Chapter1 "The time is out of love"

第1話 どういう心境だ

 六時限目の終わりを告げるチャイムが鳴り響くと、途端に教室内に張り詰めていた重苦しい空気が霧散していくのを拓海は感じた。同時に、教室のところかしこでペンが机の上を転がる音が聞こえてくる。


「そんじゃあ今日の授業はここまで。ちゃんと復習しとけよ、お前ら」


 授業をしていた教師がそう言って教室を出ていくと、もう空気は完全に弛緩したものへと変わっていく。重たい空気から解放されたことを喜ぶかのように、あちこちでクラスメイトたちが会話を交わし合っていた。


「んーやっと終わったぁ。今日も長かったーっ!」

「ねぇ今日どこか寄ってかない? 受験の息抜きにさ」

「あーごめん、わたしは無理。今日も予備校なんだぁ」

「そっかぁ……じゃあまた今度だね」


 でも、その声はどこか重たげで。


 まるでさっきまで漂っていた空気が乗り移ってしまったみたいだと拓海はひとり静かに苦笑する。


 もっとも、それも無理のないことだと同時に理解していた。


 なぜなら、きょうはもう十二月一日。


 拓海たち三年生にとって、受験まで残りわずかとなったこの時期は、就職や推薦で既に進路を決めてしまった者たちを除く、大多数の生徒たちにとっては心穏やかではいられない。


 ほんの少し前まではふわふわとした雲のように捉えどころのなかった受験というものの存在を、だれもが間近に迫った実感として意識しはじめる。そんな時期。


 ましてや拓海たちが通う桂西かつらにし高校は県内でも有数の進学校であり、少なくない生徒たちが難関と呼ばれる大学への合格を目指していた。


 だからここ最近、授業中はいつも痺れるような緊張感が漂っていたし、休み時間にクラスメイトたちが交わす会話の内容も、日が経つにつれて重くさし迫ったものになっていた。


 真綿でゆっくりと喉を締め付けられているような、果てしない荒野の中を歩いているような独特の空気感。

 

 だけど、拓海はこの空気が嫌いではなかった。


 むろん拓海だって受験生だ。進路について考え、心穏やかではいられない時もある。


 でも、それでも拓海はこの雰囲気を悪くないと思っていた。


 別に天邪鬼あまのじゃくを気取っているわけではない。かといって現実逃避をしているわけでもない。


 ただ、それだけに集中できる環境というものが何よりも得難いものだと思うから。


 余計なことを考えなくてもいい、勉強にさえ集中していればいい。そんな環境が今の拓海にとって何よりもありがたかった。


 だから拓海は今日も解かなければいけない日常の問題を先送りにして、受験に必要な勉強だけに意識を傾けた。


 現代文に出てくる登場人物たちの気持ちを考え、複素数に関する応用問題を解く。


 そうやって今日もまた一日いちにちが終わった。


 クラスメイトたちにならって、拓海も帰り支度をととのえ始める。


 使っていたシャープペンシルを筆箱にしまい、机に広げていた教科書や参考書を閉じると、今日も部活に顔を出すかなと考えながら鞄に詰め込んでいった。


 ちょうど全ての荷物をしまい終えた時だった。


 後ろから背中をツンと押されるような感覚。気のせいかと思ったが、二度三度と同じ感覚を受ける。


 拓海が首だけで振り返ると、ひとりの女子生徒と目があった。拓海のひとつ後ろの席の彼女は、今日も猫のような強い意志を感じさせる瞳を拓海に向けている。


 彼女の名は白井雪菜しらい ゆきな


 拓海にとって彼女は、クラスメイトであると同時に天文部に所属する部活仲間でもあった。


「どうした?」


 首だけで振り返ったまま拓海が応えると、左手で頬杖ほおづえをついて、右手でシャープペンシルをもてあそんでいた雪菜は言った。


「拓海はさ、今日も部活行くつもりなの?」

「ああ、そのつもりだぜ」

「ふーん。ずいぶん熱心なんだ。もう引退したっていうのにさ」

「いいだろ別に。禁止されているわけじゃねえんだから」


 むろん禁止されていないからと言って三年生がこの時期まで毎日部活に顔を出すのは好ましいことではなかった。なかったのだが、それでも拓海はとある事情から部活を引退したあともずっと部室に足繁く通い続けている。


 そう深刻な理由からではないのだが、しかしそのある意味では切実な理由を知っているはずの雪菜がまるで他人事ひとごとのような態度で訊いてくる姿は、拓海に不満を抱かせるには十分だった。


「雪菜もたまには来いよな、部活。かえでが会いたがってたぜ?」

「わかってる。だから今日は行こうと思ってる」

「えっ?」


 たった一人の後輩の存在を口実に雪菜を責め立てようとした拓海だったが、思いもよらなかった返答に表情が変わる。その反応に、雪菜が不満げな目を向けてきた。


「何よそんな顔して。なにか都合でも悪いの?」

「……いや、純粋に驚いてるんだよ。一体どういう心境だ?」

「酷いなァ、わたしは部長だよ? 部長が部活に顔を出して何が悪いのよ」

「元部長、だろ? いまは楓が部長だ。大体お前、引退してから俺がなんど誘っても予備校があるとか言って断ってたじゃないか」

「それは……だってしょうがないでしょ。私は拓海と違って勉強に余裕がないんだから」

「俺だって余裕があるわけじゃねえよ」

「嘘。この前の模試の結果、わたしちゃんと知ってるんだから」

「模試は模試だろ。模試の結果で合格が決まるってんなら、こんな息苦しい時間なんか続けてねえよ」


 と、ついつい渋るような言葉を並べ立ててしまったが、別に雪菜が部活に来ることを嫌がっていると言うわけではない。むしろその逆で、内心では小躍りしたいくらい歓喜していた。


 雪菜が部活に来る。もう二度と訪れることがないと感じていた夏が突然裸足で駆け寄ってきたような気分に、拓海はすぐにでも教室を飛び出してしまいそうになる。


 ただそれを素直におもてに出せない男心があるわけで。どうしても裏腹な言い方になってしまう。


 もちろんそんな拓海の内心など知るよしもない雪菜はムッとした顔を浮かべて言った。


「とにかく、今日は行くから。久しぶりに楓ちゃんとも話したいしね」


 むろん拓海に反対する理由はなかった。


「オーケー、じゃあ行こうぜ。久々に三人での部活だ」


 そう言って拓海は席を立ち、鞄を肩に引っ掛けて歩き出した。だけど雪菜はそんな拓海のことを呼び止めて、


「あーごめん。わたし、きょう掃除当番。あとで行くから先行ってて」


 出鼻をくじかれた拓海は立ち止まり、振り返ると、眉間みけんにシワを寄せてから雪菜にむかって指を突きつけた。


「——そう言ってまた来ないつもりじゃないだろうな?」

「もう〜しつこいなぁ。行くって言ってるじゃない」

「しつこくもなるさ。雪菜には前科があるからな」

「前科?」


 なにそれ、と言わんばかりの雪菜の反応に拓海は肩をすくめて、


「来なかっただろ? 去年の夏祭り。楓と三人で行こうって約束してたのに」

「それはそうだけど……でもだってあれは——」


 しかし雪菜はそこで口をつぐむと、気持ちを沈めるように深く目を閉じて、それから口元をほころばせて言った。


「心配しないで。行くよ、今日は。絶対に」

「……わかった。じゃあ後でな」

「うん、また後で」


 何かを必死で押さえつけるような雪菜の様子に、釈然としない気持ちを抱きながらも拓海は教室を後にしたのだった。

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