俺が勝ったら俺の言うことをなんでも聞いてもらうぜ」

「嫌ですよ、そんなの」

「なんだよ逃げるのか?」

「そうじゃないです。だって賭けにならないでしょ?」

「あん、どうして?」


 コーヒーの代わりに飲んでいるココアのカップに手を触れながら、楓は至極当たり前のように言った。


「先輩なら受かるに決まってるじゃないですか」

「…………あっそ」


 これだから可愛い後輩というヤツはめんどくさいんだ、と両手で包むようにカップを持つ楓を見ながら拓海は思った。


 傾いた時間に追いやられるように、夕焼けが徐々にその範囲をせばめて群青ぐんじょうに染まっていく。壁にかけられた時計を見ると、拓海が部室に来てから三十分が経っていた。雪菜はまだ来ない。


 まさか帰ったのだろうか。不安が頭をもたげる。だけど、それはないかとすぐに否定する。


 絶対に行くと雪菜が言ったのだ。


 単純に掃除が長引いているのか、そうでなければ何か他の用事を頼まれたのかもしれない。


 いずれにしろ、部室にいる拓海が判断できることではなかった。


 カップを口に運びながら、拓海は窓の外へと視線を向ける。雲ひとつない空が濃淡のうたんなグラデーションをえがいているのを見ていると、思い出が陽炎かげろうのように蘇ってくる。


 雪菜と過ごした時間。部室で咲かせた言葉。見上げた夜空の数々。


 懐かしくも儚い記憶に、卒業というモノの存在を嫌でも意識しそうになる。


 そんな時だった。


「ねぇ、先輩」

「ん?」


 楓が小さく呼びかけてくる。拓海が視線を向けると、楓は気だるそうに頬杖をついて拓海のことを見ていた。


「なんだよ?」

「先輩はいつになったらするんですか?」

「するって、何を?」

「決まってるじゃないですか。——告白ですよ、告白。雪菜さんに」


 その言葉に、拓海は飲んでいたコーヒーを吹き出した。机や床の上に飛沫が勢いよく散っていく。


「あーもう汚いなァ……」


 楓が眉をひそめて呟いているが構ってはいられない。


「な、なんで俺が雪菜に告白するんだよ!?」

「そんなの先輩が雪菜さんのことを好きだからに決まってるじゃないですか。バカなんですか?」

「は、はあ? 俺が雪菜を好きだって!? ば、バカ言え! いつ俺がそんなこと言ったよ!」

「呆れた。隠してるつもりだったんだ?」

「だから! 隠してるも何も俺は雪菜のことなんて好きじゃ——」

「——ホントに? 本当に先輩は雪菜さんのこと好きじゃないんですか?」


 まっすぐな瞳を向けられる。その眼差しに気圧されて、拓海はスッと目を逸らした。


「……まぁ、嫌いじゃない、けどよ」

「はぁ……ホント、甲斐性無しなんだから」


 ため息を吐きながら首を振る楓。それから憐れむような目を拓海に向けて、


「そんなことじゃ誰かに獲られちゃいますよ?」

「……獲られるって、雪菜は物じゃないだろ」

「いいえ、センパイ。恋愛は狩りと一緒なんです。行動した者にだけ神さまは微笑む。単純なことですよ」


 含蓄のあるようなセリフを言って、楓は再び訊ねてくる。


「それで? 先輩は本当に雪菜さんのことが嫌いなんですか?」

「……嫌いなんて言ってないだろ」

「好きじゃないってことは嫌いってことですよね?」

「んだよその暴論は……」

「いいからハッキリさせてください先輩。雪菜さんのこと、好きなんですか? 嫌いなんですか?」

「ああ、もうっ! 好きだよ! これでいいか!?」


 吐き捨てるように告げて、言わされた感を演出する。


 でもきっと、そんな子どもじみた思惑は見破られているのだろう。楓はおもむろな動作で受け皿からスプーンを手に取ると、カップの中をくるくると混ぜながらなおも言ってくる。


「しないんですか、告白」


 きっともう反論する意味はないのだろう。だから拓海は一度大きく息を吐いてから、素直に答えることにした。


「そりゃまあ……いつかはしようと思ってるよ……」


 でも今はまだ時期じゃない。受験だって残ってる。今告白したとしても雪菜に迷惑をかける結果になるだけだ。


「いつか、ね」

「んだよ……その含みのある目は」

「べっつにー? ただ、再会したんだ! って言いに卒業したはずの中学まで乗り込んできてからもう何年になるんでしょうね」

「ぐっ……」


 痛いところを突いてくる。


 雪菜と拓海が出会ったのは小学生三年生の時だった。


 でもそれからずっと一緒だったというわけじゃない。中学に上がる前に雪菜が転校していったのだ。その頃はスマホなんて持ってなかったから、『絶対手紙を書くから』なんてお互い約束したりしたけれど、やっぱり段々と疎遠になっていった。


 だけど高校で再会した。本当に驚いたし、運命だって思った。そんなのフィクションの世界だけの話だと思ってたから。


 そんな奇跡を誰かに伝えたくて、思わず楓のいる中学にまで飛んでいった。


 拓海の興奮を受けた楓は、今も昔も、呆れた表情を浮かべて聞いているのだった。


「知ってますかセンパイ? 卒業までもう時間ないんですよォ?」

「だから……わかってるって、そんなこと」

「本当にわかっていたらもう行動していると思いますけどね」

「雰囲気があるんだよ! 特別な日にしたいんだ」

「特別な日にしたいんだったら、今までにもそんな日はいくらでもありましたよね?」

「うぐっ……」


 文化祭、修学旅行、誕生日、観測会。挙げていけばキリがなかった。


 だから拓海の言い分はただの言い訳に過ぎないのは明白で。


 とうとう観念するように拓海は言った。


「……崩したくないんだよ」


 告白が成功するのならいい。


 だけどもし失敗したら?


 雪菜との関係も、居心地の良い場所も、全てを失くしてしまう気がして。


 拓海は自らをあざけるように乾いた笑みを浮かべながら、言葉を続ける。


「今度にしよう、今度にしようってずるずると先延ばして、気づいたらこんな時間さ。ははっ、情けねえよな」

「そーですね。正直何してんだか、って感じです」


 優しい言葉をかけてくれることを期待したわけじゃないけれど、それでも何か励ましてくれるような言葉を期待した拓海に、しかし楓の口から出た言葉は辛辣だった。


意気地いくじなし」

「……」


 心を穿うがつような言葉と視線に、拓海は何も言い返せない。吹奏楽部の演奏が止み、しめやかな雨のような音に包まれた部室は静かで、重い風が窓を責めるように叩いていた。


 楓はもう一度告げた。


「想うだけで気持ちが伝わるなんて、そんなことあるわけないんだから」

「……」


 だからわかってるって。


 行き場のない苛立ちをぶつけるかのように、冷たくなったカップを乱暴に仰いで、拓海はコーヒーを飲み干すのだった。

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