第2話 可愛い後輩

 教室を出た拓海は天文部の部室へと向かって歩いていた。下校する生徒たちのざわめきを耳にしながら階段をおり、肌寒さを感じながら校舎と校舎のあいだを進んでいく。


 桂西かつらにし高校には校舎が三棟あり、北から順にA棟、B棟、C棟と呼ばれていた。拓海たちの教室のあるA棟から天文部の部室のあるC棟に行くためには、一度校舎を出る必要があった。


 何度か渡り廊下を増設しようという意見が――主に文化部の生徒たちから挙がったが、結局、卒業までに渡り廊下ができることはなく、冷たい風を浴びながらC棟へとたどり着いた。


 進学校といってもやはり公立高校らしい古ぼけた昇降口を抜け、二階へと上っていく。掃除のために開け放たれた窓から感じる冬の透き通るような空気に、吹奏楽部の奏でる調べが滑らかに響いていた。


 部室の前にたどり着いた拓海は引き戸をガラリと開けて中へと進んでいく。


 天文部の部室は普段地学室として使われている教室だった。だから部室と言っても構造は教室と何ら変わらない。教室後方に設置されたロッカーの上にひっそりと申し訳程度に置かれている備品だけが、ここが天文部の部室だと示す唯一のものだった。


 南向きの窓からは山間やまあいに身を隠そうとしている太陽の光が入り込んでいて、部室の中を黄昏たそがれ模様にいろどっている。その窓辺の席、だまりに沈んだ椅子にひとりの女子生徒が座っていた。読書に集中しているらしく、拓海が来たことにも気がついていないようだった。


かえで


 拓海が声をかけると、ようやく少女は来訪者に気がついたらしく、文庫本から顔をあげる。そうして扉のそばに立つ拓海の姿を認めると、いたずらな笑みを浮かべてきた。


「あれれ、センパイ。また来たんですか?」


 からかうような声音でそう言った少女は、喜ぶでもなく、ただ呆れたような視線を向けてくる。拓海は手短な机に鞄を置きながら答えた。


「迷惑だったか?」

「いやいや、まさか。迷惑だなんてそんなこと思ってませんよ、センパイ。けど知ってます? 三年生って部活はもう引退しているんですよ?」


 本に栞を挟んで脇に置き、なおもからかうような口調を崩さない少女の姿勢に、拓海は肩をすくめて答える。


「知ってるよ。だけど可愛い後輩がちゃんと活動できているか様子を観に来ることを禁止されているわけじゃねえだろ?」

「いやだセンパイ、可愛いって……ホントのことでも照れますよ〜」

「ああ、昔の人はホントよく言ったよ。バカな子ほど可愛いってな」


 恥ずかしさを表現するように身をくねらせている少女の名は夏月なつき楓。雪菜のあとを継いで桂西高校天文部の二代目部長になったバカで可愛い後輩だった。


「けど先輩もほんとヒマですねェ。ここのところ毎日じゃないですか。そんなんで受験大丈夫なんですか?」

「仕方ないだろ……再来週の準備があるんだからさ。ほんとは俺だって受験勉強に集中したいよ」

「したらいいじゃないですか。わたしは別にひとりでも構いませんよ、準備くらい」


 呆れた先輩だなぁとばかりに首を振っていた楓だったが、ふいにこてんと首を傾げてくる。


「というか、準備? なんの?」

「バカ、観測会の準備に決まってるだろ」

「へぇー観測会……アイドルでもくるんですか?」

「あいどる?」


 拓海はいぶかしげに眉をひそめた。まだからかわれているのかと思ったが、どうやら本当にわかっていないらしい。


 ため息を吐きたくなる気持ちをグッとこらえて、拓海は同意を示すように頷いた。


「……ああ、まあな」

「へぇ意外。センパイがアイドルの追っかけやってるなんて」

「なに言ってんだよ、昔から好きだぜ。こうやって写真を撮るための準備をするぐらいにはな」


 天文部の備品が置かれているロッカー棚の前へと移動した拓海はそこから一眼レフを取り出しながら言った。部の備品として購入した唯一のカメラで、暗所でも鮮明に対象をうつし出せる優れものだ。それなり以上の値段に見合った価値を拓海たちに提供してくれている。


「なんて名前のアイドルなんですか?」

「ジェミニだよ」

「じぇみに? 不思議な名前ですね。外国のアイドルなんですか?」

「ああ、しかも双子なんだぜ。ユニット名はメテオシャワー。登場の仕方がこれまた派手でよ、なんたって空から降ってくるんだ。星の姿をして、な」

「空から降ってくる……星の姿をして……あっ」


 そこまで言ってようやく気がついたらしい。天文部の部長は言った。


「……もしかして、流星群のこと――いた〜いっ! 何するんですかァ!」

「天罰だよ、天罰。仮にも天文部の部長がなにを言ってるんだっていかる神様からのな」

「何が天罰ですかぁ〜、うぅ暴力反対〜、訴えてやる〜!」


 軽いデコピンを受けた額を大袈裟にさすりながら楓は恨みがましい目を向けてくる。しかしすぐにその表情を切り替えて、


「あーでももうそんな時期ですか。今度のは確か、えっと、ペルセウス座流星群でしたっけ?」

「ああ、そうだな」と、拓海はカメラの調整をしながら答えた。「ふたご座流星群だ」

「……ねえ知ってますか、センパイ? 『ああ、そうだな』って否定語じゃないんですよ?」

「ああ、そうだな。それでそのふたご座流星群なんだが、今年は再来週の日曜日、十二月十四日の未明みめいに極大を迎えるみたいでさ。絶好の観測日和なんだよ」


 天気はまだどうなるかわからないが、土曜日から日曜日にかけての観測は拓海たち学生にとっては優しく、そのうえ新月と観測条件としては過去に類を見ないほどの好条件だった。


 欲を言えばどこか有名な星見スポットまで行きたかったが、さすがに受験生である身の上としてははばかられ、学校の屋上から見ることを予定している。


 それでもこんな良い条件で一大イベントが見られるのかと思うと、拓海は今から楽しみだった。


 が、しかし。どうやら今代こんだいの天文部の部長にとっては何を置いても優先するべき話ではないらしく、楓は微妙な視線を拓海に向けていた。


「どうした?」

「……いえ、何にも。先輩のユーモアのなさにおののいていただけです」

「? 馬鹿なこと言うなよ。俺くらいユーモアのある奴なんて珍しいくらいじゃねえか」

「じゃあ何か面白い話をしてください」

「なんでもいいのか?」

「はい」

「よし、ならカマキリには予知能力があるって話を——」

「——あーいいですいいです、その話はまた今度でお願いします」


 適当な感じで拓海の話をさえぎったあと、ふとまた何かに思い当たったらしく、楓は意外そうな声を出して訊ねてきた。


「って、あれ? 観測会? え、あれって今年もやるんですか?」

「なに言ってんだ、当たり前だろ? 俺たちは天文部なんだぜ? どこの世界に流星群を観測しない天文部が存在するってんだよ」

「でも……」


 と、しかし拓海の言葉を聞いた楓はなぜだか俯き加減になって、弱々しい声で告げてくる。


「……いまは私ひとりだし、先輩たちは受験じゃないですか。悪いですよ、私だけのために先輩たちを駆り出すなんて」


 落ち込んだ様子を見せる楓。何かを言わなければいけないのだろうが、しかしそのうれいを含んだ表情にせられて、思わず拓海は手に持っていたカメラのファインダーを覗き込む。そうして鮮やかな色彩にえた楓に向けてシャッターを切った。カシャリとした軽快な音が春風はるかぜのように部室内を駆け抜けていった。


「ちょ! 何するんですか!」

「いやレアな瞬間だなと思ってよ。楓の沈んだ表情なんて一年に一回見られるかどうかだからな。良い記念になるよ」

「何が記念ですかァ! 私は先輩のことを心配して言ったのに!」

「俺の心配だぁ?」


 拓海はフッと息を吐いて、それから楓の頭に手を乗せて言った。


「ばーか。俺は受験生である前にひとりの星好きな人間なんだぜ? 別に楓のためじゃねえし、そもそも、一日二日サボったくらいで落ちるような大学なら行かない方がいいんだよ」


 自分の身の丈に合った大学に進むのが一番だ。もっとも、身の丈以上の大学への進学を希望している拓海の言うことではないのかもしれないが。


 だけどまあ、落ち込む後輩を前に見栄を張るのが先輩としての矜持きょうじである。


 拓海が伸ばした手を意外にも甘んじて受け入れていた楓だったが、やはり恥ずかしくなったのだろうか、拓海の手を落とすように立ち上がると窓の外へと視線を向けた。


 それから少し乱れてしまった髪を撫で付けながら、


「……たまには」


 と、はにかんだ表情を拓海に向けて楓は言った。


「たまにはセンパイも先輩らしいカッコいいこと言いますね」

「バカ。俺はいつだってカッコいい先輩だろうが」

「彼女もいないのに?」

「んなの、世界がまだ俺の魅力に気がついてないだけだろ?」


 楓が笑う。拓海もまた笑った。


 黄金おうごんに染まった空から届く光が二人の笑い声を包んだ。軽音楽部の誰かが中庭で吹くハーモニカの旋律が夕焼けに溶けて消えていく。のどかな冬の午後のひとときが拓海たちの身体を空色に染め上げた。


「そうだ、コーヒーでもいれますね♪」


 ひとしきり笑い合ったあと、楓が言った。


「お、サンキュー。砂糖は——」

「——二個、ですよね。任せてください。先輩のことなら何でも知ってるんですから!」


 まったく健気けなげで可愛い後輩だった。


 楓とは中学のころからの付き合い。足掛け五年の歳月の中ではぐくまれた関係は強固で、溶けることのない氷で温かく包み込まれている。


 西日が強く照らしている中で、コーヒーを淹れるために奮闘している楓の後ろ姿を、拓海は兄のような視線で見つめていた。

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